【注意】
注1:読んで好みと合致しなくても自分の中で消化できる方のみお読みください
注2:死を匂わせる表現があります
注3:組織関連・パンドラ関連のねつ造過多
一八一七
「好きなんだけど」
テレビを見ながら、リモコンとってくれなんて言うのと同じテンションで告げられた言葉に、新一は間を開けず「俺も」と答えた。
高校三年生の夏のことだ。受験シーズンだというのに、早々に日本の大学で最高峰と言われる東都大学への特別推薦が新一は決まっていた。しかし筆記試験と面接が秋ごろ行われるくらいで、これといって特別受験勉強をするということもない。二年生の頃の単位こそギリギリアウトであったが、東都大学へ進学することを条件に免除してもらった。つまり悠々自適な夏休みである。
そしていま新一の自宅にいる快斗もそうだった。高校卒業後、マジックの道に進もうと思っていた快斗だったが、江古田の校長直々に頼み込まれ、東都大学への進学を引き受けた。高校はやはり進学実績が欲しいのである。母親から大学を出ておいた方が何かと便利だと言われたことも要因のひとつだ。学校での日頃の行いが悪いせいで特別推薦こそもらえなかったが、頭脳はピカイチである。こうして一般入試を冬に受けることになったが、受験勉強をする必要は全くなかった。
新一は事件の協力要請で家を出るくらいで、快斗は夏休み期間中の短期バイトで家を出るくらい。そんなふたりである。同じ高校の面々は受験モード。自然となんの予定もない日はふたりで過ごすようになっていた。
ひとつのボウルにドンと盛ったそうめんをもくもくと食べる。調理が楽なのでそうめんばかりになるのだ。たまに快斗が冷やし中華を作ることもあるが、その夏は記録的な猛暑で、そうめんしか受け入れられない身体になっていた。
麺つゆが入ったお椀から白い糸をずずっと啜って、ついにボウルの中身が空になる。隣に座る快斗も同じタイミングで食べ終わっていて、お椀をテーブルに置いたのは同時だった。
「腹いっぱいになったか?」
「多分なってる」
「多分てなんだよ」
「アイス食いてえ」
「無視か。――片付けたら食うか」
「そうしよ。よし、皿洗ってくる」
今日そうめんを茹でたのは新一だった。だから今回皿を洗うのは快斗だ。自然と料理の準備をしなかった方が、片付けをする暗黙のルールが出来上がっていた。
ダイニングテーブルを立った快斗が、ボウルと汁が入ったお椀をふたつ、そして空になったグラスをふたつ、箸を二膳、器用にすべて持ち、シンクへ向かう。その背中をぼんやりと見てから新一はリビングへ移動した。
ソファへぼすんと座って、テレビをつけると、高校に行っている時には見ることのない、平日お昼の情報番組が流れ出す。リモコンを持ってニュース番組に変えようとしたが、なんとなくボタンを押すことをやめた。特に深い意味はなかったが、この前事件で関わったタレントが番組に出ていたからという理由を自分の中でつけた。
ペタペタと足音がして、新一の隣で音が止み、ソファが沈む。いつもスリッパを履けばいいのにと思うが、フローリングを素足で歩くのが好きなのだと言って、快斗はスリッパを履かずに素足で家の中をうろつく。足音を立てないことだってできるのに、足音を立ててうろつくのだ。
視線をやれば両手に一本ずつ棒アイスを持って新一を見ている快斗と目が合う。
「ソーダとバニラ」
「ソーダ」
「ほい」
渡された棒アイスはすでに袋から出されていた。用意周到なことだ。新一の左隣に座った快斗からソーダ味の棒アイスを渡される。それを受け取れば、クーラーの効いた部屋だというのに、持ったそこから冷気を感じた。
隣に座った快斗はバニラ味の棒アイスに噛り付いている。新一もソファの背に自身の背を預けてから、水色の涼し気な棒アイスに噛り付いた。
クーラーの効いた部屋で、アイスを食べながら、テレビを見る。少し前まで、隣にいる相手とこんな関係になるなんて新一は思ってもみなかった。
広い部屋にタレントの笑い声が響くのをどこか遠くの出来事のようにきいて、二口目のアイスに噛り付く。
しゃくりと口の中に冷たさと甘みが広がって、喉を通る。快斗が口に出したのは、その時だった。
「好きなんだけど」
テレビを見ながら、リモコンとってくれなんて言うのと同じテンションで告げられた言葉。ぽかんとする間もあけず、隣の男が正面のテレビを眺めながら言ったように、新一もテレビを見ながら「俺も」と答えた。三口目のアイスをかじる。五秒間、沈黙が落ちた。そして快斗の唇が動く。
「なあ、工藤。お前が言った好きの対象が何か一応確認しとこうと思うんだけど」
「黒羽快斗のことだよ。おめーは工藤新一のことでいいんだろ」
「ああ……うん……」
やはり前を見たまま言えば、笑いをかみ殺すような声が聞こえて、新一はやっと隣を向いた。快斗の横顔がかすかに俯いて、アイスを持っていない方の手を軽く握り口元へ持っていっている。
