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【WEB】昔の地図を見て都市の変化を妄想してみた

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近代における別の年代の地図を見比べると人口の変化や鉄道建設の技術向上、自動車の普及や建築様式の変化など、この百年に人々が築き上げてきた重みを想像も交えてうかがい知ることが出来ます。


今回の記事はいつもと趣向を変え、明治以降の日本の地図と現代の地図を見比べて都市の移り変わりを楽しもうという内容です。

筆者の地理的知識の都合上、今回は東京の街のみを紹介いたします。

 

 今回利用させていただいた今昔マップ on the web埼玉大学教育学部 人文地理学担当教員 谷謙二氏が作成したサービスです。

画面左に操作パネル、その右にデフォルトでは古地図と現代地図を表示しますので、大きな画面のデバイスで利用することを推奨します。


この記事を作成するにあたって使用した地図画像は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。


[注意] 地図の作成開始から終了までは年単位の期間を要していますので、記載されている年と地図の内容には多少のズレがあると思われます。


※今回使用した現代地図は2019年10月時点のものです。

※各種情報は主にWikipediaを参考にしました。

 


明治42年(1909年)

 

愛新覚羅溥儀が清の皇帝に即位した翌年で、日本が韓国を併合する前年です。

伊藤博文の暗殺がありました。

 

 

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[浅草]「今昔マップ on the web」より

東京で古くからの繁華街といえば浅草が思い浮かびますが、この地図で注目したいのは浅草の東隣、現在の東武伊勢崎線とうきょうスカイツリー駅付近です。

古地図では見えにくいですが当時のこの駅は「浅草駅」となっていて、ターミナル駅であると同時に船による貨物輸送の拠点となっていました。

更に前の開業当初は吾妻橋駅という名前で、私鉄ばかりだった明治時代は隅田川越えの認可が下りづらかった影響からこの場所がターミナル駅となりました。

その後、上野までの延伸を申請しましたが、すでに上野-浅草間の地下鉄の認可が下りていたために、浅草雷門駅(現在地図左側の浅草駅)で地下鉄と接続する形になったそうです。

浅草はすでに多くの建物が密集していたでしょうから、駅、ましてやターミナル駅を作るとなると相当難しかったと思います。

 

 

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[新宿]「今昔マップ on the web」より


西新宿の高層ビル群が並ぶ土地は淀橋浄水場でした。

当時は人口が少ない町でしたが、その後の関東大震災都心部を追われた人たちが住み着くようになりました。

後年の発展により浄水場の移転計画が始まりましたが、戦況の悪化により大幅に遅れ、昭和40年の完全停止まで60年以上にわたって稼働していたそうです(現在でも浄水機能は維持)。

都庁周辺が高低差のある碁盤の目になっているのはその名残だそうです。

 

 

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[品川]「今昔マップ on the web」より


明治5年に日本初の鉄道路線が初代・新橋駅(昭和61年廃止)と横浜駅(現・桜木町駅)間を開通したと知られていますが、実は新橋駅よりも4か月早く仮営業開始していたのがこの品川駅です。開業から40年近くたっても東側は埋め立てられていませんでした。

山手線は長らくこの品川駅から南下し、回り込むように山の手を通って赤羽に向かっていましたが、ちょうどこの地図に描かれている頃に北側が烏森駅(現・新橋駅)まで延びました。

 

 

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[秋葉原]「今昔マップ on the web」より


この頃の秋葉原駅は貨物専用線ターミナル駅でした。利用者数の激増でひっ迫した上野駅の貨物駅を移転するために延伸したそうです。

神田川の南側は古くからの市街地でしたが、北側は江戸時代の火事の延焼を防ぐ原っぱだったため、用地の確保が容易だったようです。

また、神田川から構内まで堀を引くことで船便への積み替えも容易だったようです。古地図の「所扱取物貨原葉秋」と書いてある「貨原葉秋」の辺り(現・ヨドバシAKIBA)から船に積み込み、「葉秋」の下に伸びている堀を通って神田川に出ていたそうです。

