東方西行伝

東方西行伝

はじめに

東方シリーズの東方妖々夢には西行寺幽々子というキャラクターがおり、幽々子様と崇拝されたり、ネタにされたり各方面から愛されている。

第14回の人気投票では14位。この数値だけ聞くと微妙かもしれないが、百を超える東方キャラクターの中で、2003年に発売された東方妖々夢のラスボスがこの順位にいるのだ。根強い人気があることがお分かりいただけるだろう。この記事を書いているフルカワもファンの一人である。

ここでは平安の歴史や和歌に触れながら幽々子様と東方妖々夢のストーリーについての考察を行なっていきたい。幽々子様はそれだけ掘り下げ甲斐のある素敵なキャラクターなのである。この記事をきっかけに貴方がより幽々子様を好きになっていただければ、書き手としてこれ以上嬉しいことはない。

では、ここで何を行なっていくのかというと、大まかに以下のようになる。

①史実について学ぶ

西行寺幽々子には「ある有名な歌人の娘」という設定がある。まずは実在した歌人「西行」について学ぶ。妖々夢には史実の西行からの引用が多数散りばめられており、幽々子とその周辺について考察を深めていく上で、西行は避けることはできない。そのため、書籍にあたり時には「聖地巡礼(西行の場合、大体が寺なのでマジの聖地)」をしながら西行の人生、そしてその死について触れる。

②幽々子についての考察

西行の生涯に詳しくなっていくと、西行は出家する前に結婚しており娘がいたことがわかる。西行の娘とされる幽々子様だが、実際にいたとされる娘は幽々子なのだろうか。ここでは史実の西行だけでなく、西行の死後一世紀も経たないうちから作成され始めた「西行物語」を参照しながら西行の娘と幽々子について考察していきたい。

③桜と和歌

西行や幽々子様について掘り下げた後は、この二人とは切っても切れない関係にある「桜」や「和歌」についての考察を行なっていく。西行は桜にまつわる歌を数多く読んでいるし、桜を咲かせたという伝説もある。幽々子様も咲かない桜を咲かせようとした。だが、東方妖々夢の5面・6面は西行の歴史に触れた後だからこそ色々と思うところがある。知識によって見え方が変わるということを描きたい。

 

一連の記事は当ブログ「NEUE GESCHICHTE」の中に転がっているが、それらの情報をここにまとめていきたいと思う。ネタは出ているので、後は筆者の気合次第である。進捗があればこちら(@NGeschichte)で告知するので、フォローいただければ幸い。

(Miv4t氏,2018,.,Pixivより。絵師様に使用許可いただいております。掲載元はこちら

 

幽々子と西行

ここでは前段として、ゲームの中の登場人物である幽々子様と西行の関係について紹介し、西行の人生に触れていく上での疑問点を設定する。

 

西行寺幽々子

幽々子様は冥界に住まう亡霊の姫君で東方妖々夢のラスボス(素敵!)。

ラスボスと呼ばれる奴は皆何かとんでもないことを行なってそう呼ばれるのだが、幽々子様は東方の世界である幻想郷から「春」を奪ってしまう。そして、人々から奪った「春」を使って、彼女は咲かない桜である西行妖(さいぎょうあやかし)を咲かせようとした。

だが、この企ては冬が明けずに迷惑していた主人公たちによって阻止されることとなる。

主人公機の一人である博麗霊夢。無慈悲なまでに強い。

 

西行妖

西行寺幽々子が住まう屋敷の庭にある桜。春になっても花を咲かせることがない。

この桜の下には「何者か」が封印されていることを知った幽々子様は、花が咲かないことに目をつけた。「春」を集めて無理やり咲かせれば何かが起きるかもしれない。それが東方妖々夢の事件の発端であった。

この西行妖だが、ただの桜ではなくて実は妖怪桜。「ある有名な歌人」がその桜の下で死に、その死に様に憧れて人々が同じ桜の下で死ぬうちに、ただの桜が「咲くたびに人を死に追いやる妖怪桜」になってしまった。

「ある有名な歌人」の娘であった幽々子様はこのことを疎んじ、自らと引き換えに桜に封印をかけて桜が咲かないようにした。

 

ある有名な歌人

幽々子様の父かつ、桜の下で死んだ歌人。彼に自身は登場しないが、作品に登場する和歌で間接的に示されている。

その和歌とは、

 

   願わくは 花の下にて 春しなむ

    その如月の 望月のころ

 

この歌の読み手こそ西行である。

 

西沢仁美編, 2010, 『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 西行 魂の旅路』角川ソフィア文庫.

