宇崎ちゃん献血ポスターはなぜ「失敗」なのか(前

「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターは表現の自由の観点から論じられるべきではない。公共広告として成功なのか失敗なのかの観点で考えられるべきである。そして、この観点からはこのポスターは完全に失敗である。
以下に、なぜこの問題が表現の自由の観点から論じられるべきではないのかを今回、なぜ公共広告として失敗なのかを次回に述べる。
 
 

リンク先は丁寧な論考であり、ブクマも多く、おおむね好意的に評価されているようである。僕も全体的な論旨に賛成する。良い論考であるので、紙屋の助けを借りながらすすめよう。
 
 
 
「公の場の表現だからいけない」という意見について。
 市民の批判を受けて、大勢の人がよく見るような表現(駅のポスターなど)を撤去することはある。しかし、それはあくまで作家や民間団体の自主的な判断に過ぎない。作家や民間団体は表現の自由を行使して、表現を公表し続ける権利はある。表現の自由はそれくらい重いものだ。政治的な不公正があったからという程度の理由で当然に撤去されるべきものだと批判する側が考えるのは、根拠がない。
 
 ちなみに、公的団体のポスターについてはどうか。
 
 赤十字は「日本赤十字社は国の関連機関ではなく、あくまでも独立した民間の団体」である。なので、当然それは表現の自由の行使の主体となる(出版社や政治団体表現の自由の保護を受けるのは当たり前であるように)。
 
 

 

非常に丁寧な紙屋の論考の中で、この部分は粗雑である。
赤十字は確かに国の関連機関ではない。だが単純な民間団体であるともいえない。公権力と民間とは白か黒か、0か1かの1ビットで切り分けられるものではない。例えば自治体が運営していた水道事業を民営化したとして、その水道事業はただちに公共性を失うものであろうか? そんなはずはない。無論、水道事業が民営化されたことで、ある程度はその事業運営に独立性はでてくるだろうから、完全に公的のみの存在ともいえない。しかし、色濃く公共性は残していなければならないのもまた確かなことである。公共インフラにかかわる事業には、公共性が求められ続けるのである。
公共性とは白か黒か、0か1ではない。公と私の間にはグラデーションがあるのだ。公共性とは程度であり濃度をもつものなのである。
 
紙屋がリンクした日本赤十字社「よくある質問」にあるように、確かに日本赤十字社は民間団体ではあるものの、「日本赤十字社法(昭和27年8月14日法律第305号)という法律に基づいて設置された認可法人」「赤十字事業の公共性と国際性とに鑑み制定されたものであり、日本赤十字社が世界各国の赤十字社と協力して、世界の平和と人類の福祉に貢献できるよう努めなければならないと規定」「災害救助法の定めるところにより、行政が行う非常災害時の救護業務に従事するなど国、地方公共団体に協力して、その補完的役割を果たすべき分野を幅広くもっている団体」「日本赤十字社の業務が地方公共団体の行政目的、すなわち住民及び滞在者の安全と健康及び福祉の保持、あるいは防災、罹災者の救護等の面で密接な関係にある」
法に規定され、安全・健康・公衆衛生・福祉の保持・防災・罹災者の救護を目的とした組織を単純に民間のカテゴリーにいれて、一般的な意味での「表現の自由」を認めてよいものであろうか?
 
赤十字は戦時における負傷者の手当などをするために組織されたというのがその起源だ。国際条約においても赤十字を攻撃することは禁じられている。特定の国家に属してしまうと、国籍や所属に関係なく負傷者を救済するという赤十字の活動に支障をきたすことになる。赤十字が民間団体であるというのはそういう理由があってのことであり、その公的な性格は考えようによっては国家以上のものである。国家という枠組みが邪魔になるくらい公的な使命をもった機関なのである。
 
1のまとめ
・民間に属していても、公的な性格を持つ組織はありえる。公共インフラを担う組織は公的な性格が強い。赤十字社は、考えようによっては国家以上に公的な組織である。
 
 

紙屋はその論考で、憲法学者志田陽子の以下の記述を引用している。
 
 
 この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である。「公」はこれを保障するための仕事をする側に立っている。……その一環として、自治体が「自然豊かな郷土」とか「非核都市宣言」とか「ヘイトスピーチは許さない」など、その自治体の価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできる。これを広めるために自治体の長がみずから発言することもできる。これは行政サービスの一環としておこなわれることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない。
 憲法の言葉で言えば、「公」は憲法尊重擁護義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。公人が公人の立場において発言をするときには、この仕事の一環として発言をしていることになる。
 とくに公人が、正当な権利を行使している人を指してその行為の価値を貶める発言をしたり、排斥的な発言をすることは、人権擁護のための責任(憲法尊重擁護義務)を負う公職として、慎むべき事柄である。
 
