イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『映画 スター☆トゥインクルプリキュア 星のうたに想いをこめて』感想

スタプリの映画を見てきたので、感想を書きます。
ネタバレしない範囲でいっておくと、壮大な規模のSF、ファーストコンタクト物語、子供の成長とジュブナイル、児童文学、冒険小説……様々なジャンルの精髄を最高レベルで混ぜ合わせた、70分間の傑作です。
"劇場版"の看板に恥じない作画とアクション、最高のタイミングで響く音楽、焦点をはっきり絞ったドラマとテーマ性、美麗な景色が宇宙スケールに拡大していく壮大さ。
強い所、素晴らしい部分が山程あります。

子供、大人、男性、女性。
物語を欲する全ての人、明るく生きていきたいもの、絶望が身近にある方。
あらゆる人が共鳴点を見つけられる、見事な物語だと思います。
是非見に行ってください。
大丈夫、プリキュアは怖くない。
以下、ネタバレでの感想。

 

 

というわけで、キービジュアルの時点でガン上がりした期待値を、軽々超えていく大傑作、スタプリ映画を見てきました。
"Go! プリンセスプリキュア"、あるいは”映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身!キュアモフルン!”を手掛けたW田中コンビが、とんでもない傑作をものにしてしまった。
TVシリーズが本当に素晴らしいので、相当にハードルを上げて見に行ったのですが、あえてTVシリーズではやれないことに挑む挑戦が見事に実を結び、鮮烈な物語がフィルムに、僕の瞳に焼き付きました。

70分の尺に濃厚な物語を収めるために、様々な工夫をこらしているのは映画プリキュアの特徴といえます。
OP、非常に切れ味鋭い無重力戦闘アクションに重ねて、キャラクター紹介をぱぱぱっと済ませてしまうのもそうだし、コミカルで力強い導入でどんどん状況を進め、テンポよく話を転がしていくのもそう。
メインターゲットの集中力限界を鑑みた劇作だと思うのですが、結果としてシャープでダレのない仕上がりになっていて、見ていて非常に楽しいです。

この絞り込みは様々な部分で生きており、プリキュアサイドの焦点は幼い子供としてのララ、それを導く少し大人なお姉さんとしてのひかるに、きっちり合っています。
特にララはユーマとの交流を通して、『子供であること』『大人になること』とは一体何なのか、児童番組であるプリキュアのコアクエスチョンを、深く深く掘り下げ、自分の人生のドラマとして体験する主人公の責務を、しっかり果たしていました。

サマーン星の社会制度により、子供時代を十分体験できないまま『大人』になってしまったララの内面が、どのような発達段階にあるのか。
それがユーマと出会い、衝突し、美しい景色を一緒に駆け抜けていくことで、苛烈な暴力と絶望への歩みを目の当たりにすることで、どう変化していくか。
ララは言葉も通じず、自分を抑えることも知らないユーマと触れ合うことで、新しい自分、知らなかった感情と景色に幾度も出会っていきます。
それが羽衣ララという人間をどれだけ強く、大きく変えていくか。
初期段階の幼さをしっかり描いたことで、彼女とユーマが到達した場所の輝きが眩しく、視聴者の目に突き刺さる物語でした。

そんな幼いララをしっかり補佐するひかるも、ポジティブな幼さと推進力、地球の社会制度においては『子供』と扱われる時間が長かったことで育めた社会性を最大限に活かし、ララとユーマにしっかり寄り添っていました。
ひかるが情動一本槍のキラヤバ人間にみえて、その実学校や地域社会、家庭で様々なペルソナを使い分け、自分と社会の距離感を見せる視力を有していることは、TVシリーズでもしっかり切り取られています。
『ダメダメだけど元気いっぱい、支えていたくなるピンクのリーダー』という類型を踏まえつつ、そこから少しはみ出したひかるなりの知性のありかた、幼さの中の成熟は、映画においても健在です。
ひかるは確実にララよりも成熟した存在として描かれ、ユーマという異質な存在をしっかり実験検証し、それに意志があると判ったあとは怯えずコミュニケーションに踏み出し、暴力で物事を動かしそうになった時は体を張って『それはダメだよ!』と教えています。