 

その歌の意味を引用すれば、下記のようになる。

私は春、花の下で死にたい。願わくは、釈迦入滅の二月十五日の頃に、満月の光を浴びた満開の桜が、私と私の死を照らし出さんことを。

ここまではゲームである東方妖々夢についての話だが、ここでいくつかの疑問が生じる。

 

①西行はなぜ桜の花の下で死にたいと望んだのだろうか?

貴方は自分はこう死にたいと明確に描けるであろうか。もし描けるのであれば、おそらく何か理由があるのだと思う。

先に紹介した「願わくは」の歌は西行晩年の作とされているが、実は死の約10年前に詠まれた歌である。西行はどのような理由があって、桜の下の死を望んだのであろうか?

 

②西行の死は同時代の人々にどのような影響を与えたのであろうか?

ゲーム 東方妖々夢に登場する西行妖は、先に紹介した通り、西行の死に憧れて同じように人々が死ぬうちに桜が妖怪と化してしまったものである。

西行は実際に満開の桜の下で死んだ。だが、「後追い」は本当にあったのであろうか?相当に高位な宗教者でもない限り、後追いが出るということは考えにくい。

では、西行が満開の桜の下で死んだという事実は同時代の人々にとってどのように捉えられたのであろうか。一人の坊主の奇妙な振舞いとして捉えられたのか、それとも誰も注目しなかったのか、それとも・・・?

 

上記の謎について考えるため、史実の西行の死にざまについて知る必要がある。ただし、「どう死んだか」についてフォーカスするためには、「どう生きたか」についても知る必要があるはずだ。その為、ここから少し長くなるが、幽々子様の父とされる西行の生涯についてまとめてみたい。

 

史実の西行

歌川国芳による西行の浮世絵

西行は平安末期から鎌倉初期(1118〜1190)を生きた僧侶であり歌人。

去る2018年は彼の生誕900周年であり、出生の地である和歌山の博物館では記念展が開催されるといったイベントがあった。

また余談ではあるが、この年に幽々子様の魅力を掘り下げることを思いつき、さらには関西への転勤が決まるなど、何か仏縁のような、西行に後押しされているような気がしてならなかった。

 

本論に戻り、ここからは先に挙げた二つの問い

 ①西行はなぜ桜の花の下で死にたいと望んだのだろうか?

 ②西行の死は同時代の人々にどのような影響を与えたのであろうか?

について考えるため、西行の生涯について触れていく。

後に控える幽々子様の出番をお待たせしてもいけないので、多少駆け足な説明なのはご容赦いただきたい。物足りない!という場合は最後に参考文献をつけているので、そちらを参照されたし。

誕生から出家まで

動画でもまとめています。こちらから https://www.nicovideo.jp/watch/sm34647449

 

俗名 佐藤義清

佐藤義清(のちの西行)は今からちょうど900年前の1118年に佐藤康清の嫡男として誕生した。

佐藤家は義清の曽祖父の代から検非違使(都の治安維持隊、現代の警察のようなもの)を務めていたが、彼の血筋を辿れば平泉に勢力を築いた奥州藤原氏の源流にもたどり着く、武家の地の濃い家系であったことが伺える。

奥州藤原氏

義清(のりきよ)も一族の例に漏れず、18歳の時に北面の武士(上皇の身辺警護部隊)に抜擢される、この北面の武士であるが、文武両道かつ眉目秀麗であることが採用条件となっており、「天は二物を与えず」のアンチテーゼのような人々の仕事であった。

西行自身も生まれ持った武家の血だけでなく、和歌や故事に詳しい人物として名を馳せていたようである。当時、天皇と近い立場にあった徳大寺の女性を妻に娶り、彼のキャリアはまさに前途洋々となるはずであった。

 

出家

だが、義清は23歳の時にある歌を詠む。

   空になる心は春の霞にて

    世にあらじと 思ひたつかな

「春霞が立つように出家への意欲が立ち上がってきた」その歌を残し義清は、妻も娘も捨てて出家してしまう。

出家の原因としては、親友の突然死とする説や「ある高貴な女性」への身分違いによる悲恋とする説があるが、分かってはいない。ただ、出家の原因が一つに断定できるものでなく、これらの要因が当時の義清の中で渦巻いていたことは確かであろう。

