『宇崎ちゃんは遊びたい!』献血ポスター批判にまとめて反論する。

海燕:こんにちにゃー。

てれびん:こんにちにゃ。

海燕:ども、自称フェミニスト兼表現の自由戦士の海燕です。今日は、いまTwitterで大きな話題になっている『宇崎ちゃんは遊ばない』献血ポスター問題について、表現擁護側の立場に立って、可能な限りわかりやすく説明してみたいと思います。

 この件、風のように話題が流れつづけるTwitterにしてはかなり長いあいだ燃えていたわけですが、ようやく鎮火しつつある(ように見える)ので、この機会にぼくから見える景色を一望して意見をまとめておきたいと思ったしだい。

 この問題について「何やら揉めているけれど、ほんとのところこれどうなんだろ?」と感じておられる方は、非常に長くはなりますが、ぜひご参考になさってください。やたらに長くなったのは、単に推敲して縮めるのがめんどうだったからです。

 というわけで、おい、てれびん!

てれびん:うぃ。

海燕:これからこの事件について説明するから、相槌を打ちながら適当に質問を入れてくれ。おまえ、それでも一応は医者の端くれだか土くれなんだからそれくらいできるだろ。

てれびん:できると思うよ。一応は医者の端くれだから。

海燕:よし。じゃあ、話を始めようか。そうだな、まず、『宇崎ちゃん』献血ポスター問題とは何か? そこから始めることにしよう。この問題は、10月14日に、弁護士の太田啓子さんが@Unseen Japanなる人物の英語アカウントのツイートを引用する形で以下のような内容のツイートを行なったところから始まる。

 


日本赤十字社 が「宇崎ちゃんは遊びたい」×献血コラボキャンペーンということでこういうポスターを貼ってるようですが、本当に無神経だと思います。なんであえてこういうイラストなのか、もう麻痺してるんでしょうけど公共空間で環境型セクハラしてるようなものですよ
https://www.bs.jrc.or.jp/ktks/kanagawa/2019/09/post-146.html

 

てれびん:ふむ。

海燕:そのうえで、太田さんは「日本赤十字社のお問い合わせに意見を送りました」と続けている。

てれびん:ふむふむ。

海燕:これが、まあ、炎上した。まあそれはそうだろうとは思うけれど、一応、付け加えておくと、炎上の背景には表現規制派と規制反対派のを舞台とした長い闘争の歴史がある。

 太田さんは過去にもVtuberのキズナアイなどを批判して問題になったことがあって、規制反対派からは表現規制派の急先鋒と見られている。その人物が「環境型セクハラ」などといいだしたからまたかと問題になったわけだ。

てれびん:おけ。

海燕:ぼくは、この主張にはふたつのポイントがあると思う。ひとつは「公共空間」という言葉で、もうひとつは「環境型セクハラ」という表現だ。

 いくらか語尾を濁してはいるけれど、太田さんは『宇崎ちゃんは遊ばない』のポスターが献血ルームという「公共空間」において「環境型セクハラ」を行っていることを批判していると見ていいだろう。さすがに「してるようなもの」といっただけで「している」とはいっていないとか、そういう微妙ないい逃れはしないと思う。いくらなんでも。

てれびん:ほむ。それで?

海燕:したがって、このツイートは以下のふたつの視点から検証できると思う。

①問題になった献血ルームはほんとうに「公共空間」なのか? もしそうだとしたら、その「公共性」はどの程度のものなのか?
②該当ポスターはほんとうに「環境型セクハラ」なのか?

