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『ボヘミアン・ラプソディ』『ロケットマン』『WEEKEND』―'10年代、映画/TVシリーズのLGBTQ表現はどこまで進化を遂げたのか?

ARTS & SCIENCE
コントリビューター田中宗一郎
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いまだ途上ではあるものの、2010年代は人々がマイノリティのアイデンティティという問題と向き合うことに以前よりも自覚的になったディケイドだった。では、それに伴って、映画/TVシリーズといったエンタテイメント表現はどのように変化を遂げたのか?――こうした問題意識の下、デクスター・フレッチャー監督の『ボヘミアン・ラプソディ』『ロケットマン』といったロック・スター/ゲイ・アイコンの伝記大作映画を入り口として、大小かかわらずここ10年の映像作品におけるLGBTQ表象を中心に討議したのが、この対談だ。

語り手は、映画/音楽ライターの萩原麻理と、同じく映画/音楽ライターであり、オープンリー・ゲイとしての立場でゲイ・カルチャーやクィア・カルチャーについても積極的に紹介/論評を行っている木津毅。このふたりの会話は、まだ日本では十分に意識されているとは言い難い「エンタテイメント表現におけるLGBTQ表象の現在」を知り、その問題点に触れ、自分自身で考えてみるきっかけを与えてくれるに違いない。

司会:田中宗一郎 リード:小林祥晴

『ボヘミアン・ラプソディ』と『ロケットマン』はゲイ・アイコンをどのように描いたのか?

萩原 今日の前提として、私がゲイ、LGBTのコミュニティに対して失礼なこと、頓珍漢なこと言ったら、その都度言ってくださいね。自分では気がつかない、意識していない落とし穴はつねにあるので。私自身もゲイの方が書いてる日本の記事とか読んでて、別に間違いではないけれど、「やっぱり日本の男社会に生きてたら、気づかないことはあるんだな」と思うことはあるので。

木津 ああ、なるほど。ゲイのミソジニーって、はっきりありますからね。僕もゲイとはいえシス男性なので、いわゆる男性目線になりすぎないよう気をつけないと、とよく思います。

萩原 そういうことがあれば、その場で、批判ではなく、私も指摘するようにしてます。

木津 わかりました。

萩原 「セクシスト」みたいな言葉は、その人の人格攻撃ではなく、その場その場の行動に対して向けられる言葉だと思っているので。私も外国の人と話してると、「セクシスト」「レイシスト」って言われますよ。普通に。ゲイの友だちに、「この写真ゲイっぽいね」って言ったら、「マリさあ、それって……」とか(笑)。中国系カナダ人に、「中国人なのにお粥嫌いなの?」って言って、「レイシスト?」って言われたこともあります。そういうのはお互い感情的になるんじゃなく、ひとつひとつ言ったほうが建設的なのでは、ってよく思うので。

――ではまず、ブライアン・シンガーから『ボヘミアン・ラプソディ』を引き継ぎ、『ロケットマン』の監督も務めたデクスター・フレッチャーによる二作に対する所感を教えてください。

木津 僕はメインストリームにおける「ゲイ・アイコンの消費」についてすごく考えてしまったんですよ。いま、誰をどのようにアイコンとして称揚するのか。その功罪について、ですね。

萩原 木津くんが「ゲイ・アイコンの消費」について〈ミュージック・マガジン〉で書いた記事を読むと、この二作は明確に違う部分もあると私は思っていて。まあぶっちゃけ、『ボヘミアン~』がPG13指定で、『ロケットマン』がR指定だ、っていう違いなんですけどね。

木津 ほんとそうですね。

萩原 『ボヘミアン~』はPGにするために押し込められた部分もあるし、『ロケットマン』はスタジオ製作のR指定映画として、初めてゲイのセックス・シーンがあるのは、やっぱり進歩だと思う。『ボヘミアン~』で一番引っかかるのは、アンダーグラウンドのゲイ・シーンにフレディ・マーキュリーが出入りするあたりですよね。セックス&ドラッグ、もろもろの悪行がそこに集約されてて、まるでそこが悪の巣窟のように描かれてる(笑)

木津 そう! そうなんですよね。

萩原 バンドの話だからしょうがないんだけど、フレディがそういうものと縁を切ってバンドに戻ってきたときに、「更生した! まともになった!」みたいな。でもひとりのアーティスト、男性として見たときに、ゲイ・カルチャーとの出会いはフレディにとって大きなインスピレーションであり、彼にアイデンティティを与えたはずなんですよ。なのにドラッグを含め、それを「ジャスト・セイ・ノー」みたいな片付け方にしてて。いくらPG指定の大作とはいえ、否定的なニュアンスになりすぎてる。