辻邦生は小説「西行花伝」において、出家の原因として両方を取り上げている。

高貴な女性

義清が出家する原因となったある高貴な女性についても触れておく。その女性とは待賢門院といって、時の鳥羽天皇の中宮(嫁はん)であった。

待賢門院こと藤原璋子は白河法皇の養女であったが、若くして類稀なる美貌を持ち合わせており、法皇の溺愛ぶりは凄まじかった。どれだけ凄まじかったかというと、「お手つき」になってしまった(ヤっちゃった)のである。

さて、お気に入りの璋子であるが、自らが結婚するわけにはいかない。白河法皇は彼女を次の天皇である鳥羽天皇の中宮にした。この時、藤原璋子の権勢は頂点を極める。

だが、栄枯盛衰、奢れるものは久しからず。白河法皇が崩御すると、鳥羽天皇の寵愛は美福門院という別の女性に移ってしまう。

権力闘争に敗れた藤原璋子は自らが建立した法金剛院で落飾し(出家し)、待賢門院となりその3年後の1145年にその生涯を閉じた。

待賢門院
法金剛院レポート

法金剛院は待賢門院建立の寺院で、京都は花園駅から歩いて5分の場所に存在する。

春は待賢門院桜、夏はハス、秋は紅葉が楽しめると聞いて、実際にカメラを片手に行ってみた。

 

初夏は一面のハスに寺全体が覆われる。その光景は、待賢門院が最後に求めた極楽浄土をこの世に再現したかのよう。

秋は紅葉が美しい。

略歴だけ見れば、出家してからは侘しい生活を送ったように思えてしまうが、彼女がいた法金剛院は四季折々の「華」に包まれていた。当時はさらに大きな面積があったというから、中宮は出家してもその気品までは失わなかったのだろう。

ちなみに、西行は出家してからというもの修行に明け暮れるでもなくしばらくの間は京都をフラフラしていたようだ。

西行は出家した待賢門院のことが心配で、京都を離れられなかったのではないかと私は思う。

世俗にいた時は身分の差から関わることが出来なくても、出家してしまえば別らしく、西行は恋い焦がれていた待賢門院やその従者たちと親しくしていたようで、待賢門院の死後、彼女を偲んで西行と従者・堀川が交わした歌が残されている。

 

   たづぬとも 風のつてにも 聞かじかし

    花と散りにし 君がゆくへを   西行

 

   吹く風の ゆくへ知らする ものならば

    花と散るにも おくれざらまし  堀川

 

尋ねても、風の便りにも聞くことのできない待賢門院の行方を西行は詠み、堀川は風にかけて、吹いていく方向がわかるのであればその後(待賢門院の後)を遅れずについていくのに、と謳っている。ちなみに、堀川も西行と同じく百人一首に選ばれている和歌の名手であった。

以上、西行の出家にスポットを当てて、若き日について紹介した。自分の立場や身分にとらわれず、自らの思いによって何をするかを決める、そんな彼の性格は若い頃から現れていたのであった。

壮年期と保元の乱

西行が恋したとされる待賢門院とその従者たちについて触れた。彼女は権力闘争に負けて出家し、その三年後にこの世を去ってしまう。

心残りがなくなったためか、西行は彼女の死後に都を離れ遠く奥州までの旅に出る。それは自らのルーツへの憧れだけでなく、最果ての地から聞こえてくる歌枕への思いがあってのことだろう。

この話も本来であれば取り上げるべきなのだが、後ろで幽々子様がもう待ちきれんばかりにはち切れんとしている。

いや、はち切れんばかりなのはいつものことなんだけど。ということで、陸奥への旅は参考文献の紹介にとどめておく。

 

白洲正子,1996,『西行』 新潮文庫.

 

さて、陸奥をすっ飛ばして今回触れるのは待賢門院が遺した崇徳天皇についてである。

彼もまた百人一首選ばれる和歌の名手として名高く、和歌に関して西行と通づるものがあったようである。西行の歌を初めて公式の場に引き上げたのも崇徳天皇なのだ。

ところで、平安貴族の和歌と聞くと何を思い浮かべるだろうか?私は、風流・典雅・華美といったイメージを抱く。

だが、本来、和歌は思いを31文字に託すものであり、託された思いが美しいものとは限らない。

どうしようも出来ない嘆き、苦しみも和歌に乗って、歴史とともに保存されるのだ。今回は、時代の激流に抗うことができず、苦しんだ和歌を紹介したいと思う。

そうそう、崇徳天皇は、日本三大悪霊にも数えられるお方なのだ。

崇徳天皇

崇徳天皇は待賢門院と鳥羽天皇の第一皇子として誕生し、齢3歳にして即位した。だが、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇の寵愛は次第に美福門院へ移っていったことはすでに述べた。

