私が低学年の頃の担任の先生は、
「障害児教育に熱心なベテラン先生」という触れ込みだったそうです。
また、子どもたちに日記を書かせてその文章力を伸ばす先生でもありました。
私もその先生のおかげで文章を書くことが好きになりました。
だがしかし。
その先生の指導方針だったのか、学校の指導方針だったのかはわかりませんが、私はこの頃怪しい文章を書くようになっていたそうです。
私は全く覚えていませんが、母がいうのをかなり極端にまとめると
「私は病気で生まれてきて、とても大変な思いをして生活しています。でも毎日くじけずに頑張って生きています」
というような、なかなかに怖い文章です。
いえ、もちろんそう思ってる人を否定はしません。
私だって「なんだよ、こちとら毎日必死のパッチだけど頑張ってるんだからな!」
とか思うことはあります。
ただ、この文章にはそういう意味合いとは違う…なんというか、悲劇のヒロイン気取りの危うさを感じるのです。
これを、7・8歳の子が書いていることに気持ち悪さを感じるのです。
想像ですが、こういう文章を書くと先生たちに褒められたんじゃないかと思います。
ただ嬉しい気持ちで、そういう文章を書いたのでしょう。
そんな私の文章を、校区外を含めた学校の道徳の授業で「命の授業」に使いたいという話が持ち上がったそうです。
確かに私はちょうど良い素材ですよね。書いてる内容も先生方にとっては完璧でしょう。
でも父母は、道徳の授業に私の文章を使うことを断りました。
娘は特別な子ではない、そこらへんにいる、いち小学生で良いのだと。
その反応に学校側は驚いたようです。
信じられないことだという感じで。
母は「みんなぱきらちゃんの生きる姿で感動するんです。せっかくぱきらちゃんが懸命に生きていることをたくさんの子どもたちに知ってもらえるのに、断るなんて非常識な」的こと言われたようです。
うーん、そりゃ、眉間に深い皺刻むわよね。
誤解のないよう言っておくと、父母も、そして私自身も、私を通じて周囲の人たちが何かを得てくれるなら、それはとても嬉しいことだと思っています。
ああ、こういう病気の子がいるんだなとか、車いすって足が悪い人だけのものじゃないんだとか。
そういうことを、私と接することで自然と学んで吸収してくれるならありがたい。
でも、あえて「この子はかわいそう。でも頑張ってるのよ〜。素晴らしいでしょ。だからみんな仲良くしてあげましょうね」と存在を押し付けるのは違うと思っています。
数年前に「感動ポルノ」というなかなか激しい言葉が出てきました。
個人的に、あの言葉は病児者・障害児者の現実と、いわゆる健康な人たちが造り上げる病児者・障害児者像との乖離に対しての強い違和感を指していると考えいます。
私のこの頃の出来事も、そういう違和感があったのではないかと思います。
かわいそうな子?
少し話がそれます。
とある時に、私は母と二人でいるときに同級生のお母さんに会い、
「ぱきらちゃんはかわいそうな子だから仲良くしてあげるのよと娘には言ってます」と正々堂々言われたことがありました(言われたこと自体は私も覚えてます)。
いやぁ、いろいろ引っかかる言葉がありますね 笑
でもおそらく、これがこの時代の病児や障害児に対する一般論だったのでしょう。
私はかわいそう。
だから親切にしてあげなければいけない。
弱者には優しくしてあげなければならない。
まだまだそういう社会でした。
そしてそういう考え方は、学校現場でこそ根付くのかもしれません。
ただ一つ付け加えておきたいのですが、私の祖母や母も、なんなら私も「かわいそう」という言葉は使います。
祖母に至っては口癖レベル。
あの芸能人、旦那さんに浮気されてんて。かわいそうやなぁ。
ちょっとあんた、内出血してるやん。痛いやろ。かわいそうになぁ。
あんなに欲しがってたのに買われへんかったん?かわいそうやわ〜。
楽しみにしてた旅行、雨やってんて?せっかくやのにかわいそうに。
お昼ごはん食べられへんかったんかいな。かわいそうになぁ。
…などなど。
このかわいそうの使い方は関西特有なのでしょうか(私は近畿圏出身です)。よくはわかりませんが、実にいろんな場面でかわいそうが出てきます。
そんな周囲の環境だったからか、私自身もかわいそうという言葉を使います。そしてさほど抵抗がありません。
でも、同級生のお母さんや学校側のかわいそうという言葉には強烈な抵抗感があります。
私がかわいそうだという決めつけが、私を傷つけます。
そのかわいそうという言葉の裏に思いやりはなく、私=かわいそうな生き物という観念が、私の尊厳を傷つけます。
だから単に「かわいそう」という言葉だけを否定するのは言葉狩りみたいでなんだか怖いです。
本当に大切なのは、病児者や障害児者とその家族に対し、かわいそうと決めつけることは大変失礼なことである、という周知ではないかと思います。
そして学校には、そういう教育現場であって欲しいと望みます。
最近では、インクルーシブ教育がどうのと言われていますが、実際のところどうなんでしょう。
子どもたちがお互いを知り、この世にはいろんな子がいるのだと自然に学べたら良いなと思います。
そして必要なサポートは受けつつも、みんなきちんと、それぞれがただのいち生徒として扱われますように。