以下では、フェミがオタク叩きをする根幹思想”社会構築主義”とは?における主として次に挙げる2ツイートの問題点の指摘と、関連して宇崎ちゃんの献血ポスターについての議論を行う。
どこにあるの?
どうやって見つけるの?
それは反証可能性あるの?」
って、どの研究書を読んでもまともに書いてない。ただ、「ある」ってことを前提にして話をしてる。
そもそも「社会構築主義」に限らず、社会学において、社会構造と人間の行為の関係は、最も根本的なところでまったく解明されていない。
人間が社会構造を作り、その社会構造が人間を規定するというのがどういうことなのか(ミクローマクロリンク問題)、社会学出来てから100年以上全くわかってない。
この文章を書いた理由としては、上記Togetterがあまりに「社会学」についてのひどい誤りを書き散らしているにもかかわらず「参考になった」的なコメントが多くついておりヤベえと思ったためです(「ジェンダー論」についても誤りがありそうだけど詳しくないのであまり触れませんでした)。また、それはそれとして献血ポスター批判側にも「社会学」(同じくたぶん「ジェンダー論」も)を誤解していたり、受け手を誤解させかねない振る舞いが多く見られるのでその点についても指摘しています。
以下では最初に「反証可能性」についての話をした後に、次に「社会構造」の話をし、最後に宇崎ちゃんポスターの話をします。
まず、反証可能性という用語を真顔で使っていいのは高校生までです。科学哲学(「なにが科学か」「そもそも科学とは何をしているのか」についての哲学)に詳しくない人のために反証可能性について一応説明しておくと、「それが間違いであると認められる可能性が無いものは科学ではない」という理論です。たとえばオカルトに対しては結構これが有効で、やつらはこれを買うと病気が治るとか言って壺を売りつけてくるわけですが、当然買っても病気は治らない。それで苦情を言いに行くと「あなたの信心が足りないからです」とかなんとか言って「仮説:買うと治る 実験:買った 結果:治らなかった→仮説は棄却される」という「反証」を受け入れてもらえない。こういう状況を反証可能性が無い、といい、その状況と「まっとうな科学はすべて反証可能性を持っている」という前提からオカルトは科学ではないと結論されます。
しかし、である。オカルトが科学ではないのはいいのですが、すべての科学が反証可能性を持っているかというと怪しい。化学や物理学の最先端の研究だと、現状そこの施設(しかも営利企業だったりする)でしか検証できない実験結果がネイチャーとかに載ってたりする。あれはいいのか、という話になる。「いずれ反証できる『可能性』があるからいいのだ」という人がいるかもしれないが、いまこの瞬間はまだ反証可能性が無いのにネイチャーとかに載っちゃうのはどうなのそれは本当に科学なのということはまだ言える。というかそれでやばいことになった事例もあるわけで(ヘンドリック・シェーン、STAP細胞など)。まあ「可能性がある(実際先の2つは実際反証されたやろ[STAP細胞が無いと証明した人が居ないのに反証されたと言っていいのかとか問題もあるのだが省略!])」というところでそこは押し切るとしても、更に根本的な問題がある。
反証可能性の理論から出てくる規範として「科学者ならば反証された仮説にこだわっていてはならない」というものがある。例えば「STAP細胞はありまぁす」とかほざいた奴に対する科学者コミュニティからのまなざしを思い出してみるとまあわかる話でしょう。しかしそんないさぎよい態度が歴史上とられたことがあっただろうか。例えばニュートンは万有引力を「ありまぁす」と言ったわけだが、当時の科学者(とか錬金術師とか哲学者とか、ようするに当時のインテリほぼすべて)から袋叩きにあった。ほぼ1人vs全世界の構図なわけで、それだけの物量の「反証」が寄せられると中には正しいものもあったりする(たとえばニュートンは「エーテル」を存在するものとしていたが、そんなものはない。あるいは単純な計算ミスもあっただろう)。さて、正しい反証を示されたニュートンは万有引力という仮説を撤回しただろうか。皆さんご存知の通りしなかったのである。なんと卑怯にも奴は後出しで理論のマイナーチェンジを続けて「ありまぁす」と主張し続けたのである。壺を売ったあとに「壺は仕事をしたが信心が足りなかった」と言う宗教家と何が違うのだろうか。というのは流石に極論であるにしても、反証可能性という概念が当初思ったほど切れ味の鋭い概念では無いことは理解してもらえたと思います。
そういうのをコミコミで、普通「反証可能性」という用語を教わるときは「という便利そうな概念があるけどそこまで便利でもないよ、だから次のパラダイム論が出てきて、それも思ったほど便利じゃなかったので…」というところを必ずセットで教わると思う(ので真顔で使っていいのは高校生まで)のですが、件の人は一体どのような教わり方をしたのでしょうか。
この時点でこの問いがどうかしていることは明らかなのですが、「社会学が専門」と言った上で「社会構造ってなに?」という問いはまして頭が痛いです。
