書評
『昼の家、夜の家』(白水社)
今、世界で最も注目を浴びている作家といえば、先ごろノーベル文学賞を受賞したポーランドの女性作家、オルガ・トカルチュクでしょう。2010年発売、彼女の本邦初訳となった作品について、当時の書評をご紹介いたします。評者はロシア東欧文学の沼野充義先生です。
物語の行方をせっかちに追わないで、ゆったりした気分でそういった断章の一つ一つを味わっていると、とても不思議で快い気分に浸ることができるが、その背後には第二次世界大戦から現代への時代の流れが介在していて、苛酷な歴史的現実も見え隠れしている。例えば、登場人物がキノコ料理に長く使っている食用油は、オシフェンチム(アウシュヴィッツ)で買いだめしたものだった……。
登場人物たちの名前からして、すべて現実的なようで、どことなく幻想的。戦争中、ロシアで凍った人肉を食べて生き延びるという極限体験を味わった男の名前はエルゴ・スム。ある若い女性の夢に現れ、彼女の左耳に愛の言葉を囁きかけ、彼女の人生を狂わせてしまう男の名前はアモス。そして語り手の昔のドイツ人の乳母はニーチェ、といった具合だ。
全編にわたって何度も少しずつ出てきて展開していくのは、聖女クマーニスの伝説と彼女の生涯を追って聖人伝を書いた修道士パスハリスの物語である。クマーニスは美しい女性だったが、父の暴虐から身を守るために、その顔は突然、ヒゲの生えたキリストの顔に奇跡の変容をとげる。一方、彼女の事跡を追うパスハリスは自分が間違った体に生まれたという感覚に苦しみ、女になることに憧れる美少年だった。ここでは男と女の境界も曖昧になり、人はどちらか片方に安住することができない。
こんな風に境界上をさまよう感覚は、作品全体を貫いている。ノヴァ・ルダという町は「存在の境界」にただあり続けるのだというし、ペーター・ディーターというドイツ人は登山中に心臓発作を起こして、チェコとポーランドのまさに国境を両足でまたいだまま死んでしまう。小説の表題も二重の生を暗示している。「人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家(……)。もうひとつは、果てしない家(……)。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいる」
そして、なんといってもキノコ! キノコがいたるところに出てくるだけではない。そもそもこの小説自体がキノコなのだ。ひっそり森に生えるキノコは大木が倒れ腐った後、それを分解し、土に返す。この物語もそれに似て、全体主義や社会主義の大きな物語の崩壊後、過去の遺産を夢のかけらのようなものに分解し、美味しい料理にまでしてくれる――それは少々毒の入った、危険な料理なのかも知れないのだけれども。
欧米の現代文学とは明らかに一線を画す、独自の世界感覚と文体意識に裏打ちされた傑作である。訳文も原作の雰囲気を伝えるしなやかな文体になっている。これに限らず、こういった東欧文学の知られざる作品が、最近、若手の専門家による優れた翻訳によって、キノコが頭をもたげるように、次々と出始めている。どうか皆さん、心してご賞味あれ。
大きな物語が倒れた後の夢のかけら
いまもっとも注目されているポーランドの女性作家の代表作である。舞台となるのはチェコとの国境からすぐそばの、ポーランドの周縁部に位置する山村。ここに住む語り手が、近隣の人たち、地元に伝わる伝説、豊かな自然などについて、百十一の断片を連ねて書き綴った形式になっている。そこには散文詩のような夢の記録もあれば、奇怪な聖人伝もあり、さらには様々なキノコ料理のレシピまで紹介されている。シロタマゴテングタケとかウラベニイロガワリといった毒キノコも、いかにも美味しそうに出てくるので、ご用心!物語の行方をせっかちに追わないで、ゆったりした気分でそういった断章の一つ一つを味わっていると、とても不思議で快い気分に浸ることができるが、その背後には第二次世界大戦から現代への時代の流れが介在していて、苛酷な歴史的現実も見え隠れしている。例えば、登場人物がキノコ料理に長く使っている食用油は、オシフェンチム(アウシュヴィッツ)で買いだめしたものだった……。
登場人物たちの名前からして、すべて現実的なようで、どことなく幻想的。戦争中、ロシアで凍った人肉を食べて生き延びるという極限体験を味わった男の名前はエルゴ・スム。ある若い女性の夢に現れ、彼女の左耳に愛の言葉を囁きかけ、彼女の人生を狂わせてしまう男の名前はアモス。そして語り手の昔のドイツ人の乳母はニーチェ、といった具合だ。
全編にわたって何度も少しずつ出てきて展開していくのは、聖女クマーニスの伝説と彼女の生涯を追って聖人伝を書いた修道士パスハリスの物語である。クマーニスは美しい女性だったが、父の暴虐から身を守るために、その顔は突然、ヒゲの生えたキリストの顔に奇跡の変容をとげる。一方、彼女の事跡を追うパスハリスは自分が間違った体に生まれたという感覚に苦しみ、女になることに憧れる美少年だった。ここでは男と女の境界も曖昧になり、人はどちらか片方に安住することができない。
こんな風に境界上をさまよう感覚は、作品全体を貫いている。ノヴァ・ルダという町は「存在の境界」にただあり続けるのだというし、ペーター・ディーターというドイツ人は登山中に心臓発作を起こして、チェコとポーランドのまさに国境を両足でまたいだまま死んでしまう。小説の表題も二重の生を暗示している。「人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家(……)。もうひとつは、果てしない家(……)。そしてふたつの家に、わたしたちは同時に住んでいる」
そして、なんといってもキノコ! キノコがいたるところに出てくるだけではない。そもそもこの小説自体がキノコなのだ。ひっそり森に生えるキノコは大木が倒れ腐った後、それを分解し、土に返す。この物語もそれに似て、全体主義や社会主義の大きな物語の崩壊後、過去の遺産を夢のかけらのようなものに分解し、美味しい料理にまでしてくれる――それは少々毒の入った、危険な料理なのかも知れないのだけれども。
欧米の現代文学とは明らかに一線を画す、独自の世界感覚と文体意識に裏打ちされた傑作である。訳文も原作の雰囲気を伝えるしなやかな文体になっている。これに限らず、こういった東欧文学の知られざる作品が、最近、若手の専門家による優れた翻訳によって、キノコが頭をもたげるように、次々と出始めている。どうか皆さん、心してご賞味あれ。
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