木津 ほとんどゲイ・ヒストリーの否定ですよね。『ボヘミアン・ラプソディ』に対して一番批判があったのはやっぱりそこなんですよね。クイア的な磁場からはアウトだった。今年のアカデミー賞は『ボヘミアン・ラプソディ』と『グリーンブック』(18)が話題だったんですが、どっちもゲイ性をすごく薄めている、と。要するにストレートの観客が安心して観られるように、 センシュアルな部分やゲイであることのややこしい部分を覆い隠して、みんなが共感できる仕組みになってる。その一方で、『ある女流作家の罪と罰』(18)とか、『女王陛下のお気に入り』(18)みたいな――あれも女性同士の恋愛やパワーバランスを生々しく描いた映画ですが――ああいうものがアカデミー賞では低い扱いにされた。そういう批判があったんです。『ボヘミアン~』は、70年代のフリーセックスというゲイを解放した価値観に対して否定的だし、最後にフレディがパートナーと出会って、モノガミー的価値観から「よかったね」というハッピーエンドにしてる。もっと言うと、ゲイのアンダーグラウンドのクラブがHIVやエイズの温床になっていた、みたいな、悪しきステレオタイプと繋がる部分もあるんですよ。

『ボヘミアン・ラプソディ』

萩原 でも『ロケットマン』は、エルトン・ジョンというひとりの男性がカウンセリングによって更生する話でもあるから、過去をすべて受け入れたうえで、という構成になってる。まあ、この映画はゲイを悪く描く部分自体ないんですけど。ドラッグも過去の間違いも含めて、「これがいまの自分なんだ」って持ってきたところが、ゲイ・ムービーとしても筋が通っているし、他のイシュー、例えば子どもの頃親にネグレクトされた人、ドラッグに依存していた人にも共感するポイントになってる。

『ロケットマン』

木津 『ボヘミアン・ラプソディ』が受けた批判に対する反省をすごく意識したんだと思います。ゲイ・カルチャー的に筋の通るものを作らないといけない、っていう気概は感じました。

萩原 気概は(笑)。

木津 例えば『ボヘミアン・ラプソディ』の場合、クイーンのことを全く知らないで見ると、ゲイ表象にほとんど気づかないで帰る人もいるみたいなんですよ。

萩原 そうなんだ!?

木津 ストレートの知り合いに「ゲイ描写はどうだった?」とか訊くと、「そんなにあったっけ?」みたいな。やっぱり、そういうふうに作られた映画ではあるんですよね。その意味では、『ロケットマン』はそうじゃない。そこだけでも努力した部分はある。ミュージカルがいかにゲイ・カルチャーと結びついているかも描かれていますし。だから、僕は「偉い」とは思ったんですよ。でも、「偉い」で盛り上がれるかどうか、っていうと……しかも製作段階から、まさに「R指定でゲイのセックス・シーンが入るらしい」っていうので結構周りがざわついてたんです。でも蓋を開けてみたら、まあまあヌルくて(笑)。

萩原 でもキス・シーンはめっちゃ多くなかった?(笑)。

木津 そうですね。でもセックス・シーンはもっといけたでしょう(笑)!

萩原 私は(エルトン・ジョン役の)タロン・エジャトンも(エルトンのマネージャーであるジョン・リード役の)リチャード・マッデンも、ふたりとも好きだからなあ。

木津 リチャード・マッデンね(笑)。もちろん、その意味ではちゃんと萌えられるカップリングに作ってある。そこはさすがだなと思います。

萩原 でもBL好きの人たちを観察してると、海外ではみんなタロンとリチャードに萌えてるんだけど、日本はタロンと(エルトンの音楽的パートナーである作詞家のバーニー・トーピン役の)ジェイミー・ベルのカップリングが好きな人が多いみたい。

木津 なるほど! そりゃそうですよね。

――前提を共有していない読者のために、もう少し説明を加えてもらえますか?

木津 エルトン・ジョンを演じるタロンに対して、ソングライティング・パートナーで作詞を担当してるバーニー・トーピンをジェイミー・ベルが演じてる。『ロケットマン』ではふたりの長年の信頼関係が描かれるんです。一番大変な時期に、エルトンが意固地になってバーニーを遠ざけるんだけど、バーニーはそれでもエルトンを見守って、最後には和解して。

萩原 最初に出会った頃、エルトンがバーニーのことを好きになって、でもストレートのバーニーはそれを受けとめつつ、「恋人にはなれない」と。でもその関係性に、この映画ではさらにひとひねり、ふたりがクリエイティヴなパートナーになっていく過程が加わるんですよ。それは恋人になるより、セックスをするより、もっともっと濃い関係かもしれない。出てくる登場人物のなかで誰よりもわかり合い、愛し合ってるふたり。その関係性の捻れに萌えるんだな、と。

木津 (笑)BLだとそうなりますよね。

萩原 しかも、この映画はイギリス映画をここ20年くらい見てると、実際の人間関係図に感慨深いものがあるんです。

――どういうことでしょうか?

萩原 起点にデクスター・フレッチャーが俳優として出演した、98年のインディペンデント映画『ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』があるんですよ。

『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』

萩原 (『ロケットマン』に制作で関わっている)マシュー・ボーンが初プロデュース、ガイ・リッチーが初監督した映画で、ジェイソン・ステイサムを輩出した映画でもある。そこからみんなどんどんのし上がって、マシュー・ボーンは監督に転身し、タロン・エジャトン主演で『キングスマン』みたいなヒットシリーズも出すようになる。そこに、エルトンの伝記映画っていう長年温められてた企画がハマったんです。マシュー・ボーンは製作に回り、フレッチャーを監督に、タロンを主演に起用した。もうひとつ言うと、『ロケットマン』の脚本のリー・ホールは、『リトル・ダンサー』(00)の脚本家でもあって。