そんなひかるの成熟を追いかけ、あるいは守られる形で、ララは思う存分"子供"であり続け、そうすることで別れを受け入れ、他者の意思を尊重できる"大人"になっていく。
映画のひかるは、TVシリーズの決め台詞である『きらヤバ』をほぼ一回しか使わないんですよね。
自分独自の感性でガンガン楽しいものを見つけていく主役の地位を、あえてララに譲って見守ってる。
あるいは、まだ知らない世界を先に経験した先輩として、怯える子供たちの先陣を切って勇気づけてあげている。
"大人"であることに、年は関係ないのだなぁ、とつくづく思わされる、立派な先導者、保護者ぶりでした。
んで、たった一発の『きらヤバ』の刺し方がヤベーんだ……星奈ひかるというキャラクターを、成瀬瑛美さんが演じてくれて本当に良かったと、あのセリフを聞いた時思いました。


映画の敵役とヒロインも、かなりTVシリーズとは違った作りになっています。
前半30分を濃厚な日常体験で埋め尽くし、後半にバトルと惑星スケールのクライマックスを置く二段構造が特徴的な今作。
前半は星の子供であるユーマと出会い、対話し、衝突し、綺麗な景色をみんなで一緒に見る物語が展開していきます。
ここで積み上げたものが、闘争や世界救済という非日常のなかでしっかり生きて、とても大きなものを下支えする実感がある。
日常と非日常、現実と理想、悪意と善意が背中合わせにお互いを支え合い、『人の心の中の星(ミクロコスモスの中のマクロコスモス)』を描ききるクライマックスへと、しっかり動線を引いていました。
基本構造が非常に明瞭なことが、短い尺で分厚いテーマ性、濃厚なドラマを描ききる土台になってんのよね。

冒頭の導入部がかなり印象的で、TVレギュラーの敵役であるノットレイダーは、テンジョウさんが顔見世して終わりなんですよね。
彼らは様々な理由で居場所を奪われ、かつて見ていた光を奪われた"悪"だということが、TVシリーズでは語られ始めています。
プリキュアはそういう"悪"の哀しみとも対話し、相互理解と救済を目指す物語なわけですが、今回の焦点はあくまでユーマです。
なので、ごくごく普通に欲望に塗れた悪党、宇宙ハンターを敵に据えて、プリキュアと彼らは対話をほぼしない。
絶望と悪徳に塗れた"悪"とすら話し合えてしまうプリキュアとしては、かなり異例の対応だと思います。
それをやるために、ノットレイダー以外の"敵”が必要だったって感じかなぁ。

ユーマは超新星爆発由来のスターチャイルドで、ファンタジックながら実際の天文現象を下敷きにしたオリジンが素晴らしいと思います。
星の死から生まれた新しい命は、善悪も他者との対話の方法も、優しさも何も知らない。
そういう無垢な子供は、同時に惑星ほどに巨大な、あるいは地球を滅ぼすほどに危険な存在でもある。
『意志を持った星』をヒロインに置くことで、子供たちが持っている善悪両面の可能性、それを良い方向に導くべき大人の責任と喜びを、しっかり語り得ていたと思います。

『これを見に来ている子供たちは、星と同じくらいに輝ける』
『そんな可能性の側で見守るものが、そんな星を暗い絶望に変えるか、思い出に満ちた夢へと導くかを決める』
『でも大丈夫。必ず正しく美しいものに、僕たちはたどり着ける。明日はきっといい日になる』

そういう綺麗事を、激エモなドラマでブーストして胸にぶっ刺すのに、ユーマの設定は非常に適切だったと思います。
SFテイストのロマンが子供に分かりやすい形で、しかりしっかりと息をしてるのがマジで最高なんですよね……惑星の子供ですよ惑星の子供。

