kurukuru89’s blog

主に原始キリスト教、哲学、心理、日本人について、気の赴くままに語ります。知識ではなく新しい視点、考え方を提供したいと思っています。内容は逆説的、独断的な、投影や空想も交えた極論ですが、日本人覚醒への願いを込めたエールです。(ここで言う日本及び日本人とはあたかもそれらを代表するが如く装うが、理性が未発達な為、感情的に動き、浅薄な信条に左右され社会に仇なしてしまう集団や人々を主に指しています。これらを通して人間に共通する問題を探り散文的に表していきます)

「日本」という言葉に酔いしれる人々

「ニッポン」という言葉は単なる国の称号ではありません。外国語には到底翻訳出来そうにない、独特なイメージの複合体を繋ぎ止めている、日本人にとって大切な記号なのです。

 

日本は田舎者や百姓の集まりのようなものですが、そうした国に住む無力な個人でも、「日本」を笠に着ると途端に無限の価値を自身が帯びたように感じます。根拠は不明で、「理屈じゃない、とにかく俺たちは偉いんだ」となります。

西洋人にしたって、優れた奴も居るが反対に駄目な奴も多く、総じて見れば日本人より劣ると考えています。「アメリカには○人とかプエルトリコとかメキシカンとかがいて、(IQの)平均は低い」となるのです。アジアの隣国となるともはや、個人としても国としても下劣で、人よりも犬に近いようなものと認識されています。しかしそうは言っても隣の国が気になって仕方がなく、些細な事でも報道を執拗に繰り返します。「あんな国に比べたら我々の国は余程ましだ」と思いたいのです。外国人の日本に対する印象が本当は、サムライ、ニンジャ、女子高生、JAV、Hentaiであっても、彼らは高いセルフイメージにご満悦です。 

 

日本人を、例えば自然言語からその価値を換算し、数字を弾き出す関数と考えてみます。日本に関連したような言葉を投げ込むと、その価値は無限大に発散します。今度はアジアの隣国に関する言葉を入力してみるとゼロに限り無く近い値が返って来るのです。何とも大雑把な関数ではありますが、日本では全ての物事に上下関係が明確に定まっていないと社会システムが安定しませんので、個人も社会も、こういった価値判断をするのです。

 

日本人は「we japanese~」とか「普通の日本人ですが~」とか「私は~だと思います」とか、小学生の作文のように、いちいち構えないと何も言えない人々です。そうして虚飾に覆われた言葉を発し、それを真に受けた外人によって誉められているうちは良いのですが、いざ外国人から批判的な事を言われると、病的に気になり「悪口を言われた」と皆で大騒ぎをします。何時もは、外国籍の人やハーフの人を外人扱いするのに、都合の良い時だけ日本人扱いをして、日本のイメージを高めるのに利用してやろうとも考えます。

 

昨今は「移民」も増えてきました。外国人労働者は、嫌悪と侮蔑の対象であり、低賃金で重労働を肩代わりしてくれる都合の良い道具であり、準犯罪者として当局が厳しく取り締まる対象です。わざわざ面倒を見てやっているのに、彼らは度々脱走したり自殺したりします。さらにあろうことか、涙を流しながら窮状を訴える彼らの姿が外国で報道されてしまう事があります。あれだけ親切な事をしてやったのに、何たる仕打ち! なんと可哀想な私達なのでしょうか! 日本のイメージをぶち壊そうとする悪辣な陰謀です。

 

日本人は表面のイメージだけを綺麗に糊塗して満足します。外見しか気にしていないのに「性格や中身が大事」とか言ってしまう人々です。

日本人が良く使う言葉で「一言でいいから謝って欲しい」というのがあります。実際のところ「御免」で済むはずがありません。しかし本人はそう信じ込んでいるのが日本人の困ったところなのです。「私はたったこれだけしか望んでいない」という謙虚さを示すポーズを無意識のうちにとっているのです。

