スゴ母列伝
良い母は天国に行ける、ワルい母はどこへでも行ける
堀越 英美

第7回アストリッド・リンドグレーン
『長くつ下のピッピ』は遊び大好き母から生まれた

国連で怒りのスピーチをぶちかました16歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリさんを見て、『長くつ下のピッピ』を思い出したという人は多い。学校に通わず、権威に屈せず、自分が正しいと信じることのために大人たちと渡り合うパワフルな三つ編みの女の子ピッピは、児童文学から生まれたスウェーデンの国民的ヒロインである。少女のひとりストライキに国民が賛同して一大ムーブメントになるぐらい女子供の声が重んじられているのは、いかにもピッピの国らしい。

一方日本は、「もし手前どもの娘なら大人に向かって口のきき方もわからないのか、と張り倒す」とグレタさんに暴力ふるう気満々の男性文化人のツイートが何千もリツイートされるくらい、「女子供はすっこんでろ」という風潮が根強い国である。ついついスウェーデンがうらやましいと感じてしまう。もっともスウェーデンだって、昔から女子供が尊重されていたわけではない。ピッピの生みの親である作家アストリッド・リンドグレーンも、まともな性教育がなかった20世紀前半に10代で未婚の母となり、苦労した女性だった。けれども物語の持つ力を駆使してスウェーデンを「女子供の声を無視するとヤバいぞ」という国にしたのも、彼女なのである。

遊びすぎて遊び死にするレベル

アストリッド・リンドグレーンは1907年、スウェーデン・スモーランド州でネース農場を営む両親のもと、4人きょうだいの長女として生まれた。アストリッドは6歳からカブの間引きやニワトリの餌の用意を担当し、忙しい両親の仕事を手伝った。仕事や道徳に関して厳しい一方、母は生活の細々したことには文句を言わなかった。食事の時間に子供たちが遅れても、食料部屋で勝手に食べればよいというスタンス。遊んで服をやぶこうが、泥んこで汚れようが、台所のテーブルに登った幼児が生地をひっくり返してどろどろになろうが、わざとではない失敗なら一切怒らない。

母は遊びに関しても放任だった。忙しくて子供をかまっている暇がなかったといったほうが正確かもしれない。4人の子供たちは木に登り、高い屋根の上をバランスを取りながら歩いた。深い川に潜り、干し草の中に秘密のほら穴を掘り、羊小屋の干し草置き場でサーカスごっこをした。

広い家の中も、子供たちの遊び場になった。家中で追いかけっこをしておなかに指をさす<こんなおなか>ゲームに、床に足をつけずに家具をつたって部屋の中を渡り歩くという<ゆかにおりません>ゲーム。どれも親にとっては大迷惑だったかもしれないが、それでも怒られなかったという。アストリッドはのちに、"遊び死に"しなかったのが不思議なくらいだと語っている。

幸福な子供時代の背景には、ラブラブな父母の姿があった。13 歳でクラスの優等生に一目惚れしてから母一筋だった父は、当時の農夫としてはめずらしく妻への愛情表現が豊かな人物だった。

「わたしたち4人の子どもは、日常的に、父親が何かの折に母親を愛撫するのを見るのに慣れていました」(『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』)

妻と子供たちを溺愛する父と、勤勉の美徳を守りさえすれば遊びにはいちいち口を出さない母のもと、4人の子供たちは自由奔放に育った。

「子供時代の終わり」のはじまり

遊びに遊んだアストリッドは13歳の夏、自分の子供時代が終わったことを突然悟る。自分は世界で一番醜い女の子で、一生誰からも恋されることはないだろうと思い込んだ。まわりの女の子たちが恋バナをしていても、「どうしても恋をしなければならないのだとしたら『三銃士』のなかの誰かにするわ」と、二次元の話で煙に巻いた。安らげる世界は本の中だけだった。

