デスクトップPCも目指した「Raspberry Pi 4」は、得意分野でこそ本領を発揮する:製品レヴュー

カードサイズのPCとして人気の「Raspberry Pi」の新モデルが発売された。「Raspberry Pi 4」は処理性能が大幅に向上したうえ、搭載するメモリーが最大4GBまで増加。デスクトップPCとの代替を視野に入れた「Desktop Kit」というキーボード付きのセットまで登場した。その実力は、いかなるものだったのか。『WIRED』US版によるレヴュー

Processor

PHOTOGRAPH BY RASPBERRY PI

Raspberry Pi」は、DIY好きなユーザーをターゲットにしたクレジットカードサイズのコンピューターである。小さいうえに低価格(55ドル=約6,000円)で、サンフランシスコで何杯か飲むよりも安い。簡単なコンピューティング機能やインターネット接続をさまざまな機器に自力で追加したい人たちにヒットするのは、すでにわかっている。

しかし、最新モデル「Raspberry Pi 4」はそれだけではない。性能が向上したことで、デスクトップ機を置き換えられる可能性もあるのだ。

Raspberry Pi 4は、従来のようにひとつのモデルですべてに対応するやり方をやめた。今回はRAMが1GB、2GB、4GBから選べるようになっている(メモリーが1GBを超えるRaspberry Piは初めてだ)。RAM容量の増加が、デスクトップPC用のソフトを実行するような新たな世界を切り開く一方で、小さなDIYマシンとしての素晴らしさも変わらない。

機械好きのおもちゃから成長

むき出しの回路基板として出荷され、低価格で低消費電力で、しかも拡張性が高い。そんなハッキング可能なパーソナルコンピューターという「ハッカーの夢」を具現化する製品として、Raspberry Piは誕生した。ときには教育用デヴァイスや機械いじりのツールとして使われるこの超小型PCは、火星探査車の小型版から世界中の学校で実施される科学実験、ハッカソンまで多くに採用され、ひとつの現象のようにまでなった。

これまでに数え切れないほどの模倣品も登場しているので、いまとなっては機械いじりを楽しみたい人たちには多くの選択肢がある。とはいえ、人気と知名度はやはりRaspberry Piがいちばんだ。ユーザーのコミュニティも、Raspberry Piが最も大きい。小さなPCの世界に新たに入る人にとっては特に、このコミュニティーがRaspberry Piの魅力になっている。

今回テストしたのは、「Raspberry Pi 4 Desktop Kit」というセットだ。4GBのマザーボード、赤と白のプラスティックケース、キーボード、マウス、マイクロHDMIとスタンダードHDMIのケーブル、USB-Cの電源、「Raspbian Linux」がインストールされた16GBのMicroSDカードなどが付属する。その名が示すように機械好き向けではなく、デスクトップPCを目指したセットとなる。

これまでのような基板むき出しの基本モデルは、RAMが1GBのもので35ドル(約3,800円)。意外にも値段は据え置かれた。さらに10ドルを出して45ドルだとRAMが2GBに、55ドルだとRAMが最大4GBになる(4GBがお薦めだ)。

Raspberry Pi 4

「Raspberry Pi 4 Desktop Kit」は、そのままデスクトップPCとして使えるようになっている。PHOTOGRAPH BY RASPBERRY PI

2012年ころの性能

必要な性能が2012年ころのパソコンの処理速度なら、Raspberry Pi 4 Desktop Kitはデスクトップ機の代わりになりうるかもかもしれない。ここで言う「12年」は適当に想像した話ではない。「OpenBenchmarking.org」でほかのPCのテスト結果と比較すると、得られるベンチマーク結果がそのあたりなのだ。x86系で最も近いのは、12年ごろのIntel Coreチップという結論になった。

12年ならそれほど昔ではないと思うかもしれない。だが、実際にウェブブラウザー「Chromium」の起動やカメラから入力された動画の圧縮処理の時間を測ってみれば、12年というのはずいぶん昔だと感じられるだろう。というのは冗談で、動画圧縮などの処理はできない。ベンチマークを走らせることさえできなかった。

