休憩時間に聞いてみると、うつむきながら答えてくれた。

「クラスの男子とちょっと」

おやつに出てきたバニラアイスを、落としそうになった。

驚きの電話

「え、マジで!?」

2月の寒い日のことだった。大学合格の知らせに、思わず間抜けな声を出してしまった。

「いや、そこまで驚かないでよ」

電話越しに家庭教師の教え子・マナちゃんがつっこむ声が聞こえる。いやだって、まさか受かると思っていなかったから。慌ててお祝いを言う。

正直、8割がた落ちると思っていた。マナちゃんの成績はずっとイマイチだったし、E判定を連発していた。本人には内緒だけど、不合格になって親御さんからクレームが入った時に備え、謝罪の練習をしてたくらいだった。

電話を切って、しばらく経ってから、ようやく喜びが湧いてきた。

そうか、マナちゃん受かったか。第一志望現役合格。すごいよ。私の指導力も捨てたもんじゃないよね。いや、マナちゃんが偉いんだけど。でも、これから大学に行って、勉強して、友達作って、そのうち就職して……。そうして大人になっていくのか。今はゆるい感じの女子高生なのに。

成長、そんな言葉が浮かぶ。私の知らないところで、彼女はどんどん変わっていくのだろう。小中高と卒業式で神妙な顔をしていた先生たちの気持ちが、ほんの少しだけ分かった気がした。

無い内定で迎える春

桜が咲いている画像

大学を卒業したばかりの春、私はめちゃくちゃ困っていた。仕事がないのだ。

大学での勉強を放置し続けた結果、4年生の時には2単位落としたら留年という絶望的な状態になっていた。就活はせずに、半年間留年する。就活のために、単位はほぼ4年生のうちに取っておく。そのつもりだった。

大学に入って初めて勉強に打ち込んだ。そして、全ての試験で合格点を叩き出した。いや、叩き出してしまった。

就職先がないまま、私は大学を卒業して、フリーターとしての生活が始まった。一人暮らしをしていたため、なんとしても生活費を稼ぐ必要があり、それはもう焦っていた。

私が大学を卒業した2007年頃は、まだまだ新卒採用が絶対の時代。レールから外れた人間に、行く場所はあまりなかった。

生命保険のテレアポのバイトをなんとか見つけたが、コンスタントにシフトに入れるわけではないので、もうひとつバイトを掛け持ちすることにした。

大学時代にコンビニや工場のバイトで色々失敗していたので、それ以外のものを。そう思って家庭教師の会社に登録した。まあ、浪人はしたけれど、ある程度勉強は得意だったし、教えるくらい楽勝だろう。そんな風に軽く考えていた。

マナちゃんとの出会い

新学年がスタート時期だからか、家庭教師先はすぐに見つかった。高校3年生の女の子。バドミントンサークル部。中堅大学の理系学部を狙っている。担当科目は英語で週2回。数学の家庭教師が週2日来ているらしい。家は京都の南西にある精華町だ。精華町は、国立国会図書館関西館や有名な研究所がある町で、大学時代何度か行ったことがある。最先端なキレイな施設と住宅街と田んぼと畑、それぞれのパーツが集まった、そんな街だった。

京都精華町の田んぼの写真

いきなり大学受験か……責任重大だなあ。そう思ったけれど、大学受験という切羽詰まった状況なら、ちゃんと勉強してくれそうだし、とりあえずやってみることにした。場所も家からちょっと遠いけれど、乗り継ぎも楽ちんだし、時給も結構よかった。

電車に揺られて、精華町に向かう。家庭教師先の最寄り駅は、祝園駅だ。到着すると、まだ新しい大きな駅は、そこまで混んでいない。家は駅から離れているそうで、お父さんと本人が車で迎えに来てくれるそうだ。

待ち合わせの時間まで30分ほどあるので、駅のベンチで英語の参考書を開く。正直、緊張してガチガチだった。鬼のように厳しいお父さんだったらどうしよう。子どもに反抗されたら。結果、どこにも合格できなくて詰められたら。英語の文章を読むごとに不安は加速する。というか、ほぼ頭に入っていない。眺めているだけだ。