鳥羽上皇にとって、待賢門院の子である崇徳天皇は邪魔な存在となってしまったため、崇徳天皇は美福門院の子に帝位を譲ることになる。

これにより上皇となるのだが、鳥羽法皇が健在である以上、さしたる権力もなく、和歌に没頭するようになる。

そして1144年に「詞花和歌集」編纂の命を下すのだが、この和歌集において西行の和歌(といっても佐藤義清の時代に読んだ和歌なのだけど)は公の場に姿を現す。

その和歌を下記に示す。

   身を捨つる 人はまことに 捨つるかは

    捨てぬ人こそ 捨つるなりぬれ

西澤の訳を借りれば「身を捨てて出家する人は本当に自分の身を捨てているのだろうか。いやむしろ、出家をしないで身を捨てていない人の方が自分の身を捨てているのだ」となる。

私はこの和歌が結構好きだ。

当時の世相や西行のその後を鑑みれば、出家と訳すべきだが、現代人の私は出家を「脱サラ」に読み替えてみる。

生活のためと言って毎日最低8時間を株主のために捧げる我らサラリーマンは果たして、身を捨てる人か?それとも捨てぬ人か?そんな事ばかり考えていると虚しくなる。

だが、西行も同じくキャリアとの狭間で悩んだ時期があるのだと思うと、何か救われる気がするのだ。まぁ、彼は辞めちゃうんだけど。

マシーンのように働かざるを得ないとき、私はこの歌を心の中で詠うのである。

この和歌は詞花和歌集に「よみ人しらず」つまり作者不詳で取られている。

これは、佐藤義清が当時まだ無名であったことを配慮してのことだが、若き頃から西行に和歌の才能があったことと、崇徳天皇が西行の才能を早くから認めていたことがうかがえる

彼らの関係はその後も続いていくのであった。

 

西行の和歌を紹介しながら、崇徳天皇の和歌を取り上げないわけにはいかない。この詞花和歌集に収録されている和歌を持って、百人一首に選ばれているのだ。

   瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

    われても末に 逢むとぞおもふ

白州は「岩にせき止められて、二つに分かれた急流が、やがて一つになって逢うことができるであろう」と訳し、これは恋の歌であるが、やがて上皇として日の目を見る日が来るという信念が現れている、としている。

 

さて、歴史に話を戻す。

1156年には鳥羽法皇が病に倒れた。崇徳上皇は見舞いに訪れるも、面会を拒絶され帰るしか出来ず、そのまま法皇は崩御してしまった。この時から「崇徳上皇が国家反逆を企んでいる」との噂も流れ始める。

これらの仕打ちは美福門院側が画策したものとされている。それは、これまで鳥羽法皇の庇護下にあった美福門院たちが、法皇の死後に日の目を見んことを願うであろう崇徳上皇に対して仕掛けた先制攻撃であった。

上皇にありながら叛逆人のレッテルを貼られてしまった崇徳院。そこに藤原摂関家の権力闘争も加わり、藤原頼長や源為義といった武士までがあれよあれよと言う間に集まってしまう。

このような状況下で、崇徳院もこう考えたのではなかろうか。「この戦に、勝てば、日の目を見る」

そして、上皇方と天皇方に分かれての戦が始まるのである。

崇徳天皇
保元の乱

崇徳上皇と摂関家の藤原頼長は後白河天皇を相手取り兵を起こす。これが世に言う保元の乱である。

崇徳上皇は平清盛が味方につく事に賭けていたようだが、彼は後白河方についてしまう。

その後の顛末については、NHK大河ドラマや保元物語などの方が詳しいし、幽々子様が以下略なので簡単に触れる程度にとどめておく。

崇徳側についた武士は少なかったが、源為朝という平安末期のアーチャー、いやバーサーカーが凄まじい奮戦をし、清盛の手勢を跳ね返している。だが、寡兵には限界があったのか、後白河法皇方の火計がクリーンヒットし、上皇方は大混乱に陥る。

