シリアル番号 | 表題 | 日付 |
361 | 佛説摩訶般若波羅蜜多心経 | 99/4/7 |
IAST(International Alphabet of Sanskrit Transliteration)表記
漢訳(小本 唐三蔵法師玄奘 649年訳)
佛説摩訶般若波羅蜜多心経
原典のタイトルnamas sarvajñāyaaは「帰命一切智」であり、namasは帰命の意味だが、日本では音読みして南無・・となる。たとえば南無阿弥陀仏は阿弥陀仏に帰命す るという意味となる。三蔵法師の訳は仏教を捻じ曲げている。仏教が中国にはいったとき、既に文章語と会話語は乖離していた。どちらの言語で翻訳すべきか考 えて、一般大衆にわかりやすいようにと口語体で翻訳したため、仏典は文語のルールでは読解できないものになってしまった。聖書も文語調が時代を越えて普遍 性をもっていたわけで、文語になってから読む人は少なくなった。
観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。
度一切苦厄。舎利子。色不異空。空不異色。
色即是空。空即是色。受想行識。亦復如是。
舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。
是故空中無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。
無色声香味触法。無限界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明尽。乃至無老死。亦無老死尽。
無苦集滅道。無智亦無得。以無所得故。
菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。
無罣礙故。無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。
究竟涅槃。三世諸仏。依般若波羅蜜多故。
得阿耨多羅三藐三菩提。故知般若波羅蜜多。
是大神呪。是大明呪。是無上呪。是無等等呪。
能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。
即説呪曰。羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
菩提薩婆訶。般若心経。
日本語訳(小本 インド哲学の国際的な権威東大名誉教授中村元(はじめ)、岩波文庫1960 年)
全知者である覚った人に礼してたてまつる。
求道者にして聖なる観音(聖アヴァローキテーシュヴァラ)は、深遠な智恵の完成を実践していたときに、存在するものには五つの構成要素があると見きわめ た。しかも、かれは、これらの構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見きわめたのであった。
シャリープトラよ。
この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象で(ありうるの)ある。
実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。
(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである。
これと同じように、感覚も、表象も、意思も、認識も、全て実体がないのである。
シャリープトラよ。
この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。
生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すということもない。
それゆえに、シャリープトラよ
実体がないという立場においては、物質的現象もなく、感覚もなく、表象もなく、認識もない。眼もなく、(耳もなく)、鼻もなく、舌もなく、身体もな く、心もなく、かたちもなく、声もなく、香りもなく、味もなく、触れられる対象もなく、心の対象もない。眼の領域から意識の識別の領域にいたるまでことご とくないのである。
さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなること もないというにいたるのである。
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。
それゆえに、得るということがないから、諸の求道者の智慧の完成に安んじて、人は、心を覆われることなく住している。心を覆うものがないから、恐れがな く、傾倒した心を遠く離れて、永遠の平安に入っているのである。
過去・現在・未来の三世にいます目ざめた人々は、すべて、智慧の完成に安んじて、この上ない正しい目ざめをさとり得られた。
それゆえに人は知るべきである。智慧の完成の大いなる真言、おおいなるさとりの真言、無上の真言、無比の真言は、すべての苦しみを鎮めるものであり、偽り がないから真実であると。その真言は、智慧の完成において次のように説かれた。
ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー
(往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ)
ここに智慧の完成の心が終わった。
英訳(小本 鈴木大拙訳、Manual of Zen Buddhism, 1935)
The Prajnaparamita-Hridaya Sutra
When the Bodhisattva Avalokitesvara was engaged in the practice of the deep Prajnaparamita, he perceived: there are five Skandhas ; and these he saw in their self-nature to be empty.
"O Sariptra, form is here emptiness, emptiness is form ; form is no other than emptiness, emptiness is no other than form ; what is form that is emptiness, what is emptiness that is form. The same can be said of sensation, thought , confection, and consciousness.
"O Sariptra, all things are here characterized with emptiness : they are not born, they are not annihilated ; they are not tainted, they are not immaculate ; they do not increase, they do not decrease.