木津 ああ、そうなんですね。

『リトル・ダンサー』

萩原 ジェイミー・ベル、13歳の初主演作! 炭鉱夫の父や兄と暮らしてる男の子が、バレエ・ダンサーになる話で……そう話すだけで泣いちゃう(笑)。

木津 サッチャー政権以降落ちぶれていく炭鉱の町で、バレエを志す少年に未来が託される、という。

萩原 男らしさについての映画でもあり、少年の親友がゲイで。ともかく、ジェイミー・ベルが『ロケットマン』にキャスティングされたのは、その縁があるんじゃないか、と。そういうイギリス映画のつながりがババっと見えるんです。

木津 なるほど。萩原さんが『ロケットマン』にそこまで反応してるのはなんなんだろう、っていうのに、いまちょっと納得がいきました(笑)。いや、僕も基本的には楽しく観ましたよ。大作の企画ものとしては頑張ってると思うし、R指定も含めて、画期的と言えば画期的だし。ただ、やるんだったらもっとやってほしかったかな。あともうひとつ、だったらそのアイコンはエルトンだったのか——っていうところですね。エルトン・ジョンって、いま見てもハイパーすぎるんですよ。めちゃくちゃ音楽の才能があって、めちゃくちゃ我が道を行って、でも最後には腰を据えた人生を獲得して、それこそHIV基金に投資したりしてる。そんな人をゲイ・アイコンと言われると……2019年にそれを提示されて、みんながそこを目指せるのか。

萩原 でもそういう、「ビッガー・ザン・ライフ」みたいな人生に、誰もが共感できるポイントを作ってあるじゃない? それに、彼があれだけド派手になった意味というか、理由も伝わるじゃないですか。あれだけの痛みと孤独を抱えていたからこそ、ドラアグじゃないけど、着飾らなきゃいけなかったし、底抜けに楽しくなきゃいけなかった、っていう。

マドンナは時代とズレている?現代的なLGBTQアイコンとはどのような存在なのか?

萩原 ゲイ・アイコンって、ただゲイのスターっていうだけじゃなくて、そのコミュニティに愛され、支持され、本人もそれを全身で受けとめる存在でしょ? 女性だったらマドンナもカイリー(・ミノーグ)もロビンも、ゲイ・アイコンだし。

――日本人で言えば、中森明菜とかもそうですよね。

木津 松田聖子も。

萩原 今井美樹も(笑)。私、この話するといつも長くなるんだけど、東日本大震災後のカイリーのライヴ(2011年4月23、24、25日に開催)がほんとすごかったんですよ。海外のアーティストが軒並み来日をキャンセルしてた時期に、カイリーが「日本に行くわよ!」って宣言して、幕張に来て。で、液状化してるようなところを歩いて会場に着くと、もうそこが二丁目っていうか、プチプライドだったんです。私自身はゲイ・コミュニティの一員とは言えないけど、震災後の暗いムードを共有していて、でもそのすべてを忘れる解放感があった。カイリーがみんなの思いを受けとめて、誰よりも輝いて、楽しませることに尽くしていて。帰りの京葉線の電車もプチプライドだったから、楽しくてしょうがない(笑)。ゲイ・アイコンって、そういう光の部分があるからこそ孤独や影も濃いんだけど、あのライヴで感じたゲイ・アイコンのあり方と、この映画のエルトンの存在がすごく通じてるんですよ。

木津 僕も、カイリーは存在として大好きなんですけど、これはゲイ代表としてではなく、あくまで木津個人の意見として言うと……そうやってカイリーのライヴでわーっとみんなで盛り上がる二丁目の感じには、僕、どこかでちょっと引いちゃうんですよ(笑)。

萩原 (笑)もちろん、私もあのときの状況があったからなんですけどね。

木津 震災っていうのがありますよね。だからやっぱり、僕がジョン・グラントみたいな人にめちゃくちゃ反応してしまうのは、もっと地べたで生きてるゲイというか(笑)。彼は、エルトンみたいにハイパーになれないゲイの人生を細やかに描いてる。

John Grant – GMF

木津 ジョン・グラントはおじさんのシンガーソングライターで、ソロで40代くらいになるまで全然芽が出なくて、つらい人生を送ってきて。そのつらさを赤裸々に歌ったことで、ようやく脚光を浴びた人なんです。そういう人が自分のことを生々しく歌うことのほうに、僕は心惹かれるタイプ。だからいまエルトンを提示されると、ちょっと距離を感じるんですよね。ただカイリーの話で言うと、2016年にオーランドのゲイ・クラブで起きた銃乱射事件のあとのライヴで、ジョン・グラントがカイリーを呼んだんです。それにはめちゃくちゃ感動しましたけどね。“グレイシャー”っていう、ジョン・グラントの曲のなかでも「君は強く生きるべきだ」っていう、みんなを鼓舞するために作られた曲があって。

John Grant joined by Kylie Minogue - Glacier

木津 その歌のデュエットに、彼がカイリーを呼んだ。普段はスーパーポップスターとは全然違うところで活動してるジョン・グラントが、でもオーランドの事件でみんなが傷ついてるときに歌う歌は、「絶対にカイリーといっしょじゃなきゃいけない」と。それは、死ぬほど感動しました。うん、ジョン・グラントはエルトンと比べると、規模感も何もまったく違うんだけど、僕はそういうゲイ・アイコンを支持したい。