結構強引な流れでユニとプルンスとAIが遠宇宙にかっとび、えれなとまどかは女女沖縄修学旅行へ旅立つ。
あっという間にララとひかる二人だけの空間が生まれるわけですが、これはプルンスとAIという父母、えれなやまどかやユニといった姉世代が隣りにいると、メインテーマたるララの成長、ユーマとの交流がぼやけていくからだと思います。
プリキュアはチームなのでみんな均等に出番を割り振っても良いんですが、今回の映画は画面に映らなくても不自然ではない理由を強引にねじ込んで、ひかララ以外をあえてパージしている。(その上で、細かくコミカルなキャラいじりでしっかり『彼らにも会いたいなぁ』という願望は満足させている所が、非常に巧い)
そうやって書きたいものが、はっきりと映画の中にある、ということです。
この強い意識が作品の背骨を支えているのは、まぁ間違いないんじゃなかろうか。


んでですね。
序盤の『ひかララ同い年、不思議な星生命に出会っちまってきらヤバ、あるいはこえールン』な距離感の描写が凄く良いんですよ。
後半のキャラが立ったバトル描写、あるいは壮大なスケールのクライマックスも当然凄く良いんですが、僕はこの映画の、何の異能力も介在しない子供二人の放課後描写が、いっとう好きです。
生まれた場所も育った環境も、つちかった人格も全然違くて、でもお互い大好きで、ずっと楽しい時間を共有できる。
時々憎まれ口なんかも叩いちゃって、でも友情を預けあえる親友で、『家がなくなったからお泊りです』ってなっても、家族も笑顔で迎えてくれる。
そういう二人がなんか凄くワクワクするものに出会って、片方が無茶苦茶前のめりに色々検証して、もう一方は片方の背中に隠れている関係のアンバランスと、そこが均一じゃなくてもマブダチでいられる公平性の描写が、凄く爽やかに胸を通り抜けていきました。

世界の不思議への知識も、子供への接し方も、未知への積極性も、ほぼ全領域でひかるの方がポジティブに描かれているんですよね。
ララは最初すげービビってて、でもユーマの不思議な力に興奮するひかるが本当に面白そうだから、『私にもやらせて!』ってなる。
この前のめりになる瞬間って、プリキュアだろうが変身能力のない普通の子供だろうが、男だろうが女だろうが、生きている中でかなり"ある"一瞬だと思います。
そういう前のめりを与えてくれるからこそ、心のおけない友達と一緒に過ごす時間、手を繋いで知らないワクワクに飛び込んでいく体験は面白い、とも言える。
宇宙スケールに拡大する特別な話をやってんだけども、こういう普遍的な『あ、良いな……』と思える瞬間をフレッシュに切り取れていることが、非常に強い映画だと思っています。


ユーマの凄能力を使い、少女二人と宇宙ユニコーンと星の子供は地球の絶景を駆け抜け、色んな体験を重ねていきます。
ウユニ塩湖を全力疾走する四人のヴィジュアルがあまりに強すぎて、開始15分くらいで涙腺が潤みだしたわけですけども、ここで女女二人きりではなく、珍獣とユーマがくっついてんのがほんといいな、と思います。
ヒューマノイドの形をしていなくても、言葉で通じ合うことが出来なくても、ひかる姉ちゃんが蓄えた絶景知識を活かしてユーマの力で色んな場所に飛んで、楽しく走り抜ける事ができる。
この開放性、明け透けな距離感が後に、ユーマが暗黒星となった後の救済に説得力を与えてたんじゃないかなぁ、と。
最終的にヒューマノイドになることでユーマとのコミュニケーションは完成するんですが、星モードでもちゃんと通じ合う描写を入れていたことで、『人間の形が人間の条件ではなく、そこにお互いが存在する尊さこそが大事なんだ』という幅の広いメッセージが、しっかり込めれてたんじゃないでしょうか。
ヒューマノイド・ユーマがひかるとララ両方の特徴を手に入れていたのは、悪いオタクなら『ひかララ結婚!』って吠えるんでしょうけども、自分に思い出をくれたすごく大事な人の面影を、自分に刻んで星になっていくユーマの夢が、凄く鮮烈に焼き付いた結果だと思うなぁ……。