「……んだよ」
いささか不機嫌な声になってしまったのは、相手が肩を小さく揺らしているからだ。認識を間違っていなければ、新一は快斗に告白され、その返事を是と返した。その後の反応としては、少々頂けないものだ。
「いや、だって、耳の淵すっげー赤いからさ」
快斗が整った顔をくしゃりと歪めて笑った。その発言で頬まで赤く染めた自身の姿は想像できないが、理解はしてしまった。簡単に伝えてきたのが悔しくて、平然と返したつもりだったのだが、動揺は顕著に体に現れていたらしい。
本格的に笑い始めた快斗をひと睨みすると更に笑い始める。抑えたいのに抑えきれないとでもいうような笑いをする快斗は初めて見て、新鮮さを感じた。だから舌打ちしそうになるのを我慢して、新一は快斗を改めて見る。すると、視界に入った赤。見れば快斗の耳の淵だって赤い。人のことをよく言えたものだと思う。
「……アイス、垂れてきてんぞ」
あえてその点には触れず、快斗の指にあと少しでかかりそうな溶けたアイスについて言ってやると、わかりやすく快斗は慌てた。
「お付き合いするってことになるのか」
快斗はアイスを大急ぎで食べきった。手をウェットティッシュで拭う様はとても滑らかだ。耳はまだほんのりと赤いが、尋ねてきた質問ははっきりとしたもので、新一も同じようにはっきりと答える。
「そうなるな。両想いだし」
「アイス食いながらの成就かあ」
「なんか間が抜けてんな」
「そうだよな」
新一も持っていたアイスをしゃくしゃくと口の中で溶かし、もう一度隣を改めて見やった。やっと青い目同士が重なり合う。テレビの中のタレントが笑い声をあげ、観客席から拍手が広がる。
いつから俺のこと好きだったんだ、と聞きそびれたことに気付いたが、そのうち聞いてみようと思い、その場で新一は聞くことをやめた。どうせ長い付き合いになるのだ。別れる日がくることはまるで想像できなかった。
こうして暑い夏の日。クーラーの効いた部屋でアイスを食べながら、ふたりはお付き合いを始めたのだった。
〇七一七
江戸川コナンという少年の存在が、人々の記憶の中だけに生き始めるまで、新一がトロピカルランドで事件に巻き込まれてから一年という期間が必要だった。
江戸川コナンを作り上げてすぐに幼馴染の父親が営む探偵事務所へ転がり込み、地道に、完成図のわからないパズルのピースを探すように組織の情報を新一は集めた。その中で、強力な仲間も得ることができ、次第に世界へネットワークを広げている黒づくめの組織と正面衝突する体制も完成した。
新一自身も、あくまで『頭の切れる少年である江戸川コナン』として関わった。赤井・ジョディ・ジェイムズは江戸川コナンの口から何かを言わない限り、深いことは聞いてこなかった。そんなやさしさに甘えるだけではいけないと、前線で戦うことになっている彼らを支えるべく、FBIの隠し玉、参謀のひとりとしてチームに加わったのだ。
黒の組織のアジトを突き止めたのはひと月前。入念に練り上げた作戦はすでにチームの中で浸透している。組織の本拠地はアメリカの大都市などではなく、日本のとある県の山奥にあった。FBI・公安・CIAの合同作戦本部もその県に作られた。だから『江戸川コナン』はあと四日で東都を離れる。
転校手続きはすでに済んでいる。探偵団の子どもたちには転校すると告げたときには盛大に泣かれたが、それでも笑顔で『江戸川コナン』を送り出そうとする彼らに新一は励まされた。居候先の何も知らない幼馴染とその父親も、寂し気な雰囲気を払拭するように笑ってくれている。
なにがなんでも新一は『工藤新一』としてこの場所に帰ってきたいのだ。『江戸川コナン』は彼らの日常に溶け込んだ非日常だから。
そんな別れが近づくとある夜、新一は居候先を深夜に抜け出した。高いびきをかく幼馴染の父親に苦笑してから。
春が近づいたとはいえ、まだまだ寒い。深夜ともなればなおさらだ。ダウンジャケットを着て、スケートボードに乗り走り出した。目的地は先日取り壊しが決まった商業ビルだ。この時間帯ならば作業員もいないだろう。そう思った新一の予想は外れることなく、たどり着いたビルに作業員の影はなかった。
静かな空間を抜け、十二階建てのビルの最上階にたどり着く。非常階段を上がって屋上につながるドアを押し開けた。
子どもの力では重たいそれを開け放った先にある暗闇。それを明るく照らす東都の光。そして白い影。自然、笑みが零れた。
「俺を呼びだすたあ、随分じゃねえか。怪盗キッド」
背中でバタンと扉が閉まる音がした。普段は鍵がかかっているだろうその扉の鍵をあけたのは間違いなく、屋上を囲む柵の前でマントをはためかせている怪盗だ。うまく周りのビルから死角になる位置に立っているのはさすがと言ったところだろうか。