いずれにしても多くの『WIRED』の読者にとって、Raspberry Pi 4は普段使いのマシンにはならないだろう。最近使っているほかのあらゆるものと比べて遅すぎるはずだ。

Ethernetは高速化、消費電力は増加

一方でRaspberry Pi 4は、メディアサーヴァー、ネットワーク全体の広告ブロッカー、全自動コーヒーマシン、家庭でビールをつくるマイクロブルワリーの管理など、従来の用途の多くについては必要以上の性能を備えている。これは「Raspberry Pi 3」を酷使していた人にとっては朗報だろう。最新モデルが搭載する1.5GHzで4コアのARMチップは、Raspberry Pi 3と比べて3倍以上も高速化している。

“本物”のギガビット・イーサネットに対応したのも大ニュースだ。従来のモデルはUSB 2.0のブリッジによってEthernetに対応しており、ネットワークスピードが阻害されていた。Raspberry Pi 4では専用接続になっており、開発元のラズベリーパイ財団は「フルスループット」を提供すると説明している。つまり、Ethernet接続は大幅に速くなる。

ポート類はあまり変わっていない。Ethernet、USB 2.0が2個、USB 3.0が2個、そしてストレージ用の普通のMicroSDカードスロット。基板だけなら変わらず35ドルで販売されることを考えると、素晴らしいパッケージだ。

性能が上がったことで消費電力は増えている。Raspberry Pi 4は電源にUSB-C端子を採用しており、前モデルの「5V、2.5A」から、「5V、3A」になった。大きな増加ではないが、常時稼働で有名になったマシンであることを考えれば、押さえておきたいポイントだろう。

Raspberry Piとして使うには素晴らしい

今回は実際にデスクトップ機として1週間ほど使ってみたあと、モニターやキーボードなどをすべて外してルーターに直接つないだ。ターミナルからSSH経由で接続する方法に戻したわけだ。Raspberry Piユーザーとしては保守的すぎるかもしれないが、個人的にはこの使い方のほうがずっと好きだし、Raspberry Pi 4にとっても得意なのはこちらだろう。

ネットワークにつながると電力をあまり消費せず、必要になるまで邪魔をしない。これがRaspberry Pi 4のいちばん便利な使い方だと思う。

ここで4GBモデルのケースと基板について、言っておかねばならないことがある。負荷の大きいベンチマークの実行中、ケースがかなり熱くなって不快なプラスティックの臭いが部屋に充満した。Raspberry Pi 4を買うなら、基盤のみのモデルを購入し、ケースはサードパーティーのものを手に入れよう。例えば、オーヴァーヒートを防ぐヒートシンクを兼ねている「Flirc Raspberry Pi 4 Case」はおすすめだ。

Desktop Kitに付属する初心者向けガイドは、ハードウェアに付いてくる説明書としては極めて親切にできている。知る限りでは、これまででいちばんかもしれない。ステープラーでとじた薄い小冊子のようなものではない。きちんととじられた250ページの入門書で、イラストをふんだんに使ったフルカラーなのだ。

RaspberryPi Book

Desktop Kitに付属する初心者向けガイド。250ページの入門書で、イラストをふんだんに使ったフルカラーだ。PHOTOGRAPH BY RASPBERRY PI

内容はRaspberry Piの設定方法、Linuxの「Debian」がベースのOS「Raspbian」の使い方、プログラムのつくり方などだ。お試し用のプロジェクトもいくつも載っている。Desktop Kitを選ばなくても、このガイドだけ別に買うこともできる。

Raspberry Pi 4は、Raspberry Piの世界に飛び込む十分な理由になる。Raspberry Piのコミュニティーはさっそく、チップの高速化とRAM増量のオプションが切り開いた新しい可能性の世界を楽しみ始めている。

