プロレスラーのヒロ斎藤(58)がデビュー40周年を迎えた。
ヒロは、新日本プロレスに入門し1978年8月26日の魁勝司戦でデビュー。85年にはカルガリー・ハリケーンズを結成し全日本プロレスへ参戦。87年には新日本へ復帰。95年からは蝶野正洋が率いる狼群団、nWoジャパン、T2000に加入し黒の総帥をサポートしてきた。2006年に新日本離脱し以後、藤波辰爾(65)が主宰した無我ワールド、現在のドラディションに至るまで藤波と行動を共にしている。
ドラディションは、ヒロの40周年を記念し「RAGING OUTLAW TOUR~HIRO SAITO40th ANNIVERSARY」と題し、25日の後楽園ホール大会に続き、きょう27日の大阪・南港ATCホールCホール大会で記念興行を開催。大阪では、越中詩郎(60)、獣神サンダー・ライガーと組んで藤波、藤原喜明(70)、Xと対戦する。
「WEB報知」では、このほど、ヒロを独占インタビューし「ヒロ斎藤40周年ストーリー」と題し、名脇役に徹したプロレス人生を連載。デビューから現在に至るまでの様々な秘話に迫ります。最終回は「たったひとつの後悔…永遠のアントニオ猪木」。
ヒロは、58歳の今も現役を続けられた理由をこう明かした。
「プロレスが好きだからじゃないですか。それと、プロレスラーになって、新日本を出たり入ったりしたんですけど、やっぱり新日本が好きだったんですね。中学を卒業して高校に進まないでプロレスラーになりたくて、何回もテストを受けて挑戦して入れてもらえたっていう思いがずっと自分の中にあるんです。あの時のプロレスが好きで好きでたまらない思いは、絶対に消えないんです」
今もリングに上がり続ける魂の根底には、あの16歳で何度も入門を挑戦した消えない情熱があった。だからこそ、41年のプロレス人生を振り返った時、たったひとつの後悔がある。それは、今年4月26日、「ドラディション」の後楽園ホール大会で心の底から感じたことだった。この日の興行は、特別ゲストにアントニオ猪木が登場した。猪木は、藤波とリング上で対談、最後は坂口征二もリングに上がり、昭和の新日本プロレス黄金時代を築いた3人が並び立つ奇跡の遭遇が実現した。ヒロは試合前に猪木と対面した。
「あの時、試合前に本当に久しぶりに猪木さんにお会いして、挨拶させていただいたんです。その時ですね…猪木さんの顔を見た時にパッと自分の中で中学の時に初めて猪木さんの試合を見た時の自分に戻ったんですね。それで、心の中で自分自身に“何でこんなに憧れて、あれほど苦労してやっと入った新日本なのに、付け人まで務めて一緒にトレーニングもさせて頂いた人の所を出て、ある意味、裏切って、何でオレは新日本を辞めたのか。何でこんな凄い人がいた、いい会社を何で辞めたのか”って思ったんですね。今、振り返ってもなんであの時に辞めた理由が分からないんです。ですから、そこは後悔しかないんです。レスラー人生の中で唯一の後悔です」
1985年8月。ヒロは新日本プロレスを退団した。カルガリー・ハリケーンズを結成し翌年から全日本プロレスとジャパンプロレスに参戦した。しかし、今もあの時の判断を悔やんでいる。それは、憧れ続けた猪木を「裏切った」という思いが自分の中で傷跡となっている。猪木と久しぶりに対面した時、その傷が一気に疼いた。再び4月の後楽園での再会時の心境を明かした。
「猪木さんに挨拶した時、自分はファンのような感じで“ワァ!猪木さんだ”ってなってしまったんです。その時に本当に自分が情けなくなりました。“なんでこの人の下を辞めたのか。死にものぐるいで入ってお世話させてもらってこんな好きなところをくだらないことで辞めたのか”って本当に思いました。あの時の自分は、バカだったんですね。あんなに苦労して入ったのに…実は、あれからずっと今もそのことばっかり思っています」
デビューして間もない時、ヒロは猪木の付け人を務めた。当時の思い出を振り返った。
「自分は、猪木さんに付かせて頂いて、嫌だなって思ったことは一度もありません。ファンの時に憧れた方ですけど、入った後も猪木さんに対して失望したことも一度もないです。それは今もずっと変わりません。自分の中での猪木さんは、中学の時に初めて見た時とまったく同じそのままなんです」
付け人時代は、朝から晩まで猪木の側を離れなかった。
「猪木さんは、毎朝、走るんですね。“オイ、一緒に行くぞ”って言われて走って、道場では1対1で教えてもらったりしました。自分は体が小さいので、相手はみんな自分よりデカイ選手ばかりなので、猪木さんから、懐に潜り込んで投げれば投げられるぞって教えて頂いて、実際にその通りにやってみるとできるんですね。そうしたら猪木さんが、できるだろって言っていただいて技を学びました。夜中はマッサージをするんです。自宅にも呼ばれたこともあります。2時間ぐらいマッサージやって、あの時は“なんでこんなことやっているのかなぁ”と思ったこともありますけど、今思うと本当に貴重な時間だったんだなぁって思うんですね」
猪木の自宅では当時の妻で女優の倍賞美津子のマッサージも行った。
。 「美津子さんは、すごくいい人で当たり前ですけど、すごくきれいな方で、お二人はすごく仲が良かったですね」
自宅に行くと猪木は帰りにタクシー代として5万円を渡したという。
「先輩方から聞いた話だと、猪木さんは、昔から付いている人には、お小遣いをあげなかったと言っていました。だけど、自分だけはもらってました。タクシー代として直接、もらった時もありますし、例えば控室なんかで自分は付け人なので、猪木さんのバッグの側に自分のバックがあって、そこに自分の財布が入っているんです。そうすると、自分が控室を離れて仕事をしている時に、猪木さんが自分の財布を見つけて中にお金がないと5万円とかを入れてくれていたんです。自分は、猪木さんから頂いたお金だと思ってありがたくて使わないで大事にしていると、猪木さんが自分の財布にお金が残っているのを見ると“オイ、いらないのか?いらないなら返せ”って言って頂きました。それは遠慮しないで使えっていう意味なんですね。そういう思い出が猪木さんとは、いっぱいあるんです。だから、本当にあの時に辞めたことがプロレスラーとして最大で唯一の後悔なんです」
猪木は1998年4月4日、東京ドームで引退した。
「引退は、ものすごいショックだでした。猪木さんが辞めたら、次に誰がいるのって感じでした。泣きはしませんけど、ただただショッックでした」
入門して間もなく小柄な自分はスターになれないことを悟った。だからこそ、人一倍、リングで生き残る道を必死で探し追求した。教科書は「アントニオ猪木」だった。猪木のやられてもやられても闘志を発散する姿勢を学び「ヒロ斎藤」は、自分だけの場所をプロレス界に築いた。ヒロが明かした「唯一の後悔」とは、今もなお消えない猪木への「憧憬」。ヒロにとって猪木は永遠のスターだった。
「今もリングに上がる時は、少しでも猪木さんみたいに近づきたいって思いがあります。自分の中では中学の時の気持ちがやっぱり残っているんです」
あの川崎市体育館で初めて見た猪木。あれから40年以上経た今も思いは変わらない。無垢なほどの初心。「猪木になろうと走ったプロレス人生」。それがヒロ斎藤の真実だった。(終。敬称略。取材・構成 福留 崇広)