孤独な文学少女はハイティーンにさしかかるとジャズに目覚め、夜のダンスパーティに通うようになった。中でもアストリッドに強い影響を与えたのは、フランスのベストセラー小説『ギャルソンヌ』(ヴィクトル・マルグリット)だった。ヒロインのモニカはブルジョア階級でありながらコルセットとドレスを拒否し、男の子のような格好をしてタバコをくゆらせ、飲酒とダンスにふけり、未婚の母となる。女らしさよりも自分らしさを貫くヒロイン像は、母や祖母のようにはなりたくないと考える1920年代の少女たちに国境を超えて熱烈に支持されていた。そのひとりだったアストリッドも、村で初めてのショートカット女子となり、ズボン、ジャケット、ネクタイを着用して男性のようにふるまった。ニーチェ、ディケンズ、ショーペンハウエル、ドストエフスキーなどを読みふけり、会話に引用をちりばめる。評判のよくない女子グループとつるんでは、いたずらをしかけて大人たちのひんしゅくを買うこともあった。一言で言えば「グレた」のである。

のちにアストリッドは、「天国のような子供時代が終わった後の10代の時期はわたしにとってつまらない時代だった」とインタビューに答えている。この時期について、彼女は終生多くを語っていない。これは想像にすぎないが、兄や妹たちと男女の別なく乱暴で危険な遊びを楽しんだアストリッドにとって、「美しくおしとやかにつつましく」という当時の女性に課せられた性別規範は、相当に息苦しかったのではないだろうか。

中年男と文系女子の恋

1924年に中等学校を卒業したアストリッドは、13 歳のときの作文が掲載された縁で、地元の新聞で見習いとして働き始める。子供時代の終わりを惜しむように書かれたその作文は、厳かにネズミの埋葬を執り行うふたりの少女と夕暮れ時の子供たちの姿を綴った詩的な文章で、その文才を覚えていた編集長からスカウトされたのだった。

2年半ほど働いた後、18歳になったアストリッドは新聞社を辞め、大きくなったお腹を抱えて首都ストックホルムに移ることになった。お腹の赤ちゃんは、編集長との子供だった。彼が惚れ込んだのは、アストリッドの文才だけではなかったのである。たとえ相手が妻子のいる49歳の上司であっても、誰にも愛されないと信じていたアストリッドにとっては初めての求愛だった。まるで小説の中のできごとみたいだとときめき、うっかり誘いに乗ってしまう。ピューリタニズムの強い影響下にあったスウェーデンで育ったアストリッドは、避妊について一切知らず、地元の名士でもある上司がまさか自分を悪い立場に追いやることはしまいと安心しきっていたのも災いした。妊娠を知ると編集長は妻を捨てて一緒になりたがったが、アストリッドに結婚する気はなかった。若い女の子と恋愛したがるおじさんにありがちなことだが、編集長はアストリッドにダンスを禁じるなど支配欲が強く、彼女と家族との絆の強さにも嫉妬するほどだったのだ。

当時人工中絶は非合法だったから、結婚話はペンディングのまま、婚約者との子供という体裁で出産せざるをえない。しかし保守的な田舎で不倫の子を産んだらどんなひどい目に遭うことか。何より信心深い母は、前々から私生児を生む若い女性を忌み嫌っていた。アストリッドはひとりで実家を離れるしかなかった。両親を怒りと絶望でショック死させないように。

結婚できない理由はほかにもあった。当時、編集長は泥沼離婚裁判の真っ最中だったのである。妻の財産を奪おうとしていた編集長に応戦するため、妻側は編集長の不貞の証拠を集めているところだった。当初はこっそりストックホルムで子供を産ませ、離婚裁判が終わってからアストリッドと結婚しようともくろんでいた編集長だが、国内で出産するなら父親の名前を出生届に書かなくてはいけない。愛人に子供を産ませたことがバレたら、離婚裁判はとことん不利になるだろう。

そんな勝手な理由で、アストリッドはさらに父母の名前を伏せて出生届を出せるコペンハーゲンに送り込まれた。未婚の妊婦を助ける活動をしていた女性弁護士の援助を受け、コペンハーゲンにたどり着いたアストリッドは、その年の暮れに息子ラーシュ(愛称ラッセ)を出産する。優しい養母として名高い女性に息子を託すことができたのはせめてもの幸いだった。