てれびん:なるほど。

海燕:まず、①から考えてみよう。Wikipediaでは、「パブリックスペース(公共空間)」を以下のように定義している。

 

パブリックスペース (public space 、公共空間) とは、個人に属さない公(おおやけ)の空間。

日本語で「公の」という言葉からは「官製」が連想されるが、パブリックという英語には、公衆の、一般に開放された、公開の、という意味がある。このため必ずしも公的に整備された空間でなくとも、一般に開放されている公共性の高い空間も含まれる。

公共の広場、公開空地、学校、駅、病院、図書館、劇場、街路等にある人が集えるスペースなどがあてはまる。

 

 この文章を読む限り、まず、「一般に開放されている公共性の高い空間」である献血ルームも「公共空間」に含まれると考えていいだろう。日本赤十字社という一企業団体の管理下にあるとはいえ、ほぼだれでも自由に入っていける場所だからね。そして、その公共性の度合いは学校や、駅や、図書館などと同じ程度ということになる。

てれびん:ほほう。

海燕:次に②。このポスターははたして「環境型セクハラ」にあたるだろうか? 労働問題弁護士ナビというサイトの記事(https://roudou-pro.com/columns/99/#toc_anchor-1-7-2)は、環境型セクハラについて、

 

環境型は「身体接触型」、「発言型」、「視覚型」の三つに分けられており、

①「上司が通りすがりに胸を触る」という身体接触型
②「社内で不倫しているという噂を執拗に流す」という発言型
③「仕事上必要もないのに同僚が職場内にヌードポスターを貼り続けていることで仕事に専念できない」という視覚型

といった、意に反する性的な言動によって仕事をするのに支障が生じることを言います。

 

 と書かれている。ここを読むと、このポスターが「環境型セクハラ」にあたるという発言が的外れであることがわかるよね。

てれびん:うん? 何で? ③の「視覚型」にあたるんじゃないの?

海燕:その節穴をよく見開いて読んでみろ。「仕事をするのに支障が生じること」と書いてあるだろ。「環境型セクハラ」とは、あくまでその場で仕事をしている当事者に対して適応される概念なんだ。

 したがって、この場合、日本赤十字社の社員がセクハラだと感じたのでない限り、「環境型セクハラ」にはあたらない。つまり、太田弁護士の「環境型セクハラ」であるという告発は間違えている。「宇崎ちゃんポスター」は「環境型セクハラ」ではない。

てれびん:なるほど。わかった。じゃあ、これでおしまいだね。うちに帰って『FGO』のアニメでも見よ。

海燕:そうはいかない。太田さんの「環境型セクハラ」であるという指摘は端的に間違いだといえるとしても、「宇崎ちゃんポスター」にまったく問題がないということにはならないから。

 実際、この後、Twitterでは「このポスターは献血ルームに掲げられるにふさわしいかどうか?」という議論が延々と続くことになる。そのすべてを合わせると膨大な量になるので、今回はいくつか主要な批判を並べて、なぜその意見に納得できないのか語っていくことにする。

てれびん:しかたない。もう少しだけつきあおう。

海燕:つきあえ。まあ、こういう書き方をすると、「あの論点はどうだ」、「この批判が抜けているぞ」といった指摘が飛んでくることが予想されるんだけれど、それはしかたないよね。

 半月にわたってTwitterを舞台に繰り広げられたすべてのやり取りを拾い上げることは端的に不可能。もし、「このことについてはどう思っているの?」という意見があったらぜひ教えてほしい。追記するかもしれないから。

 じゃ、行くぞ。

てれびん:うん。

海燕:まず、「「宇崎ちゃん」献血ポスター、なぜ議論がこじれるのか」という記事(https://news.nicovideo.jp/watch/nw6102363/comments/32917769)。この記事は、以下のように、「宇崎ちゃんポスター」が「アウト」であることを自明のものとしている。

 

 公共の場における女性表象のセクシズムについては、すでに30年以上前から問題化されている。そして、女性性を安易なアイキャッチとして利用したり、ステレオタイプ的な表現だったりといった、女性を客体化する表象は批判にさらされ、次第に減少してきたという歴史がある。

 この文脈の中に位置づけるならば、件のポスターは確かにアウトとならざるをえない。同作品とコラボするにしても、より穏当で無難な素材は他にもあったのだから、一番「悪ノリ」に近いイラストを選択した担当者はいかにも不用意であったというしかない。

 