災害時には、避難経路や避難場所も確保できていないのに避難警報を出して人々を急かしながら、最後は「自分の命を守って!」と放り出してしまいます。策が無いのなら初めからそう言えば良いものを、気遣っているような振りをしているからたちが悪いのです。

 

表面上は、美しい国に住む素晴らしい人々となっていますが、実際の中身はドロドロです。人々は隣人とにこやかに付き合う一方で、陰で悪口を言い憎み合っています。大方の日本人は職場で一人の時間を楽しんでいます。日本人はごく親しい仲間や家族を除いて、お互いにうんざりしているのかもしれません。

良い学校に通って良い就職先を見つけ、貯金を貯めて家を買い、退職金と年金を満額もらって良い老人ホームで余生を過ごす、収入の違いはありますが、これが日本では最も安全で無難な人生です。しかしちょっとでも気を抜くと転落してしまいます。

世間で優秀と看做されている職種の人々は「保身」で動いています。彼らはリスクが見えているからこそ慎重です。気付かれないように上手く周りを利用し、敵に罠を仕掛け偽装工作をし、自分に有利な証拠を残して、賢しく立ち回るのです。 

 

しかし人々は、ネガティブな現実に囲まれたままで生きていく事は出来ません。どうしてもポジティブなイメージを心に抱いていないと精神のバランスを崩してしまいます。そうした日本人の希望や期待を一身に背負っている言葉が「日本」なのです。

彼らは「ニッポン」という美酒に酔いしれ、恥ずべき過去や深刻な未来、現在を忘れて、日々の生活へと戻っていくのです。

 
「外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。」
夏目漱石現代日本の開化」

 

「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」

夏目漱石我輩は猫である

ハーヴェスト・ムーン(Neil Young - Harvest Moon)

ニール・ヤングのハーヴェスト・ムーンです。キーはニ長調で、ギターの調弦もドロップDチューニング(6弦をEからDへ)を使っています。シンプルですが、ギターがもっとも良く響くようなコードを選んで作られており、ゆったりとしたリズムも相まって心地よい感じを与える曲です。


Neil Young - Harvest Moon

衆愚と化した日本人

日本人には迷信深いところがあります。暗示に弱く、怪しげな話に直ぐに飛びついて、それが日々の行動を支配していたりします。もともとあった、そういった傾向が、統制のとれたメディアやネットによって、衆愚的な動きがさらに加速されています。野蛮な群衆と化した人々は、為政者にとって都合の良い道具である一方で、他国にとっては危険極まりないものとなります。


以前、TVで「おなら」の特集をやっていました。オナラ漏れに苦しんでいる人に対して専門家が「ご飯を食べれば、一緒に排泄されます、しかも、ご飯は無臭です」と言うのです。「パンが無ければお菓子を食べればいいじゃない 」ならぬ「オナラが出るならウンチをすればいいじゃない」みたいな話です。一つ一つは事実として正しくても、全体になると、とんでもないアドバイスになってしまう事がありますが人々は、「偉い先生が言っているのだから」と信じ込んでしまいます。


ネットでは、雲の形や数字の羅列などに凶事の兆しを読み取り、不安を煽る記事が溢れています。天井のシミが人の顔に見えてしまうようなパレイドリア(pareidolia)は普通の人にも見られる現象ですが、こういった人々はそれに意味付けをして複雑なストーリーを作り上げるのです。妄想気分もあって、単なる偶然の一致が重要な意味を暗示するものとして解釈されます。

何かのシンボルや数字の組み合わせを繰り返し見せると、群衆は勝手に陰謀論に飛び付いて、畏れおののいてくれます。それを煽るようなブログが、さらにその動きを強化します。
バランスの欠けた人は秘密が大好きです。「秘密を持った」という意識の一方で、それを他人に喋らずにはいられません。「秘密の組織が世界を破壊しようと企んでいる、私だけがその秘密を知っている、それを公開するが、秘密を知ってしまった私は命を狙われている」と書き込んで、奇妙な謎解きに夢中になっています。個々の文自体は意味を成していますが、全体になると意味不明だったりします。しかし多くの人達は、このような記事を読んで、「そうか、そういう事だったのか! 頭のモヤモヤが晴れてスッキリした」と感謝するのです。