新一が声をかければ柵の外側を眺めていたらしい怪盗は、くるりと振り返り、赤いネクタイを風に揺らした。シルクハットの鍔を白いグローブを嵌めた指がくいっと引き下げる。薄暗い屋上、五メートル近くある距離の中で、しっかりと怪盗が唇を釣り上げたのがわかった。
「よう、名探偵。そんなこと言いながらきっちり来てんじゃねえか」
「バーロ、暗号の答え合わせだ」
「ほう。じゃあ大正解ってわけだ」
しらじらしくパチパチと拍手してみせた怪盗にチッと舌打ちをすれば、怪盗は声を出してくくっと笑う。
「わりいって。補導されないようなルート選べる建物選んだことで帳消しにしてくれよ」
「まず呼び出すなっつーの」
「さすがに電話で話す内容じゃねえからなあ」
肌寒さを微塵も感じていないような怪盗は、新一との間にあった五メートルの距離を足を踏み出すことで少しだけ縮めた。子どもの体の新一は見上げる角度が大きくなる。その様子に気付いたのか、怪盗はシルクハットから覗く唇で柔らかく弧を描いた。
「転校するらしいな、名探偵」
酷く優しい音色に、新一は怪盗の意図を読もうと見上げる視線を強くする。
「……ああ」
返事をしながらなおも観察していると、小さな空気の変化を感じた。優しい音色の言葉から、新一の返事を経て、怪盗の雰囲気がほんのすこし強張ったのだ。
ここからどう話を展開していくのか。雑談で終わるはずがないのだ。わずかな緊張が新一の小さな体を硬くする。いままで個人的に、怪盗から呼び出されたことなどなかった。いつだって怪盗のステージに乗り込む探偵と、探偵の捜査中に紛れ込む怪盗。それだけだった。だというのに、今回、怪盗は新一を呼び出した。
ふたりぼっちの薄暗い屋上の沈黙を破ったのは怪盗だ。
「作戦決行は来週だな?」
「……だとしたら?」
断定的な質問に、おいおいしっかりハッキングされてんじゃねえか、大丈夫かFBIのセキュリティ。なんて、乾いた笑いを漏らしそうになるのを寸で抑える。この怪盗はやたらとチートだ。ハッキング技術だけでもきっと裏の世界で生きていけるほどの技術を持っている。FBI本部から切り離された、臨時の作戦本部へ移動させたパソコンからデータを盗み取るなんて朝飯前なのかもしれない。
「なにが言いてえんだ、キッド。さっさとはっきりさせろ」
自然と新一の眼光が鋭くなる。
「その作戦、アジトに警察の方々が乗り込むのときに俺も紛れ込ませてもらおうと思っててさ」
「……は?」
ぴりとしていた空気に、新一の間の抜けた声が落ちた。眼鏡の奥にある新一の瞳はみごとに丸くなっている。そんな新一を見下ろしながら、怪盗は淡々と話を続ける。シルクハットで表情は見えない。口元から読み取ることもできない。
「かくかくしかじかで、アジトにお邪魔したいんだよ」
「それで話が通じると思ってんのか」
新一が睨みつけると、怪盗は両手を自身のポケットに突っ込んだ。しょうがない、とでも言うようにため息を吐いてから口を開く。
「……俺があるものを探しているのは知ってるよな」
真面目なトーンに、ああ今こいつは偽ることなく自分自身のことを話しているのだと新一は知った。事件やビッグジュエルのことを話すことはあれど、自身の事情はまるで話さない謎に満ちた存在が自身のことを話している。暴くことを専門としているのに、怪盗が素直に話し出したことに新一は感動すら覚えた。
「ああ」
一言一句聞き逃すことはできない。相槌を打てば怪盗はすっと背筋を伸ばした。肌寒さとは違う、ひやりとした空気が屋上に広がる。
「その探しているものをな、おめーが潰そうとしてる組織が手に入れたみたいなんだ」
「え」
「で、俺にも実はちょっくら因縁のある組織があってな。その組織とおめーんとこが乗り込もうとしている組織が、俺の探しているものを取引するらしい」
「――まさか」
ハッとすれば、怪盗はこくりと頷いた。
「ご明察。いまから一週間後、各国の警察の方々が突入する日だ」
怪盗のモノクルから伸びるチャームが揺れる。四葉のマークが刻印されていることに、新一は初めてその時気付いた。
怪盗キッドは、とある宝石を探している。しかしどの宝石が探し物なのか、怪盗自身現時点でわかっていない。おそらく実物を手に取り、決められた調べ方をして、やっと探し物かどうかがわかるのだ。これまでの怪盗との関わりで、新一が考えたのはそこまでだった。そして探し物以外の物に基本的に怪盗は興味がない。否、探し物ではないとわかった途端に興味がなくなるのだ。だからこそ、持ち主や、持ち主に難ありの場合、警察に返却される。復活した当初や、ときたまお人よしを発揮して別のものを盗んだりすることもあるが、概ね怪盗の犯行はそうである。だというのに、はっきりと「探し物」と明言した。確固たる証拠があるのだ。
「俺としては本来単身で乗り込む計画を立てていたんだが、計画日……つまり取引が行われる日。各国の警察機関の方々が乗り込もうと計画している日が被っていることを知ってな。もしかして、と思って調べたら江戸川コナンが転校するらしいじゃねえか。あー、名探偵と因縁あるとこの組織かって合点がいってさ。……正直渡りに船なんだよ。アジトに警察が乗り込んできた混乱に乗じて探し物を奪取できるんだからな」