 そもそも「女性を客体化する表象」が「減少」しているなどという事実はまったく存在しないと思うんだけれど、まあ、「安易なアイキャッチ」や「ステレオタイプ的な表現」なら減って来ているかもしれない。ここはおおらかにスルーすることにしよう。

 ただ、この記事の著者が「宇崎ちゃんポスター」が「アウト」である理由を明確に語っていないことはたしかだ。ただ「この文脈の中に位置づけるならば」とはいっても、その文脈のなかに位置づけることができるのかどうか、仮に位置づけることができるとして、それなら献血ルームにふさわしくないといい切れるのかどうか、不明としかいいようがない。

 ポスターの選択基準に関する批判としては、きわめて論拠が弱いと思う。さらに記事は続く。

 

 にもかかわらず、このポスターには擁護の声が集まっている。女性をアイキャッチにして何が悪いのか・献血が多く集まるのだから良いではないか・そもそもこのポスターのどこが「性的」なのか、などである。

 公共の場で女性をアイキャッチ的に使うことがなぜ悪いのかというと、端的にいえば、それが女性を客体として消費することを公的に承認することになりかねないからである。それは性差別を承認することになるので、献血者が増えるから良いじゃないかといった、功利主義の観点から擁護することもできない。

 

 これを字面通りに読むと個人的にはまったく理解できない主張だが、ここは寛容に、女性を公共空間で「性的」なアイキャッチとして使うのはダメなのだ、という意味に受け取っておくことにしよう。まさか「女性をアイキャッチにすること」全般がダメだとはいわないだろうから。それでは、「宇崎ちゃんポスター」は「性的」なのか? 記事はこう続く。

 

 ポスターのどこが「性的」なのかについては、筆者自身オタクである者としては、そりゃ明らかだろと言いたい。完全に2次元表現における性的なコードに沿って描かれてるじゃん! そりゃ人によって感じ方は異なるかもしれないけど、そこじゃないじゃん! 自分の感じ方じゃなくて、オタク文化をそれなりに享受してきた人間ならだいたい理解できる共通認識の問題じゃん! いまさらカマトトぶんなよ!

 

 いや、「明らか」じゃないから議論になっているんだろうと思ってしまうが、この人の主張では規制反対派はあきらかに「性的」であることを内心では了解していながら「カマトト」ぶってとぼけているのだ、ということになるらしい。つまり、どう見ても「性的」な画像であることを了解していながら、自分の主張を通すために「性的」ではないといい張っているというわけだ。

 この主張はどうなのか? まあ、実際、微妙なところだと思う。そういう人もいるかもしれない。「人によって感じ方は異なる」ので、まったく「性的」だと感じない人もいるだろうけれど、ほんとうは「性的」だと思っているのに「どこが性的なんだ!」といっている人もけっこういるかもね。

てれびん:そこは認めるんだ。

海燕:認める。ただし、だからこそれは「性的」な画像だ、といい切るにはやはり論拠が弱い。「見ればわかるだろ」では説明にも何にもなっていない。しかし、ぼくはそこにはあえて深入りするつもりはない。そもそもある画像、あるいは表象が「性的」であるかどうかなんて、一律に決めようがないと思うから。

 ある画像を見て、「性的だ!」と思うか思わないかはその人の内面の問題であり、画像そのものによって均一に決定される事項ではない。

 たとえばぼくあたりは半裸の男性のイラストを見ても性的だとは思わない可能性が高いけれど、それを同性愛者や腐女子の人が見たらきわめて性的だと感じるかもしれない。そもそもあるイラストが「性的」かどうか、なんて議論が無意味なんだ。

 ただし、それでもなお、社会通念上、「公共空間」にふさわしくないほど「性的」だとみなしうる画像はやはりありえるし、実際にあるだろう。まあ、端的にいって先ほど話に出た「ヌードポスター」あたりは避けたほうが無難ではあるとぼくも思う。

 やはり公共の場にふさわしくないほど過度に「性的」であるとみなされる可能性があるからね。もっとも、決して「そんなものダメに決まっている」とは思わない。議論を呼ぶ可能性がある、ということだ。

