| 最近、人が死ぬニュースばかりが目立つ。 ミャンマーの災害から始まって、 中国の大地震、 マンション隣人女性のバラバラ殺人、 アキバの無差別殺人、 そしてこれら全ての悲しみが癒える間もなく、 今度は東北地方で大地震が発生、死者が出ている……。 もう、ここまで一度に叩き込まれると、一つ一つに対する悲しみが薄れる感じがしていやだ。 最初のミャンマーの災害が、遠い過去のように思えるし、忘れ去られた感じもするし、 そういう、何ていうか、もう悲しい事件が当たり前のようになって慣れてしまうのって、 かなり危険な状況だと思う。 「人が死んだ」「ああ、またか」 こういう会話になってしまうのが、俺は怖い。 人間の死が日常茶飯事になっていく現代社会を見て、俺は思う。 今までだって俺は常々、「命」とか「死」とかいう単語を軽々しく使うのってどうなのよ? って思っていた。「命の尊厳」とか「大切な命」とか「命より大切なものはない」とか、 言葉で言うのは簡単だし、簡単に言えてしまうから多くの人がこの言葉を使うけど、 じゃあ、「命の尊厳」の尊厳ってどういう意味か? 「何で命は大切なの?」っていう説明はしたか? 「命より大切なものはない」っていうのに毎日肉や魚を食べてるのはどうしてか? 結局、表面的なことは口を酸っぱくして言ってるけど、 肝心な部分の説明は誰もしていない。 だから、「命」とか「命は大切」とか多く使われる単語はそのうち陳腐なものとなり、 それが結果的に「命」の存在自体も陳腐なものにしてしまい。 「命は大切? 何度も聞いたよ、ウザいなぁ」ってことになりかねない。いや、もうなってる。 人は熱しやすく冷めやすいし、流行に乗りやすく飽きやすい。 それは日々の事件に対してだって同じで、 こう毎日のように人が苦しみ、毎日、違うことにたいして募金をしていたら いつかは「もうウンザリ」ってことになってしまうんじゃないか? 俺は、そうなることが怖い。 ニュースで報道される事件の向こう側には、常に困っている人たちがいる。 けど、俺らは報道を通して事件のすごさ、ひどさを知ることが出来るけど、 困っている人たちがどんだけ困っているか、本人にしか解らない事は理解できない。 そして、俺らは事件そのものをひとくくりとして考えてしまうため、 その事件で何人の人間が苦しんでいるか、その一人ひとりの苦しみを感じることはできない。 向こう側にいる人間の立場になって物事を想像して考え、 そのうえでTVニュースを見ないと、人はどんどん人に対してドライで冷たい心になっていく気がする。 たぶん、自分が被害者になった時、イヤでもそこで初めて知ることになるんだろうけど、 そうなった時ではもう遅い。 他人が得た経験、苦労、 他人が得た知識、ノウハウ、 そういったものを自分が経験しなくても理解できる、 それが勉強することの目的であり、理由でもある。 そろそろ、この地球とそこに生きる人間のために必要な知識を学ぶ教育を始めないと 環境がおかしくなり始めたこの世界で生きていくことはできないんじゃないか? もう、結構、この地球って星がやばいんじゃないか? って、ちょっと俺は思いました。 |