砂浜で星を見上げながら、ユーマにひかるが歌を歌ってあげるシーンも感情の爆弾で。
『お母さんが昔歌ってくれたなぁ……』なんですよね、ひかるにとっての童謡は。
母の膝の上で歌に耳を傾ける幼さは、ひかるの中では結構思い出になってる。
きらヤバに見えて、かなり客観的に自分の成熟段階を把握し、だからこそ星を思って空を見上げる物言わぬ子供に、母から聴いた歌を届けることも出来るわけです。
それはサマーン星では十分"子供"でいられなかったララにとっても、初めて聞く歌であり。
ひかるが『子供が歌を聞きたがったら、ちゃんと歌ってあげると良いよ』と示してあげたことで、運命の宇宙決戦でララが歌えたっていう、継承のための伏線でもありますね。
この『年長者がより良い手本を示し、それに導かれることで幼いものが正しさを体現できる』って構造は、オルゴールをまどかが買ってあげるシーンでも同じかな。


たっぷり地球大紀行を堪能し、先輩組が待つ沖縄にやってきた二人。
美星中の太陽と月として、交友関係広いはずのえれまどが二人きりなのは焦点絞る一環なんでしょうが、結果として妙な湿り気があったな……。
ここでララとユーマの幼い二人は衝突して、一行はユーマを見失ってしまいます。
お互いの気持を思いやり、自分の気持ちを抑える成熟から遠いからこそ、ぶつかり合ってしまう二人。
いつもは子供っぽいフワくんも、パタパタ飛んでユーマ探しをしっかり手伝っています。
お別れを切り出された時のリアクションも見ると、確実にララより精神年齢が高い……。

そんなフワくんが人形に間違えられるピンチを、先輩たちはスルリと切り抜けます。
弟妹の世話で子供との距離感が判ってるえれなが、しっかり膝を曲げて、子供に通じる言葉で自分の意志を伝えてる所が『せ、成熟~~~~』って感じ。
ひかると合流して事情を話すシーンで、すっかり夕暮れになってる所が好きですね。
貴重な自由時間を、迷い込んできた友達のために迷わず使い倒す。
映画では『アン>えれな、まどか、ユニ>ひかる>ララ=ユーマ』っていう成熟勾配が、非常に鮮明ですね。
対等のララとユーマが、お互いぶつかったり守ったり歌を届けたりしてひかるの段階まで登っていくのが、全体的な構造と言えるでしょう。

さて、オレンジのクワンソウがあまりにも美しい花畑で、ララはたった一人、ユーマと対峙します。
何して欲しいか分からない、言ってることが伝わらない苛立ちをぶつけて、ユーマの怯えた表情を見た時に、ララは感情を激発させる危うさを少し学ぶ。
ここで『世の中にはひかるみたいな人ばっかじゃない。悪い人だっていっぱいいる!』って言ってるのが、一方的にララを未成熟な存在にしていなくて凄く好きなんですよね。
これはサマーン星で"大人"として扱われたからこそ手に入れてる世知で、実際そのとおり、宇宙ハンターが欲望むき出しで襲いかかってくるわけじゃないですか。
そういうシビアな現実感覚は、半歩先に行っていると思えるひかるにはない。
トータルな成熟段階で後ろにいるように思えても、あるいは不自然に見える社会形態の中でも、ララだけが手に入れているものが確かにあるし、それは現実の一部をしっかり切り取れているわけです。

しかし至らない部分が沢山あるのも事実で、ララはなかなかユーマとの接し方がわからない。
でもひかるがどう向き合っていたかを思い出して、手を差し伸べて繋ぎ、歌を通じてわかり合っていける。
『世界は怖いものではなく、楽しいことがたくさんあるんだよ』と、星の子供に伝えることが出来る。
こうやって膝を曲げて、ユーマの視界で話す優しさをララが学べたことは、ララにとっても、ユーマにとっても、世界にとっても本当に良いことだと思います。
『こういう美しいものがまだあるから、世の中捨てたもんじゃないな』ってマジで思ったからね。
この映画見てる間に、二百回ぐらい思うんですが。素晴らしい。