――今のお話は、どんなタイプのアイコンであれ、「時代と共にアイコンとしての在り方が更新されているのか?」っていう話でもありますよね。

木津 そうですね。さっきの話で言うと、マドンナですら、時代とはズレてきてると僕は思う。

萩原 確かに。

木津 例えば銃乱射事件へのリアクションとして、マドンナが“ゴッド・コントロール”っていう曲のビデオを発表したとき、(フロリダ高校銃乱射事件の生存者で活動家の)エマ・ゴンザレスがそれを批判したんです。要は衝撃的な映像を使っていたんですが、それは「銃の暴力について語る正しいやり方じゃない」と。あれは象徴的だったと思う。もう、そうやって上から鼓舞していく時代ではない。

Madonna - God Control

萩原 でも、ロビンは更新されてるよね? あのアンドロジナスな感じとか。

木津 うん。トロイ・シヴァンもアイコンとして新しいじゃないですか。彼も地に足がついてる。

Robyn - Honey
Troye Sivan – Bloom

木津 僕、いまのLGBTQアイコンをいくつか考えてきたんですけど、俳優だとベン・ウィショーとか。彼はフラットにストレートの役もやるし、『未来を花束にして』(15)なんかでは……。

萩原 DV夫の役をやってた。

木津 嫌なストレート男性をやるゲイ男性って、面白いなあと。でもインディペンデントな映画ではしっかりゲイの役もやる。あのフラットな立ち位置がいまっぽい。

『未来を花束にして』

木津 いまの人じゃなくてレジェンドなら、イアン・マッケランみたいな人を引っ張り出してくるほうが筋が通ってると思いますね。彼なら『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズにも出てて、若い人にも人気があるし、昔から地道に活動もやっていて。当事者としての立場で発信してきて、一歩一歩重ねてきてる。ああいう人をちゃんとLBGTQのレジェンドとして評価してほしいなと。あと、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』(17)のビリー・ジーン・キングみたいに、このタイミングでいまとつながったとか。

『ロード・オブ・ザ・リング』
『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』

木津 もちろん、すごく優等生的な意見ですよ。だから『ロケットマン』的な色気はないかもしれないけど、でも僕はそうやって真面目なことをしっかりやるのが大切だと思う。去年のNYプライドでは、バイセクシュアルであることをカミングアウトしているエマ・ゴンザレスがビリー・ジーン・キングと初めて会った写真が広まってました。それはすごく現代的だった。そういう人たちがいまのアメリカでアイコンになってることは前向きだし、そういうものにもっと光を当ててほしい、っていうのが僕の立ち位置ですね。

萩原 イアン・マッケランは、確かドキュメンタリーが作られたはず。

木津 あと、2011年のイギリス映画『WEEKEND ウィークエンド』が日本でもようやく公開されましたけど、あの作品は本当に、「以前/以降」と言われるほど、『ムーンライト』(16)から何から多くのゲイ・テーマの映画に影響を与えましたよね。それも、普通のゲイをあれだけ親密に描いたことがいかに画期的だったか、ってことだと思うんですよ。主題歌がジョン・グラントであることからもわかるように、市井のゲイをリアルに描いている。

萩原 しかもアンドリュー・ヘイ監督はそのあとのフィルモグラフィを見ても、そこにとどまらず活躍し、影響を与えてる。セックス・シーン描写にしても、ドラマ『The OA』で監督した回を見ても、彼ならではの表現があって。それが今後も広がっていくだろうな、という期待感が大きい。

『WEEKEND ウィークエンド』

木津 音楽ものだと、次はボーイ・ジョージの伝記映画の企画が持ち上がってるみたいだし、それこそジョージ・マイケルもそのうち映画になるでしょ? そのときにどう描くかですよね。ジョージ・マイケルだったら、僕はあのハッテン場での事件なんかを赤裸々に描いてほしいし、どこまで生々しくやれるかがポイントだと思います。

萩原 そうそう、『ピッチ・パーフェクト ラストステージ』(17)の最後の曲がジョージ・マイケルの“フリーダム”だったんですよ。あのヒットシリーズで、女の子たちが「私はあなたのものじゃないし、あなたは私のものじゃない」って歌って締めくくるのがよかった(笑)。でもそれで言うと、『ロケットマン』がジュークボックス・ミュージカルとして成功してるのは、まさにエルトン・ジョンの曲の力もあると思うんだけど。あのベタな曲の数々が、彼の人生のいろんな局面にピタッとハマるだけじゃなく、聴く人の人生のどこかに訴えかけてくる、っていう。

木津 そうなんですよね。その意味で僕がゲイの固有性にこだわりすぎるのは、よくないことでもあるのはわかってるんです(笑)。ポップ・ソングがセクシャリティとかアイデンティティを超えて伝わるものだからこそ、エルトンが選ばれたところももちろんある。まあでも、「とはいえ」っていう、そこは僕のなかのアンビバレントな部分ではあります。

「マジカル・ニグロ」、そして「マジカルオネエ」という問題を如何に乗り越えるか?