Raspberry Pi 4にとって目下の最大の課題は、見つからないことだ。4GBのDesktop Kitは19年の発売以降、「PiShop」などのストアで売り切れが続いている。この記事の執筆時点でDesktop Kitの在庫があるのはCanaKit(119.95ドル)くらいだ。持ち帰りなら一部の店舗にもある。

RAMが4GBもいらずDesktop Kitも不要という人は、2GBの基板とUSB-C充電器がある。このセットはおすすめだ。

◎「WIRED」な点

低価格で簡単に使えるDIYパソコンの最新版。プロセッサーが高速化して、さらに強力になった。本物のEternetでネットワーク性能が向上。RAMが最大4GMになり、新たな可能性が広がる。素晴らしい説明書兼初心者向けガイドが付属する「Desktop Kit」なら、低負荷作業向けのデスクトップ機になる。

△「TIRED」な点

かなりライトなPCユーザーでないかぎり、デスクトップ機の代替として使うには性能不足。重い作業だとDesktop Kitのケースが熱くなりすぎる恐れがある。

※『WIRED』によるガジェットレヴュー記事はこちら

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【ネタバレあり】『ジョーカー』を鑑賞する行為は、感覚が麻痺するような“空虚さ”の体験でもある:映画レヴュー

世界的な大ヒットとなった映画『ジョーカー』。劇中には1970年代と80年代のニューヨークを思わせる細かな描写だけでなく、実際に起きた事件や過去の映画のオマージュもそこかしこに隠されている。さまざまなディテールの上に構築されている作品だが、最も本質的な歴史的要素についてはあからさまに歪曲し、見て見ぬ振りをしている──。映画批評家のリチャード・ブロディによるレヴュー。

TEXT BY RICHARD BRODY

NewYorker

Joker

©CAPITAL PICTURES/AMANAIMAGES

映画やドラマのレヴュー記事にはネタバレにつながる描写が含まれていることがあります。十分にご注意ください

1970年代と80年代のニューヨークを舞台にした2本の映画『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』。それらの名作へのオマージュであるという以前に、映画『ジョーカー』はゴッサム・シティという架空の都市に設定を依拠している。そしてコミックが原作であるストーリーを口実として、非常に狭量で否定的な側面から現実世界の犯罪を想起させてくるのだ。

それは意図的にではなく、どちらかといえば結果としてそうなった、ということなのだろう。こうして生まれたのが、あまりに漠然と広がるシニシズムの世界である。それが軽薄さを感じさせる美的センス以上に、鑑賞体験をより空虚なものにしている。

実際に起きた事件を暗示させるシーン

『ジョーカー』の舞台は、薄汚れていて不穏な空気が漂うニューヨ──でなくゴッサム・シティだ。時代設定は、おそらく(小道具や衣装などから推察するに)1980年ころと思われる。ピエロに扮したアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、“ミッドタウン”の雑踏で音楽ショップの人間広告塔として働いている。

ここで最初のドラマティックな場面が訪れる。有色人種のティーンエイジャーの集団がアーサーにちょっかいを出し、彼が持っていた看板を奪ってしまう。アーサーはゴミだらけの路地(街ではゴミ収集業者による最悪なストライキが起きている最中だ)まで彼らを追いかけていくが、少年のひとりが奪った看板で彼を殴り倒す。そして少年たちは集団で彼に殴る蹴るの暴行を加える。薄汚れた路地にひとり残されたアーサーは、あざだらけで血を流しながらすすり泣く。

これは実際に1989年にニューヨークで起きた「セントラルパーク・ジョガー事件」を暗示している。「有色人種の若者グループが孤立した傷つきやすい白人を襲った」という思い込みから、5人の若者たちが有罪判決を受けたが、冤罪だったという事件だ(彼らは「セントラルパーク・ファイヴ」と呼ばれている)。