Therefore, O Sariptra, in emptiness there is no form, no sensation, no thought, no confection, no consciousness ; no eye, ear, nose, tongue, body, mind ; no form, sound, colour, taste, touch, objects ; no Dhatu of vision, till we come to no Dhatu of consciousness ; there is no knowledge, no ignorance, till we come to there is no old age and death, no extinction of old age and death ; there is no suffering, accumulation, annihilation, path ; there is no knowledge, no attainment, [and] no realisation because there is no attainment. In the mind of Bodhisattva who dwells depending on the Prajnaparamita there are no obstacles; and, going beyond the perceived views, he reaches final Nirvana. All the Buddhas of the past, present , and future, depending on the Prajnaparamita, attain to the highest perfect enlightenment.
"Therefore, one ought to know that the Prajnaparamita is the great Mantra, the Mantra of great wisdom, the highest Mantra, the peerless Mantra, which is capable of allaying all pain ; it is truth because it is not falsehood: this is the Mantra proclaimed in the Prajnaparamita. It runs: 'Gate gate paragate, parasamgate, dodhi, svaha!' (O Bodhi, gone, gone to the other shore, landed at the other shore, Svaha)!")
サンスクリット原典、漢訳、日本語訳、英訳の対比表
サンスクリット原典 | 漢訳 | 日本語訳 | 英訳 |
āryā | - | 聖 | - |
āryāvalokiteśvaro | 観自在 | 聖なる観音 or 聖アヴァローキテーシュヴァラ | Avalokitesvara |
bodhisattvo | 菩薩 | 修行者 or 求道者 | Bodhisattva |
yāṁ | 時 | ときに | When or in |
gaṁbhīrāyāṁ | 行中 | ・・・を実践 | engaged in |
prajñā | 般若 | 智恵 | Prajna |
pāra | 波羅 | 彼岸 | para |
mitā | 蜜多 | 行の実践 | mita |
prajñāpāramitā | 般若波羅蜜多 | 智恵の完成 | Prajnaparamita |
car | 照見 | 見きわめた | perceived |
sma | - | これらの | these |
pañca | 五 | 五つの | five |
skandhās | 蘊 | 構成要素 | Skandhas |
pañca skandhās | 五蘊 | 五つの構成要素=色・受・想・行・識の5種 | five Skandhas |
ca | - | しかも | and, also as well as, moreover |
- | 度一切苦厄 | - | - |
śāriputra | 舎利子 | シャリープトラ=釈迦の十大弟子の一人 | Sariptra |
rūpa | 色 | 物質的現象 or かたち or 存在 | form |
śūnya | 空 | 実体がない 「旧約聖書」、「伝道乃書」第一章冒頭に「空の空 空の空なる哉 都(すべ)て空なり」 がある。ここで空はラテン語聖書ではVanitasであるから英語ではvainであろう。 | emptiness |
rūpam śūnyata, śūnyataiva rūpam | 色性是空。 空性是色。 (玄奘は省略) | 物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ、物質的現象である | form is here emptiness, emptiness is form |
na | 無 or 不 | ない | no |
pṛtha | 異 | 離れる | other than |