社会学史のおさらいをしましょう。なぜ社会学なんて胡乱な学問が成立したのかと言うと、それが必要だと当時の人たちが考えたからです。どういうことか。一般的に社会学の成立は、19世紀前半~中盤に活躍したコントとスペンサーという人たちから19世紀後半~20世紀初頭に活躍したデュルケームとウェーバーという人たちあたりが成立させたと言われています。以下ではコント→デュルケームという2人の流れを説明します。スペンサーとウェーバーも偉いのですが、「実証的」とか「科学的」とか言われる社会学を作ったのはやはりコント→デュルケームだと思うからです。あとぶっちゃけスペンサーとウェーバーには筆者が詳しくないという理由もあります。
さて、時代は19世紀初頭、フランスにコントという人がいました。大抵の社会学史的な文章にはこの人の名前が出てきます。逆に言えばたいてい名前しか出てこないのですが、その理由はおそらくデュルケームと比べるとぶっちゃけあまりに見劣りするからです。それでも名前が出てくるのは、彼が今の意味での「社会学」という言葉を初めて使ったからです(正確に言えば彼が提唱したのは社会〈物理〉学でしたが、ここでの物理学physicsは明確に形而上学meta-physicsと対比される形で使われており、社会形而下学とか、社会についての実証的な学問とか、まあ要するに社会学のことでした)。19世紀初頭のフランスといえば、フランス革命の余波も大きく、社会がしっちゃかめっちゃかな状態でした。偉かった教会とか王様とかの権威が失墜して、ナポレオンが独裁して、また昔の王朝に戻ったりしてました。多分一年ごとに自民党と共産党が政権を交代してもここまでの混乱はしないんじゃないかってくらいの混乱だったんだと思います。そういう中で生きてると不安になるわけです。幸せになれないわけです。じゃあどうすればええねん、と考えた人がコントでした。彼は「社会学」という言葉を初めて用いた『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』の中で次のように述べています。昔は王様とか宗教とかが社会をまとめあげてたよね。で、今もそれを復帰させようとしてる人がいる。気持ちはわかるよ、でも一度変わってしまったものは元に戻らないわけで、そういうのは無意味。新しい社会には新しいまとめあげの方法が必要だよね。そのための方法が社会についての実証科学を創設してみんなにそれを教育するということです!なぜならそれによって、社会のみんなで同じものを見て確認するということが可能になり、それでまたみんなの団結が可能になるからです!と。今の意味での「社会学」を全員に教育するべきかはともかくとして、社会についての科学的知見を皆が持つべきだ、というのはなんとなくわかる気がしますよね。というか200年経ってもまだ未達成なプランじゃないかと言う気がしてきますよね。「身の丈」とか言ってる人にはコントの遺灰を煎じて飲ませたいくらいじゃないでしょうか。正直天才の発想だと思います。ここで大事なのは、コントが王様や教会の権威(当時は王様も神様みたいなものでしたからようするにまとめて「神学」でしょう)の代替物として、「社会学」を構想したということです。にもかかわらず「社会学は神学も同然だ!」と鬼の首を取ったように繰り返してるあたりで、ああこの人は歴史を知らないんだなと思ってしまいますが、まあ確かにいまどきハンショーカノーセーのない神学のままではよろしくない。
それをどうにかしたのがデュルケームでした。彼は19世紀末に『自殺論』という本を著しました。一般教養の講義などで社会学を取ったことがある人なら聞いたことはあるはずです。この本の意義は簡単で、社会がしっちゃかめっちゃかになると自殺が増えるということを統計的に明らかにしたという点に尽きます。まあわからんでもないけど何がそこまですごいの?って思いますよね。デュルケームがすごいのは統計学が未発達(というかほぼ存在しない)なかで、しかも「社会が個人に影響する」という概念自体が存在しないなかで、自殺という究極的に個人的だと思われた事柄と、季節や宗教といった普遍的な社会的事柄を統計を用いて結びつけた点にあります。それまでも人の死についての統計は無いわけではありませんでしたが、それは保険のための年齢別の死亡率表のようなもので(それも当時としては画期的だったのですが)、社会と死(それも病死や戦死ではなく自殺)が結びつくという発想はまったく存在しませんでした。どれくらい革新的だったかというと、「『社会がこうなると自殺が増える』って書いてるけど、自殺してないやつのほうが多いよね?」「てか社会がそうじゃなくても自殺してるやついるよね?」みたいなクソリプが殺到するほどでした。それほどに統計というものが未知のものだったのです(今でもたまにこんな人いますよね)。かくしてデュルケームは、自殺というものすごーく個人的な(と思われている)ことと、社会構造との結びつきを発見しました。現在に至るまでその後のすべての社会学は、このデュルケームの発想の上に成り立っていると言っても過言ではありません。