 
(志田「芸術の自由と行政の中立」

 

 
なるほど赤十字憲法には直接には拘束されないだろう(日本赤十字社法は日本国の法律であるから、憲法の理念に反することは許されないとはいえる)。しかし、赤十字にも憲法と言えるものはある。赤十字基本7原則である。
志田の言を使わせてもらうと、以下のようになろう。
 
赤十字赤十字基本7原則を尊重する義務のもとに、「自由」ではなく職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発をおこなっている。」「赤十字はその価値観や政策方針を打ち出し、これを告知するための表現活動をおこなうこともできるが、これは赤十字の使命を果たすために行われることであって、一般人と同じ「表現の自由」によるものではない。」
 
 
ではその赤十字基本7原則とは何か? 詳しくはリンク先を確認してもらうとして、単語のみをあげておくと、
人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性 の7つである。
赤十字の「表現活動」はこれらの価値に抵触するものであってはならない。これらの価値に抵触する表現をする「自由」は赤十字にはないのだ。
 
 
引用された志田の記述の中にある「この「表現の自由」は、一般人に保障される自由である」とはどういうことなのか?
それは、一般人はいかなる価値にも拘束されないということだ。僕もあなたも、憲法個人主義の理念や赤十字基本7原則の人道公平中立を強制されるいわれなどない。他者に危害を加えない限りにおいて、どんなに愚かで下卑たことを考えてもいいし(=内心の自由)、それを外部に表現してもいい(=表現の自由)、ということだ。私的な自由や権利は愚行権を含むといえる。馬鹿でもお下劣でも仕方ないよ、にんげんだもの
しかし
赤十字は「人道・公平・中立・・・」に反してはならない。日本赤十字社には価値観の自由とその表現という意味での「表現の自由」など最初からありはしない。
 
 
2のまとめ
赤十字には一般人に保障される意味での「表現の自由」はなく、「人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性」という原則を守って説明や啓発をしなくてはならない。
 
 

以上、紙屋の論考の助けをかりて、「宇崎ちゃんは遊びたい」献血ポスターを論じるにあたって、表現の自由という論点を持ち出すことが無意味であることを論証した。そしてまた、紙屋の論考を好意的に読んだ諸賢には、このポスターが「赤十字の説明や啓発として」問題があると理解されたと思う。
なぜなら、紙屋の論考においては、このポスターは「政治的公正に欠ける」と認識されているからだ。つまり、政治的公正に欠ける表現は、赤十字基本7原則のうち「人道・公平・中立」に反してしまうのである。赤十字の「説明や啓発」としては明らかに失敗なのだ。
 
この件に限ったことではない。公的機関あるいは公的性格の強い組織が、志田のいう「職務を進めるための「責任」として、さまざまな説明や啓発」を行う場合、それを「表現の自由」を論点にして批判したり擁護したりすることは的外れなのである。
論ずるべきは、その「説明や啓発」が「職務」遂行のためになるかどうかなのである。
 
 
しかし、政治的公正、ポリティカル・コレクトそのものに懐疑的な人々にはこれでもまだ届かないだろう。
次回はポリコレに懐疑的な人々にも、このポスターが失敗であることがわかるような説明を試みつつ、さらに、赤十字の広告としてだけでなく公共広告としてこのポスターが失敗であることを論証する予定だ。一週間以内にあげる。
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  • id:cnamae

    失礼いたします。
    赤十字は公的性格が強く、「論ずるべきは、その「説明や啓発」が「職務」遂行のためになるかどうか」であるという主旨、興味深く拝読しました。
    ただ、主旨に比すれば些事ではありますが、そのさらに先へ展開した以下の記述について若干気にかかり、質問いたします。私が紙屋氏の(もしくはあなたさまの)文章を誤解したり読み落としたりしているようでしたら申し訳ございません。ご教示願えれば幸いです。

    >なぜなら、紙屋の論考においては、このポスターは「政治的公正に欠ける」と認識されているからだ。

    たしかに紙屋氏の論考には、

    >「宇崎ちゃん」については[略]という見方を強化するおそれはある。環境型セクハラではないが、不公正さが含まれていると思う。
    (↑以下この引用部分を◆と称する)

    という記述があります。しかしここでいう「不公正さ」が直ちに、当該ポスターに特有に認められる、公的団体たる赤十字には許されない程度の不公正を意味するのか、個人的にはかなり疑問です。
    まず準備として、「不公正さ」に程度を設定したいと思います。紙屋氏は次のように述べています。