アストリッドはストックホルムに戻ってタッチタイピングや速記などを学べる学校に通い、事務所秘書として働き始める。同じようにひっそりデンマークで子供を生むしかなかった少女たちの多くはそのまま子供から離れたが、アストリッドは生活費を切り詰めてラッセに会うための旅費を捻出した。金曜日の夜に夜汽車に乗って座りながら寝て、土曜の昼間に養母の家に到着し、24時間激しくラッセと遊んだあと、日曜の晩に汽車に飛び乗って始業時刻に間に合うように職場まで走る。3年間で14回国境を超えてラッセに会いに行っていたアストリッドは、満足に食事もとれず、いつもお腹をすかせていたという。そうまでして子供に会いたがったのは、母性愛だけではなかったのだろう。「子どもが生まれたとき、改めて、私にはまだ楽しんで遊べる力が残っていたのだと思いました」(『遊んで、遊んで、遊びました ~リンドグレーンからの贈りもの』)。伝統的な「女らしさ」に居心地の悪さを感じていたアストリッドは、ラッセと過ごすことで再び子供時代を取り戻すことができたのだ。

「彼女は、そりゃ、他のお母さんとはちがってたよ。子どもの遊ぶのを、砂場のそばのベンチに座って見てるなんてことはなかったよ。自分も遊びたがってたからね」

当時を振り返るラッセの言葉である。ラッセはアストリッドが帰ったあと、疲れすぎてまる1週間寝て過ごしていたそうだ。

離婚裁判を終えた編集長は、1928年春に改めてアストリッドにプロポーズする。アストリッドははっきり拒絶した。恋愛感情はとっくに冷え切っていたし、いくら裕福とはいえ前前妻との子供が7人いる家庭でラッセとの未来を築ける気がしなかった。怒った編集長はラッセの養母への仕送りを半減すると息巻く。もっとも、この怒りは夏には解けた。新しい妻との結婚が決まったのである。つくづくくだらないおっさんだな! と時空を超えて炎上させたくなるが、彼が最後にひとりコペンハーゲンを訪れたときは、座ってラッセを抱きしめながら「君はお母さんに本当にそっくりだ」と涙を流したという。偉いおじさん稼業を長年続けて人との関わり方を間違えていただけで、アストリッドとラッセを思う気持ちは本物だったのだろう。反省の手紙を送ってきた編集長に、アストリッドは優しく返信した。

「許しを請う必要はないのです。うまくいかなかったのは、あなたの非でも私の非でもありません。(・・・・・・)ああ、雪が降っています。すばらしく悲しげに、優しく。あのとき、あなたのベッドの上には絵がかかっていましたね。秋の風景を描いたあの絵です。今の私は、あの絵と同じ気持ちに包まれています」

さようなら、今まで会ったどんな女性たちとも違う、美しい文章を書く永遠のいたずらっ子。ふっきれた編集長は1931年に家族の思い出を書籍として出版し、3番目の妻とさらに4人の子供を作った。あんたもあんたでスゴイね。

ふたたびの子供時代

子供と離れて過ごした3年間は、アストリッドの子供観に大きな影響を与えた。アストリッドのように、性教育を受けられないまま無責任な男に孕(はら)まされてひっそり出産する若い娘は少なくなかった。保育園もない時代、そうした母子が一緒に過ごせることはまずなく、子供たちはたいていひどい環境に置かれていた。孤児院に預けられている娘を訪問するルームメイトについていったアストリッドは、その環境にショックを受ける。友人の娘のために持ち込んだキャンディの袋はたちまち没収され、娘はアストリッドの前でひたすら泣くだけだった。子供たちはなるべく親と同居できる環境にあるべきだと痛感したアストリッドは、自分のしたことをまっすぐ見つめた。私はきっとあの子を傷つけている。

養母が急性心不全で倒れたことをきっかけに、アストリッドは3歳のラッセを引き取ることにした。しかし22歳の新米ママはわからないことばかり。風邪をひかせたくないママに無理やり厚着にさせられたラッセは、暑くて布団を吹っ飛ばして起きてしまう。一晩中ラッセの咳で眠れないまま仕事に行くこともあった。途方にくれるアストリッドに、心強い援軍が現れた。ようやく孫の存在を受け入れた母が、ラッセを農場で預かろうと提案してくれたのだ。