怪盗が肩をすくめると、風が吹いた。新一は相変わらず見上げているままだ。
計画日、組織同士の取引がアジトである、という情報は『江戸川コナン』には入ってきていない。赤井やジョディも知らないだろう。若干の作戦変更も必要だろう。なにせ銃器をもっている人間がアジト内に想定よりも増えるのだから。計画決行は来週だ。作戦の変更は早ければ早い方がいい。
「おい、キッド」
「ああ、FBIの方々に連絡したいならどうぞ」
新一が情報をFBIに流すことは最初から想定済みだったらしい。涼やかに笑った怪盗に、遠慮なく新一はスマートフォンを取り出した。博士に協力してもらってセキュリティはばっちりの、いつも行動を共にできるわけではない赤井とジョディと連絡をとりあう専用のスマートフォンだ。
「おめーなら黙って紛れ込むことも出来ただろ。なんでわざわざ」
スマートフォンに文字を打ち込みながら新一は疑問を口にした。まさかこの情報を教えるためだけに新一を屋上に呼び出したわけではあるまい。と、考えてこの怪盗ならありえない話でもないと思ってしまった時点で、この怪盗を信じすぎている自分に気付く。しかししょうがないのだ。この怪盗、怪盗の癖に悪人でないのだから。
思わず複雑な表情になりつつ、スマートフォンの灯りに照らされながらメールの文字を打ち終える。
「まあ焦るな。本題はここからだ」
そんな新一に気付いたのか、小さく笑った怪盗。そして一歩踏み出した。メールを送信し終え、スマートフォンをポケットに戻した新一と、怪盗の距離はおよそ三メートル。
「取引をしねえか、名探偵」
さっき考えていた怪盗のイメージとまるで逆の提案に、新一は眉を寄せた。
「あ?」
自らの口からでた剣呑な声に、自分自身で新一は驚く。
相手は怪盗だ。だから情報提供に取引を持ち掛けるなんてあたりまえで。勝手にそういう奴じゃないと思っていたのは自分の方だ、落胆するなんて間違っている――……ぐるぐると頭の中でこの状況を飲み込もうとするが、すぐに処理できなかった。
新一にとって有益な情報をもたらした怪盗は、一体なにを要求するのか。ぐっと拳を握り、下がりそうになっていた顎を引き上げ、怪盗を見つめた。
そんな新一に満足したのか、怪盗はもう一歩前に進んだ。向き合うふたりの距離は二メートルになっていた。
「俺はおめーが探している薬のデータを盗ってきてやる」
口を開いた怪盗から出たのは、要求でない。新たな条件の提示だった。それを理解できず、新一は固く結んでいた唇の力が抜ける。ぽかんとした表情になっているだろう新一を見た怪盗が何を勘違いしたのか、焦ったように言葉を続けた。
「絶対に盗ってくる、これは約束する。おめーが信頼しているFBIの人間は最前線の戦力だろ? 他の警察関係者はその薬のデータの重要性を理解できてねえだろうし、彼らにとっては、ただの押収品だ。最悪壊れたってかまわない。FBIの目的は組織の壊滅だろうからな」
畳みかけるように紡がれた言葉はごもっともとしか言いようがなかった。『工藤新一』が『江戸川コナン』になっていると察しているだろう人間は、前線に回ることになっており、データの確保に走ることはほぼ不可能だ。新一が今回の作戦で唯一気にしていることでもあった。かといって、このデータの確保をどうしても頼みたいというのは違う気がしていた。あくまでFBIや公安、CIAが手を組んで今回合同捜査になったのは組織壊滅という目的が合致してのことだ。新一の求める薬のデータの存在はそもそも明るみに出ていない。言ったところで信じてもらえるかもわからない。赤井やジョディに言えば、彼らはデータ確保に走ってくれるだろう。しかし、彼らは貴重な前線の戦力だ。それを削ぐことになる話など、新一は持ちかけられるはずがなかったのだ。きっと、この怪盗は、それをすべて察して、そしてこの話を提案しているのだろう。
「そしてお前自身はあくまで頭のいい小学生だ。アジトに乗り込むメンバーには入ることはできない。その薬のデータがおめーにとってどれだけ重要なものか理解していて、突入チームの作戦に支障を来すことのない人間がデータを盗ってくることができる――……いい話だと思わねえか?」
提案に至った流れも、この上なく新一にとっていい話だということもしっかりと理解出来ている。出来ているが、空いた口がふさがらないのは、先ほどの取引が行われることの情報提供の見返りを求められると思っていたからだ。なぜいま新一は新しく新一にメリットとなることを提案されているのだろうか。
「おめー、自分が怪盗で俺が探偵だってこと忘れてねえか?」
「まさか。俺たちの大前提だろ」