 それじゃ、「宇崎ちゃんポスター」はどうなのか? そのような画像なのか? ぼくはそうは思わない。過度に「性的」だと考える根拠がないから。ただ、少しも、まったく「性的」ではない、とまでは思わない。先にいったように「性的」かどうかはあくまで個人の主観の問題でしかないにしろ、この画像を「性的」だと感じる人は一定数いるだろう。

 このイラストは着衣だが、そもそも何かしら人間のからだが描かれていればそこに「性的なるもの」を見いだす人は必ずいる。これは宇崎ちゃんの胸が大きいからではない。胸が大きくても小さくても、「性的」に見ようと思えば見れるということ。

 そもそも、いわゆる「巨乳」より小さな胸が好きで、そういう胸を「性的」だと感じる人もいるだろうから、この画像が「性的」でないとはいい切れない。ただし、ここで考えるべきなのはこの画像が献血ルームという空間にふさわしくないほど過剰に「性的」なのかどうか、ということのほうだ。

 なぜなら、単に「性的」な画像、そう見ることができる画像をすべて「公共空間」から排除しようなどと思ったら、表現の自由どころの騒ぎではなくなるから。繰り返すけれど、何か人間(女性に限らない)の身体が描かれていたら、そこに「性的」なものを感じる人は必ずいる。つまり、「性的」なものの一切を「公共空間」から廃するということは、事実上、人間を描いて発表してはならないということに等しいわけだ。そこまでの暴論に賛成する人はだれもいないだろう。さすがに。

てれびん:と、思うよ。

海燕:ヒトラーでもそこまではいい出さなかったからね。だから、ある程度までの「性的」な画像は「公共空間」においても許容されるべきだ、ということになる。で、この画像はそのラインを超えているだろうか? ぼくはやはりそうは思わない。

 この記事では、これ以降、「宇崎ちゃんポスター」がそのような意味で「アウト」である理由の説明はなく、単純に「性的なアイキャッチはすべてアウト」と捉えているように見えるから、この後の内容については扱わない。

 はっきりいってこの後も全然納得できない論旨が続くんだけれど、それについては個々で判断してほしい。いちいちすべてに反論している余裕はないからね。いろいろな意味で。

てれびん:いいかげん長くなってきたものな。

海燕:いや、ほんとに。なので、この記事のことは措くとして、次の記事に移ろう。「宇崎ちゃん献血ポスターは失敗。しかし撤去してはならない。」と題した記事(https://tikani-nemuru-m.hatenablog.com/entry/2019/10/28/010505)だ。

てれびん:ふむむ。

海燕:非常に長い記事なのだけれど、長すぎて一部分の引用が困難なのであえて論旨を要約すると、「人を争わせるような献血ポスターは失敗だ。なぜならそのような画像は赤十字への信頼を損ない、純粋な利他性からの献血行為を阻んで血液の「質」を下げることにつながるからだ。」というもの。

 もし、ぼくが適当なパラフレーズをしていると思ったらリンクから原文を読んでほしい。ぼくは本来、パラフレーズはあまり好まない。

てれびん:ふむむむ。

海燕:この論理は非常に面白い。よくもまあ考えたものだと思う。一見して、隙がないように見える。

 「献血は血液の「質」が重要だ。→献血に「純粋な利他性」以外の理由で参加する人はその人の目的のためウソをつく可能性がある。→そのようなウソは血液の「質」を下げる。→ゆえに、「純粋な利他性」を阻害するような事件を起こすポスターは失敗である。」という理屈なんだけれど、いやー、ほんと、こんな桶屋が儲かるみたいな理屈、よう考えるわ。

てれびん:じゃ、納得したの?