ラッセを連れて実家の農場に帰ったアストリッドは、動物たちを紹介し、子供時代の遊びをすべて伝授した。育児は苦手でも、遊びなら大得意だ。干し草にトンネルを作る方法、石壁の上でバランスを取る方法、草むらに寝っ転がって雲の形を見る方法。雨の日は、家の中で<ゆかにおりません>ゲーム。動物たちがたくさんいて自由に動き回れる農場は、4歳のラッセにとっての楽園となった。不倫騒動が村中に知れ渡っていたせいで、ふたりが散歩するとじろじろ見られたり、ひそひそ声が聞こえてきたりしたが、もはやアストリッドは自信のない少女ではなかった。堂々とふるまい、好奇の視線をシャットアウトした。何より、自分の子供時代と同じ幸福をわが子に与えられたことに対する満足があった。やっぱり子供は自然の中で育てるのが一番よね。そんな確信も、ラッセが不安そうなまなざしで訴えた言葉で打ち砕かれる。「ぼくはずっとここにいるの?」。優しい養母たちとの関係を突然断ち切られたことで、ラッセはまた捨てられるのではないかとおびえていたのである。

教訓物語の欺瞞

正社員になって生活が安定したアストリッドに、新しいロマンスも訪れていた。恋の相手は、勤め先の支配人である9歳年上のステューレ・リンドグレーン。詩を贈ってくれるロマンチックな文学青年だが、またしても既婚上司である。今回も燃え上がったのは上司のほうで、妻子と別居してまでもアストリッドの住む下宿の近くに引っ越してきたのだった。離婚はすぐ成立し、1931年4月にふたりはアストリッドの実家で結婚式を挙げた。

ストックホルムに新居を構えたふたりは、1年半もの間実家の農場にいたラッセを呼び寄せた。ステューレとの結婚生活は穏やかなもので、アストリッドとラッセはようやく腰を落ち着けることができた。今度こそちゃんと育児しよう。そう誓ったアストリッドは、子供をしっかり観察するため、家計簿の裏に息子の面白い言動、質問などを書き留めることにした。初めて幼稚園に登園した日、帰宅して「ひとりになるって素敵だね!」と言ったこと。夢は永久機関の発明または北極点制覇であること。現代なら、面白お母さんツイッタラーとして早めに有名になっていただろう。

1934年には長女のカーリンが生まれる。家計は苦しく、アストリッドは文才を生かして育児の合間に旅行ガイドや地図編集の仕事をし、新聞に短い物語を寄稿しながらも、子供たちとたっぷり遊べる主婦の暮らしを楽しんだ。子供と一緒に木登りしてドレスのお尻を破いてしまったときは、ラッセは真後ろにぴったりくっついてアストリッドのお尻を隠して歩かねばならなかった。どっちが子供だかわからない。ラッセの友達がアパートに遊びに来ると、ラッセとふたりで2つの椅子の間に毛布をかけて座り、優しい微笑みで「真ん中に座りたい?」と持ち掛けた。ベンチだと思い込んで座った少年は、毛布と笑いに包まれることになった。

カーリンは当時のことを「私はとにかく母と一緒にいたかったのを覚えています。母のそばにいればいつもハプニングが起きて、退屈することはありませんでしたから」と振り返る。路面電車に高速ダッシュで飛び乗って靴を落とし、次の駅で降りてケンケンで戻るようなアストリッドの二児の母らしからぬ破天荒さは、他の子供たちの注目の的になった。自分の子供だけでなく他の子供たちとも愉快に遊んで子供時代を完全に取り戻したアストリッドは、のちの創作の源となる遊びの経験値をさらに増やしていく。

アンデルセンにくまのプーさん、自作の物語も含め、物語もたくさん語り聞かせた。カーリン曰く、「母が物語を語るのは、衝動にかられたときだけでした。母が道徳や教訓の観点からお話を思いついていたら、私の頭には入ってこなかったでしょう」。

たまに教訓めいた話をすることもないではなかった。けれどもそんなとき、アストリッドは子供たちに意図を見透かされていると感じた。たとえば、アストリッドが苦手な食べ物をラッセが食べられたとき。「きっとサンタがいい子だって言ってくれるよ」と褒められたラッセはこう返した。「じゃあサンタはママになんて言うの?」。物語で説教しようとするなんて、子供が自分で考える力を見くびっている。子供の言動をしっかり観察して記録し、教訓物語の欺瞞(ぎまん)に気づいたことが、児童文学作家として成功する礎になったことは言うまでもない。