木津 いままでの話とリンクするところで言うと、僕が勝手に「マジカルオネエ」って呼んでる現象があるんです。要するに、「マジカル・ニグロ」と同じ。マジカル・ニグロっていうのは、映画とか小説で、白人の主人公が困っているときに助けてくれる黒人が出てくることを指すんですけど。

萩原 『ショーシャンクの空に』(94)みたいな。

木津 モーガン・フリーマンはその代表と言われてる。ストーリーに都合のいい、いいやつとしての黒人。そういう黒人が白人の物語を動かすための駒として出てくる、それが「マジカル・ニグロ」という言葉で批判的に呼ばれるようになった。でもそれって、いろんなマイノリティを描くときによくあることだと思うんですよ。で、僕が「マジカル・ゲイ」じゃなくて「マジカルオネエ」って呼んでるのは、特に日本の話なんですね。オネエタレントも、基本的にはマジカルオネエだと思います。つらい経験をしてきたからこそパワフルになったオネエが、怒ってくれる、叱咤激励してくれる——みたいな。それがすごく無反省に出てる問題がある。でも、僕が「マジカルオネエ」って言ってる一方で、柚木麻子さんの『マジカルグランマ』っていう小説で「マジカル・ゲイ」という言葉も出てきたり、日本のその問題は多くの人が気づいてるんですよね。ただ、日本だけじゃなくアメリカだって全然あるんですよ。例えば、リアリティ・ショーの『クィア・アイ』(03-07)もそう。Netflixでリブートされたいまの『クィア・アイ』(18-)じゃなくて、前のオリジナルの『クィア・アイ』シリーズのほうですけどね。あれも、マジカルオネエ度がすごく高かった。

萩原 ああ、それはわかる。

『クィア・アイ』(Netflix)

木津 ハイパーなゲイたちが登場して、困ってるストレートを助けてあげる、っていう。いまの『クィア・アイ』も若干残ってる部分はあるんですけど、そこはかなり自覚的にやっていて、一応彼ら5人の等身大の悩みも入ってるし、彼ら自身の間違いも描かれるし。5人がトランスの女性と直面したときに、彼ら自身にも偏見があるのがわかったり、現代的に更新されてる。ともかく2010年代に、そういうマジカルオネエ、マジカル・ゲイ、マジカルLGBTQでもなんでもいいんですけど、そこに関して自覚的にならなきゃいけないんじゃないか、っていうのが僕の意見ですね。

――マジカル・ニグロにせよ、マジカル・ゲイにせよ、マイノリティのアイデンティティに、まず主役ではなく脇役を与える。そして、それに何かしらマジカルでスーパーな能力を与える。そして、それを演出家なり、脚本家が無自覚にやってしまっているーーこうしたメカニズムはどういう制度性によるものだと考えていますか?

萩原 それは単に、男性が作ってるからでしょう。

――そうした過ちを男性が犯してしまうのは、無意識な差別意識からなんでしょうか?

萩原 差別意識っていうか、無意識のうちに自分とは違う存在だと思ってるから。カラードやLGBTQの人たちだと目立ちやすいけど、だいたい普通に女性が出てくるときでさえ、「あのさ、その“何も言わずにわかってくれるお母さん”とか、やめてくれない?」って思うことありますよ。

木津 ああ、ね。

萩原 それはもう、物語の基本的なステレオタイプとして存在してる。イーストウッドの『運び屋』(18)なんか見ても、映画としては面白いしチャーミングなんだけど、「妻とか娘は、お前を許したり、許さなかったりするだけの存在じゃないんだよ!」と思いました。

『運び屋』

萩原 ほんとは妻も娘も、クリントなんか関係なく、勝手に生きてるはずでしょ? 逆に韓国映画とか、私最近よく見るんですけど、あれはホモソーシャルな話のときにはほとんど女性が出てこないんです。あくまで男同士の濃い話になってる。でも日本映画では、なんかアクセントとしてやたら母性的な女性が出てきたり。そういうとき、「わかんないんだったら、出さなきゃいいのに」って思いますね。

木津 難しいのは、特に日本において、マジカルオネエ問題っていうのは、善意でやってることなんですよ。

ーーもしかすると、一番のポイントはそこですよね。だからこそ、根深く、厄介だという。

木津 いまLGBTQのキャラクターを出さなきゃいけない、ってなったときに、「そしたらやっぱりカッコいい役だよね!」みたいな。そうやって善意で出しちゃう。でも我々はそんなハイパーでもないし、24時間マジカルでもないし、っていう(笑)。

萩原 賢いアドバイスを言えるわけでもない(笑)。

木津 そうそう。よく「ゲイって男の気持ちも女の気持ちもわかるから、すごいよね」とかいう言い方があるんですけど、「いやいや、どっちも半分もわかんないです」みたいな。確かに僕も女子の友だちは多いし、自分のなかの乙女をひねり出して話す瞬間もあって(笑)、それが楽しいのはわかるんですけど、でもそれをずっと期待されるのはキツい。

萩原 私はもう何十年も海外のラブコメ、ロマンティック・コメディを見てるんですけど、やっぱり『ベスト・フレンズ・ウェディング』(97)あたりで主人公のゲイの親友役が出てきたときには、「発明だね!」と思ったんです。ジュリア・ロバーツの親友がルパート・エヴェレットで。あれは新鮮だったし、コメディとしてもぐっと重層的になった。

