なぜ日本経済新聞は、ゼロの市場だった有料電子版に出ていき、一人勝ちとも言える状況をつくりだすことができたのか。何がメディアの分水嶺となったのか。
慶応義塾大学SFCで2018年より特別招聘教授として講座「2050年のメディア」を始めた下山進氏が、独自の調査で明らかにしたエッセンスを紹介する。
日本経済新聞が、有料電子版の準備を始めたのは早い。2005年の夏のことだ。
当時の代表取締役社長だった杉田亮毅が決断し、2006年3月にデジタル編集本部という部署をつくったのがそもそもの出発点だ。
2019年の今から考えれば、新聞社が有料電子版を始めるのはあたり前のことだが、当時はそうではなかった。2006年の当時、世界の新聞社でウェブ上で記事を有料で見せていたのは、ウォール・ストリート・ジャーナル一紙だけだった。
当時まことしやかに言われた言葉が「Information wants to be free」という言葉だった。
1984年に最初に開かれたハッカーズ会議で未来学者のステュアート・ブランドが、アップルのスティーブ・ウォズニアックとの議論の中で言ったセリフで、情報は解き放たれたがっているという意味と、情報はただで流通されたがっているという両方の意味をかけた言葉だった。
実際、朝日新聞も読売新聞も宅配では月極めの料金をとって配っている新聞の記事を、ウェブ上では自社サイトやヤフーでただで見せていたのだった。
が、このブラントの言葉には実は続きがあった。
「Information also want to be expensive」
スチュアート・ブラントは、技術が情報の流通をかぎりなくただにしていく一方で、複雑化する社会のなか人々の将来の生活設計をよりよくするような洞察をふくんだ情報は、逆に価値が増すと強調していたのだった。
日本経済新聞はいち早くその意味を理解し、誰も成功しないと言われた有料電子版の開発に踏み切ったと言える。
読売新聞など他の新聞社が有料電子版を当時創刊することができなかった理由は、ハーバード大学ビジネス・スクールのクレントン・クリステンセン教授の言う「イノベーターのジレンマ」に囚われていたからだ。
「大企業は技術革新によって生まれた新市場に出て行こうとしない」
これは、クリステンセンが、1970年代から90年代のディスク・ドライブ・メーカーの変遷をたどっていくうちに見つけた法則で、新聞社にも同じことがいえた。