劇中ではこうした史実からは離れ、あの5人は犯人ではなかったかもしれないが、あの惨事を引き起こした集団は別にいたのだと語りかけてくる。彼らは扇動家が生み出した憎悪に満ちた想像の産物ではない──その後に続く凄惨な行為の火種となるのだ。

ホワイトウォッシュされた過去の事件

ほどなく、次の残忍な場面が訪れる。アーサーは自分が所属するピエロ派遣業者のオフィスのロッカールームに戻る。同僚たちがアーサーに対する暴行事件を話のネタにするなか、威圧的な同僚のランドル(グレン・フレシュラー)が彼に銃を手渡してきたのだ。

その後、地下鉄で若い男の3人組(スーツを着た白人)に襲われたアーサーは、銃を取り出して発砲する。そのうちひとりにいたっては、わざわざ駅のプラットフォームまで追いかけて撃ち殺すのだ。このシーンも1984年に実際に起きた事件を想起させる。バーナード・ゲッツという男が地下鉄で4人のティーンエイジャーを銃撃した事件だ。

ゲッツは当時、若者たちが強盗ではないかと思ったと語っていた。彼が銃撃した4人の若者たちは黒人で、ゲッツは逮捕後に人種差別発言を行っている。『ジョーカー』の劇中では、監督のトッド・フィリップス(スコット・シルヴァーとの共同脚本)が、ゲッツの事件をホワイトウォッシュ(白人化)して人種的な動機を取り去ることで、自己防衛に歯止めがかからなくなった末の事件に転化している。

他人とのかかわりの不在

これらのふたつの事件の間に、アーサーが乗客で混み合うバスに乗っている場面がある。自分の前に座っていた子どもが振り返ると、アーサーは楽しそうに顔芸を披露して笑わせようとする。ところが子どもの母親は、息子に構わないでくれと厳しい口調でアーサーに注意する。この親子は黒人だ。

その翌日、帰宅するアーサー(彼は病院で子どもたちを相手にピエロの仕事をしている最中にポケットから銃を落としてしまい、クビになっている)は、ソフィー(ザジー・ビーツ)という隣人の女性に出会う。彼女にも小さな子どもがいる。ソフィーとその子どもも黒人だ。

ソフィーと短い会話を交わしたアーサーは彼女に執着心を抱き、彼女とのロマンティックな関係を妄想する。こうした他人とのかかわりの不在が、ほかのさまざまな苦難とともに彼を苦しめることになる。

さらにもうひとつある。アーサーは治安の悪い地区の一角にある寂れたアパートの一室で、母親のペニー(フランセス・コンロイ)と暮らしている。ペニーには障害があり、アーサーは彼女を介護している。母親が寝静まったあと、アーサーは深夜にテレビで古典映画の名作を観ている。流れているのはフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースが主演の『踊らん哉』だ。

流れてくる曲は、ジョージとアイラのガーシュウィン姉弟による「スラップ・ザット・ベース」で、遠洋定期船の機関室(かなり様式化されている)で働く黒人男性たちが作業しながら歌い、音楽を奏で始める。そこにはジャズバンドがいて、ひとりの男(ダッドリー・ディッカーソン)が、同僚たちのコーラスのリフに合わせて歌いだす。そこにアステアが加わり、彼らの歌と演奏に合わせて踊り始める──。この場面をアーサーは銃を手に持ったまま観ながら居間で踊りだすが、踊りに夢中になっているうちに不注意で引き金を引いてしまう。

無化された事件の本質

『ジョーカー』は強烈に人種問題を意識させるようにつくられた映画であり、人種のお約束にまみれたドラマがそこかしこに散りばめられている。それらは非常に挑発的で、困惑させられるほど精査されていない。

作品が語ろうとしていることには、まったくもって一貫性がない。精神を病んでいるアーサーが有色人種の集団に襲われて暴力性に目覚めたことや、黒人女性には冷淡な態度をとられ、他人から無視されていると信じ込み、陽気な黒人労働者の脇役たちに囲まれる魅力的な白人スターになるというアイデアに歓喜している、といったことを示唆している程度だ。