たっぷり美しいものと出会い、すれ違いと衝突をしっかり対話で乗り越えて、友達になった人類と星の子。
この平和をぶち壊すように、宇宙オモシロハンター軍団が襲撃してきます。
オールドスクールスペオペ味を生かしたデザイン、それぞれ個性的な能力による殺陣など、アクション面でも相当いい感じの仕上がりでした。
イマジネーションが大事なこの作品、ユーマの変貌によってその正の側面が切り取られているんですが、ウォーター星人がメタモルフォーゼを戦闘で使うことで、その危うさが視界に入っているのは良いですよね。
『変わること、変わることが出来ること』は素晴らしいことなんだけども、悪用すれば凶悪な武器にも変わってしまう。
善悪両面をしっかり見据えて、無視しないように作品に取り込みつつ、そのポジティブな可能性をあくまで信じ描ききる筆は、レインボー星人の変身能力とかとも通じるかな。

ハンターではひかるとマッチアップし、ユーマに決定的な悪影響を与えもするバーンの存在感が、悪くて強くて特に良かったですね。
先述したように、宇宙ハンターは特にプリキュアと対話することもなく、我欲に従って暴れまわり、改心することもなく逮捕される(プリキュアの価値観としては)かなり特殊な敵です。
そういう"悪"は世界に確かに存在していて、今回の映画は彼らとではなく、彼らの悪意に影響を受けたユーマと対話することになる。
やっぱかなり思い切った構成で、『プリキュア? 知らんな』と言い切り、力と欲望を悪びれることなく濫用するバーンは強く印象に残りました。

一度は地に伏したプリキュアでしたが、ミラクルライトと絆の力で見事大復活。
星座の力を開放したお色直しよりも、チームの呼吸を合わせ強敵に打ち勝つ姿が印象的でした。
宇宙ハンターはせっかく数いるのに、お互い足引っ張り合うことで自滅するわけでね。
ここら辺、しっかりアクションの中にメッセージがあって、プリキュアらしいな、と思った。


状況が平らになって、アンが手を伸ばしユーマを宇宙に……帰るべき故郷に戻そうとします。
作中子供なのはララだけなので、別れの悲しさを飲み込めず感情を爆裂させるわけですが、それを優しく諭すアンの母性がかなり暗く描かれているのは、とても印象的でした。
正しさで言えば、アンが言ってることはまさに正論です。
情もあるし、道理にもかなっている。何しろ"犬のおまわりさん"なんだし。
でもララにとっては、その母性は理不尽な略奪でしかなくて、自分に悲しい思いを強制してくる怖い存在なんですよね。
この後すぐ、ユーマに欲望と悪意を叩きつけるバーンと、子供視点だと一瞬重なってしまう。
そういう『正しさが取りこぼす正しくなさ』みたいなものが、母なる暗黒としてアンを描くライティングに生きていたと思います。

バーンの激情に悪しき影響を受けて、ユーマは地球を飲み込む暗黒惑星へと変化していきます。
あんなに幼く小さく可愛かったユーマちゃんが、JRPGのラスボス見てぇな凶悪さで迫ってきてかなりのショックですが、星とは言え子供、周囲にどう扱われたかで黒にも白にも染まってしまうわけです。
『んじゃあお前らは、一番近くにいる、あるいはこれから出会う"星"を黒く染めない責任ってのがあるよな!?』ってのが、この映画を見に来る大人にむっちゃ刺さるメッセージだなぁと、個人的に感じました。
責任重大だよー、何しろ星だもんな……これがエモくねぇ説教なら『ふーん』で流せたんですけども、ララとユーマの幼い交流と成長、それを見守り導く沢山の先達の立派さがグサグサぶっ刺さってるので、もう無視はできねぇんだよな……。
マジで『私達は星』であり、"Twinkle Stars"は作品全てを内包した名曲。

