みちのくプロレスの創始者、ザ・グレート・サスケが26日、東京・巣鴨のプロレスショップ「闘道館」で元週刊プロレス編集長のターザン山本!氏(73)と「ザ・グレート・サスケという生き方」と題したトークイベントを行った。
山本氏からアントニオ猪木氏(76)について聞かれたサスケは「私は、大大大好きです。全部が好きです」と明かした。その上で「我々の世代には、猪木派、馬場派と分かれていましたが、私はバリバリの猪木派でした」と続けた。山本氏から「みちのくプロレスで馬場派は誰か?」を聞かれると「馬場派の筆頭が(新崎)人生社長です。だからバランスが取れているんでしょうね。みちのくプロレスがおかげさまで長生きさせてもらっている大きな理由がそこかもしれません」明かしていた。
さらに、山本氏から、1993年にみちのくプロレスを設立後に「ひいきにしていたレスラーはいた?」と聞かれ「4代目タイガーマスクとは、なぜかウマがあったんでひいきにしていました。プライベートを遊んだりして仲良かった。それで面白くないと思う選手が出てくるんです」と明かした。
続けて99年1月に方向性の違いからスペル・デルフィンらが大量離脱したことに触れ「あの退団会見でデルフィン以外に並んでいた選手は(タイガーマスクに)嫉妬していた連中ですよ。しょうがないですんですよ。ウマが合うだから。だからといってタイガーマスクだけ報酬をアップするとか、不正な評価はしていませんよ」と振り返った。
この発言に山本氏は、自らの編集長時代を引き合いにし「下の者は上の者に評価されたい願望が強い。だからオレが週プロの時、誰も評価しなかった。好き勝手にやっていいよと突き放していた。ただ、上の者は、下の者をひいきする権利がないとやってられない。プレッシャーがすごくて」と明かした。
サスケは再びデルフィンら離脱事件に話を戻し「この時に頭をよぎったのが猪木さんの“これで大掃除ができた”っていう名言でした。それを思い出して、自分もこれを大掃除と捉えようと思い直したんですね」と猪木に感謝したが山本氏は「猪木さんの言葉は、どん底になった時に都合のいい言葉がいっぱいある。あれは、追い詰められた時に出た言葉なんです」と指摘したがサスケは「言葉のチョイスが素晴らしい。詩人のようです」と感嘆していた。
イベントでは、サスケが初めて「週プロ」の表紙になった1993年12月7日号が披露された。当時を振り返ったサスケは「コンビニで表紙を見て、まさか自分がってどっきりカメラかと思いました」と感激したことを明かした一方で「初めて表紙になって“なんだ!これは!”と怒った人がいた。天龍さん」と苦笑いした。この時、サスケを表紙にした理由を山本氏は「メジャー団体がぬるま湯だったから、インディーを取り上げるしかなかった。それで辺境にある者を応援しようと思った。そういう意味でみちのくプロレスは最高だった。サスケさんを表紙にすると、メジャーが怒るんです。そうすると本気になるんです。そこが狙いだった。ワザとやったんです」と告白した。
さらに、サスケはみちのくプロレスが初めて東京進出した1994年4月29日の大田区体育館大会について振り返った。この興行は、週刊プロレスを発行するベースボールマガジン社の主催興行だった。「今でも心に残っているのが当時の大田区体育館の控室は地下室でメインでリング上がるまでお客さんがどれぐらい入っているのか、見えなかったんです。半分ぐらい入っていればいいなぁって思って、入場で出たら超満員ですごいびっくりして…。東北だけでひっそりやってきて…と思ったら自然と涙が出てきました。プロレスをやって涙が出たのはあの1回きりです」と感慨にふけったが、山本氏は、あの興行の成功が自らの編集長辞任、ベーマガ退社、私生活での離婚につながったと明かし「あれが悲劇の始まりですよ。ターザン山本の没落は、あの大田区体育館ですよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」と絶叫していた。