家庭教師でこれなら、クラスみんなの前で教壇に立つ学校の先生は、どんな気分なんだろうか。高校教師になった友達が浮かぶ。落ち着かないところのあるアホな子だと思ってたけど、めっちゃすごいな。何にせよ仕事だ、頑張らないと。

気合を入れるために缶コーヒーをグビッと飲んだら、盛大にこぼしてしまった。慌ててミニタオルで拭いて、汚れは取れたものの、香ばしいコーヒーの匂いがほのかに漂う。香ばしい状態で教え子とお父さんと初対面。先が思いやられる。

時間が来て、駅前のロータリーへと向かう。すると目の前にがっつり会社名が入った、大きな車が止まる。こ、これは……。ぽかんとしていると、車の窓が開いて、見るからに人の良さそうなお父さんと、ショートカットのボーイッシュな女の子が乗っていた。きっちりと着たセーラー服が印象的だった。

セーラー服の画像

これが教え子、マナちゃんとの出会いだ。挨拶をして車の後部座席に乗り込む。車が走るうちに、どんどん家の数が減っていき、畑や田んぼが多くなっていく。町の灯りも私の住んでいる辺りより、ずっと少ない。何度も道をまがり、マナちゃんの家に着いた。ごく普通の家には、商売に使う車が何台か止まっている。

マナちゃんの部屋に案内されて、本人とお父さんを交えて打ち合わせをした。どうやら、英語が大嫌いで非常に足を引っ張っているらしい。大嫌いか。ちょっと不安になった。受験において、英語は学力が伸びるのに時間がかかるといわれている。全く基礎ができていない場合、3年生の春からスタートしても、間に合わない可能性が高い。暗記してどうにかなるものでもない。中学時代にしっかり勉強しているといいんだけど。

とりあえず、学力を知るためにセンター模試の結果を見せてもらった。「こ、これは……」壊滅的な点数に、頭を抱える。いや、なかなか。一応、中堅大学受けるんだよねという言葉を飲み込む。とりあえず、何かせねば。参考書を開くように言う。

「ドラマを観たい」

マナちゃんはだだをこね始めた。いや、そんなもの観ている余裕ないでしょ。この点数なら。今の感じだと、持ってきた参考書はレベルが高すぎる。途方にくれた時に、ノックの音が聞こえた。

ドアを開けると、パウンドケーキとオレンジジュースの載ったお盆を持って、お父さんが立っていた。よし、食べながら体勢を立て直そう。雑談がてら、質問を投げかける。

「なんで○○大学なの」
「自分の入れそうななかで、一番偏差値が高いから」

偏差値を気にするなら、もうちょい頑張った方が。突っ込みたい気持ちを押し込める。

「どうして理系にしたの」
「お父さんが理系だったら、就職がいいからって」

そういうと、マナちゃんは大きな口を開けて、パウンドケーキをほおばる。真っ黒なショートカットとあいまって、年よりも幼く見える。

そういえば、年頃の女の子にありがちなお父さんへの反発も、話している雰囲気からは感じ取れなかった。お父さんと仲が良いのだろう。偏差値のいい大学に行きたいのも、お父さんを喜ばせたいからかもしれない。

「英語、そんなに嫌いなの」
「見たくもない」

見たくもない、か。英語力を上げるのは厳しいだろうな。オレンジジュースをごくごく飲みながら、作戦を頭の中で練った。

漫画にハマる家庭教師

家庭教師初日にマナちゃんの英語力を伸ばすのを早々にあきらめた私には、ある秘策があった。志望大学とセンター試験は選択式だ。よくわからなくても、正解を選べればOKなのだ。

そこで私は、選択肢の選び方を徹底的に教えることにした。正解が分からない時は、2か3を選ぶ。「犯罪バンザイ」のような常識的におかしいものは誤り。「絶対~」といった言い切りも誤り。選択肢を選ぶコツを、表にして渡した。そして問題を解かせて、なぜその選択肢を選んだのかを説明してもらって、ダメだしをした。