ここでララは自分の身勝手さがユーマを歪めてしまったと、自責の念に駆られます。
そうやって自分の行動を反省できる成熟が眩しくもあり、『そんなことねぇよ……あんた立派に星の子供を守ってたよ……』と画面外から励ましたくもなり、『星奈ー! なんとかしてくれー!!』って心のなかで叫んだ。
そしたら星奈ひかるがいつものように、余りにも正しく余りにも優しい言葉でしっかりララの目線に立ち、自分の気持とララの気持ち、ユーマの気持ちを言葉にしてくれた。
星奈ひかる……マジで背中がデカいプリキュア……。

最初に沖縄でララが感情を炸裂させたとき、ひかるは適切な言葉を届けられませんでした。
彼女だってもちろん、そこまで大人でもないわけです。
だからこそ、友達が自責の暗がりに落ちそうになったとき、勇気と知恵を振り絞り、自分の中の真実を探りに探って、届く言葉を届く場所から必死に掴む。
これはクワンソウの畑の中で、ララがひかるのことを思い出しながら、ユーマに近づいていったときと同じ動きです。
誰かがそばにいてくれるから、自分ひとりだと同じところで踏みとどまってしまう決断を踏み切り、前に進める。
そういう公平な影響が、ひかるとララの間にも成立しているわけです。

ひかるだって、別れが悲しくないわけがない。
でも、我々は別々の存在だから、別々の故郷があり願いがある。
それでも繋がれるからこそ、お互いの本当にいちばん大事なものを尊重して、それが叶うように、楽しく笑えるように、手を差し伸べ、あるいは離して笑顔でサヨナラと振っていくことが大事なのだ。
そう言葉にすることで、ララは世界の中で一人きりユーマの別れを悲しんでいるような気持ちをぶっ壊し、光と戦場に向き合うことが出来るわけです。
姿形すべて違うけど、だからこそ繋がれるやり方があるんだと、ひかるが語りかけてくれえるからララは信じることが出来る
年令を重ねるとか、体が成長するとか、社会制度に適応するとか、そういう意味合いではなく人の在り方として、少し"大人"になるわけです。
このときバカスカ宇宙船が爆発する無情な戦場が、激エモ友情対話の背景でずっと鳴り響いてるバランス感覚が独特で、なおかつ鋭いな、と思った。
戦争はいつでも、そこにあるのだ。


要素の集中はクライマックスでも生きていて、ユーマと強く繋がったひかララ以外は、決戦への露払いを担当します。
立ち向かうべき敵は、世界に確かに存在する(けど、それが全てだと星の子供に焼き付けてはいけない)悪意に暗く染まってはいても、共に美しい景色を駆けた仲間。
だから歌を届けて、自分たちと一緒に歩いた過去が、自分たちが隣りにいる今が、離れても共にある未来が、ユーマの前に広がっていると信じてもらわなきゃいけない。
ここでユーマが通常の音声言語を理解しない前半の描写が、"歌"という言葉より曖昧で、だからこそ靭やかなコミュニケーションを持ち出す必然性を生んでいるのは、非常に良いです。
言葉が届かないような状況になっても、歌なら届くかもしれない。
そういうクライマックスを逆算するしたり、また言葉が通じないララの苛立ちを生み出したり、それを超えた後の交流の深さを見せたり、ユーマからあえて言葉を奪った造形は、色んな所で効いてると思います。

バーンの悪意に染められて、ユーマの世界は恐怖と暴力で満ちている。
荒れ狂う稲妻で深く黒い海に沈められながら、子供たちは己の無力さに溺れそうになって、それでも歌い、繋がれた日々のことを思い出す。
ここは小原好美さんも凄く良いんですけど、ステージパフォーマンスを本業とする成瀬"でんぱ組.inc"瑛美の地力がシーンを支えていました。
しっかり"星奈ひかる"で歌ってるんだけど、バックボーンの太さが感じられるしっかりした歌唱が、場面に重なって強かった
TV放送のEDでずっと見てた景色が、実はユーマそのものだったという新鮮な驚きもあって、クライマックスに相応しい感情のうねりをグッと引き出し、非常に力強かったです。
ユーマがかつて欲し、ひかるとララが歌い、まどかがプレゼントした歌を封じたオルゴールが星の核となって、幼子が囚われた恐怖と憎悪の暗闇から希望(プリキュア)が出てくる演出は、本当に素晴らしかった。