海燕:するわけないだろ。

てれびん:あ、やっぱり。

海燕:たしかによくできた理屈だとは思うけれど、それは、「なるほど、机上の空論というものはこうやって構築するんだな」という意味においてでしかない。

 まず、献血における血液の「質」が重要だということは納得するとして、そもそもその「質」を決定的に左右するのは問診ではありえないという事実が無視されている。つまり、「質」を決めるのは血液の検査であって、問診は副次的な意味しか持たないんだ。

 たしかに、「血液の検査あるいは処理により、ある程度は感染症の病原体を取り除くことはできるが、その全てに対応することは現実的に不可能」ではあるだろう。だからこそ問診が必要となるのだろう。しかし、問診にも、いや、問診にこそ限界がある。

 いくら純粋な利他心から期待して特別なノベルティを用意しなかったとしても、何らかの悪意からウソをつく人やどうしようもないウソつきが混ざっているかもしれないし、そうでなくても事実を誤解している人は混ざりこむ。もしそういう人がいたらそこでおしまいというシステムでいいのか? いいわけがない。

 だからこそ、「血液の検査または処理」は決定的に重要だ。もちろん、だからといって問診がまったく重要ではないということはならない。問診でウソをつく人は少ないほうがいいには違いないだろう。したがって、「純粋な利他性」から来てくれるに越したことはない。

 だけど、このパーフェクトなロジックでパーフェクトに見過ごされている問題がもうひとつある。

てれびん:何?

海燕:血液の「質」ならぬ「量」の問題だよ。もし、献血において血液の「質」だけが重要なのだというのなら、理論上、一切のノベルティはやめたほうがいいだろう。それらは「純粋な利他性」を阻害するからだ。

 それならばなぜ、現実にノベルティが用意され、「マイルドな売血」が行われているのか? 赤十字の中の人は筋金入りのアホなのか? そんなわけはない。献血においては、「質」の維持とともに「量」の確保が重要だからだ。むしろ、「量」の確保こそが重要だというべきだろう。

 だからこそ、赤十字はさまざまな広告を使って献血を呼び掛けているわけだ。「宇崎ちゃんポスター」の一件は、たしかにネット上においてひと騒動をひき起こした。それは、問診でウソを書く人を増やし、血液の「質」を下げた「かもしれない」。その可能性が絶対にないとはいい切れない。

 しかし、それはあくまで推測に推測を重ねた想像上の可能性であるに過ぎない。それに対して、血液の「量」が増えたということは、客観的に観測できる事実だ。これがポスターの成功でなくて何だろう?

 もし、血液の「質」が下がる可能性だけを重視するなら、あらゆるノベルティはその可能性を増やすからやらないほうがいい、ということになる。だが、現実には血液の「量」を確保する必要があるため、この種のノベルティは必要なんだ。

 そして、宇崎ちゃんのポスターとノベルティは実際にその役割を果たしたであろうことが確認できる。繰り返すよ。これがポスターの成功でなくて何だ?

 そもそも、この理屈でいうと、「宇崎ちゃんポスター」を巡る論争が発生したことによって血液の「質」が下がるのは、献血に行く人が「よし、問診でウソをついてでも献血して、宇崎ちゃんポスターが有効であったことを証明してやろう」などと考えた場合くらいだろう。そんな奴いるか?

 ああ、わかっている。絶対にいないとはいい切れない。そいつのせいで血液の「質」がごくわずかに下がることもありえるかもしれない。でも、それ以上に大切なのは血液の「量」だろ。そういうふうに考えるからこそ赤十字の人も、「マイルドな売血」といわれようが、お菓子やジュースやノベルティやテレビや快適な空調を用意しているんだろ。

 この理屈でいくとそれらはすべて血液の「質」を下げる性質で、何ならないほうが良いはずのものだ。でも、実際に赤十字はそれらを使っている。そのくらい血液の「量」が必要だということでもあるし、また、血液の検査や処理に一定の信頼がおけるということでもあるだろう。

 とにかく、献血の「量」を増やしたというTwitterを見れば客観的に観測できる事実を無視して「質」の低下という架空の可能性だけを問題視することは納得がいかない。それでも、ここまではこの記事もなかなかよく書けているんだけれど、この先で一気にトンデモになる。

 