親戚の子供、子供の遊び仲間、公園や通りにいる子供たちと、観察の対象は広がっていく。説教を好まないアストリッドは、多くの大人が子供の言葉に耳を傾けず、叱ったり叩いたりしてばかりいることに胸を痛めた。子供が就学してからは、学校の権威主義と命令尽くしを目の当たりにして、いっそうその思いを強める。1939年12月、日刊紙『ダーゲンス・ニーヘーテル』に10代が書いたという体裁の「若者の反乱」という短い意見記事が掲載される。これは13歳のラッセが中等学校で実際に行ったプレゼンテーション「『子供でいる』という技術」に感銘を受けたアストリッドが、息子の文章に手を加えて同紙に投稿したものだった。

子供でいることは簡単じゃない。最近新聞でこんな文章を見かけて、私は驚いた。だって新聞で正真正銘の真実が読めるなんてそうそうあることじゃないからだ。(・・・・・・)子供であるということは何を意味するのか。それは寝るにも服を着るにも歯を磨くにも鼻をかむにも、自分に合ったやりかたじゃなく、大人に合わせなきゃいけないということ。白いパンの代わりに、ライ麦パンを食べなきゃいけないということ。(・・・・・・)さらには、見た目や健康や衣服や将来といったきわめて個人的なことについて、大人たちが口を出すのを黙って聞かなきゃいけないということ。私はときどき疑問に思う。私たちが大人をそんなふうに扱い始めたら、どうなるのだろう。(・・・・・・)
「若者の反乱」

これは若者の代弁であると同時に、アストリッド自身の魂の叫びでもあっただろう。

「長くつ下のピッピ」の誕生

1941年の冬、ひどいはしかにかかって寝込んでいた7歳のカーリンは、母に物語をねだった。何日もベッドから離れられないほど病状は重く、さすがのアストリッドも話のネタが尽きてしまう。何のお話をしようか、と問うアストリッドに、カーリンは答えた。「長くつ下のピッピっていうのがいい」。長くつ下のピッピ? アストリッドは即興でお話をした。世界一の怪力で、ひとりで自由気ままに暮らしていて、大人に怒られてもへっちゃらな女の子。カーリンはピッピの話が気に入って、何度もお話をせがんだ。遊びに来たカーリンの友達もピッピのお話のとりこになった。ピッピの冒険物語はどんどん広がった。

足を怪我して寝たきりで過ごしていた1944年の春、アストリッドはカーリンの10歳の誕生日プレゼントとして、「長くつ下のピッピ」を本にまとめることを思いつく。

ベッドにいながらにして速記で頭の中のアイデアをまとめ、あっという間にタイプライターで清書をする。未婚の母時代に習得した秘書技術のたまものだった。本を作り終わっても、まだ足は治らない。そうだ、コピーを大手出版社に送ってみよう。同封した手紙で、アストリッドはニーチェの用語を用いてピッピを説明した。曰く、ピッピとは子供の姿をした小さな「超人(Übermensch )」である。バートランド・ラッセル『教育論』では子供の最も顕著な本能的特性は大人になりたいという欲求だとされているが、より正確には「力への意志」なのである、と。

支配も被支配も望まず、ただ自分の思う善のために力を行使するピッピは、確かにニーチェの「超人」そのものである。大人の鼻をあかす強いヒロイン像を求める現代の少女に愛されるのも当然なのだった。今でこそプリキュアシリーズしかり、一瞬で周囲を凍らせるエルサしかり、幼い女の子にも「力への意志」があることはよく知られているが、当時はそうではなかった。ピッピというまったく新しい破天荒な女の子は、克明に記憶された子供時代の価値観をヤサグレ少女期に身に付けた理論で武装し、子供たちの観察でそれを実証するという理知的な営みから生まれたのである。もっとも、当時は破天荒すぎてボツになってしまうのだけど。