やっとこさ発言できた新一に対し、至極あっさりと怪盗は返事をした。どうやら怪盗のなかで、取引については情報提供でもなんでもなかったらしい。そう結論付けて、やっぱりそういう奴だよなと新一は小さく噴出した。勝手に期待して、勝手に落胆した新一だったが、いまは愉快でしかない。怪訝そうに新一を見やる怪盗を見上げ、新一は片眉を引き上げ、そして尋ねた。
「――で、おめーは俺に何を望む?」
取引というには、怪盗の提案の見返りが必要だ。先ほど新一が落胆したのは、情報提供の見返りだと思ったからだ。
「突入チームに架空の人物をひとり作り上げてくれ。当日チームの誰かに変装して、せっかくのチームの戦力を削ぐことなんてしない。ましてや当日突然紛れ込んで人員を増やし、チームに変に気を揉ませることもしない。だから最初から架空の人物として、突入チームの人間のひとりとして混ざりたいんだ。作戦終了後、俺は消える。もし追及されるようなことがあれば、おめーは怪盗キッドに脅されたとでも言えばいい。どうだ、悪い条件じゃねえだろ」
悪い条件どころか、新一にとってメリットばかりの取引だ。新一のメリットは怪盗キッドが突入チームの邪魔をしないように、薬のデータを奪取してくれること。怪盗のメリットはおそらくひとりで潜入しようとしていたアジトに、各国の優秀な警察で構成された突入チームと確実に潜入することができること。
怪盗のデメリットは宝石を盗む以外に、データを奪取するという手間が増えること。新一のデメリットは、架空の人間を作戦決行まで残り一週間という期間で突入チームに問題なく追加することだ。
「そんなこと、FBIにお邪魔してるコナンくんはできないか?」
「バーロ、んなの朝飯前だ」
いま怪盗に対して挑戦的になれるのは、きっと怪盗が挑発的な表情で笑っているから。さあどうだ、お前は俺の提案をこなせるかと言わんばかりの表情をしているから。
この怪盗は、いつも新一の期待を簡単に上回る。勝手に期待しているのは新一だというのに、いとも簡単にそれを超えて、楽しませてくれるのだ。
「――その話、乗った」
「それでこそ俺の名探偵だ」
今度は新一が二歩前へ進んだ。ふたりの距離はもう一メートルにも満たない。シルクハットの下の表情は丸見えなのに、もはや隠そうともしない怪盗に笑いながら、新一が小さな右手を自身の顔の横まで上げた。
きょとんとした怪盗は、すぐに新一の意図に気付いたらしい。白いグローブをつけている手を新一と同様に上げてた。ふたつの手と手が平行になる。ふたりの間にある空間に向けて、手を振れば相手も同じように手を振る。真ん中で重なった掌はパンッと小気味いい音を鳴らして、クロスした。
* * *
インカムをつけ、何台にもなるパソコンのモニターを睨みつけながら『江戸川コナン』と、その周りに座る人間は息をつめ、その通信を待っていた。
刹那、ガガッとノイズがインカムに入る。室内が静けさに包まれ、そして周波数が合う。
「ただいま制圧完了。組織の人間を全員確保」
告げられた報告に、指令室が、わっと歓声に包まれた。
「突入チームの死者はゼロ。負傷者が多数いるため、重傷者から救護班がそちらへ運んでいます。受け入れ準備と、救護班の数が足りていないので、捜査員と合わせ救護人員の追加も手配をお願いします」
続けられた言葉にすぐに歓声はおさまり、仕事モードへチェンジする様はさすがプロと言ったところだろうか。戦況報告から命に係わる怪我人は発生していなかったようだが、しっかり診てみなければわからない。
小学生の『江戸川コナン』がこの指令室で出来ることはもうない。作戦はすべて終了したのだ。用意された背の高い椅子から飛び降り『江戸川コナン』は駆けだした。室内から廊下へ続くドアへ向かう最中「よくやったなボウズ」「どこへ行くの?」「おつかれ」と次々に英語と日本語で話しかけられ『江戸川コナン』は笑顔で「トイレ!」と答えた。
廊下へ出て、言葉通りトイレの個室へ駆け込み、スマートフォンを取り出した。すぐに覚えたての電話番号を打ち込み、コール音を鳴らす。
「……せっかちだなあ、名探偵」
ほどなくしてコール音が途切れ、間延びした声が聞こえる。ざわざわと周りから声がするので、ひとりではないらしい。
「無事なのか」
「無事だよ、約束しただろうが。あとでちゃんと渡すから」
「そうじゃなくて!」
声を張り上げた途端、スピーカーの向こうから「大人しくしてなさい」という英語が聞こえ、電話相手の英語の謝罪が聞こえた。会話の流れで今電話相手がどういう状況なのか予想できて。ああ、もう、もどかしい。チッと舌打ちをして、入ったばかりの個室を飛び出した。
「名探偵?」
こちらが動き出したことに気付いたらしい電話相手を無視して、スマートフォンの通話を終了させ、そのまま廊下を走り出す。行き先はこの作戦本部の入り口だ。数年前廃校になった小学校を作戦本部として使っている。救護施設も簡易的ではあるがFBIや公安などの医師が揃っているため、処置をしながら運び込まれた重症者はいまから到着するヘリに乗って警察病院に運ばれる手筈になっている。