宇崎ちゃんポスターのセリフがこれである。これもいろいろひどい。
注射はセックスの比喩としてエロ小説やシモネタでよく使われることはみなさまご存知であろう。つまりこのセリフは性交未経験であることへのからかいであり、童貞いじりである。

 

 アホらし。いろいろひどいのはどっちだ。

てれびん:いやいやいやいや。

海燕:あ、ごめん、本心が漏れ出ちゃった。てへぺろ。まあ、いちいち反論するのもばかばかしいのでしないけれど、この理屈がどれだけおかしいかはわかってもらえると思う。で、この文章はまだ続く。

 

運動習慣をつけたことで献血ができる身体になり、利他行動の喜びを享受できるようになったいまの僕であるが、当時「注射怖いんか?」とかいうポスターが掲示されていたら、「なんで善意で血を提供にきて、検査のすえに断られてこんなこと言われにゃならんのだ!」ブチ切れたかもしれないし、いま献血しているかどうかわからぬ。

 

 はいはい。そうですか。てれびん、おかしいと思わん?

てれびん:何がおかしいの?

海燕:えっと、ここで急に話が血液の「量」の問題になっていることがわかるかな? ポスターを見た人が「献血しているかどうかわか」らなくなって困るのは、血液の「量」を確保できなくなるからだよね。

 でも、血液の「質」を維持するための「純粋な利他性」という意味では、このポスターを見たくらいで献血をやめたくなるような利他性が貧困な人は帰ってもらったほうが良いということもいえる。

 必ず人の役に立ちたいという確固たる利他性を持っているなら、まさか献血のポスターで「怖いんスか?」とか書いてあるのを見たくらいで献血をやめたりしないだろ?

てれびん:また意地の悪いことをいいだしたな(苦笑)。

海燕:でも、この理屈に従うならそういうことになるんだよ。ぼくはあくまでこの記事のロジックにしたがって話を展開している。

 一貫して血液の「質」の問題だけを扱ったこの記事の理屈でいうなら、「このように覚悟の不完全な人を排除して血液の「質」を確保するから、このポスターは成功である」という結論になるはずなんだ。

 それがそうなっていないのはここで論旨を歪めているからじゃないかにゃー。ぼくはそう思うにゃー。

てれびん:海燕さん、そのうち殴られるよ。

海燕:殴られるのが怖くてブロガーやっていられるか! 怖いけど。それはともかく、この記事はこのように結論している。

 

政治的分断を絶対に持ち込んではならない献血に分断と対立を持ち込み、赤十字に必要不可欠な中立と公平という価値をないがしろにし、将来のための献血教育を促進するどころか足をひっぱり、一時的に献血を増やしたとしても血液の質を落とす方向性のあるマイルドな売血であり、献血未経験者・献血ができない人へのからかいまでやらかしたこのキャンペーンは、やってはいけないことをコトコト煮詰めてできた安易で無神経で身勝手などうしようもない失敗の見本であり、ポスター撤去・キャンペーン中止すらかえって献血の価値につけられた傷を深くするという、クソの中のウンコとでもいうべき犯罪的な愚行です。
徹底的に批判しなきゃいかんです。こんなの通すなんて、赤十字は脳が煮崩れてるんと違うか?

 

 これはひどい。日本赤十字社への批判というより、誹謗中傷というべきだろう。そもそもポスターの「センパイ! まだ献血未経験なんスか? ひょっとして……注射が怖いんスか?」という煽りをジョークとして認識できず、「献血未経験者・献血ができない人へのからかい」と考えたしまうような精神構造の人は、問診で間違えたことを書いて血液の「質」を下げてしまう可能性があるから献血をやめてほしい。

てれびん:また無茶なことをいいだした。

海燕:そういう理屈になると思うけれどなあ。まあ、この記事についてはこのくらいで。次!

