大阪の難波にある「なんばパークス」の南端、少し前の記憶がある人は大きな平面駐車場として覚えている人がいるかと思います。もっと具体的に言えば、「ヤマダ電機LABI1なんば店」の横、南海電車との間のスペースです。
そこに、タイ資本の「センタラグランドホテル大阪(仮称)」が作られるようです。
建設工事が始まり、基礎固めのために地面を掘ってみたところ、おそらく誰も予想もしなかった意外なものが「発掘」されることに。
画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ)
なんじゃこりゃ!!!
空の上から松田優作の有名なセリフが聞こえてくるような「遺跡」が。それも町のど真ん中に…。
果たしてこれは何時代のものか、いつのものか…江戸時代?いや平安時代か、いや数万年前の超古代文明…なわけないか。
実は私、こういう「遺跡もん」が大好物、このブログに「考古学」とついているのは伊達ではありません。こういうニュースには、自然と鼻息が荒くなってしまい、筆…もといキーボードを打つ手も少し弾んでいるように思えます。
荒ぶる鼻息を少し落ち着かせ、落ち着いてアップで見てみると、
画像提供:【速報】再開発しているなんばパークス南端から謎の遺跡が出土……(207様ブログ)
どうやらレンガっぽいような、コンクリのような…?
外の箇所を見ると、確実に江戸時代以前のものではありません。レンガなら明治期、コンクリなら大正(初)期の建物の跡とみた。
それはいい。問題は、この建物が何かということ。そして、かつてここには何があったのか。「遺跡」が出てきたからには知りたくなってくる。それが人間が自然に備わっている好奇心というもの。
おそらく、現在公的機関による発掘調査中だと思います。いずれ調査結果が発表されると思いますが、その前に古地図や文献から推理しちゃおう!
これが今回のブログ記事のコンセプトです。
難波とその近辺には、昔何があったのか。昔を振り返りながら謎の「遺跡」の正体に迫ります。
難波にはむかし、何があったのか
難波と「難波御蔵」
難波近辺は、一体なにがあったのか。
なにもありませんでした(笑)
これじゃあ味気もへったくれもないので、もう少し具体的に説明すると。
明治5年(1872)の難波駅近辺の地図です。文字通り何もありません。少し右側(東)を南北に走る堺筋は宿場が並ぶ繁華街(貧民街でもありましたが…)、むしろこっちの方が江戸時代の幹線道路沿いなので賑やかなほどでした。
この地図の約13年後に南海鉄道*1難波駅が、地図赤丸の位置に開業しますが、開業当時の難波駅近辺は
「人家は多少あったが多くは葱(ねぎ)畑だった」
(『開通五十年』1936年南海鉄道編纂 pp.9)
という有様。南海鉄道公式歴史書にこう書いているくらいなので、よほどネギ畑しかなかったのでしょう。
が、こう書かれるのには理由があります。
かつて、難波近辺はネギの一大産地でした。「なんば」が関西のネギの代名詞だったこともあり、諸説ありですが、『鴨南蛮』の南蛮は「なんば」が訛った説もあります。そのネギ畑の真ん中に駅を作ったようなものだったということですね。今の人大杉の喧騒からは全く信じられません。
ちなみに、今宮近辺はレンコンの産地だったそうです*2。
そのネギ畑ばかりの難波に、こんなものがありました。
江戸時代、難波には大きな米蔵(難波御蔵)がありました。享保の飢饉の教訓として1732年(亨保17年)に作られた幕府直轄の施設*3で、災害や飢饉などの際に米を供出できる、ため池ならぬ「ため米蔵」の役目を担っていました。
この米蔵は維新後も残り、おそらく新政府に管理が移されたものと思われます。
開通直後の南海難波駅を発車する汽車(※電車ではありません)の左にある土塀、これが難波御蔵です。
今は電車の両数が多くなり視覚ではあまり感じませんが、実際に電車に乗ってみると難波駅を発車した電車はいきなり少しカーブします。これは難波御蔵があった影響なのです。
御蔵は明治30年(1897)*4に役目を終え解体され、今は碑しか残っていません。
大蔵省専売局煙草工場
明治になり使われなくなり、すなわち要らない子扱いされた難波御蔵は解体され、翌年の明治31年には跡地に大蔵省専売局の煙草工場となりました。
現在のなんばパークスすべてが工場の敷地と思えば、その大きさがだいたい把握できることでしょう。
上の地図は大正12年(1923)刊「大阪市パノラマ地図」の難波の部分を切り取ったものですが、周囲に比して専売局のレンガ色の建物群の大きさが目立ちます。
昭和17年(1942)の大阪市航空写真です。私が知りうる限り、現存しているものとしては、戦災で焼け野…いや更地になる前の難波の最後の姿です。詩的な表現をすれば、大大阪時代の空の遺影です。
それはさておき、難波近辺の写真を見てみると、当然専売局の建物も存在しています。
この写真の3年後に、ここ近辺は空襲で更地になった上に、そのついでか区画整理され当時の航空写真をもってしても位置特定が困難でした。が、写真右下の小学校*5の位置が変わっていないのが幸いでした。逆に言えば、これが位置特定の唯一の手がかり…。戦前と戦後ではそれほど変わってしまったのです。
上述したとおり、難波近辺は昭和20年(1945)3月の空襲で焼失…いや「消失」という言葉がふさわしいほど焼き尽くされました。
空襲直後の難波駅周辺の写真は何枚かありますが、今回のお題にふさわしい専売局方向の写真を。
(出典:『高島屋135年史』)
空襲直後の、高島屋から見た専売局です。高島屋はあの空襲でもほぼ無傷でしたが*6、南海の駅のホームはほぼ全焼、屋根の骨組みだけが残る無残な姿に。