英語の参考書の画像

もちろん、英文の意味が分からないと問題が解けないので、単語だけはある程度詰め込んで、なんとなく読めるにようしてもらった。5つ問題を出して単語の意味を全て言えたら、漫画を10分読んでOKなど、ご褒美でつって嫌がるマナちゃんになんとか覚えさせた。「やりたくない~」と訴えるのをなだめるのは、大変だったけど……。

マナちゃんの高校の夏休みがスタートして、しばらくたった日のことだった。

「漫画よりも今は勉強だよ」

もはや授業前の儀式と化した小言を言うと、マナちゃんは漫画本を私に差し出した。

「こんな面白いのに!読んで読んで」

仕方なく読んだその本は、青春格闘ラブコメといった感じの少年漫画で、絵は正直上手ではないけれど、ハンパなく面白かった。私が思わず夢中になって読んでると、マナちゃんがニヤニヤ笑っている。しまった。漫画好きの血が騒ぎすぎた。これじゃ、勉強しろって言っても説得力がないな……。何とか軌道修正して、勉強に戻った。

その日の帰り道、マナちゃんが漫画の1〜3巻を貸してくれた。その日以来、家庭教師バイトの帰りに漫画を借りるのが習慣になった。

「今回も面白かった」
「絵、めっちゃ上手くなってるよね」

私が感想を言うたびに、マナちゃんは少し得意気だった。

家庭教師が終わる時間になると、祝園駅から発車する電車は少なく、ホームはがらがらだった。電車を待つ間、いつもマナちゃんから借りた漫画を読んでいた。夢中になって読むあまり、何本も電車を見送ったほどだ。

青春ラブストーリー!?

夏休みの終わりころから、マナちゃんの様子がおかしい。多少なりとも自主的に勉強するようになったのだ。宿題を出しても、前はほぼ手つかずだったのに、今は7割くらいはやってくれている。もちろん、他の受験生に比べると決して勉強量は多くない。でも、春と比べると大進歩だ。どうしたんだろう……。マナちゃんが自分から勉強するなんて。いや、いいことなんだけど。

休憩時間に聞いてみると、うつむきながら答えてくれた。

「クラスの男子とちょっと」

おやつに出てきたバニラアイスを、落としそうになった。クラスの男子とちょっと?まさか、“一緒に○○大学行こう”なんて、少女漫画な展開が!?よくあるじゃん、好きな人がいるから勉強がんばれる的な。マナちゃんから男の子の話を聞くのが初めてだったこともあり、テンションが一気に上がって、身を乗り出しそうになる。その話、もっと詳しく。はやる気持ちを抑えて、質問を重ねた。

バニラアイスのデザートの画像

「……ちょっとって、どうかしたの」
「いや、同じ志望校の男子に、お前の頭じゃ無理だって言われた。自分も成績悪いくせに」

マナちゃんは、チッという感じの表情をした。

思ってたのと違う……!

「ひ、ひどいね」
「大丈夫。軽く蹴り入れたし」

うっかり教え子の青春ラブストーリーを想像してしまったけれど、全くの的外れ。てっきり照れてうつむいたのだとばかり。ごめん、勝手に妄想を膨らませて……。そんなこと言われたら悔しいよね。にしても、私がいくら勉強するように言っても全然やらなかったのに。なんか、家庭教師としては少し複雑な気分です。

それからしばらく経って、本格的な秋の風が吹き始めた日のことだった。私が駅前の本屋さんの袋を持っているのを目にしたマナちゃんはとたんに不機嫌になった。何の本か聞かれたので、当時はやっていた少年漫画のタイトルを答えると、よりいっそう不機嫌になった。

「先生はいいな。好きなだけ漫画とか読めて」
「いや、大学受験の時にめっちゃ勉強したから」

よっぽど男子の発言が悔しかったのか、マナちゃんはコツコツ勉強を続けている。まだまだ合格点とは言えないけれど、英語の点数も上がってきた。慣れない勉強をして、好きな漫画も読めずにストレスが溜まっているのだろう。気持ちは分かる。でも、今やらないともっとしんどくなるのは目に見えている。