別に学問的なものでなくても、たとえば「社会をよくして自殺率を下げるべきだ」とわれわれが当たり前に考えているのも、デュルケームが社会と自殺の関係を明らかにしなければありえなかったことでしょう。あるいはより学問的なことを言えば「身の丈」発言があれだけ叩かれたのも、「貧困家庭の子供の大学進学率は低くなりがちである」「大学に進学しなかった場合は、進学した場合よりも収入が低くなりがちである」といった、日本の社会学がこの30年ほどで明らかにしてきたことが人口に膾炙したためであると思われます(ちなみに教育社会学を専門にしている先生[竹内洋か苅谷剛彦だったと思う]が公民館で講演したところ「先生のおっしゃってることって、魚屋の息子が魚屋になるってことですよね?そんなのみんな知ってますよ」と言われたというエピソードが個人的に好き。みんな知ってることを統計的に確認するのが大事なんです)。
このデュルケームの研究ひとつとってみても、あるいは「身の丈」発言に怒れるようになった日本人をとってみても、「社会構造が存在する」というのは科学的に正しいし、世間的にも常識となっているとみてよいのではないでしょうか。それを否定するのは、Twitterなんかではなくそれこそ論文を世に問うことによってぐらいでしか可能にはならないでしょう。そのためには社会学の100年以上の歴史に通暁していなければならないでしょうが、「反証可能性」を錦の御旗のように用いている人がそうであるとはとても思えません(社会学はその歴史の最初からかなり頻繁に科学性を疑われる学問ですから何度も科学哲学の成果を吸収したりそれに反発したりしてきました)。
まあ、件の人のおっしゃりたいことも部分的にはわかりますよ。社会構築主義がうさんくさいって。まあそもそも社会構築主義というものがほぼ定義不能なこんにゃく理論なのでそれに反発してもなあって感じもしますが。知らない人のために大雑把に説明しておくと、広義の意味での社会構築主義とは、何か(大抵は個人的で意外なもの)が社会的に構築されていると主張することの総称です。その意味ではデュルケームも自殺が社会的に構築されているという社会構築主義者ですし、おそらくフェミニストであろうがなかろうがすべての社会学者がそうです。狭義の意味では現象学的な理論が語用論的展開の中でエスノメソドロジックになんちゃらみたいなのがあるようで、一部フェミニズム的な社会学者はこの立場を取っているようですが、この書きぶりからもわかるように筆者は詳しく知りません。こんな曖昧な概念を「ラディフェミ(≒社会構築主義)」と書いてしまえる胆力には脱帽しますが、その後社会学全体が神学だみたいな話もしているのでそもそもよくわかっていないのでしょう。
それとは逆に「よくわかっている」人が社会構築主義を批判した例として、イアン・ハッキングの『何が社会的に構築されるのか』を挙げておくことは有用でしょう。この本は社会学を好きな人も嫌いな人も読むべき本だと思います。ハッキングは学者たちによって「Xの社会学的構成」とか「Xを構成する」とか言われているもののリストをわざわざ並べ立てます。いわく「著者という存在、義兄弟、子供のテレビ視聴者、感情、事実、ジェンダー、同性愛文化、病、知識、読み書き能力、『要治療』とされた移民、自然、口述歴史、ポストモダニズム、クォーク、現実、連続殺人、工学システム、都会における学校教育、人口統計、女性難民、若者のホームレス現象、ズールー族のナショナリズム」などが社会的に構築されるのだそうです。まあ、「若者のホームレス現象」とかは確かに社会的に構築されてそうだな、と思うけど、「クォークの社会的構築」とか「ポストモダニズムの社会的構築」とかはさっぱり意味不明である。また、その種の中には「実験器具のメーターを社会的存在(つまり人間である)が社会の中で観測しているのだから科学は社会的に構築されている!」みたいなものもあるようで、そこまで行くと「万物は流転する」みたいな悟りのレベルに達してそうですげえなと思わされます。
ハッキングは中でも「ジェンダーの社会的構築」について着目します。いわく、「ジェンダー」って概念はそもそも「生物的性」に対するカウンター概念としての「社会的性」だったのだから、「社会的性の社会的構築」と言っていることになり意味なくね、と。まあフェミニズムの側にも言い分はあってハッキングはそれも紹介しているのですが、詳しくは本を読んでください。最初の20ページくらいまででまとまっているので。
長すぎたので続きます
https://anond.hatelabo.jp/20191103164229
https://anond.hatelabo.jp/20191103163514 の続きです ハッキングの偉大な点は、「社会的構築」の定義を諦めてその意図を問題にしたところにあります。いわく、「社会的構築」というのは問題...
>(丁寧な結論はたいてい煮え切らないものです) ここに、私が感じる、ネット上のフェミニズム的言説への違和感が集約されている。 結論があまりにも単純過ぎてイデオロギーのよ...
イデオロギーのようではないだろ イデオロギーそのものなんだから
宇崎ちゃんは問答無用でわいせつ物マン列罪