どんな状況だろうと、確実に相手はここへ戻ってくる。この作戦本部の入り口に。『江戸川コナン』が、信頼を寄せる人間として『瀬戸瑞樹』をチームにねじ込んだからだ。
作り上げた個人情報を怪盗に渡した時、捻りがねえなと笑われたのは数日前の話。
漢字が一文字違うだけで、それは以前怪盗が変装に使った人物の名前だったからである。同時に怪盗はその名前を気に入ったらしい。理由はあのメイドの変装を気に入っていたからとのことだった。だが、あの時と違い、怪盗は女性物のメイド服に身を包むことはなく、男性物の機動隊服を身にまとった。
工藤優作の紹介だと赤井に言えば、簡単に突入チームに瀬戸瑞樹を入れることができた。気になることはあったとしても、よほどのことでない限りお互い口を出さないのが暗黙の了解になっている。赤井の中で瀬戸はチームに害をなさないと判断されたのだろう。
チームの中で信頼を置かれている赤井が計画日直前でチームに入れたぐらいの人物なのだから、実力はともなっていることは確かだと、すぐに瀬戸はチームに馴染んだ。直前のシュミレーションを含んだ訓練では突入チームの中でも一番いい動きをして、赤井直々に褒められていたくらいだ。瀬戸がタジタジだったと赤井から指令室で聞いて笑ってしまったのは記憶に新しい。FBIから動きを褒められて複雑な気持ちになる怪盗。面白い以外の何物でもなかった。
そして作戦当日の今日。突入チームは見事に黒づくめの組織を制圧した。当初の作戦通り、出来る限り生け捕りの方向で。
作戦の中に急遽盛り込まれたのは瀬戸の任務だ。途中で離脱し、組織が扱っている化学薬品を無事に回収。危険が伴えば、銃撃戦に備えてその場の判断で処理も可。そんな任務だ。灰原の話から化学薬品や貴重な研究道具があるのはわかっているので、実際必要な任務である。ただ、この任務はもちろんカモフラージュ。薬品庫までのルートにおそらく『江戸川コナン』を作り出すきっかけとなったAPTX4869のデータが保管されている部屋がある。そしてその奥の薬品庫。薬品庫は厳重に管理されているため、取引等にはもってこいらしい。銃撃戦が起これば火器の使用による薬品の爆発がおこるため取引相手の牽制にも。つまり、怪盗キッドが狙っている宝石の取引はここで行われるのだ。
機動隊服に身を包んだ瀬戸はマスクを被っているので三十歳前後の男性に見える。その瀬戸から突入前に「無事に終わったらこの番号から電話かけるからとれよ」と『江戸川コナン』のスマートフォンにワンギリされた。マスクの下の顔がニシシと笑っている気がしてハイハイと適当に返したが、実際いてもたってもいられず、すぐに電話をかけたのは新一の方だった。
突入後、個人的に連絡をとれるという状況ではなかった。チームの安否も、途中で任務のためチームからひとり離れた瀬戸の安否も後半はわからず。もちろんAPTX4869のデータが無事だったのかも気になった。だけど、あのお人よしの怪盗は、無事に取引現場にいけたのか。宝石を奪い取ることができたのか。そして、その宝石をどうするのか。
聞きたいことも気になることも山ほどあったが、インカムに入ってくる状況やモニターで現在地、そして作戦の変更など指令室にいながら慌ただしく、それでも冷静にこなし続けている中では考え続けることもできず。負傷者の報告が入るたびに肩を揺らしながら、そして迎えた作戦終了の報告だったのだ。
パタパタとコンクリート打ちっぱなしの廊下を走り、入り口にたどり着けば、救護班が担架で負傷者を数人連れて帰ってきたところだった。第一陣ということは重傷者だ。第一線で乗り込んだメンバーたちだった。瀬戸の姿はない。安堵してしまったことに後ろめたさを覚えつつ、救護室への道を整えれば重傷者に感謝される。顔なじみの相手は、報告通り命にも、そして今後の仕事にも影響のなさそうな怪我の具合でほっとした。
次に来た第二陣。担架を運ぶ人間の中に、赤井を見つけた。その横にいるのはジョディだ。ふたりとも怪我をしているようだが、応急処置で間に合ったもののようで新一はほっと息を吐いた。
「赤井さん、ジョディ先生、無事でよかった!」
「ああ、ボウヤの的確な指示のおかげさ」
「そうね。本当にありがとう」
校庭を走りふたりの元へ駆け寄って笑顔を見せようとして、そのまま喉がひゅっと鳴った。ジョディが持っているバッグは、薬品回収用に瀬戸が持って行ったケースで、そして本来救護班でない赤井が担架で運んでいるのが、機動隊服の下に着ていたインナーを赤色に染めた瀬戸瑞樹だったからだ。
「キッ……!」
駆け寄って声を出しそうになるのを、担架に乗せられている相手と目が合い寸で抑える。寝転がったまま、シーと口の形だけで訴えられ、案外元気じゃねえかと思うが、それでも目につく赤色に心臓の音が主張して煩い。