『ベスト・フレンズ・ウェディング』

萩原 でもそのあと、ロマコメで女性主人公の友だちがゲイ、っていうのが定番になってしまって。

――現実がそれに影響されて、女の子たちが「ゲイの友だちが欲しい」って思うようになった、そういう流れもありますよね。

木津 いまの女性向けの漫画とかを読んでても、そういうマジカルオネエは出てきますね。うじうじ悩んでるアラサーとかの女性主人公がいて、それをずばっと解決してくれるオネエ。

萩原 ただそうやって新鮮味がなくなるくらい繰り返された時代を経て、最近はゲイの親友役がもっとフラットになったり、逆にその人の物語がちゃんと描かれたりするようにもなってきてる。Netflixが新たにロマコメを盛り上げようとして作った『セット・アップ』(18)では、男性主人公のルームメイトがゲイだったし、もっとわかりやすいのは、ドラマの『セックス・エデュケーション』(19)。

木津 うん、僕もいまその話をしようと思ってました。

『セックス・エデュケーション』

萩原 イギリスのスクール・コメディなんだけど、エイサ・バターフィールド演じる主人公の男の子の親友がゲイなんだよね。

木津 しかも黒人の男の子。

萩原 で、ドラマのなかでゲイ・イシューを取り上げるときに彼がちゃんと出てくるし、親友のふたりのセクシュアリティが違うからこそ、友情にヒビが入りそうになったりもする。あれはやっぱり、そうやってゲイの男性がロマコメにずっと出続けてきたからこそ、見る人の意識が変わり、役割も変わった例だと思います。

木津 と同時に、Netflixみたいなポリティカル・コレクトネスやダイバーシティが称揚される場があったからこそ、どんどん進化してきてることの例でもあって。特にスクールもの、ティーンものだと、友だちにゲイがいるのがもう当たり前の時代になったんですよね。で、あのドラマはそうやって当たり前になったなかで、ゲイの親友をどう描くかをすごく意識的にやってる。最高なのは、彼の誕生日にふたりで毎年やる儀式があって、それがミュージカルの『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』を見にいくこと。ふたりでコスプレしてね。

『ヘドウィグ・アンド・アングリー・インチ』

木津 それが彼らの友情になってるっていうエピソードも含めて、ゲイ・カルチャーをちゃんと踏まえたうえでのストーリーテリング、プロット、モチーフだし、そういう進化が現場で起こってるのは、僕はすごくポジティヴだと思います。

萩原 あのドラマは、可愛いよね。

木津 そう、それぞれのイシューを取り上げつつ、全体的に可愛いのがいい。逆に『グレイテスト・ショーマン』(17)とかの場合、白人でヘテロのスターを中心に置きつつ、クィア・カルチャーを周りに散りばめてる。ああいう構造はちょっとつらい。というか「時代遅れだ」ってことをどんどん言っていったほうがいい気がします。

『グレイテスト・ショーマン』

木津 エルトンの話に戻ると、僕がエルトンみたいなハイパーな人を取り上げるよりは、地に足についた人にフォーカスしたほうがいいんじゃないか、っていうのは、やっぱりそこがポイントですね。そのほうがリアルな問題を世に出せるし、みんなが考えられるきっかけになるんじゃないかと。

萩原 うーん、私としては、『ロケットマン』は、『ヘドウィグ~』以来のゲイ・ミュージカルだって気もしたんだけど。まあ『ヘドウィグ~』は舞台から始まったインディペンデントな作品だから、やれることが全然違うかもしれない。

木津 難しいのは、僕が言ってるようなことは、どうしてもインディペンデント中心の話になっちゃうからなあ。大作でどこまでできるのか、っていう話になると、また別の難しさがあるし。

萩原 ただ、いまのアメリカの流れとしては、インディじゃなくて大作映画でどこまでやれるか、って話になってきてるでしょ? スーパーヒーローものやスタジオ製作のコメディで、どこまで女性を出せるか、黒人を出せるか、アジア人を出せるか。次はいつLGBTQのスーパーヒーローが出てくるのか、って話になってるし。しかもすでにその次の段階として、それがアイデンティティを背負う存在じゃなくて、どこまで普通に出てこれるか、っていうところに意識が移ってきてる。

木津 みんな考えてるところですよね。

萩原 最初は見るほうも無理を感じるところがあったと思う。『スター・ウォーズ』シリーズがリブートされたときも、最初の反応として「どうしてああいうポリコレ的配慮をするんだ?」みたいな批判が出てきた。でも逆に、いま配慮をしなかったものを見ると、ちょっとびっくりするじゃないですか。それこそ『ロード・オブ・ザ・リング』(01)を見ると、全員白人で。「うわ、白いなー」みたいな。

木津 僕、最近『フレンズ』(94~04)を見直してて。あれもびっくりするんです。いま『フレンズ』を見るのってある意味重要っていうか、Netflixで配信されたことで、ミレニアル世代が『フレンズ』に出会ったんですよ。で、何が起きたかっていうと、意識の高い若い子たちはポリティカル・コレクトネス的にあのドラマってかなりキツイみたいなんです。受け付けられない。白人中心なのはもとより、同性愛嫌悪ネタやセクシズムネタが、無反省にバンバン出てくる。いま見ると「うおー」と思うんですけど、その「うおー」って思うことが面白い。要は、時代とともに何が変わったかわかるんですよ。

