時代は変われども子を想う親の気持ちは変わりません。
今回は戦国武将達の教育に関する逸話をご紹介していきたいと思います。
現代的にはアウトかもしれない厳しさが混じっていたりしますが、時代背景の違いという事をご理解頂ければなと思います。
竹中半兵衛 重門
黒田官兵衛と共に両兵衛と呼ばれ、豊臣秀吉の偉業を支えた軍師・竹中半兵衛。
そんな半兵衛が戦の談義をしている時の逸話です。
まだ幼い子の重門が席を立ってどこかへ行ってしまい、しばらくすると帰ってきました。半兵衛は戦の話をしているときにどこへ行っていた!と、叱ると重門はトイレに行っていたと答えます。
それを聞いた重治は「戦の話をしている時に小便に立つとは何事か!竹中の子が武道の話に聞き入って座敷を汚したといわれれば、我が家の面目も立つと言うものだ!」と激怒。
『武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである』
武士とはかくあるべし!という強い気持ちが伝わってくる言葉が残っている半兵衛。
息子が調子にのっても困るから加増・感状は結構ですとも秀吉に伝えていたともいいます。重門自身の力で活躍し、功を挙げて欲しいという愛情故の厳しさだったんでしょうか。
武田信繁 信豊
戦国有数の優秀な弟して知られる武田信玄の弟、武田信繁。幼少の頃から聡明で父、信虎は嫡男である信玄を差し置いて信繁を当主にしようとしていた程でした。
そんな境遇ながら最後まで主君である兄に誠意をもって付き従い、川中島の戦いで戦死した際には信玄は号泣し、敵軍の上杉謙信らからもその死は惜しまれたそう。
そんな信豊は川中島の戦いの三年前、嫡子信豊(当時10歳ほど)に99ヶ条にもわたる家訓を授けます。
99ヶ条というあまりにも多い家訓。しかしただ小言を詰め込んだものではなく序文の作成を高名な僧に依頼し、ときおり中国古典から引用した教養に溢れ労を費やしたものでした。
この『武田信繁家訓』後に江戸時代の武士の心得として広く読み継がれる事になります。戦国といういつ命を落とすかわからない環境に置いて、自身が培ったものを子共に残そうとしたのかも知れませんね。
立花宗茂 高橋紹運
後に天下人豊臣秀吉から『西国無双』と評された彼は、幼い頃から家中で優秀と評判でした。そんな宗茂に跡取りとして大きく期待していた紹運。
しかし大友家三宿老の1つ、立花(戸次)家の当主であり軍神として名高い道雪が、宗茂の噂を聞きつけ、養子として迎えたいと希望を伝えてきたのです。
さすがに嫡男を譲るわけにはいかなかった紹運はこれを断りました。が、諦めることなく何度も希望を伝えてきた道雪。その熱意に根負けした紹運は14歳の宗茂を養子に出す事を決断。
その際に高橋家で宴を開いた時の逸話です。
高橋の家と立花の家が戦を起こすような事態になった場合はどうする?と紹運に問われた宗茂は。その時、宗茂は「高橋の家に味方する」と答えたそう。
その答えを聞いた紹運は
「今日以後、お前は道雪の子である。養子に行ったらもはや高橋の人間ではない。立花の先鋒となって私を討ち取りに来い。
少しでも未練があれば、道雪殿は直ちにお主を義絶するであろう。もし道雪に義絶されるようなことがあればそれは、武士の恥辱。誓って、ここに帰ってきてはならん」
そう語り名刀『長光』を与ずけました。
宗茂は涙を流し、これを受け取ったそうです。
本来跡取りと期待していた自身の優秀な息子を他家に出すのは苦渋の決断だったでしょうね。複雑な心境だった筈の紹運が伝えた言葉に、当時14歳だった宗茂は涙を流し、何を感じたのか…。
ちなみにこの長光は現代にも残っており、立花家史料館で毎年刀剣展の際に展示されているのでお近くに住んでいる方は是非見に行ってみて下さい。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 | 美術品・古文書 | 剣 銘 長光
立花宗茂 立花道雪
その道三と宗茂のエピソードを二つ。
養子になる前に立花家に遊びに来た宗茂。
出された食事の鮎の骨を鮎を身を行儀よく食べていたら「男なら鮎は頭から丸かじりだろ」と道三に怒られてしまいました。
また養子として入って間もない頃、道雪とともに山に散策に出かけた宗茂。トゲのついた栗を踏ん付けてしまい足に激痛が。近習に栗を抜いてくれるように頼むと、後に立花家四天王筆頭となる家臣、由布惟信は栗のトゲを抜こうとせず逆に宗茂の足を踏みつけてしまいました。
激痛で叫び声をあげそうになる宗茂でしたが、近くに道雪が厳しい目で凝視していたため、宗茂は叫ぶこともできなかったそうです。
行き過ぎた厳しさのようにも思えるエピソードですが、育った宗茂の人格者っぷりをみると多少の厳しさというのは必要な要素なのかも知れない…と思ってしまいますね。