この堀はのちに埋め立てられ、現在は一部が秋葉原公園になっています。

 

掘割跡の秋葉原公園


上の画像の正面にあるビルの向こうに神田川が横切っていて、そこから堀が道路の下をくぐり、公園の場所を縦断して撮影場所の背後方向へ伸びていました。

この公園は堀の石垣を活かして低い構造になっていましたが、2014年にバリアフリーを目的として道路と同じ高さになりました。

 

 

[丸の内1]「今昔マップ on the web」より


皇居東側の丸の内周辺です。東京駅はこのころ建設中なので敷地しか描かれていません。

当時は東京のターミナル駅が上野(貨物は秋葉原)、両国橋(現・両国)、新橋、飯田町(飯田橋の貨物駅)と離れていたため、それらを集約する巨大な停車場と駅を必要としていたそうです。

土地は陸軍の施設を移転して確保し、ロンドン中心部のようなビルが立ち並ぶオフィス街を作り上げる計画でした。

 

 


大正6年(1917年)

 

アインシュタイン一般相対性理論を発表した翌年で、第一次世界大戦終結の前年です。

ロシア革命が勃発しました。

 

 

[丸の内2]「今昔マップ on the web」より


引き続き丸の内です。東京駅が開業して3,4年たった頃の様子だと思われます。

開業当時は何もない原っぱで、終電が出た後は不気味なほどの静けさだったそうです。

駅名についてですが、ターミナル駅が多くなることが想定される首都の駅にその名前がそのまま使われるのは珍しかったそうですが、地方の人にもわかりやすくするために開業の2週間前に東京駅と命名されたそうです。

 

 

[北区・足立区]「今昔マップ on the web」より


こちらは駅ではなく、足立区と北区が接している部分です。

以前より地図を見ていて区境の線がここだけ隅田川からはみ出していたために気になっていたのですが、古地図を見て昔の隅田川を考慮していたことを知ることが出来ました。

隅田川は自然にできた川のために大きく蛇行している部分があり、大雨が降るたびに洪水を起こしていました。それに対処するために大正時代に荒川放水路(現・荒川)が作られたのですが、そのときに隅田川の張り出した部分をショートカットしたようです。

古地図の白い部分が河川敷の用地です。その右側にある毛の生えたような線が江戸時代からある隅田川の堤防道路でした。

現代地図の紫色の丸の右上に鳥居のマークがありますが、その左にある黄色の短い道が堤防道路の名残です。下のストリートビューを見ると土手のように盛り上がっているのがわかります。

 

 


その他

 

 

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[築地]「今昔マップ on the web」より


最後は終戦間もないころの築地付近です。築地市場の建物がカーブを描いているのは貨物線の線路が敷かれていたためだということがわかります。

また、東銀座駅付近の低い部分を通っている緑色の首都高速都心環状線が昔は堀だったことがわかります。

現代地図に「汐留駅」とあるのは、初代・新橋駅から貨物駅となった汐留駅ではなく、新交通システムゆりかもめ線の駅です。

 

 

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[首都圏]「今昔マップ on the web」より


ここまでいかがでしたでしょうか。今回紹介したのは今昔マップ on the webの首都圏地図の中の東京部分だけです。首都圏地図はもっとも古い時代でも上の画像のモノクロの部分が描かれています。

さらに、中京圏京阪神圏、広域5万図の他、合わせて37地域の地図を現在の地図と見比べることが可能です。公開していただいている作者と関係者の方々にお礼を申し上げます。

以前より江戸時代の地図と見比べるアプリなどがありますが、その時代だと地域が限られるうえに、現代との違いが大きすぎてしまいます。今回見た明治末期以降でしたら欧州諸国崇拝による都市開発や埋め立て、河川の整備による治水の様子などをうかがうことができ、当時の人々の思いを垣間見ることが出来ます。

一度、皆さんのよく知る土地が掲載されているか確認してみてはいかがでしょうか。