「瀬戸さんの怪我は」
「右腕を撃たれたが位置的に神経も動脈も傷はついていない。肋骨がおそらく二本か……? 薬品庫前で組織の人間とやり合ったらしいが、これだけで済んでよかった」
「しっかり薬品も回収してくるんだからきっとボスがスカウトにかかるでしょうね。でも出血がひどいから大人しくしててって言ってるのに、さっき普通に電話をとるから怒っちゃったわ」
赤井が救護室に向かう足を止めないまま質問に答え、ジョディが瀬戸を睨みつけるとへらっと瀬戸が笑った。その電話は間違いなく自分だと思い、さすがに悪かったと目配せをすれば「チョコアイスな」と口パクで言われる。心配して損をした気になった。
救護室に運び込まれた瀬戸だが、医師たちは先に運ばれた重傷者の手当てにかかっていて、すぐ処置してもらえそうになかった。彼らが警察病院にヘリで搬送されてからの処置になるかもしれない。応急処置はしたから大丈夫だろうという赤井に瀬戸が謝罪と礼を述べた。
「ボウヤ、俺とジョディは指令室のボスに報告に行くが。君はどうする」
「ボクちょっと瀬戸さんに用があるから、話はまた後で聞かせてほしい。二度手間になるけどいい?」
「問題ないさ」
「じゃあまた後でね、クールキッド」
せわしなく救護室を出て行ったふたりを見送って、簡易ベッドに寝かされた瀬戸を見る。立っている『江戸川コナン』の顎下くらいの高さで横になる瀬戸の赤を見て、眉をしかめた。
「名探偵、血相変えちゃって。心配性だな」
「やっと話したのがそれとか、ほんとおめーってやつは……。凝血剤は飲んだのか」
「もちろん撃たれてすぐにな。データ、ケツのポケットに入ってんだよ。今動けねえから、名探偵とってくれるか」
動けないと言った癖に、新一がとりやすいように臀部を軽く浮かすのだから、思わずため息をついた。
「バーロ、動くな。浮かさなくてもとれる……USB二本あるぜ?」
「青色のUSBが約束のデータ。んで赤色がチームに紛れ込ませてくれた感謝の気持ちってことで」
「……は?」
「あの組織と精通している著名人のリストみてえだぜ? 俺がちょっと騒いじまってパソコン壊れちまったから、多分データ復元に時間かかるだろうし、詫びも含めて」
「おめーほんっとに……」
取引はどうした、取引は。条件以上の事ばかりしやがって、と新一は頭を抱えたくなる。感謝しかない。APTX4869のデータを無事に盗ってきてくれたことも、リストを持ってきてくれたことも、薬品をきっちり回収してきたことも。感謝しかないのだが、それでも頭を抱えたくなるのはなんでだろう。
「ちゃんとおめーの目的は果たせたのか」
「ああ、ばっちりな。清々しくてたまんねえぜ」
にかっとマスク越しに笑った怪盗を見下ろす。
「おめーの目的のブツ、見せろよ」
「あ、わりい。砕いちまったんだ」
「は? 砕いた?」
探してたんじゃないのか、と目を丸くすれば「砕くのが目的だったんだ」と怪盗は笑った。そのマスクの下の笑顔を思い浮かべて、つられて新一も笑った。組織同士の取引に使われるようなものだ。おそらく、悪用すれば世間に迷惑がかかるものに違いない。それを必死に探して、そして手に入れてすぐに砕いた。どういう経緯で砕いたのかは現状の説明ではまったく想像もつかない。だけど、悪いヤツじゃないとは思っていたが、ここまでとは。
ざわざわとする救護室に、また負傷者が運び込まれてきた。瀬戸の隣のベッドにおそらく寝かされるのだろう。
「よし、痛み止め効いてきたから、このへんで俺は失礼するぜ」
信じられない言葉が耳に入ってきて、新一はばっと顔を瀬戸に戻す。すでにベッドから立ち上がり、手当てのために脱がし、そしてジョディが一緒に運んできてくれたらしい機動服を再び身に纏っていた。
「は? おめー重傷だぞ!? なにいってんだ!」
「何言ってんだはおめーだろ。俺マスクつけてんだぜ? 病院なんて行ったらさすがにバレちまうだろ。一応民間人って設定なのに説明できない傷跡もあるしよー。仲間も迎えにきてくれてっから大丈夫よ、ダーリン」
「ばっ、誰がダーリンだ!」
投げキッスまで寄越されて全力で目に見えない飛んできたハートを避けているうちに、ケケケと笑った怪盗は救護室の出入り口にいて。
「キッド!」
「じゃあな、名探偵! おめーのこと好きだったぜ!」
ひらりとコナンを見ないまま右手を肩越しに振って、そして怪盗は姿を消した。煙幕も何も残さず、華麗に。追いかけるにも、状況がそれを許さない。
二度と会うことはないような、そんな去り際のセリフに傷ついている気がすることだって、新一には許されなかった。
一七一七
「確保」
「へ」
浮かんでいたのは極上の笑みだったかもしれない。新年度の始業式。早々に帝丹の始業式は終わったため、新一はすぐさま江古田へ向かった。新一が校門前についたとき、始業式が終わった生徒が出てきたタイミングと重なった。
