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中国の爆速成長が変えた「経済のルール」と、取り残された日本企業

「垂直統合」に固執すれば失血死が待つ

1992年の、鄧小平の南巡講話をきっかけに進められた経済改革によって、中国製造業の猛烈な成長が始まった。これが世界経済の構造を大きく変えた。

農民工が支えた製造業の急成長

中国の鉄鋼の生産は、1995年には約1億トンで、日本とほぼ並んでいた。しかし、その後急増し、たちまち日本を抜き去った。2019年上半期の中国の粗鋼生産量は、約5億トンであり、世界生産の53.2%を占めている。

鉄鋼に少し遅れて、自動車の生産が成長した。すでに80年代に中国3大自動車メーカーの1つの上海汽車がフォルクスワーゲンと提携していたが、90年代には外資系との合弁企業が次々に誕生し、先進国の技術を取り入れて発展した。

2000年以降に生産増が本格化し、09年には生産台数で日本を抜いて、世界一となった。18年では、中国の生産台数は2781万台であり、日本の973万台の3.2倍になっている。

このように、中国でさまざまな分野の製造業が発達し、世界の工場としての地位を固めるようになった。

 

中国の急激な工業化を支えたのは、「農民工」と呼ばれる出稼ぎ労働者だった。

中国では、従来、「農業戸籍」と「非農業戸籍」を区別し、人口移動を厳しく制限していた。

改革開放前には、人々は配給制度に依拠せざるをえず、また就業先は公的企業しかなかったので、都市への人口移動は起こらなかった。しかし、自由化によって戸籍の重要性が低下すると、内陸部の農民が大洪水のように都市に殺到したのだ。

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彼らの移動は「盲流」とか「民工潮」と呼ばれた。

農民工は労働組合を持たず、権益の保障はなく、社会福祉の恩恵を受けることもない。そして、最悪の労働環境の中で、最低の労働条件によって、最低の収入を得た。

95年に、私は北京と上海を訪れたことがある。朝の通勤時間の大通りは、自転車の大群によって埋め尽くされた。

そして北京駅で悪夢のような光景を見て、強い衝撃を受けた。広い駅構内のいたるところに、足の踏み場もないほど人の塊ができていたのだ。彼らは、床に布を敷いて生活していた。農村から出てきた人々が、泊まる場所もなく、駅で生活していたのだ。

農民工は、数が多いだけでなく、勤勉で従順だ。

朝8時前に出勤し、真夜中か午前まで働く。それでも足りずに、残業する。職を求めて来る若者が発する質問は、「残業があるか?」だ。あれば働く。なければ別の工場を探す。休日が多すぎると、休みのない工場に移る(月に何度も「連休」がある日本とは大違い!)。

「蟻族」と呼ばれる若者たちもいた。彼らは、農村からの出稼ぎである「農民工」ではなく、大学卒業者だ。しかし、深刻な就職難に直面する彼らの所得は、場合によっては農民工より低い。だから、夜遅くまで勉強して、チャンスをつかもうとした。