rūpān na pṛthak śūnyatā śūnyātāyā na pṛthag rūpam | 色不異空。空不異色。 | 実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない | form is no other than emptiness, emptiness is no other than form |
yad rūpaṁ sā śūnyatā yā śūnyatā tad rūpam | 色即是空。空即是色。 | およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないといいうことは、物質的現象なのである | what is form that is emptiness, what is emptiness that is form |
evem eva | 亦復如是。 | これと同じように | The same can be be said of |
vedānā | 受 | 感覚 | sensation |
saṁjñā | 想 | 表象 | thought |
saṁskāra | 行 | 意思 | confection |
vijñānāni | 識 | 認識 | consciousness |
sarva | 諸 | すべて | all |
dharmāḥ | 法 | 存在するもの | things |
lakṣaṇā | 相 | 特性 | characterized |
sarva-dharmāḥ śūnyatā-lakṣaṇā | 是諸法空相 | この世においては、すべての存在するものには実体がないという特性がある。 | all things are here characterized with emptiness |
anutpannā aniruddhā amalāvimalā nonā na paripūrṇāḥ | 不生不滅。不垢不浄。不増不減。 | 生じたということもなく、滅したということもなく、汚れたものでもなく、汚れを離れたものでもなく、減るということもなく、増すとい うこともない | they are not born, they are not annihilated ; they are not tainted, they are not immaculate ; they do not increase, they do not decrease |
tasmā | 是故 | それゆえに | Therefore |
yāṁ | 中 | in | |
tasmāc cāriputra śūnyatāyāṁ na rūpaṁ | 是故空中無色 | 実体がないという立場においては、物質的現象もなく | Therefore, O Sariptra, in emptiness there is no form |
cakṣuḥ-śrotra-ghrāṇa-jihvā-kāya-manāṁsi | 眼耳鼻舌身意 | 眼、耳、鼻、舌、身体、心 | eye, ear, nose, tongue, body, mind |
rūpa-śabda-gandha-rasa-spraṣṭavya-dharmāḥ | 色声香味触法 | 物質的現象 or かたち、声、香り、味、触れられる対象、心の対象 | form, sound, colour, taste, touch, objects |
cakṣur | 限 | 眼 | vision |
dhātur | 界 | 領域 | Dhatu |
mano | 意 | 意識 | consciousness |
cakṣur-dhātur | 限界 | 眼の領域 | Dhatu of vision |
mano-vijñāna-dhātuḥ | 意識界 | 意識の識別の領域 | Dhatu of consciousness |
na vidyā | 無明 | さとりと迷いがない | no knowledge, no ignorance |
kṣayo | 尽 | なくなる | extinction |
vidyākṣayo | 無明尽 | さとりと迷いがなくなることもない | - |
jarāmaraṇaṁ | 老死 | 老いと死 | old age and death |
jarāmaraṇakṣayo | 老死尽 | 老いと死がなくなる | extinction of old age and death |
duḥkha-samudaya-nirodha-mārgā | 苦集滅道 | 苦しみ、苦しみの原因、苦しみを制してなくすこと、苦しみを制する道 | suffering, accumulation, annihilation, path |
jñānaṁ | 智 | 知ること | knowledge |
prāptiḥ | 得 | 得るところ | attainment |
bodhisattvānāṁ | 菩提薩埵=菩薩 | 諸の求道者の | Bodhisattva |
Viharaty a-cittāvaraṇaḥ | 心無罣礙 | 心を覆われることなく | |
cittāvaraṇa-nāstitvād | 無罣礙故 | 覆うものがないから | |
