ドラマ VS テーマーパーク?――スコセッシの「MUCは映画ではない」発言を、映画史の視点から考えてみる

ヒーローとアトラクションが映画を救ってきた。

マーティン・スコセッシが最新作『アイリッシュマン』のロンドン映画祭の記者会見の発言が物議をかもしている

「テーマパークのような映画の価値は、例えば、映画館を遊園地に変えるマーベルのようなタイプの映画は、それはまた違う体験なんだ」

「先日も言ったように、あれは映画ではない、また別のものだよ。賛成の人も反対の人もいるだろうけど、別ものなんだ。そういうものばかりになってはいけない。だからこれは大きな問題で、映画館では物語を語る映画を上映してくれるように、劇場のオーナーに働きかける必要がある」

もともとスコセッシは『アイリッシュマン』は映画館で上映される作品として制作していたが、膨大な制作費を懸念して映画会社が資金を引き上げて、企画が宙に浮いたのだ。それをNetflixが出資することによって無事に完成にこぎつけた。

こういった製作経緯があため、『アイリッシュマン』は先行で映画館で限定上映されるものの、結果的にNetflix作品となった。記者会見でスコセッシはこういった苦難を語り、さらにストリーミング配信作品やVR映画などプラットフォームが多様化することに触れつつ、映画館の存在を擁護した。その後に出てきたのが、このマーベル映画の発言である。つまりこの発言は、ヒーロー映画だけではなく、映画界が現在さらされているプラットフォームの地殻変動とセットに考える必要がある。

これに続き、フランシス・フォード・コッポラやケン・ローチまでもがスコセッシに追随し、余波が広がっている。またMUCではないが、アルフォンソ・キュアロンの『ROMA/ローマ』でさえ、Netflixの映画は、アカデミー賞ではなくエミー賞の対象だと主張したスティーブン・スピルバーグの発言が物議をかもしたことがある。

映画はアトラクションからはじまった。

しかしまず確認したいのは、映画はもともとドラマを語るメディアというよりも、一種のアトラクションであり、テーマパークだったということだ。映画を創世したリュミエール兄弟は、世界各地にカメラマンを派遣して、異国情緒あふれる都市の光景、物珍しい民族や動物、アルプスの山々など崇高な風景を動く映像として上映して、観客のエキゾチズムを満足させた。

初期の映画は、そもそも映画館がなかったので、映画館で上映されていなかった。ではアメリカにおいてどこで上映されていたかというと、歌、奇術、アクロバット、フリークショーなどの見世物を披露するヴォードヴィル劇場である。そのなかで映画は見世物のひとつとして上映されていた。しばらくして小さな映画館(ニッケルオデオン)が生まれた。もちろんまだサイレント映画だが、ヴォードヴィル同様に合間には歌手が登場して、観客は映像を観ながら大合唱して、日夜どんちゃん騒ぎを繰り返した。

観光映画の発展系『Hale's Tours』(1904)は、観客が遊園地内のトンネルに設置されたレプリカの列車に乗ると、列車視点の映像が上映され鉄道旅行を疑似体験できた。列車の動きと映像の動きは一致しており、音楽はなかったがモーター音が鳴り響き、振動に揺られ、人口の風が吹いた。この15分間の観光体験装置は大ブームを巻き起こす。

『Hale's Tours』は文字通り、アトラクションそのものだが、映画理論家のトム・ガニングはスクリーンに投影されるものでも、初期映画の傾向を「アトラクションの映画」と呼んでいる。

『大列車強盗』強盗が観客に向かって銃を撃つ有名なショット。

例えば『ニューヨーク23番通りで何が起こったか』(1901)では女性のスカートがめくれ下着が見えそうになる。『大列車強盗』(1903)では最後には強盗は観客に向かって銃を撃つ。このように初期映画の映像は物語に奉仕するのではなく、あわよくば第四の壁を越えてまでも観客に注意を向かせようと全力を注ぐ。ヴォードヴィルの見世物の伝統が色濃く受け継がれているのだ。

その後、映画産業が拡大するにつれ、誰でも幅広く楽しめる必要性が出てきた。ここで登場したのが物語の映画である。英雄や悲劇の少女の視点を通して、観客は主人公に自己同一化し、誰にでも均一化した体験をもたらす。物語映画は次第に長編化して、現在の映画産業がある。しかしこういった物語映画になったとしても、観客へのショック効果についてガニングは、スピルバーグの『ジョーズ』などのアクション映画に引き継がれていると指摘する。

ここまでのことを整理すると、物語を得た映画が、登場人物の心理や感情を描こうとクローズアップなどの映画文法を駆使して、我々が馴染み深いドラマを描く物語映画の系譜があり、その他方で『Hale's Tours』のように列車という外部装置を使ったり、トリックやショック効果などで、映像そのものに注意を向けさせるアトラクションの系譜が映画にはあるということである。

シネマスコープやシネラマといった画面サイズの拡大、3D映画、4DXは言うに及ばず、こういったものは全て物語映画ではなく、映画が持つ現代まで引き継がれているアトラクション的な期待の要請だ。初の本格的物語映画『月世界旅行』を作ったジョルジュ・メリエスは物語は、舞台効果やトリックを使う口実であり、シナリオは全然重要ではないと、はっきりと証言している。