崇徳上皇は逃走し一命を取り止めるも、先の敗北は覆しがたく、仁和寺に出頭しそのまま出家した。「日の目を見んことを」願った上皇は、一転して天皇に弓引いた罪人と成り果ててしまったのだ。

崇徳上皇が敗走し、その後仁和寺に現れたと聞くや、西行は直ちに駆けつけ、彼の出家に立ち会ったという。自らの和歌を早くから認めてくれた崇徳上皇の出家に、彼はどのような気持ちで立ち会ったのだろうか。

西行も大変な覚悟を持ってあったに違いない。というのも、上皇とはいえ天皇に弓を引いた人物が、負けた直後に会いに行くのだ。場合によっては仲間とみなされ同罪に処されても文句は言えまい。

それでも西行は駆けつけたのである。そうせざるを得ない心のつながりが二人の間にあったのであろう。

歴史書物ではないが、保元の乱と西行と崇徳上皇の描写が良かったので参考文献として紹介しておく。

辻邦生,1999,『西行花伝』 新潮文庫.

 

讃岐院

起死回生にかけた崇徳上皇は、保元の乱に敗れた。

上皇から一転し、彼は天皇に弓を引いた反逆者となってしまったのだ。

咎人には罰が下され、崇徳上皇は讃岐への配流が決定した。上皇の配流は実に400年ぶりの出来事であったと言う。

さて、崇徳上皇の出家に立ち会った西行はこの出来事をどのよう捉えていたのであろうか。残念な事に思っていたのは違いない。

だが、上皇が自分と同じく出家した事に可能性を見出そうとしていた。上皇には和歌の類いまれなる才能があった。「政治の舞台で日の目を見ることはもうできないが、これで和歌の道に専念できるではないですか。」そのように西行は上皇に対してのエールを手紙と和歌で送り続けた。

だが、そんな西行の想いも虚しく、崇徳上皇の心を鎮めることはできなかった。

讃岐では、上皇が自らの過ちを悔いるために血で写経を行ない都へ送ったとか、生きたまま天狗になった、という類いの噂が都でも聞こえるようになったと言う。

上皇の配流は都の人間にとっては相当なショックであり、西行をはじめ崇徳上皇を慕っている人もいた。

天狗となったかどうかはさておいても、そういった親上皇の人間にとって都での悪い出来事は上皇の配流と結びつけられていった。

三大悪霊としての崇徳院

崇徳上皇はそのまま讃岐で生涯を終える。彼の没後、西行は讃岐を訪れ、和歌を詠んだことが残されている。

   よしや君 昔の玉の 床とても

    かからん後は 何にかはせん

これは崇徳上皇が生前に詠んでいた歌を踏まえている。以前から玉座がいつまでも続くわけがない、と詠んでいたのにも関わらず、なぜ心を鎮めて往生することができなかったのか。西行には珍しく突き放した言い方で、その行いを諌めている。

かつて恋い焦がれた待賢門院の子である、自分の和歌の理解者でもある崇徳上皇の最後について、西行が抱いたであろう落胆は計り知れない。

仁和寺レポート
御室仁和寺

京都は右京区、御室にある仁和寺に行ってきた。

待賢門院の法金剛院からひたすら北に15分歩けばたどり着くこの寺院は世界遺産にも登録されている。西行と同じように、この地を歩いて彼に関連する史跡を巡るものオツなものである。

本堂では住職の講話が聞けた。説法を日頃から行うからか、話の上手い坊さんは多い。だが、仁和寺の和尚さんは単に上手いだけではなく、笑いを取ってくる。さすが関西といったところ。

 

そのありがたいご講話曰く・・・

 

仁和寺は888年に宇多天皇によって完成された。宇多天皇は単に寺を建てるだけでなく、自ら出家してしまう。神道に君臨する天皇が、である。

それからというもの、門跡(住職)は皇族が務め、その流れはなんと明治まで続いたという。

この話を聞くと、崇徳上皇が保元の乱に負けたのち、なぜ仁和寺に姿を現したのかがよくわかる。

代々皇族が出家してきた仁和寺でこそ、崇徳上皇の出家は果たされるのであって、他の寺ではあり得なかったのだ。

その出家に立ち会った西行の心情を想像すると、どうしても暗澹たる気持ちになる。だが、仁和寺にはそんな雰囲気は一切ない。皇室が代々伝えてきた雅を秋の清々しい空気が包んでいた。