てれびん:そろそろ読者も疲れていると思うよ。

海燕:書いているぼくも疲れているんだから頑張れ! 最後はこのツイート(https://twitter.com/orz404/status/1188476644232613888)。あのポスターは「乳袋」などの「エロ記号」を使用しているからエロいのだ、という話ですね。

 これは一理ある。このツイート(https://twitter.com/midorimushiharu/status/1188956798071394304)と合わせて考えると一定の説得力がある。ただし、何を「エロ記号」とみなすのかは自明の理じゃない。このふたつ目のツイートでは、

 

この場合はエロ記号は
・乳袋
・腰を曲げて上体を反らし胸を強調する謎ポーズ
(重心どうなってるの?)
・胸の谷間線+布が伸びる横しわ
・胸が中心に来る様な構図
・胸の下の過剰な影
・服は皺だらけなのに、胸だけ皺がない
・トッピングに薄目&垂れ眉&うっすら赤らめ頬
辺りでしょうか?

 

 と書かれている。どう? これがすべて「エロ記号」だと思う?

てれびん:うーん。たしかにちょっとね。

海燕:だろ。「乳袋」はまだいいとしても(ほんとはリアルでも「乳袋」はできるという話はあって良くないのだが、これについて書いているとさらに長くなるのではしょる)、「腰を曲げて上体を反らし胸を強調する謎ポーズ(重心どうなってるの?)」は実際には「胸を強調」しているんじゃなくて、「センパイ」を見下してばかにしているのだろうと思う。特段、「エロ記号」ではない。

 そのほかの服のしわだの影だの、胸が中心に来る構図だのは、「それを本気で公共空間にふさわしくないほどのエロ記号だと思っていますか?」というもの。胸の下に過剰な影があるからとか、胸の部分にしわがついていないからとか、その程度のことでこれは公共の場には置いておけないほど性的で卑猥だと、ほんとの本気でいっているのなら、かなりおかしいと思うよ。

 このレベルの「エロ記号」なら、多くの人が『宇崎ちゃん』と比較して肯定的に捉えている『はたらく細胞』のイラストにも見て取ることができる。「薄目&垂れ眉&うっすら赤らめ頬」にいたってはどう考えても「エロ記号」じゃないでしょ。これはあきらかに「センパイ」をバカにして喜んでいる表情だ。

 何ですか。あなたは女の子が薄目だったり頬を赤らめているシチュエーションというと、エロいシーンしか想像できないんですか? それこそセクハラ的発想ではありませんか?

てれびん:まあ、そうかも。

海燕:したがって、「エロ記号」が使われているからきわめて性的だ、公共空間にふさわしくない、といい張ることも無理がある。それがほんとうに「エロ記号」なのか、仮に「エロ記号」だとしても公共空間からの排除にふさわしいほどのものなのかは、慎重に議論されるべきだろう。

 ぼく自身はこのイラストが過度に、過剰に性的だとはまったく思わない。また、あるシチュエーションにおいて「エロ記号」として作用する表現も、べつのシチュエーションにおいてはそうではないということもわきまえておくべきだろう。

 同じような記号的な表現も文脈によってまったく違った意味をもつのがマンガ表現だ。このイラストの場合は、少なくともあきらかに性的な場面じゃないですよね。以上! まだほかにもいろいろな論点があるけれど、これくらいにしておこう。

てれびん:うむ。

海燕:まあ、いろいろ書いてきたけれど、『宇崎ちゃんは遊びたい』、いいマンガなんだよ。もちろんいいマンガであることとそのイラストが献血ポスターに適当かどうかは別問題だけれど、個人的にはフェミニストがこの作品を叩くことは何か間違えている気がしてならない。

 ぼく自身、いまだにフェミニストを名乗っている身なのだけれど、その視点から見て、このマンガはきわめて「正しい」と感じる。くわしい解説はまたにするけれど、胸が大きいという身体的特徴を持った女性の描写としては、倫理的、道徳的、教育的、政治的に「正しい」といっていいんじゃないだろうか。

 できれば、ぜひ、自分で読んで判断してほしい。ほんとうに良い作品だから。というわけで、さらばです。朝日がまぶしい。

てれびん:夜が明けちゃったね。

海燕:おやすみ。

てれびん:はい。おやすみ。