人は潜在的に持っている不安や恐怖、畏れを、特定の対象に結び付けようとします。例えば好んでホラー映画を見たり、超自然に興味を示したり、台風や地震を神々の怒りと解釈したり、特定の民族を「陰謀を企んでいる」と迫害したりするような傾向です。

「怖いけれど正体を知りたい」とばかりに、こういった情報を得ることによって、少し安心するのです。良く作られたストーリーは、日常に潜む漠然とした不安を上手く説明してくれるように思うのです。多くの人々は、分からないもの、不明なものを、そのまま事実として頭の中に留め置くことができず、その曖昧さ、不安に耐えられないのです。
科学を容易に信じない一方で、流言や風説の類いは簡単に信じてしまいます。YouTube の優れたレコメンド機能によって「日本スゴイ」という動画が沢山出て来ると、「世界は日本を称賛している」とつい思い込んでしまいます。

インターネットは自ら情報を選択しているような幻想を与えますが、実際には、真偽の明らかでない非常に偏った情報によって洗脳されてしまうのです。しかし多くの人は、「みんながそう言っている」と、ますます自分の考えに自信を持ってしまいます。


こういった人々は自分の無意識にある真の動機に気付くこともなく、極めて浅い思考で刷り込まれた言葉を反復しています。教育は受けていても、理性ではなく感情により、一方の極から、もう一方の極へと激しく揺れ動く人々です。

数千年に渡る文明の果実を凝縮した形で享受しているはずだった、我々の受けてきた教育とは一体何だったのでしょうか?

 

大昔の人々は、周りにある自然や、収穫、祭り、結婚や葬式などがそれぞれ大きな意味を持ち、現在の人々よりも、ある意味ドラマチックな人生を実感していました。現代では情報量こそ増えたものの、その個々の価値は低減し、具体的な体験は減っています。理想は消滅し、具体的で、手っ取り早い富や栄光を人々は求めます。文明の発達とは逆に、人間としては野蛮な人々が増えてしまったのです。しかし彼らは生来の愚鈍さと傲慢さから、決してそれに気付くことがないのです。

無感動な日本人の行く先にあるもの

日本人を特徴付けるもののひとつに無感動があります。現実から一歩引いたところで物事を眺め無感動であることを良しとする傾向です。

人々は、甲子園のような限られた場所でだけ、ぴょんぴょん飛び跳ねて喜んだり笑ったり泣いたりすることが集団単位で許されます。個人が感極まって感情を露にすると、冷笑されたり、非難がましい目で見られたり、「こいつは頭がおかしいのではないか?」と思われたりします。


日本では、死ぬ時でさえ泰然自若としていることが立派であるとされます。周りもその人の死を平然として見守ります。以下は森鴎外の「阿部一族」からです。
"自分の発意で殉死しなくてはならぬという心持ちのかたわら、人が自分を殉死するはずのものだと思っているに違いないから、自分は殉死を余儀なくせられていると、人にすがって死の方向へ進んでいくような心持ちが、ほとんど同じ強さに存在していた。反面から言うと、もし自分が殉死せずにいたら、恐ろしい屈辱を受けるに違いないと心配していたのである。" "弥一右衛門は子供らの面前で切腹して、自分で首筋を左から右へ刺し貫いて死んだ。父の心を測りかねていた五人の子供らは、このとき悲しくはあったが、それと同時にこれまでの不安心な境界を一歩離れて、重荷の一つをおろしたように感じた。"