春は桜が美しいという。

伊勢と晩年

讃岐で崇徳院の怨霊と別れたのち、西行は四国・九州を経て都へ戻った。四国では弘法大師の跡を訪ねていたことが残っている。

弘法大師空海は真言宗の開祖であり、西行も一般的には真言宗の僧侶とされる。弘法大師への想いは人一倍強かったことであろう。

その後、西行は奥州へ再度旅をし、帰ってくると東大寺再建に関わったりと、精力的な活動をする。この時何歳?そして、この時期に自分の和歌集を作成する。

ここでは西行の和歌集と真言宗の教義から西行の和歌について掘り下げていく。ここを理解することで、妖々夢に登場する「願わくば〜」の歌をよく理解できるようになる。小難しい話が多いが、できるだけ簡単に書くように努めていきたい。

ここでは主に下記の文献を参考とした。

 

桑子敏雄,1999,『西行の風景』NHKブックス.
西行の和歌論

では、西行が和歌をどう捉えていたのかについて触れていく。老まずは、年に入った西行が明恵という若き僧侶に対して語った言葉を引用する。現代語訳は『西行の風景』から引用した。

最後の一行が最も大事なので、そこだけ注意していただきたい。

花を詠むといってもそれを実態において花と思っているわけではなく。月を読んでも真実に月と思っているわけではありません。ただ、あるがままに、縁に従い、風情に感じるままに詠み置いているのです。これは紅の虹が空にかかれば大空が彩られるのに似ています。太陽が燦々と輝けば、大空が明るくなるのに似ています。けれども大空はもともと明るいものでもなく、また彩られているものでもありません。私はまたこの大空のような心の上に様々の風情を彩るのですが、だからといってそこに何か跡が残るわけでもありません。この和歌は、大日如来の本当の形体です。だから一首の和歌を詠んでは、一体の仏像を作るつもりでいます。一句を思い続けては、秘密の真言を唱えるのと同じなのです。」

西行は、和歌=真言と捉えていた、そこだけ思い留めていただければ結構。

 

真言とは?

では、その真言とはなんであろうか。

真言とは、釈迦が語った真実の言葉を指す。そして、その真言を重視し、真言を学ぶ宗派こそが弘法大師空海によって開かれ、西行が属する真言宗である。

だが、単純に真言を学ぶといってもこれがなかなか難しい。釈迦が真言を残したのは平安よりも遥か昔であるし、仏教自体、インドから中国を経て日本にやってきているのだ。

卒論を書いている最中に、教授が「原文に当たらなくてはダメだよ」という。まぁ、それはもっともなんだけど、文献が古いドイツ語で書かれているとわかるだけで、テーマを変えたくなる。

ましてや飛行機も駅前留学も、Google翻訳もない時代に、誰も見たことも聞いたこともないインドの、古い言葉(サンスクリット語)を勉強する。想像するだけでも大変さがわかっていただけるだろう。

しかし、それだけの苦労を伴う代わりに、釈迦の真の教え(=真言)を日本語で学ぶよりもより深く理解できる。これこそが真言宗の考え方でる。

こうなると、

サンスクリット語=真実・高尚なもの・意味の深い言葉

日本語=低俗なもの・意味の浅い言葉

となってくる。

西行はここに「和歌=真言」と唱えることで反対しているのだ。

つまり、インドのサンスクリット語のみが真言ではなく、仏教の真実を語る言葉こそが真言であり、和歌(=日本語)でも真言になり得る、というのである。

御裳濯河歌合
晩年
問いへの答え

西行の娘

史実の娘

西行物語の娘

幽々子は西行の娘なのか?

 

和歌と墨染の桜

(ぢせ氏,2018『西行妖』,Pixivより。絵師様に使用許可いただいております。掲載元はこちら

和歌の読み手

墨染の桜

参考文献

桑子敏雄,1999,『西行の風景』NHKブックス.

辻邦生,1999,『西行花伝』 新潮文庫.

白洲正子,1996,『西行』 新潮文庫.

西沢仁美編, 2010, 『ビギナーズ・クラシックス日本の古典 西行 魂の旅路』角川ソフィア文庫.

高神覚昇,1952,『般若心経講義』角川ソフィア文庫.

小松茂美編,1988,『日本の絵巻19 西行物語絵巻』中央公論社.

桑原博史,1981, 『西行物語 全訳注』講談社学術文庫.

梅田卓夫,2001,『文章表現四00字からのレッスン』ちくま学芸書房.