    >[前略]創作物はほとんどのものが大なり小なり政治的不公正を含んでいる。どこかで誰かを傷つけていることは避け難いと言ってもいい。

    この、創作物に不可避な程度の不公正さを、〈程度A〉の不公正さ、と設定しましょう。

    >政治的不公正を批判する指摘というものは、当たっている場合もあれば、外れている場合もある。また、当たっていても、影響がほとんどないという場合もある。
    >「不公正だ」という指摘に対して、ひとつひとつ実際に不公正かどうかを検証していけばいい。そして、作家は、その指摘や検証(議論)を受け止めて、そのままにしておくか、作品を修正するか、撤回するか決めればいい。そしてその態度に対して……という無限の連鎖が続く。それが表現や言論の自由というものだ。

    「無限の連鎖」なのですから実際には終着点には到達しないでしょうが、わかりやすくするため連鎖のはての理想の到達点として〈程度B〉を仮定したいと思います。〈「民・民での関係」において淘汰されるべき程度の不公正、の下限〉です。
    〈程度A〉はおおむね、「当たっていても、影響がほとんどない」程度(これより多少低いかもしれませんが)と考えてよいでしょう。
    A以上の不公正について指摘→検証→作品への反映→指摘→…の無限ループを繰り返す、ことでBが浮かびあがってくる、というわけです。
    (なお「実際に不公正かどうか」という記述については、「実際に(どの程度)不公正か」とするのが本来かと思います。指摘がそもそも「外れている場合」に言及があるとはいえ、検証を無限にまわすのは、「外れている場合」を判別するためではなく、Bを浮かびあがらせるためでしょう。)
    さて、長い準備になりましたが◆に戻ります。◆で「含まれていると思う」と認められた「不公正さ」とはどの程度のものなのか?
    「「宇崎ちゃん」については」とわざわざ範囲を狭めていることから、Aに過ぎないとまでは主張していないことは明白といってよいでしょう。しかし同時に、◆の次文は

    >だから、そうしたポスターに「これはジェンダー的に不公正ではないか」と意見を言うことはありうる。というか、言うべきだ。

    と展開してもいるのです。
    この種の「意見」すなわち「指摘」は、上でまとめたとおり、A以上のものについては「外れて」いないし言うことが望ましい。そして、〈だから、そうしたポスターに(A以上のもの皆に当てはまること)〉という展開をするとき、「だから」のまえの主張が〈このポスターは(Aと有意に差がある程度)〉だとは考えにくいわけです。
    私としては、「おそれがある」という表現や論考全体での「太田が」という主語の維持をふまえると、紙屋氏が当該ポスターにはたしてAとは一線を画す不公正を認めているのか疑問です。少なくとも、〈当該ポスターの不公正の程度はAとは一線を画している、と主張することを紙屋氏は留保している〉と考える読者は一定数成立するのではないかと思います。

    さて、〈公的団体たる赤十字には許されない程度の不公正、の下限〉を程度Cとすると、CはBよりよほどAに近いでしょう。しかし、やはりAとは厳然たる差があるのではないか(もちろん「CはAだ」と主張しても構いませんが、少なくとも議論なく共有できる主張では明らかにないはずです)。
    以上のことから、「このポスターが「赤十字の説明や啓発として」問題がある」と言い切るには、なお十分とはいえない(というか、結局は具体的なポスター自体についての議論が必要である)ように感じました。

  • id:cnamae

    大変な長文、しかも主旨についての瑕疵とはいえない些事に難癖をつけたようで申し訳ありません。
    できるだけ理詰めで(すなわち、私が意識せず理から外れた箇所を読む側が判別・教示しやすいように)書いたつもりですが、そのために長くなったことはもちろん、もしかすると読む人によっては上から目線を感じる書き方になったかもしれません。そのつもりはなかったことをお汲みいただければ幸いです。

    はじめに記したとおり、得るもののある論考でした。
    後編(それとも中編?)、楽しみです。とりわけその執筆の邪魔になるような場合など、私のコメントはひとまず無視してくださって結構です。

  • id:tikani_nemuru_M

    id:cnamae

    丁寧なご意見ありがとう。
    先ほど後編の論考をあげたので、まずはそちらをご覧ください。ご疑念の多くに答えられたものになっていると思います。

    例えば選挙で選ばれた政府に公的性格があるのは自明ですが、政党というものは特定の支持層を基盤としたものでもあり、自らの支持層に有利な政策を行うことはある程度仕方のないことと考えられます。

    ところが後編の論考にある通り、日赤には「特定の支持層」を持つことがそもそも許されず、一部に有利なことをすることもありえません。
    その意味で、日赤の公的な性格の程度は、政府以上のものであるとも考えられます。

    つまり、公的な性格の程度というのは、国家だとか自治体だとかいう形式的なもの以上に、どのような事業がなされているかなのだと思います。
    日赤の血液事業というのは、もっとも純粋な意味での公的活動なのだと思います。

    表現の自由を考える上でもモデルケースとなりうるでしょう。