出版社からの返事を待っている間、アストリッドにとってショッキングな出来事が起きた。 7月初旬のある晩、夫のステューレからほかに好きな人ができたから離婚してほしいと打ち明けられたのだ。一気に押し寄せる生活不安。子供たちとの遊びの時間を大切にするために主婦業をがんばってきたけれど、男まかせの幸福はなんてはかないんだろう。まだ小さいカーリンを守るためにも、家庭だけではない自分を確立せねば。11月、アストリッドは小さな出版社ラーベン・オク・ショークレンの公募に当選し、真面目で前向きな女の子の物語「ブリット-マリはただいま幸せ」で出版デビューを果たす。

翌年1月にステューレは浮気相手と別れて家に帰ってきたものの、アストリッドの作家人生はもう走り出してしまった。デビュー作のレビューは好意的なものばかりで、中には「大きな子供たちを育てながら事務仕事をしている既婚女性が本を書くとは立派なものです。(・・・・・・)この書き手が家族ではなく私たち読者のため執筆にもっと時間を割いて、この楽しく素晴らしい本のシリーズが続くことを心から願っています」と、兼業主婦アストリッドにはっぱをかけるレビューまであったのである。ここまで言われたらやるしかないっしょ。

勢いを得たアストリッドは、他社でボツになった『長くつ下のピッピ』をラーベン・オク・ショークレン社で審査員を務める女性司書に見せる。図書館で子供むけ劇場を運営している彼女は一目見て気に入り、今年のコンテストにも応募するようにけしかけた。ただし、金賞を取るためにはいくつか修正が必要だと提案した。サーカスに馬糞を持ち込むのと、火事を消すために便器いっぱいの尿を人々にぶちまける描写はやめません?

1945年、司書の尽力もあって『長くつ下のピッピ』は見事金賞に輝き、ようやく日の目をみることになる。喜びをわかちあおうとするアストリッドに、カーリンは淡々と答えた。「お願いだから、あたしをピッピと一緒にしないでちょうだいね」。カーリンもアストリッドが子供時代を喪失した年代に近づいていたのだった。

「大人になりたくなかった」すべての人へ

37歳とデビューは遅咲きだったものの、大人に邪魔されない子供の夢の世界をユーモアたっぷりに描く作風は、子供たちに熱狂的に支持された。『長くつ下のピッピ』の成功で瞬く間に時の人となったアストリッドは、それから2年でピッピの続編2冊、『名探偵カッレくん』『やかまし村の子どもたち』などを出版し、合わせて10万部を売り上げ、4つの文学賞を受賞する。児童文学作家アストリッド・リンドグレーンの名を不動のものとした有名3シリーズは、子供たちが親離れをする時期に一気に誕生している。

勉強嫌いでアストリッドを悩ませた夢想家のラッセは、1947年5月に無事名門高校を卒業する。卒業パーティの夜、アストリッドに「おやすみ」と声をかけられたカーリンは、ベッドの中で激しく泣き出した。「私、絶対に大人になりたくない」。「お母さんに年をとってほしくないの」とさらに泣きじゃくるカーリンの話を、アストリッドは優しく聞き続けた。「お母さんと話していたらそんなに悲しくなくなった。私が大人になるまで生きててね!」。トミーとアンニカが大人になりゆく一方で、さみしげな顔でひとりろうそくの炎を見つめる子供のままのピッピ。このセンチメンタルなピッピ三部作のラストは、我が子との遊びの時間が終わりつつあるアストリッドの「内なる子供」の寂しさが反映されているのだろう。

のちにアストリッドはペンフレンドとの手紙の中で、「少女時代からずっと小さな憂鬱を抱えていました。私が本当に幸せだったのは子供時代だけです。それが私が本を書くのが大好きな理由かもしれません。本の中なら、子供時代の素晴らしい状態を再体験できるから」と書いている。アストリッドは物語の中で、内なる子供を生かし続けることにしたのだ。

出世したステューレは酒におぼれ、ほとんど家に寄り付かなくなった。もう自分を追いかけてくる小さな子供たちも、一緒に読書する優しい夫もいない。1940年代の終わりまでにピッピはスウェーデンだけで約30万部を突破し、雑誌、劇、映画、レコード、広告、グッズなどのメディアミックス展開でその存在を全国に知らしめる。著作は16冊を数え、破産寸前だった弱小出版社を国内有数の出版社に成長させた。1952年に夫が肝硬変で亡くなっても、快進撃は衰えなかった。