しかし、セントラルパーク・ファイヴについて公に語られていることやバーナード・ゲッツの事件、そしてこの現実世界とは異なり、『ジョーカー』における言説やアーサー・フレックの思考プロセスからは、人種や社会的特異性といった発想が完全に欠落している。

確かに『ジョーカー』は架空の都市を舞台にしたコミックの世界のファンタジーだが、そこで起きる事件やその影響については、現実世界に寄生するかのように実際の出来事から“拝借”している。そこで参照されているさまざまな事件は、人種差別的な言説や態度の原因かつ産物である。そして長きにわたって歴史的とも言えるほどの重みをもった「現実の人種差別」を生み出してきたのだ。

『ジョーカー』の核となる事件(ネタバレを避けるためにはっきりと言及はしない)も、現実世界の事件を示唆するものだが、ここでも監督のフィリップスはその言説や本質を無化している。その結果、共鳴し合う事件や魅力的なディテールを伴ったストーリーを創り上げようという試み以上に、『ジョーカー』にはひとりの映画監督、あるいは映画スタジオの政治的な臆病さが反映されており、この街の現代史や現在の米国政治といった具体性が欠落している。その理由は、映画が政治的文脈で語られることに対して不満を募らせている観客(つまり共和党員)に向けて、単なるエンターテインメントとして提供するためなのだ。

隠された政治的なレトリック

『ジョーカー』では、アーサーが精神を病んでいることはすぐに分かり、彼もそれを自覚している。彼は7種類の薬を服用しており、もっと薬がほしいと思っている(彼が抱える問題の原因は映画の後半で明らかになる)。

しかし、ゴッサム・シティは明らかに財政難に陥っている(思い出してほしい。1975年にニューヨークは財政破綻寸前の状況にあった)。社会福祉の予算は削減され、アーサーも薬をもらうことができなくなった。その結果、アーサーの妄想はさらに深刻化していく。すでに暴力的な傾向はあったものの、その暴力性はより計算された標的を絞ったものになっていくのだ。

ここでも本作は、現在の政治のレトリックを提示する。これは主に銃規制に関して共和党員が強調することだが、すべての人を対象にした規制ではなく、精神的に問題を抱えた人のみを規制の対象にすべきだというレトリックだ。

アーサーが連続殺人に目覚めるなか、ひとりの有名人がアーサーのような殺人者たちを「ピエロ」と呼ぶ。その人物はトーマス・ウェイン(ブレット・カレン)。裕福な銀行家であり、数十年前にアーサーの母ペニーも彼の下で働いていた。そしてもちろん、彼の息子の名はブルースという。

この発言をきっかけに、活動家たちによる大規模な運動が突如として起こる。彼らはピエロに扮し、富裕層や権力者たちを標的にする。これはヒラリー・クリントンがドナルド・トランプの支持者の大多数を「哀れな人々」と呼んだ“事件”に類似している。一部の人々は、この「哀れな人々」という言葉を名誉の証として使うようになったからだ。『ジョーカー』において「ピエロ」という形容は、脅威として迫りくる左翼の急進派に向けられている。

コメディアンとしての夢

アーサーはスタンダップコメディアンとしての成功を夢見ており、セラピー目的で日記をつけるためのノートに、彼が言うところのジョークを書きためている。彼は大量の文字を震える手で熱心にノートに書き込んでいる。劇中でもノートの内容を(雑誌のポルノ写真の切り抜きを含めて)垣間見ることができるものの、画面に映る文章は個人的な内容に限られている(「俺の死は俺の人生よりもまともであることを願う」「メンタルヘルスに問題を抱えていて最悪なのは、自分はまともに振る舞っているつもりでも他人はそれを理解してくれないことだ」など)。

アーサーが何を考えているにせよ、わたしたちは彼について多くを知ることができない。彼が自分の生きている世界について何を考えているにせよ、その内容が明かされることはないのだ。彼のノートは実質や目標を欠いたマニフェストである。