日本は上下関係の厳しい、いわゆる「タテ社会」です。目上の者に対しては「私はあなたの奴隷です」とばかりに屈服しなければなりません。逆に目下ならば、どんな傲慢な事をしても許されます。中身は関係ありません。地位が大事なのです。社長や部長も能力があるというより、それらしく振る舞うのが上手い人達です。「お笑い」は日本の社会の縮図です。強いものが弱いものを苛めたり叩いたり飛び蹴りを食らわしたりします。日本人はここからモラルを学びます。人々は現実の世界でも、自分より弱い者を探しだして、嘲笑ったり攻撃を仕掛ける機会を狙っています。

 

日本のようにひとつの階層によって全てが決まってしまう社会では、上下を争う闘いの中で負け、打ちのめされる機会も多くなります。勝利者は、その階層では一人しか許されないのです。打ちのめされるのが嫌なら、無感動になるしかありません。序列が激しい社会では、無感動や諦めは必須の鎧であり、武器でもあります。そもそも初めから期待しなければ喪失感を味わう事もありません。

かくして期待もせず喜びもせず悲しむ事も無いような、無情を常とするような人間が出来上がります。感情を表さずに淡々と生き、淡々と相手を攻撃し打ちのめし、淡々と死ぬような人間が理想なのです。普段は何事にも冷笑する一方で、身を守る事には汲々として、決して手を抜かない人達です。アドバイスを装いながらも相手を地獄に突き落とそうと試みる人々です。真善美のような目に見えない普遍的価値の為に一生懸命努力する事は、幼い子供がやる様な恥ずかしい事とされ、いかに最小の力で、他人より上に立てるかという現実的な施策が重要とされます。

 

日常はそうであっても、しかし、非日常では抑え込まれていた欲望が爆発してしまいます。普段は冷静に振る舞っていても、酒が入ったり性的なサービスを享受する場では途端にだらしが無くなるのです。

またこういった社会では、人々の視野が極端に狭いのも特徴です。自分が住む狭い範囲の上下関係だけ見ていれば、自分は王様のままで居られます。その球体の中に収まって居れば傷つくこともありません。そのために彼らの現実に対する認識は著しく歪んでしまうのです。「世界が絶賛」「世界で人気」「世界が驚く」「世界が注目」という言葉につい酔いしれてしまいます。

意味するものと、意味されるものとの解離が進み、彼らは記号を表面的に操作するだけで満足してしまいます。真の共感は無く、「おもてなし」「思いやり」「寄り添う」等の言葉だけが、空しく辺りを漂っています。人の気持ちに全く思い至らないので、「コスト削減」という言葉の下に、人をモノのように使い捨てにしたりします。改革を叫ぶ声に対しては「理想だけ言われてもねえ・・・」とうそぶき、権威に寄り添うことに余念がありません。


こういった社会において、現実を見つめる繊細な人々は、負けてしまうとアルコールに溺れたり自殺したり、あるいは、ひたすら何か弱い者を攻撃し続けるようになります。

一方で多くの人々は、表面上、絶対的な上下関係を平静な様子で遵守しながらも、彼らの中で行き場を失ったどす黒い欲望や悪意、嫉妬が、裏でうごめいて発散する機会を伺っています。その欲望や悪意を上手くコントロールする人が現れれば、簡単に集団を爆発的な行動へと駆ることができるのです。

カネに振り回され短期的な見方しかできなくなった日本人

「健康で文化的な最低限度の生活」を営むのに、この国では一体いくら必要になるでしょうか?
 
人々は生活費に加えて、高い税金を払っています。ひねくれた見方をすれば、人々は生まれきたことへの代償として、数千万円以上のカネを死ぬまで払い続ける定めにあるとも言えます。所得税都道府県民税と市町村民税、健康保険税、固定資産税、国民年金保険、雇用保険、二重三重に課税される消費税などです。貨幣価値を考えれば、かってない程の重税を現代の庶民は背負わされているとも言えるかもしれません。
息をするだけでは生きていけませんから、さらに、家賃や食費、移動費、受信料、ガス代、水道料金、電気代、通信費がかかります。クルマを取得すれば自動車取得税自動車税自動車重量税自動車保険、ガソリン代、修理費用が必要です。死によってのみ、人々はやっとこの負債から逃れることができます。
 