『フレンズ』

萩原 そう言えば、スクールものとして聖典的な扱いだったジョン・ヒューズ監督作でさえ、Netflixの『好きだった君へのラブレター』(18)では同じようなネタになってました。あれもラブコメの主人公の女の子がフラットに韓国系アメリカ人なんだけど、その姉妹が『すてきな片思い』(84)を見てキュンっとしながらも、アジア人留学生を茶化したシーンになると、「ないわー」って。

『好きだった君へのラブレター』

木津 だから、いまポリコレ以前のものを見るのは、それはそれで学びが多いんです。正直言って、僕はポリコレにも功罪はあると思うんですけど、それがもたらした前向きな変化もすごくある。最近のLGBTQ表象を見るとそう思います。マジカル問題に戻ると、さっき言った『ある女流作家の罪と罰』(18)が、反マジカルをすごくやってるんですね。リー・イスラエルっていう、かつてキャサリーン・ヘップバーンとかの伝記でベストセラーを出した女性作家がいて。身勝手っていうか、社会的にうまく立ち回れない人なんですよ。で、彼女が生活が困窮して、家賃も払えない状況になって、有名人の手書きの手紙を偽造して生き抜いていく。彼女はレズビアンで、親友のゲイが出てくるんですけど……。

萩原 リチャード・E・グラントが演じてる役?

木津 そう。その親友のゲイが手伝うんですけど、彼も困窮していて、社会からはじきだされてる。要するに「持てなかった」中年以降のクィアの苦境、しかも人間的に立派でもないふたりの話で。僕とか見るとめちゃめちゃつらいんですけど、でもそういうのが必要なんです。欠点を持ったLGBTQであり、LGBTQだからこそ困窮しているところも確実にある。でもふたりがその友情から得たものも確かにあった——っていうのが、すごくしみじみと描かれてるんですよ。僕はああいう映画をもっと見たいし、作られてほしいし、見られてほしい。

『ある女流作家の罪と罰』

萩原 ただ、いろんな段階のものが同時に作られてていいけどね。作品として保守に寄ったものも必要だろうし、カッコいいLGBTQのキャラクター、カッコいい女性スーパーヒーローを見たいときもあるだろうし。

木津 そう。言っておきたいのは、僕はカッコいいLGBTQアイコンを否定してるわけでは全然ないです。もちろん、いてほしい。ジャネール・モネイみたいな人は絶対にいるべきだし。でもそれが市井で生きるLGBTQを阻害しないようなバランス感覚を、2020年代に向けて、ポップ・カルチャーのなかで見られたらいいな、っていうのが……僕の希望ですかね。

Janelle Monáe - PYNK

萩原 まあ、普通に女性でも、ビヨンセとか見ててつらいときはありますから。こっちが弱ってると。

木津 ビヨンセは強すぎる、って感じてしまう瞬間もあるんですよね。彼女には何ひとつ罪はないんだけど(笑)。僕、『ワンダー・ウーマン』(17)とかも強すぎると思うし。あと、無垢な女がアイコンになるのはどうなんだ、と。隔絶された島で育って、ピュアで。

萩原 でもあの保守性が大ヒットに繋がったんだと思いますよ。お姫さま要素があるからこそ。姫が下界に降りて恋をする、っていう。

木津 でも、その王子を置いてまた戦場に行くじゃないですか。あれをフェミニズムのアイコンにしていいのか、っていうモヤモヤが僕のなかであるんですよね。

萩原 『キャプテン・マーベル』(19)と全然違うしね。あの映画の場合は「相手の土俵に上がる必要なんてない」っていうメッセージが画期的だったし。

――そもそもキャプテン・マーベルというキャラクターが生まれたのが60年代後半だったのに対し、ワンダー・ウーマンが生まれたのは戦前なので、そうした背景は関係していると思います。

『ワンダー・ウーマン』
『キャプテン・マーベル』

2020年代のエンタテイメント表現におけるLGBTQ表象に望むもの

――では、2010年代がマイノリティのアイデンティティをどんな風に表現やエンタテイメントのなかに取り込むかにおいて理解が進み、その過程での軋轢も起こったディケイドだったとすると、2020年代はどういう流れになりうると思いますか?

木津 僕がアメリカってなんだかんだ言ってすごいな、と思うのは、エンタテイメント産業のリアクションが速いんですよ。アカデミー会員に白人しかいない、って話になったら、ポリコレ的とはいえすぐに反応するし、対策する。それで言うと、今年のアカデミー賞で『グリーンブック』や『ボヘミアン~』みたいなゲイ性を薄めたものがもてはやされた、っていう批判が出たことはよかったと思う。それに対するリアクションが次に起きるはずなんです、絶対。そうすると、僕が今日ずっと言ってきた、地に足がついたLGBTQ、もしくは普通にそのへんにいるただの人がゲイ、みたいな作品が出てくるだろうな、と。インディペンデントよりもうちょっと規模感の大きい作品でね。『セックス・エデュケーション』を見たクリエイターで、頭のいい人はもう、「あ、なるほど」って気づいてるはずなんですよ。だから、もうちょっと規模感の大きいものでそれが出てきて、きっちり評価される時代になってくると思います。僕の希望的観測も含めて、ですけど。