カーリンはそのときのことをこう語る。

「私たちの暮らしはさほど変わりませんでした。経済面でもそのままです。母が家計を支えていましたから。母とふたりで同じアパートに住み続けることができました。ただ、母の生活は徐々に変わっていきました。以前より社交的になりましたし、家にいてほしいという父の期待に応えなければならなかったときより楽しんでいました(・・・・・・)もちろん、執筆は以前と変わらずです」

スウェーデン国民のヒロインが幸せな元・子供として言いたかったこと

1960年代に孫たちが生まれておばあさんになると、孫世代がアストリッドの遊び相手になった。兄グンナルの孫娘であるカーリン・アルグテーゲンも、農場でアストリッドと遊んだひとりだ。

「(・・・・・・)アストリッドは、わたしたち子どもと〈魔女遊び〉をしてくれたわ。しかもみんなで、延々と遊んだの。一緒に遊んでいると、あまりおもしろくて、アストリッドが本物の魔女なのか、魔女の役なのかが、もうわからなくて。それほど遊ぶのが上手だった。大人はたいてい、そうじゃないでしょう」

1963年から始まった「エーミル」シリーズは、孫のイヤイヤ期から生まれた作品だ。執筆当時3歳だったカーリンの長男はかんしゃくが激しく、アストリッドもなだめるのに難儀した。困ったアストリッドは、孫以上の大声で適当なことを言うという奇策に出た。

「ロンネベルガのエーミルがやったこと知ってる?」

3歳児は泣くのをやめてきょとんとした。エーミル、誰やねん。もちろんアストリッドだって知らない。これから考えるのだから。凶悪なイヤイヤ期幼児の興味をひくには、相当のいたずらっ子でなければならない。エーミルの造形は兄グンナルの幼児期、ラッセ、ラッセの息子、そしてやんちゃすぎて妹夫婦を絶望の淵に叩き落とした甥がモデルになった。

『長くつ下のピッピ』発表当時はまじめな大人たちから精神異常だの劣悪だのと心ない批判を浴びたアストリッドの作品は、退屈なお行儀と道徳に支配されていた子供たちにとって切実に必要とされるものだった。

彼女の作品をむさぼり読んだ子供たちが大人になる頃には、アストリッドはスウェーデン国民のヒロインになっていた。稼ぎ以上の税金を取られる作家をモチーフに重税政策を童話仕立てで批判した「ポンペリポッサ物語」が1976年に新聞に掲載されたときは、すぐさまスウェーデン議会で取り上げられ、その年の総選挙で44年ぶりに非社会民主党政権が誕生する事態を引き起こしたほどだ。

しかし社会運動家としての一番大きな仕事は、1978年にドイツ書店協会平和賞を授与されたときの受賞スピーチかもしれない。スピーチ原稿を読んだ主催者はもっと当たり障りのない短いものにしてほしいと依頼したが、アストリッドはそれなら欠席すると譲らなかった。二児の母として、いや幸福な元・子供として言いたかったことを世界中に伝えられるチャンスなのだ。

性格は幼年期に決定するというラッセルの教育論の影響を受けたそのスピーチの内容は、軍縮を語るのであれば「家庭内の暴君」、すなわち体罰をふるう親を取り締まることが重要だと訴えるものだった。暴力によって育てられ、暴力以外の解決手段を知らない大人たちが戦争を起こすのだから、まずは家庭から体罰を排除しなくちゃいけない。

もちろん、理屈だけでは多くの親にきれいごとだと受け止められて終わりである。天才作家は、物語の力をここぞとばかりに利用した。


そして今も、子どもを厳しく扱おうとしたり、無理に抑えつけようとしている方々に、ある老女がわたしに話してくれたことをお話ししたいと思います。

“ムチ打ちを怠れば、子どもをだめにする”と、まだ信じられていた時代、彼女はまだ若い母親でした。つまり実際には、このことを信じていなかったのですが、ある時、彼女は、何か悪いことをした幼いわが子にムチ打ちをしなくてはと、生まれて初めて考えたのです。彼女は、自分の息子に、外でシラカバの小枝を探してくるように言いつけました。幼い息子は、長いあいだ探しても見つけられず、泣きながら帰ってくると、『小枝は見つけられなかった。でも、この石を持ってきたから、これでぼくをぶてるよ。』と言ったのです。すると、彼女は、子どもの目を見て突然すべてがわかり、泣きだしてしまいました。息子は、きっと母親が自分を痛い目に会わせたいのだとわかっていたから、石でも小枝でも同じだと思ったのでしょう。

