火災で正殿などが焼失した首里城(31日午後)。下は2012年10月の様子=那覇市(共同)
琉球王国の歴史や文化を今に伝えていた首里城(那覇市)の正殿が火災により全焼した。戦争で破壊された後、沖縄県民の強い思いを受けて復元され、沖縄のシンボルとなっていた。政府や県は速やかに再建する方針を示しているが、主要な建造物7棟が焼失し、元の姿に戻すには長い時間を要する可能性もある。
首里城は那覇の街を見渡す丘の上にあり、国営首里城公園の有料区域内には10の門と14の建物が建っていた。このうち主要な建造物である正殿や北殿、南殿など計7棟が焼失した。
木造3階建ての正殿は、琉球王国で国王が政治や儀式を執り行った最も重要な建物。古文書の改修記録や戦前の写真、住民の証言や遺構調査の結果などを基に琉球史の研究者らが考証を重ね、屋根にある龍の飾り、黄色がかった朱色の外壁など、18世紀ごろの姿を再現していた。
焼失した建物内には、琉球王国時代から伝わる絵画や工芸品も収蔵されていた。
城内の石垣や正殿に至る階段などの遺構は琉球王国当時の状態で残っており、2000年に首里城跡を含む「琉球王国のグスク及び関連遺産群」が世界遺産に登録された。文化庁は「火災によって損傷している可能性がある」として調査官4人を現地に派遣した。
戦前に正殿は国宝に指定されていたが、1945年、沖縄戦での米軍の砲撃などによって首里城は焼失した。再建を望む県民の声を受け、政府は86年、沖縄の本土復帰を記念する国営公園整備事業として復元することを決定した。
89年から始まった工事には宮大工、漆職人などが携わり、本土復帰20周年にあたる92年に正殿などが完成して首里城公園が開園した。その後も園内の整備は続き、2019年1月、30年に及ぶ復元工事が全て完了したばかりだった。
復元計画に初期から関わった元沖縄県副知事の高良倉吉・琉球大名誉教授(琉球史)は「沖縄独自の歴史や文化を形として示す首里城は県民のアイデンティティーの基礎となっている」と強調。「前回の復元工事によって資料や人材は蓄積されたが、数年で再建できるものではないだろう」と話す。
内閣府沖縄総合事務局によると、首里城公園には18年度に約281万人が訪れ、開園した1992年度(約111万人)の約2.5倍になった。2020年東京五輪の聖火リレーのコースにもなっていた。
首里城公園の所有権は国が持っており、19年2月から運営を沖縄県に移管した。県から指定を受けた一般財団法人「沖縄美ら島財団」が管理している。正殿などの再建計画や財源は今後検討されることになる。
歴史的建造物の保存や修復に詳しい工学院大の後藤治教授は「復元にあたっては資材や職人の手配、予算の確保などが課題となる。木造で建て直す場合、火災の発生や延焼拡大の原因を特定したうえで、防火対策などを慎重に議論する必要がある」としている。