「浪人だけはしないほうがいいよ」

周りに置いて行かれた気がすること。勉強だけで一年が過ぎていくこと。私が浪人生活の辛さを語ると、マナちゃんの顔が引きつる。残念ながら私は敏腕家庭教師ではないし、なんなら人に教えるのは初めてだ。絶対合格!なんて力強いことは言えない。でも、できることはある。それは英語で最低限の点を取らせて、第三志望でもいい現役で合格させることだ。勉強嫌いの子だからこそ、この一年でけりをつけさせたい。

「私、受かるかなあ」
「受かるでしょ」

わざと適当な口調で返した。受験なんてなんでもない。そう思えれば、無駄なプレッシャーもなく、頑張れる気がしたから。

秋から冬、マナちゃんは時々さぼりながらも、よく勉強した。寒さが増すにつれ、ちょっとずつ、ちょっとずつ成績は伸びていった。第一志望には届かないけど、どこかには。そんな風な期待をしていた。

シロクマのキーホルダー

カフェオレから湯気がたっている写真

その日の精華町は、真冬だけあってすっかり底冷えをしていた。祝園駅の近くのフードコートで飲むホットコーヒーが身に染みる。駅の近くには、チェーン店を中心にいくつかお店があったけれど、私はこのフードコートが好きだった、混み過ぎずないけれど、少しだけざわざわしている感じが。京都市内の有名パティシエのお店で買ったケーキを片手に、私はマナちゃん家に向かっていた。京都市内からは軽く1時間半はかかるので、保冷剤をどっさり入れてもらった。授業以外でマナちゃんと会うのは初めてで、ほんの少しだけ緊張した。

マナちゃんとお父さんが乗った車に合流する。初めて、マナちゃん家に行った日のことを思い出す。合格のお祝いを言うと、お父さんが、びっくりするくらい恐縮した様子で頭を下げてくれる。

「大げさだなあ」

マナちゃんが苦笑いした。

マナちゃんの家に行くと、お父さんとおばあちゃんが満面の笑みで迎えてくれた。ケーキを差し出すと、びっくりするほど恐縮して、「先生のおかげです」と頭を下げられた。

マナちゃんの部屋で話したけれど、どこかぎこちない。二人を繋いでいた勉強という要素がなくなったからだろうか。それでも、大学合格のご褒美に買ってもらったという、格闘ゲームをするうちに少しずつ、空気が柔らかくなった。

漫画の話をしたり、私の大学時代の失敗談を話したりするうちに、あっという間に時間は過ぎていった。さて、そろそろという時になって、マナちゃんがシロクマのキーホルダーを渡してくれた。ラッピングがされていない、小さなキーホルダー。秋ごろに何かの流れで「シロクマが好きだ」と話したのを、覚えててくれたのだろう。

「ありがとう」
「安かったから」

マナちゃんはぶっきらぼうに言った。

駅までマナちゃんとお父さんに見送ってもらって、電車に乗る。4月から何度も何度も通った、祝園駅はどんどん遠ざかっていく。多分、私はもうこの駅に来ることはないし、マナちゃんとは会うこともない。白く曇る窓をぬぐって、精華町の方をじっと見ながら帰った。家に帰ってシロクマのキーホルダーを見たとき、初めて自分がすごく寂しくなっていることに気がついた。

夕方の駅のホームの写真

あれから十年以上が経ち、私は東京に引っ越し、何とか社会人として生活を続けていた。その間、祝園駅に行くこともマナちゃんと会うこともなかった。それでも、時々マナちゃんとの日々を思い出す。特に冬の寒い日には。精華町に似た雰囲気の街に行ったとき、ニュースで受験のニュースを見たとき、シロクマの小物を見かけたとき。

マナちゃんは今、どうしているだろうか。バリバリ働いたり、結婚してお母さんになったりしているかもしれない。なんにせよ、どこかの町で彼女らしく元気でやっていてくれると嬉しい。

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