萩原 ただゲイ・イシューに関しては、日本では、『ロケットマン』みたいにちょっと内容が保守的であれ、きちんとゲイ・カルチャーを汲んだ大作がガンガン売れて、バンバン目立たないとね、って感じはあります。その基盤ができてほしい。名前は伏せますけど、そんなの全然無視した日本のドラマとかが目立ってるような状況だから。たださっきロマンティック・コメディのところでも言ったけど、どんなイシューに関しても、ダメなものも作られていいとも思う。その重なりが何かを生むこともあるし、それに対する批判がリアクションになることもあるし。方向性としても、もっとエンタメに突き詰める作品も、より先鋭的なものも、フラットな表現も、いろいろ出てくるほうが健全なんじゃないかな。あとポリコレに関して言うと、私は個人的に、建前を作る、建前を守るのも、いまの時代すごく大事だと思っているので。安易にポリコレを批判するよりも、ディズニーやマーベルがポリコレを守ったことで変化したことは大きいと思うんです。

木津 そういう意味では、確実に進化してるし、変わっていくだろうなとは思いますね。

萩原 普通に、女性や黒人、LGBTQの人がクリエイターとして作ったものは、いままでと違うもんね。更新されてる。ただ、そういう人を持ち上げすぎ、って思うことはたまにあります。そのクリエイターに対して、あらゆる意味で優れたものを常に期待するんじゃなくて、ダメなもの含め、もっとたくさん作らせてあげればいいのに、って。

――確かに、世の中全体が政治的に正しくて、ハイ・クオリティな作品にばかり注目が当たってしまう、というメカニズムがありますよね。

木津 ああ、『ムーンライト』(16)のバリー・ジェンキンスなんて、そうですよね。

萩原 いま『アス』(18)が公開されてるジョーダン・ピールなんかも、急に巨匠みたいな扱いになってるけど、資質的には多作なほうが面白いんじゃないかな。まあ本人も『トワイライト・ゾーン』シリーズを手がけたり、そっちに進んでるけど。

『ムーンライト』
『アス』

木津 そうそう、バカなものとかも作られてほしい。例えば『Love, サイモン 17歳の告白』(18)とか、あれは全然バカでもしょうもなくもないですけど、他愛ないと言えば他愛ないティーン・ムービーなんですよね。でも、あの他愛なさがいいんですよ。「結局イケメンかい!」みたいなラストだったり(笑)。ただ、ポリティカル・コレクトネス以降、っていうのが自然に入っているうえでの、他愛ないラブコメで。ああいうものが増えてほしいかな。それに、あれはそこそこヒットしたんじゃないですか。

萩原 アメリカではヒットしましたね。

木津 だからと言って、人に「絶対見てください!」っていうテンションでもない、という(笑)。『親友のカミングアウト』(15)とか、Netflixなんかにはそういうの多いですね。

『Love, サイモン 17歳の告白』
『親友のカミングアウト』

萩原 でもむしろ、そういう映画やドラマのほうが確実に何かが変わってるのが実感できるんだよね。あとは大作でも、ダニエル・クレイグがボンドになって以来、007シリーズにゲイを匂わせる場面やセリフがめちゃくちゃ増えてる、とか。ことさら取り上げられないけど。

木津 ムキムキのダニエル・クレイグがやたら脱いでたりね(笑)。僕なんかが見ると、「おお、ゲイ受け狙ってるなー」って。これ、僕ほかでも書いたんですけど、ドラマの『ストレンジャー・シングス』(16~)って、保安官のホッパーがサービス役じゃないですか。あの太ったおじさんが、シーズン3ではしょっちゅう脱いでる。あれは明らかに、おっさんの体=ダッドボッド好きなゲイ受けを意識してるし、ダッドボッドがセクシーだ、っていうのを踏まえてる。そういうある種のクイア的セクシーさを、わかりやすいポリティカル・コレクトネスじゃなく出してるのは、結構大事だと思います。それがおじさん好きの女性へのサービスになるかもしれないし。いままでのセクシーって、ほんと画一的だったんですよね。

『ストレンジャー・シングス 未知の世界 3』

――イシューとして全面的に打ち出すと必ず反動もあるんだけども、さまざまなディテールを表現のなかにさりげなく、正確に、かつユーモラスに散りばめる――そうした手法の方が世の中に変化を促すという意味ではプラクティカルでもありますよね。押しつけがましくなく、カジュアルに変化を促していく。

木津 そこはポップの力ですよね。

萩原 そういうのは増えてる気がする。イシューになってないから特別取り上げられないし、セリフでも字幕になるほどじゃないんだけど、例えば「ここでホイットニーの曲が流れるっていうのは、そういうことだよね」とか。

木津 それはリテラシーの問題もあるから難しいんですけどね(笑)。誰も気付かないことになってしまう場合もあるから。でも、ポップ・カルチャーだからこそいろんなレイヤーでできることがあるんですよね。うん、こうやって話してると、この10年――5年でもいいや、本当にいろいろなことが変わったなあと。そのことをあらためて感じられて、僕は満足ですよ(笑)。だから、完全に予測することはできないけれど、これからの変化もすごく楽しみですね。