ヒーロー映画の起源

そういった意味で、ヒーロー映画やギャング映画は物語映画とアトラクションを折衷させるところから生まれているといえるだろう。例えば初期映画にはシャーロック・ホームズやアルセーヌ・ルパンなどの小説のヒーローが短編映画に招聘されているが、そこからそういったものを連作にしようとする動きが生まれ、「連続活劇(シリアル)」と呼ばれる新しいジャンルが生まれた。1話あたり15分から30分程度で構成され、ドラマシリーズの起源のような存在で、クリフハンガーという手法はここから生まれている。

ヒーロー映画

注目に値するのが、この連続活劇が一旦廃れた後、1930年中盤から1940年代に、リバイバルしたことだ。実はバットマンやスーパーマン、さらにはキャプテン・アメリカ、キャプテン・マーベル、グリーンホーネットなどのアメリカンコミックの多くが、この時期に連続活劇として映像化が成されている(スパイダーマンはキャラクターの誕生自体が、61年と後年なのでこの時期には映画化されていない)。

またこの時期のアクション映画は、現在のヒーロー映画の基盤を成すといってよい。サム・ペキンパーの『ワイルドバンチ』(69)のガトリングガンは『ベンガルの槍騎兵』(35)だし、『フラッシュ・ゴードン』(36)は「スター・ウォーズ」になった。ライダー・ハガードの同名小説の映画化『洞窟の女王』(35)は「インディ・ジョーンズ」になったし、日本の「多羅尾伴内」(46)シリーズは、78年版を経て、ジョン・ウーの二挺拳銃のルーツだ。

テーマパーク(見世物/ヒーロー/アトラクション)が映画を救ってきた。

ベトナム戦争やカウンターカルチャーを背景とした暗いアメリカン・ニューシネマが徐々に下火になるなか、再びハリウッド映画にかつての連続活劇的楽しさをもたらしたのが「スター・ウォーズ」であり、再び見世物的な価値観を第一級に押し上げたのが『ジョーズ』だ。スコセッシの『タクシードライバー』は、しばしば「最後のアメリカン・ニューシネマ」と呼ばれることがあるが、クライマックスは大量の流血を伴うバイオレンスで彩られ、観客に劇的なショックを与える。他方、そういった70年代の娯楽映画再生に先駆ける『2001年宇宙の旅』は宇宙版の観光映画といえるだろう。

テーマパーク(見世物/ヒーロー/アトラクション)的な価値観や好奇心は、しばしば物語映画が行き詰ったとき、その人間の本能を刺激して映画産業の延命の役割を果たしてきた。TVと差別化を図るために導入されたシネマスコープやシネラマ、マカロニ・ウェスタンは、バイオレンスを拡張して西部劇をわずかの期間だが復活させた。

こういった状況は近年、明らかに繰り返している。『ブレイキング・バッド』、『ゲーム・オブ・スローンズ』などの悪徳性や猥雑さ、そしてバイオレンス。『アバター』の新3D映画、『ゼロ・グラビティ』、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』などのシチュエーションのみをアクションで描く作品、そしてスコセッシの発言によって昨今のヒーロー映画もまたテーマパークであり、アトラクションの系譜が顕在化した映画であると加えることができる。

2020年4月からサービスが開始される「Quibi」(クウィビー)は、4分から10分以内のスマートフォン向けの動画配信サービスで、スピルバーグやギレルモ・デル・トロも参加すると報じられている。こうした10分以内の映画というのは、まさにヴォードヴィル劇場で上映していた初期映画の特徴を現すものであり、先祖返りしているとさえ言えるだろう。

If the Joker movie has you hungry for more dark and twisted Joker tales, these graphic novels are your best bet.

さらには『ジョーカー』だ。本作は悪役の心理をこれまでになく描いたことが評価の理由として挙げられており、むしろヒーロー映画がアトラクション的な価値観と距離を置いたからこそ、評価されているように捉えられている。しかし本作がヒットしているのは、「ジョーカーというテロリストに共感してしまう恐れがある危険な映画」と喧伝されたからであることは否めないだろう。それは『エクソシスト』が「反キリスト映画」として、社会現象と化したことと本質的に変わりはない。Netflixの『全裸監督』や『愛なき森で叫べ』の題材そのものの賛否両論性、Amazon Primeの『ザ・ボーイズ』、むしろ動画配信サービスこそがセンセーションをあわよくば仕掛けようとしている。人はいつだって、危険なものを見たいという好奇心を満足させたいのだ。

トム・ガニングが指摘してるように、物語映画とアトラクションは相容れないものとみなすのは、過度に感傷的で非歴史的だ。スコセッシ自身、ジョルジュ・メリエスが題材の3D映画『ヒューゴの不思議な発明』を撮っており、このようなアトラクションの映画史には一定の理解はあるはずだが、ヒーロー映画自体が連続活劇から生まれているということを忘却しているのだろう。

しかし以上に見てきた通り、初期映画のスタイルは多様であり、見世物舞台やテーマパークから派生したアトラクション的な価値観や、ヒーローものの連続活劇こそが物語映画を刷新させてきた。しかし既存の映画界こそが保守的な傾向を強めている。今こそ初期映画に立ち返り、広い視野で映画の概念を再検討する必要性があるといえるだろう。そこにフィルムとデジタル、ドラマとテーマパークといった対立を乗り越える鍵があるはずだ。

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リリース日: 1986年12月31日
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