「生きてるだけで丸儲け」というポジティブな見方もできます。しかし人生の終盤でも果たしてそんな事を言って居られるのでしょうか。「人生とはこんなものだったのか」という思いで死んでいく人達も大勢居るのです。背負っていくもの以上に、人生が楽しいものだと感じられれば、その生は、その人にとって意味あるものとなるでしょう。
 
この国の人々は自分の生活だけでなく、他人の事を異常に気にします。彼らは社会保証を得ようと試みる人々を罵倒したり、白い目で見たり、執拗な嫌がらせをしたりします。それでは、そういった人々が慎ましく弱者らしくしていれば援助をするのかと思いきや、何もしないのです。口先だけで「大変だねえ・・・」などと言いますがそれだけです。弱者のクセに都合よくカネを貰う奴がいると聞けば彼らは全力でこれを妨害しようとします。
 
こういった人達にとって、「日本スゴイ!、俺もすごい!」というマスターベーションは必要なのかもしれません。確かに躁的防衛も必要です。気持ちは分かります。しかし彼らはどうしても他人が気になります。「日本が嫌いなら出ていけ!」「在日や外人は出ていけ!」「学校が嫌なら辞めればいい」「親の言う事が聞けないなら家を出ていけ!」と彼らは言います。頭の足りない人達の言う事は、いつも判で押したように同じです。
ちょっとでも何かを指摘すると日本が嫌いな人になってしまうのでしょうか? 否です。仮に日本を嫌いだとしても直ちに日本を出ていかなければならないのでしょうか? 断じて否です。
それでは日本を良くしようとしている人々の口を封じようとする彼らは日本を愛していると言えるでしょうか? 「日本大好き!」と自称するが、その実、自分とは異なる他の人々を差別し、暴言や実力行使によってシステムを破壊しようと試みる人達が、そうでは無い人々を追い出す権利があるでしょうか?
 
頭が足りないだけでなく頑固でもあるという者は、どうしようもありません。ほおっておけば自然に治るとか、叩いてみれば良くなるというものではないのです。悪くなるばかりです。視野が狭く、短期的なものの見方しかできず、古い価値体系に固執し、それを守るために妄想を作り出してそれに酔い、傲慢で人の言う事を聞き入れない攻撃的な人々です。彼らは理非善悪を弁識できるかどうかも疑わしい人達です。幸いにしてSNSの発達により、こういった者達を容易に判別できるようになりました。
 
人々が生活するにあたっては、自分の中に感じられる可能性が希望を生みます。そして希望が活力を生み出します。人の幸せは、常に変動していく環境の中で如何に自分の身の回りに幾つもの安定したシステムを構築するかにかかっています。相互作用によって、カネや愛情が安定して巡り廻り、その中で、人々が自分の技を用いて、自分のやりたい事ができ、その事に意味を見出せるような環境です。このシステムが脅威にさらされたり壊れたりした時に、人は不安を感じます。
 
何か既存のシステムに便乗するのが一番楽なやり方ですが、それだけでは社会は停滞してしまいます。既存の枠組みの中で新しいシステムに挑戦できるような仕組みも必要です。人は水と同じで何かに向かって常に動いていないと淀んでしまいます。
 
人間は、物事の背後に、構造や仕組みやメカニズムを見出だして、それを利用する能力を持っています。しかし日本人は、こういった能力が弱いのかもしれません。目先の短期的な利益に振り回されずに、多様性を許容し、その中から絶えず新しいシステムを作りあげていく人々が、これからの世界でも生き残っていくのです。
 
"損をするという事が彼には何よりも恐ろしかった。そうして目に見えない損はいくらしても解らなかった。"  "彼はこうした不安を何度となく繰り返しながら、昔しから今日まで同じ職務に従事して、動きもしなければ発展もしなかった。~あたかも変化を許さない器械のようなもので、次第に消耗して行くより外には何の事実も認められなかった。~「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」 こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。"
夏目漱石 「道草」