その奥の専売局、一見無傷のように見えますが、残ったのは外壁のみで中は焼けて跡形もありません。専売局自体もこの空襲の日をもって機能不能となり、「ご臨終」となっています。
ちなみに、この煙草専売局の現役当時の写真、ググったら何枚か出てくるだろう…と思っていたら、一枚も出てこないという予想外の結果に。そんなに残ってないのか!?そんなアホな!?と首を傾げつつも、今度大阪の図書館に行った時に問い合わせてみようと思います。
空襲から3年経った昭和23年(1948)の写真では、専売局の部分は残った建物も解体され完全に更地となっています。
その後(この2年後)、専売局跡地に南海ホークス*7の本拠地である大阪球場などが作られますが1998年に解体、そこになんばパークスが作られ現在に至っています。
「遺跡」は何なのか
さて、本題の「遺跡」の話です。
遺憾ながら、私は「遺跡」の現場を見ていないのですが、207さんが様々な角度からの写真を撮影してくれているので、位置はだいたい把握しました。
これを、昭和17年の航空写真と照らし合わせてみましょう。
だいたい黄色あたりの位置になるかと思います。
(推定なので、大きめにとっています)
上の写真を極限まで拡大してみると、「遺跡」の位置あたりに東西に細長い建物が存在していることがわかります。「遺跡」も東西に伸びている形になっているので、これはかなり答えに近づいてきたものと思われます。
もう一つ気づいたことがあります。上の写真①の部分、高架線が途切れているような感じがします。カメラの都合でもなさそうです。
これに引っかかって207さんの写真を改めて見てみると。
南海の高架線のピンクの◯の部分…位置も昭和17年航空写真とほぼ同じと思われます。
これ以上詳しいことは調べようがないですが、ちょっと気づいたことを。これを突破口に、誰かが何か新しい発見をしてくれることを祈って。もちろん、
「お前の気のせいじゃ!」
も含めて(笑)
で、黄色で囲んだ建物も専売局の一部ではないかと思っていたのですが、別のブログによると「日本皮革㈱」の大阪支店(工場)があったとのこと。
かつて大阪日本橋でんでんタウンで生まれ育ったおっちゃんの思い出ブログ。 : ヤマダ電機「LABI1なんば」前で遺跡発見!?
「日本皮革㈱」は現在の㈱ニッピのことですが、大阪金属略してダイキン、東洋レイヨン略して東レ、そして日本皮革略してニッピ…こういう略し方&会社名が多いですな。
それはさておき、上の方も「遺跡」跡にあったのが日本皮革大阪支店だったというソースは出していないので、ソース重視の私としては「??」としておきますが、それを間接的に証明するものを意外なところから見つけました。
出典:センタラホテル&リゾート、大成建設、関電不動産 難波中二丁目における開発について
なんということでしょう!!!
「遺跡」が出てきたあの駐車場の土地、日本皮革改めニッピ所有だったのです。
さらにニッピのHPを見てみると!
なんということでしょう!!!
これで、航空写真の建物は旧日本皮革の建物であることは、ほぼ確定ですね。
というわけで、あの「遺跡」は旧日本皮革工場跡だった…めでたしめでたし!!
=完=
新説!「遺跡」はこれだ!?
でも、あることが喉元に引っかかってたまりません。
「遺跡」が「出土」した駐車場がニッピの所有地であることはわかった。しかし、ニッピの工場にしてはこの「出土物」、古過ぎはしないか。この素朴な疑問が消えません。こう見るとレンガに見えるのですが、「上部分は無理矢理もぎ取られたかのような」(207さんのブログ内の言葉)部分の断面を見ると、コンクリートっぽくもあります。
大阪工場がいつ出来たのか、ググっても記録には残っていません。昭和40年(1965)に西淀川区に大阪支店を移転ということしか判明しないのですが、では旧日本皮革はいつここに工場を建てたのか。
社史を見れば書いてあるかもしれませんが、大阪の図書館まで行くのは面倒くさ…もとい週末しか行けないので待てない。
こういう時どうするか。やはり文明の利器インターネッツを利用するっきゃない。
「御社の大阪工場建設っていつ?」
と、HPからお問い合わせメールを送っておきました。
ちなみに、モスバーガーは小一時間で返事が来ましたが、ニッピさんの会社としての対応の迅速さお手並み拝見といきましょうか。
参照ブログ↓
メールを待つ間にいろいろ推理してみると、上に挙げたある地図が目に入りました。
戦前の大大阪の晴れの地図、『大阪市パノラマ地図』ですが、黄色で囲んだ建物、「遺跡」のあれではないかと、この地図を見た時に直感が働きました。このレンガ作りの同様な建物が周囲にもあるので、専売局の建物と思われます。
「私の直感」というなんとも頼りないソースではあるものの、ニッピ大阪支店(工場)の建設時期によってはこれはアリエール。
ニッピ自体は昭和40年(1965)に大阪支店を西淀川区に移転させていますが、のちに工場跡はゴルフセンターになっています。「遺跡」が見つかった場所は黄色の部分となります。
そして大阪球場の終焉とともになんばパークスへと駐車場へ。
ここで、私は大胆な仮説を立ててみました。
==仮説1==
1.旧駐車場には明治時代、専売局の建物があった
2.のちに旧日本皮革株式会社に払い下げられ、建物は解体の上新しい工場を建てた
3.令和元年、専売局の旧建物が「遺跡」の形で「出土」した
私の仮説が正しいかどうか、それはニッピからの返答が来るのみですが、来なかったらどうなるか。
Twitterで
「返事が来ない、対応遅い、企業としてどうかと思う、ニッピ氏ね #拡散希望」
とでもツイートしてプレッシャーかけておきましょうか…SNSは恐いよ(笑)
==こんな記事もあります==