萌え絵は環境型セクハラだと言うフェミニストの皆さんへ

あいちトリエンナーレの表現の不自由展の騒動が冷めやらぬ中、今度は献血ポスターに採用された萌え絵表現への抗議でTwitterは荒れています。
問題の絵である「宇崎ちゃんは遊びたい!」という漫画のキャラクターである宇崎ちゃんが、異様に胸が強調されている為、性的だとして主にフェミニスト達から猛烈な批判を浴びています。

わたしもフェミニストであり、かつてはこの種の萌え絵に得も言われぬ違和感を覚え、どちらかと言えば嫌悪する側でした。が、わたしは表現の自由主義者。己の嫌悪感は差し挟まず、あいちトリエンナーレで問題となった天皇の肖像を焼く動画などと同様、公平に表現の自由を主張しています。
なお、献血はコミケ会場に併設される事が多い為、オタク層をターゲットにする事は特に問題ないかと思います。実際に都内の献血ビルをルポした方によれば、問題のポスターも献血ビルの中に入らなければ見ることもなく、よく探さなければ見つからず、秋葉原の献血ビルに数枚あった程度、との事でした。

それでもこの絵に対する嫌悪感の強い人達の怒りは収まらないようで、「巨乳の人が見たら可哀想!」「環境型セクハラだ!」「私は巨乳ですが、この胸のせいでからかわれたりセクハラされて嫌な思いをして来たんです!」と、実在の巨乳の方々もわたしに怒りをぶつけて来られます。
「あらゆる表現は意図せず誰かを不快にさせるもの」なので、それは当然。不快に思う人の気持ち自体は否定しません。現に、かつてのわたしも萌え絵が嫌いでした。
しかし、この意見をフェミニストを名乗る人達も一緒になって叫んでいるのは不思議です。
フェミニズムとは、女性を長らく押さえ付けて来た社会の役割や性的な偏見や古い価値観から解放し、女性はもっと自由になろうと謳って来た思想のはずだからです。

フェミニストこそ、「女の胸がでかくて何が悪い!」と言うべきではないでしょうか。

Twitterでは「アメコミの女性キャラは胸の露出が多いのに不快じゃ無いのは胸が大きくても強調されてないから」と絵付きで説明する人もいましたが、まるで、スカートの丈や前髪の長さをチェックする風紀委員のようです。
昔、娘や生徒がミニスカートを履いたり体のラインを強調する服装をしたら怒るお父さんや教師みたいな事を、女性の自由を主張するはずのフェミニスト達が率先しているのが怖いです。
しかも、萌え絵はフィクションの世界の絵です
よ。(こう言うと、現実の女性とフィクションを一緒にするな!と言う方がいますが、あなた方がフィクションである萌え絵を現実と混同して騒いでいるから批判されるのです)

もちろん、おっぱいのでかい女性をいじる男の子達やセクハラをする大人達というのは必ずいて、人によっては深い心の傷となります。しかし、悪いのは「自分の性欲や性への見下しを相手の承諾無しにぶつける人達」と、それを許して来た社会の風潮であり、表現物ではありません。

ここでわたしの話をさせてください。
今は出産した上、加齢でしぼんでしまいましたが、かつてEカップの胸を持っていたわたしは、20代の頃は自ら好んで胸が強調されるピタピタTシャツやセーターを着て、もっと胸が大きく見えるよう、パッドを入れて底上げまでし、自分の体を性的な視線で見られることも承知で楽しんでいました。(現在は見る影もありませんが、わたしは自分の体を普通に受け入れていますから、別段悲しくもありません。今は胸が無いぶん、洋服をすっきり着られるし、乳首隠しのついたワイヤー無し下着をつけて肩こりのない快適な毎日を過ごしてます)
わたしのような女性も少なからずいるはずです。そうでなければ、見せブラ、底上げボリュームUPブラなどの需要は市場に一切無い事になります。

さて、20代の頃は性の対象として眺められるのも悪くないと思っていたわたしは、加齢とともに胸も萎んだ代わりにフェミニズムに目覚め、40歳を前にして、まんこのアートをするようになりました。
まんこのアートと言うだけで、面と向かって「汚いから寄るな!」と嫌悪感を示す人もいましたし、簡単にセックスができる女だと思われ、仕事の話と称してわたしを呼び、ホテルに連れ込もうとする人もいました。一番多かったのは、性的な表現をしているからと、人間以下のように見下す人達でした。
そこで気の強いわたしは反発するのですが、驚く事に、その場にいた人達まで、「怒りすぎだ」「女なんだから大人になってあげないと」と、同じ女性ですら、わたしを牽制したりバカにするのです。とてもガッカリしました。
女性に嫌なことをするセクハラ加害者の方が社会的に立場が強いと、周りは無視するか、加害者側に立つのです。これではセクハラが一向に無くならないわけです
この手の話はわたしの体験に限った事ではないと思います。
つい最近も、フォトジャーナリストの広河隆一氏の複数の性接待強要事件が発覚した騒動が記憶に新しいですが、被害者達によれば、人権団体の関係者に相談しても聞いてもらえなかったが、metooムーブメントを機に勇気を出して週刊誌に告発したとの事でした。恐ろしい事に、人権団体の人達ですら、権威ある人のセクハラを、長年見て見ぬふりして来たのですよ。
カトリック教国であるアイルランドでも、神父の信徒の子供達への性虐待が長らく隠されていた事が80年代に大問題になりましたが、これも同じく、加害者の悪事を正すべきはずの信者達が隠して来たのが根深いです。

話を萌え絵を抗議するフェミニスト達に戻します。
「萌え絵が公共の場にあるとセクハラに加担する事になる」なら、萌え絵などなかった時代はセクハラは一切無かったのでしょうか?
あなた方の主張が世間に届いていたら、広河氏の十数年に及ぶ性接待強要も、あらゆるセクハラはとっくに問題視され、解決していたはずですが、なぜ見過ごされて来たのでしょうか?

繰り返しますが、本当の敵は、セクハラや性暴力をする加害者と、それを見過ごしたり無視したり、被害者をバカにする周りの空気です。物言わぬ表現を攻撃しても、世界は変わりません。
胸のでかい人は自分の体を恥じる事はないし、胸を強調する服装をしたい人は自由にすればいい。それを見て冷やかしたりセクハラする人には、10メートルダッシュで跳び蹴りか4の字固めで阻止する社会にしましょうよ。

最後に、それでも萌え絵が「環境型セクハラだ!」と言う事でしたら、日常のあらゆる事象を性的だと思った瞬間に取り締まらないといけませんので、わたしも性的に感じた物をUPしますね。ご査収ください。

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