ユーマが星へと脱皮していく時に、一緒に見た地球の景色だけでなく、様々な命がそこを駆け抜けていくシルエットも生まれていくのが、ユーマがこの映画で学び取ったものを強く刻みつけていて、印象深かったです。
ユーマはこの後、地球の友達が見せてくれた美しい思い出、あるいは未来への夢を抱えて、大きな星になる。
それは様々な絶景や自然現象に満ち、命が生まれては死んで、何かを繋げていく場所になるのだと思います。
先んじて生まれたものが、今は幼いものに何かを託せるような。
受け取った使命を、世界に満ちた暗闇に負けずに、輝かせ歌うことが出来るような。
ユーマがそんな星に育つことが出来るのは、やっぱりひかるとララが見せてくれた世界が思い出となり、なりたい自分のイメージ、夢となって刻まれたからです。

宇宙に輝くクワンソウの畑で、ララは自分が守り育んだ幼子のサヨナラを受け取って、大きな星に育っていくユーマに夢を見る。
一緒に笑って、時々ぶつかって、それでも同じ歌を響かせることが出来た奇跡が、一体どこに繋がっているのか。
ララは自分とひかるに似たユーマの姿を見て、沢山の思い出が未来を連れてくる現実を目の当たりにして、"大人"になるとはどういうことなのか、心に刻みました。
ここで"ララ>ユーマ"という、成熟の基本構図が崩れて、ユーマがララに夢のカタチを、人は心に星を持っている事実を"教える側"になっているのが、この映画らしい公平さ、相互作用の描写だなぁ、と思います。

日常に帰還したひかるが元気に宣言する、星に至る"いつか"。
それがたとえ届かない夢だとしても、元気いっぱいきらヤバ娘は迷うことなく、真っ直ぐ進んでいくでしょう。
この『届かないものに手を伸ばす』『別れを笑顔で受け入れる』構図が、おそらくTV放送最終局面で来るララとの別れを予兆しているのが、死ぬほど上手くてヤバいな、と思った。
今回ララを主軸に据えたのは、TVシリーズではひかるの成長と離別、夢と未来が真ん中に来るからこそだと思う。
この映画で描かれたのと同等か、それ以上の思いを込めて、羽衣天女が故郷に帰る瞬間が書かれるラストを思うと、今から感情がヤバい。
劇場版を見ることで、TVシリーズへの期待がガン上がりするのって、番外編として最高の結果よね……。


というわけで、大傑作ファーストコンタクトSFジュブナイル抒情詩の大傑作でありました。
無駄を極端に削ぎ落とし、集中するべき要素に大胆にカメラを集めた構成に、押し寄せる美しい景色と感情、児童が瑞々しく発露させる人生の息吹。
かなり欲張りな、色んなものを過積載した構成なのですが、一つも取りこぼすことなく、むしろたくさんの要素が共鳴しお互いを高め合う作りになっていたのは、本当に凄いと思います。
オカルトオタクの目から見ると、星の音楽を聞くピュタゴラス教団的世界観とか、日常的な極小のミクロコスモスが宇宙規模のマクロコスモスに直結し真実が見える構成とか、非常に良く仕上がった造りでもありました。
人という宇宙は、常に心という星をその内側に有しているのだ……それらが星座となり、社会の形を作っていくわけだね。

まぁ文句無しの傑作なので、見に行っていない人は是非見てください。
ララの感情に寄り添うカメラが非常に鮮明なので、TVシリーズを知ってても知らなくても、一個の映画として必ず胸に突き刺さると思います。
つーかSF野郎を自称してて、スタプリ映画見てねぇやつは軒並み"モグリ"だから……百合のオタク、感情マニア、児童に興味ありとか看板立ててるやつも、見てねぇやつは全員"モグリ"。
素晴らしい映画であり、素晴らしい児童向け作品であり、素晴らしいアニメであり、素晴らしいプリキュアでした。
非常に面白かったです。