atrasto | 無有恐怖 | 恐れがなく | there are no obstacles |
viparyāsātikrānto | 遠離一切顛倒夢想 | 傾倒した心を遠く離れて | going beyond the perceived views |
niṣṭha | 究竟 | 永遠の | final |
nirvāṇaḥ | 涅槃 | 平安 | Nirvana |
niṣṭhanirvāṇaḥ | 究竟涅槃 | 永遠の平安 | final Nirvana |
vyavasthitāḥ | - | います | of the |
tryadhavavyavasthitāḥ | 三世 | 三世にいます | of the past, present , and future |
buddhāḥ | 仏 | 目ざめた人々 | Buddhas |
sarva-buddhāḥ | 諸仏 | 目ざめた人々すべて | All the Buddhas |
āśrityānuttarāṁ samyaksambodhiṁ | 阿耨多羅三藐三菩提 | 悟り | attain to the highest perfect enlightenment |
mantra | 呪 | 真言 | Mantra |
prajñāpāramitā-mahāmantro | 大神呪としているが般若波羅蜜多大呪とでも訳すべきだろう | 智慧の完成の大いなる真言 | Prajnaparamita is the great Mantra |
mahāvidyāmantro | 大明呪 | おおいなるさとりの真言 | the Mantra of great wisdom |
'nuttaramantro | 無上呪 | 無上の真言 | the highest Mantra |
'samasama-mantraḥ | 無等等呪 | 無比の真言 | the peerless Mantra |
sarvaduḥkhapraśamanaḥ | 能除一切苦 | すべての苦しみを鎮めるものであり | is capable of allaying all pain |
prajnāpāramitāyām ukto mantraḥ | 般若波羅蜜多呪 | その真言は、智慧の完成において | Mantra proclaimed in the Prajnaparamita |
gate | 羯諦(発音記号として) | 往ける者 | gone |
bodhi savāhā | 菩提薩婆訶 | 悟りよ、幸あれ | dodhi, svaha |
hṛdayaṁ | 心 | こころ | Hridaya |
解説と謝辞
以下IAST表記は通常のアルファベットで代用してます。
サンスクリット原典、日本語訳、英訳に関しては亜細亜大学の飯島正先生の新潟のカントリーハウスで しっかりと教えていただきました。ここに感謝申し上げます。
先生は玄奘がaryavalokitesvaroを観自在と訳しているのはおかしいといわれました。aryは聖としましたが、高貴なという意味があり、 アーリヤという自分達の民族の自称となっています。アヴァローキテーシュヴァラは人名で聖アヴァローキテーシュヴァラとすべきであると。シャリープトラを 舎利子としたように 音訳すればよかったというわけです。鈴木大拙はここら辺を配慮してAvalokitesvaraとしています。ところが中村元・紀野一義注・訳「般若心経 金剛般若経」によると avalokitaは観、isvaraは自在という意味を持っているそうです。このように意訳することによって般若心経はブッダが直接言った言葉との誤解 を与えているような気がします。
前述のようにアヴァローキテーシュヴァラの後半の「シュヴァラ」は自在という意味を持っているようですがサンスクリットでは「というシバ」という意味があ ります。紀元前5世紀の仏教と同時代のジャイナ教創始者二代目の名前はゴーマテシュヴァラというそうだし、マヘーシュヴァラは大自在天と訳 され、仏教に改宗したシバだとされています 。
仏教以前のバラモン教の経典リグ・ ヴェーダに 出てくる強力な破壊神であるルドラの別名がシバですが、シバが唯一神になるのは仏教がインドで衰退した後の紀元前4-2世紀のヒンズー教においてです。ち なみにルドラはモンスーンの神格化であり、破壊をもたらすと共に、雨によって植物を育てるという二面性をもっております。玄奘は7世紀の人ですのでインド はヒンズー教時代に入っています。玄奘の持ち帰った仏教もヒンズー教の影響を受けていたの でisvaraという固有名詞も一般化していたのではないでしょうか?ヒンズー教のシバの子供の軍神スカンダは韋駄天として仏教に取り入れられています。
玄奘訳も法隆寺に残る棕櫚にかかれた世界最古のサンスクリット原典は実は前後が省略された短いもの(小本)ですが、チベットと奈良の長谷寺に残っているも の は長く、大本と呼ばれています。大本にあって小本にない部分にはブッダがラージャグリハ(王舎城)のグリドゥフラゥータ山(霊鷲山)で瞑想しているときに シャリープトラ長老が聖アヴァローキテーシュヴァラに「どのように深遠な智慧の完成を実践したらよ いか」との問いかけたことが記してあります。その時の聖アヴァローキテーシュヴァラの回答内容が小本と一致します。この問答を聞いていた ブッダが聖アヴァローキテーシュヴァラの発言に賛意を表明したという形をとっています。