彼の努力の大半は思索的なものであり、唯一実態があるものといえば、コメディクラブで開催されたオープンマイクナイトで披露した悲惨なステージぐらいだ。それでもコメディアンになりたいというアーサーの夢に付随するかたちで、彼はマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)という深夜のトークショーの司会者に執着心を抱く。

ちなみに『キング・オブ・コメディ』で、デ・ニーロはフラストレーションを抱えた売れないコメディアンのルパート・パプキンを演じている。パプキンもまた架空のトークショーの司会者でジェリー・ルイスが演じるジェリー・ラングフォードに執着していた。この司会者の人選もひとつのリファレンスで、ニューヨークのローカルな低予算トークショーの司会者だったジョー・フランクリンがモデルになっている。

歴史的なリファレンスは徹底しているが……

このように、『ジョーカー』はこの時代のさまざまなディテールの上に構築されている。冒頭のラジオニュースレポートを放送しているのは「1080 WGCR」というラジオ局で、アナウンサーの名前はスタン・L・ブルックスである。これは実在する「1010 WINS」と同局のアナウンサーだったスタン・Z・バーンズのパロディとなっている。

劇中の小道具も具体性を帯びている。押しボタン式の電話や電動タイプライター「IBM Selectric」、斜め窓の市バス、グラフィティだらけの地下鉄車両、ネオンサイン、そして70年代や80年代のファッションなどが特徴的だ。そこにはまばゆいばかりのアナクロニズム(ウェス・アンダーソンの映画や『ジョン・ウィック』シリーズなどに見られる)は提示されないが、ある時期のニューヨークを想起させるように焦点が絞られている。

しかし、これらの点において『ジョーカー』は歴史的なリファレンスを徹底しているものの、最も本質的な歴史的要素についてはあからさまに歪曲し、見て見ぬ振りをしている。『ジョーカー』はつくり話のために歴史をねじ曲げた、コミック版『グリーンブック』なのである。

“なりたがり”の映画

『ジョーカー』の主題の矛盾は、美的な空虚さと不可分である。躁鬱を繰り返すフェニックスは、下着や派手なコスチュームを身にまとい、派手なダンスを披露したり、怒りに駆られて熱狂したり、恐怖に身をゆだねたり、なまりのある言葉で突飛な行動をとったりする。それは精神的に不安定というよりも、意欲なく、あてどなく漂っている感じだ。

そこでフェニックスが見せるものは、役者としてのトリックの数々というよりもパフォーマンスにすぎない。それらはとても素晴らしいものではあるが、空虚な骨組みであるキャラクターを装飾すると同時に、どう見てもターゲットとなる観客を遠ざけることを恐れるあまりに計画的に空虚にされている。

この映画が『タクシードライバー』と『キング・オブ・コメディ』の物まねであることは明らかだろう。デザインや時代設定も、これらを模倣している。しかし、『ジョーカー』がパロディであり真似ごととして無神経にも商業利用した極めて重要なものは、『ブラックパンサー』だ。コミックをベースに入念につくられた世界観とともに、緻密に計算された大胆かつ明らかな政治的ヴィジョンをフレームワークに注入した作品である。

『ジョーカー』は、あらゆるものをすべての視聴者に届ける存在になりたいという、“なりたがり”の映画である。実質性をもたせるという観念だけを模倣していて、実際のところは中身が抜け落ちている。『ジョーカー』を観るという行為は、感覚が麻痺するような稀少な“空虚さ”を体験するということでもあるのだ。

リチャード・ブロディ|RICHARD BRODY
映画批評家。1999年から『ニューヨーカー』に映画のレヴューなどを寄稿。特にフランソワ・トリュフォー、ジャン=リュック・ゴダール、ウェス・アンダーソンに詳しい。著書に『Everything Is Cinema: The Working Life of Jean-Luc Godard』など。

※『WIRED』による映画レヴュー記事はこちら

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