母親は息子を抱きしめ、しばらくふたりで泣きました。それから彼女は、その石を台所の棚の上に置いたのです。その石は、“暴力は絶対にだめ!”という誓いを永遠に忘れないために、ずっとそこに置かれていました。

スピーチ「暴力は絶対にだめ!」より抜粋

なんてけなげな子供! 世界中に大きな衝撃を与えたこのスピーチをきっかけに、スウェーデンで子供への体罰を禁止する法律が世界に先駆けて作られる。物語で子供たちに道徳を仕込むことを常々否定していたアストリッドだったが、大人たちには効果てきめんだったみたいだ。

その後もアストリッドは旺盛に社会運動にコミットし続けた。慈善組織に寄付し続けただけでなく、手紙をくれたクルド人難民の少女、障害のある子ども、病気の少女、その他数えきれないほどの人々に多額の援助をした。中にはアパートを訪れて「彼女と住む部屋を買いたい」とねだってきた見知らぬ若い男にまで金を与えている。人生は短いのだから、生きている限り善いことをしなければならないというのが彼女の信条だった。

1987年には、前年に長男ラッセをがんで亡くした悲しみも冷めやらぬまま、家畜の権利保護について首相に公開書簡を渡している。国民の心を動かす天才の心情を損ねたら、またしても下野するはめになりかねない。「ポンペリポッサ」の悪夢を繰り返したくない社会民主党は、手紙を年次大会で公開しただけでなく、首相自らアストリッドのアパートまで挨拶に訪れた。アストリッドは首相の目の前で人さし指を左右にふると、「この問題について何もしなかったらただじゃおかないから」といたずらっぽく叱りつけ、首相のほおを手のひらでポンポンと叩いた。50代の首相を子供扱いするアストリッドを、ボディガードは黙って見つめるしかなかったという。翌年、家畜の幸福を尊重する動物保護法が制定されたのは言うまでもない。

1997年に初めてストックホルムを訪れたロシアのエリツィン大統領も、アストリッドに出会っている。政府の公式昼食会でアストリッドと握手をする報道写真の中の大統領は、少年のようにうれしそうな微笑みを浮かべている。どんな強面も子供に戻してしまう“永遠のいたずらっ子”の力は、90歳近くになっても健在だった。

80歳まで木に登り、ひ孫とも力いっぱい遊んで「ぼくの大親友」と言わしめたアストリッドは、90歳記念インタビューで「あなたの児童書に言語教育上の特定の目的はありますか?」と聞かれたときも、

「そんなの屁とも思わないわよ」

とやんちゃに切り返している。これがラジオで流れた最後の彼女の肉声になった。数か月後、アストリッドは脳卒中を起こす。人格もユーモアのセンスも損なわれなかったが、彼女は最後にひとつだけ悲しい記憶を無くした。最愛の息子の死。ラッセが今も生きていると思い込む母に、カーリンも黙って話を合わせた。数年前のインタビューで「自分は何よりも母なのです。私は我が子たちから多くの喜びを得てきました」と答えたとおり、母であることは最後まで彼女のアイデンティティの中心にあった。

2002年、アストリッドはカーリンに見守られながら94歳で息を引き取る。通りの外には彼女の死を悼む何千人もの人々が集まり、花やろうそくを残していったという。

参考文献

  • Jens Andersen、Caroline Waight ”Astrid Lindgren: The Woman Behind Pippi Longstocking (English Edition)” Yale University Press, 2018
  • ヤコブ・フォシェッル著、石井登志子訳『愛蔵版アルバム アストリッド・リンドグレーン』(岩波書店、2007)
  • 三瓶恵子『ピッピの生みの親 アストリッド・リンドグレーン』(岩波書店、1999)
  • シャスティーン・ユンググレーン著、うらた あつこ訳『遊んで、遊んで、遊びました ~リンドグレーンからの贈りもの』(ラトルズ 、2005)