アヴァローキテーシュヴァラを観世音と訳したのは玄奘より前の402年の鳩摩羅什( インド系クチャ人のクマーラジーバァ)だったようです。衆生に音声を観ぜしめるという意味をもたせようとしたためとのことです。このようなわけで日本では 聖アヴァローキテーシュヴァラは 観音となり、観音霊場めぐりと いう巡礼の形にまで発展することになったようです。観音の別名として施無畏があるように一般大衆は何ものをも恐れぬ力を与えてくれることを期待しているので す。しかし原典は「全否定してしまえば、心が安らぐ」という聖アヴァローキテーシュヴァラのすざましい修行の決意を語ったもので真理に迫る手段としてギリ シアの哲学者ゼノンが創始 した弁証法のもっている「否定の精神」と一脈通じるものがあります。
鈴木大拙とドイツのミューラーはこれらを全て知った上で英訳しているようです。ここでは鈴木大拙の小本の英訳を採用いたしました。
飯島生先生はまたprajnaparamita-maha-mantoroを大神呪と訳したことは正しくないと指摘されました。興味を持って柳澤桂子の「生きて死ぬ智慧」にあるリービ英雄 の英訳を参照しました。彼は漢訳から英訳していますが、是大神呪 をPerfect Wisdom is the great mantraとしています。さすがgodは採用していません。玄奘より前の402年の鳩摩羅什( インド系クチャ人のクマーラジーバァ)訳ですら神を使っておりません。中村元氏は神の字は漢訳者の挿入と片づけています。
鈴木大拙の英訳はリービ英雄の英訳に近く、Prajnaparamita is the great Mantraとしています。 いずれも玄奘訳の影響を受けています。しかし私は中村元の現代語訳が最も原典に忠実だと思います。原典に忠実にしようとすれば玄奘は般若波羅蜜多大呪とで も訳すべきだろうし。鈴木大拙はTherefore, one ought to know that the great Mantra of Prajnaparamita, the Mantra of great wisdom, the highest Mantra and the peerless Mantra are capable of allaying all painとでも訳すべきだったと思うのです。
その他にも対比作業をしていて玄奘訳はrupam sunyata, sunyataiva rupamを省略していることにも気がつきました。玄奘より後の大本の法月訳をみますと色性是空 空性是色と訳されています。三段論法的展開をくどいと考 えたのでしょうか?
逆に「度一切苦厄」に相当する原典がみつかりません。
菩提薩埵略して菩薩はbodihisattvanamの音訳である。ボーディ(悟り)をめざす者という意味です。仏陀となるまえのシダールタをボディー サットヴァと呼んだが、仏教成立後は一般に悟りをめざして修行するものまたは求道者を指すようになったとい います。
「心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想」に相当する原典がどれかはオンラインのサンスクリット辞書で調べて 推察しました。古典サンスクリット語は屈 折語のため、語尾変化があり 、苦労しました。中村元の本を先に手に入れていればもっと楽だったと思います。
サンスクリット語は屈折語、漢語は孤立語ですが、語順がほぼ同じSVOであるため、翻訳といっても単語を漢字に置き換えてゆけばよいということを実感しま した。それに漢字を表音文字として使うときはやけに漢字数が増えますが、漢字一文字の意味が単語1個に相当する場合も多く、漢訳はコンパクトになっていま す。
日本語は膠着語でかつ語順がSOVですので屈折語からの翻訳は面倒です。飯島先生も指摘されていますが、日本の坊さんがサンスクリット原典を手に入れなが ら原典からの日本語訳をしなかったのは怠慢ではないのでしょうか。それに比べ 、キリスト教はそれぞれの国の現代語訳をしていて信者のなかで原典が生きています。日本の仏教が形骸化、様式化していって葬式仏教となりはて、宗教としては 自滅してしまったのも理解できます。
原典は三段論法などロジックを大切にしていますが、漢訳はかなり意訳してコンパクトにし、韻を踏んで感性に訴えるようになっていると感じました。最後など 訳さずムニャムニャとしているところなど最たるものでしょう。
余談ですが、インドネシア語にサマサマという語があります。サンスクリット由来なのかなと思いました。
読経は鹿児島の最福寺と江ノ島大師法主池口恵觀の読経教則CD(日本コロンビア)がお薦め。i-Podに収納してときどき聞いて巡礼に備えております。池 口恵觀は安倍首相と親しい宗教家で小泉前首相の遠縁にあたるそうです。
さてお経のマントラの響きはグレゴリオ聖歌とおなじような響きを持っている。唐から日本にお経が入ってきた時代はちょうどグレゴリオ聖歌ができたカロリング王朝と同時代に相当する。
蛇足
渡辺美智雄外務大臣とサッチャー女史の「色即是空、空即是色」に関する笑い話、醒睡笑21シリアル番号20。
友人の田中利氏から田中氏が南京中医薬(漢方)大学四年生、22歳、一児の母の以下のコメントをもらった。
Rev. January 9, 2014