あいちトリエンナーレ冷めやらぬ中、またも表現の自由を騒がせるような案件でtwitterどったんばったんしてる。
宇崎ちゃん献血ポスターを赤十字が使い、それを太田弁護士が「環境型セクハラみたいなもの」と非難したところに端を発している。
さて、この件に関して、まずは僕の立ち位置。
「これは広告考査の問題である」
ポスターは取り立てて作るの自由である。作るまでは内面の自由。
で、それがその場所にふさわしいかどうかは、「その掲示場所の責任者」が決める。
例えばTVCMだってあんまエロいのとかグロいのとか、射幸心を煽るが来たら謝絶もするし「これは青少年にはふさわしくない内容」との判断があれば「青少年に見てほしい番組」からは外す判断もある。
局によればド深夜しか流さないCMとかもある。
同じようにポスター掲示場所が(掲示責任者により)配慮されていれば、取り立てて文句言う筋合いなどない。
太田弁護士が(アメリカ人になんか言われて)騒ぎ立てる前にはこのポスターについて誰も気にしていなかったということは、基本的には問題なかったと思われる。
(ちなみに太田弁護士の「環境型セクハラ」発言については、弁護士として法的な概念を持ち出しした以上、法的な論拠に立ってきちんと論争すべきであったと思う。彼女は「スジが通っていない」のだ。)
でも、当然ながら、僕のTLにも賛成反対両方いて、お互い言うことは「完全にかみ合っていない」ことは気付いてはいた。
これ、なんというか、マルクス経済学者とケインズ経済学者が同じ事象見て、違う言葉で語り合って「何言ってるんだこいつ????」ってなるのに似ている。
分かりにくい例えだけど、でも「世界をどう見るか」自体がそのくらいそもそも異なっている。
ということはお互いに相互理解のための補助線が必要である。
ということで、今日の僕は、どうにかこうにか相互理解のための補助線を引いてみようという試みをしてみる。
まずは、今回の対立軸を
・フェミ
・オタク
と設定する。かなり乱暴だし、当然属性かぶっている人もいるし100人いたら100通り考えはあるけど、今回は「分かりやすい補助線」なので、見逃してほしい。
・まずはフェミニストについて考えていく。
まず言い訳。フェミニストはよく「一人一派」を名乗ってて扱いづらいので、あくまでこういう傾向だと思って。
といってフェミニストのことについて、ぼちぼちお勉強して体系的に書こうとしたけど、なんかすでにきれいにまとまっていた。
https://anond.hatelabo.jp/20160307231710
よく調べてあるなぁ。
対立を引き起こしがちなのは、リベラル・フェミニズムと、ラディカル・フェミニズムである。
リベラル・フェミニズムは単純に分かりやすい。性根はロールズの僕もここに分類される。
要は「同じ人間なんだから、性差によりやりたいことができないとか、社会での役割に偏りがあるとか、そういうの良くないよね?男女は平等であるべきなんだから。なので、法律とか意識変革とか進めていこうね」という一派である。
戦前生まれの頭の固いおじいちゃんとか、ま~んとか女性のことを呼んでる阿呆とかでもない限り、かなりは現代人には受け入れられやすい理論である。
もちろんロールズなので、反転可能性テストは可能。つまり男女ひっくり返してそれがおかしくないかを検証できる。(簡易版無知のヴェールだ。)
ラディカル・フェミニズムはここより一歩進む。
社会全体がそもそも家父長制をベースに男性優位になっており、そこに形式的な平等を導入しても、真の平等にはならないと考える。
そこにおいて女性の自己決定は無意味である。社会がそれをきれいに搾取していくから。
(上野千鶴子が選挙に行かないとか公言するのも、おそらくこれである。要は、いまのルールがすでに既得権益側に有利になっているのに、なぜその同じ土俵に登って勝負しなければならないのかってことだ。)
その解決のため、男女間の「闘争」を起こす一派である。
ラディカルフェミニズムのポルノ廃絶運動するというのもここから生じている。
女性が望んでポルノ業界で働いていても、その自己決定は社会の歪なルールにより、女性は身体的肉体的な被害を被る。
またポルノ自体を容認することは、女性蔑視を再生産することになる。(つまり、二次元三次元を問わないのである)
また反転可能性テストは不可能である。男性はそもそも抑圧されていないので。
今回、宇崎ちゃんポスターを問題視するのは「ラディカル・フェミニスト」の思想側面を持つ人である。
リベラル側は、男女性差フラットを目指すので、例えば「まぁ…私もいうても献血で堀川国広ポスター貰ったしなぁ。あれエロいよね」と流す傾向にある。
さてオタク側。フェミニストの言う「エロ表現の自由戦士」である。いまtwitterみたらエロ表現の自由の精子とかも言われてた。ひでぇw
女性蔑視と戦ってきたフェミニストと同じような側面として、オタクも蔑視されてきた歴史を持っている。
何か事件があれば「加害者は〇〇いう暴力ゲームに夢中で」とか「なんか同じように犯罪起こしそうな見た目してる」とか、特に悪いことしていないのに雑なクラスタ分けで迫害されてきていた。
まぁキモいサイドにいるのは自覚的でもあるがそれで直るものでもない。
それゆえ自らの好むものが社会的に「封殺される懸念」というのは、常に怯えてきていた。(実際いろいろギリギリだった)
そして、だからこそ「表現の自由」の恩恵に自覚的であった。
特にエロとかグロは、国家権力が表現の自由へ介入する際の入り口だったため、その規制入り口に、権利の恩恵に自覚的だった者が立っていることは実は意義深いことだったのかもしれない。