次々と正門を出てくるところを見ると、どうやら今新一の横を通って行った生徒が下校一人目らしい。すぐに目当ての人間がいないかきょろきょろと新一は探し始める。
少し茶がかった黒髪、ふわふわの癖っ毛、新一とよく似た顔と背格好、そして瞳の色。頭の中に叩き込んだデータを反芻して、生徒たちを見ていると見事データと合致する人間が視界に飛び込んできた。隠しもせず、あくびをふわぁとひとつ。そんな姿が。新一が知っている相手のカラーとは真逆の色で身を固めた学生だ。
始業式で居眠りでもしていたのか、まだ覚醒しきっていない表情でその学生は校門に寄りかかっている新一のとなりをすっと通り過ぎる。学ランから伸びた白い手を反射的に捕まえたのは、きっと二度と会えないような気がした、あの救護室の後ろ姿を思い出したからだ。
きちんとその手を掴めたことに対する喜びで、表情は見事に緩んだし、いつもの自分のペースもなんだか掴めた気がした。
新一の確保という声に間抜けな声を発したその学生は、猫目気味の瞳をまんまるくしてから、一瞬瞳に驚きの色をのせた。その色はすぐに隠れ、すっと細められた瞳は何を考えているのか。
「工藤くん」
最初に交わす言葉はなんだろうか、と考えていた。まさかこんな言葉を交わすとは思っていなかったが。新一は浮足立っていた自分を自覚しつつ、むっとしたことを隠すことなく返事をする。
「……んだよその呼び方」
「いや、俺たち初対面だし」
「そうだけど……いや、そうじゃねえだろ」
なかったことにするつもりなのだろうか。これまでの関わりも何もかもすべて。
あの日、救護室から姿を消した怪盗は、警視庁捜査二課の専属警部当てにラブレターを出したという。これまでの感謝と、怪盗キッドはもう蘇らないということと、とある組織の悪事をまとめたディスクと。おかげで警部は怪盗が引退したという寂しさに浸る暇もなく、怪盗からのリークの裏付け捜査に忙しいようだ。怪盗キッドに人生を注いでいるみたいな人だ。怪盗が引退したことで廃人になるかもしれないという周囲の心配のことも考えてのラブレターだったならば、恐れ入る。
でも、新一にはなにもなかった。あの日救護室で別れてから、なにも。一言も。
怪盗キッド引退と、二度と会わないと思わせるセリフに焦った新一は、『江戸川コナン』から『工藤新一』の身体に戻ってから、灰原に口酸っぱく絶対安静を言い渡された一か月の間で怪盗キッドの資料をかき集めた。『江戸川コナン』のときにはあえて調べなかったことだ。現場で、対等の立場で、捕まえて奴の真実を暴きたかった。初対面で生意気な口をきいてきたあの怪盗に一泡吹かせてやりたい一心で、白い影を追いかけていた。しかし怪盗は引退して、それはもうかなわない。なら、もう、答え合わせをするしかないのだ。勝ち逃げなんて許せない。なのに、この目の前にいる男は、問題を投げかけてきたことすらなかったことにするつもりなのか。
「そのあたり複雑だから初対面ってことにしておこうぜ」
掴んだ手に、力が無意識にこもってしまったそんな瞬間。正面にいる学生はへらっと笑ってそんなことを言った。
遠巻きにふたりの様子を江古田の生徒がうかがっているのを感じるが、そんなことどうでもよかった。
なかったことにしなかった。答え合わせをすることを許された。そして。
「黒羽快斗だ、よろしくな工藤くん」
「気色わりいからその呼び方やめろよ、黒羽くん」
「うわ、まじで気色わりいな。じゃ、よろしく工藤」
新一が掴んでいる手を、黒羽と名乗った学生がそっと空いている手で覆い、ゆっくりと外した。そのまま自然な流れで握手される。一連の動作があまりにも綺麗で、不自然なほど自然で、ああやっぱりこいつはマジシャンなのだと、あの怪盗なのだと実感した。
「ああ、よろしく黒羽」
返事をした瞬間、握手をしている手と手の間からぽんと小さな破裂音とともに花が咲いた。驚く新一に、ケケケと快斗が笑う。そのままブレザーの学生と学ランの学生はふたり並んで近くのファストフード店に向かった。二人席のテーブルの真ん中にポテトを置いて、両端にそれぞれ飲み物を置いて、新一の答え合わせに快斗は付き合った。
「二度と会わねえようなこと言いやがって」
「まあ偶然会うならいいけど、俺から会いに行くのもなんかちげえなって思ってよ」
「俺から会いに来る分は?」
「そんな選択肢あるなんて思ってなかったっつーの。いつも俺からのアクションでお前が追っかけてくるっていう図式だったんだから、アクションをこっちが起こさない限りなんもねえだろ、普通に考えて」
ポテトをつまみながらそんなことを言う快斗に新一はため息をついた。悪気なく会うことはないだろうと思っていたらしい。必死に情報をかき集めて、二度と会わないなんて、なかったことにされるなんてと会いに来た自分が少しだけ馬鹿みたいに思えて。
「でも捕まった瞬間嬉しかったぜ。来てくれてあんがとな。お前からきてくんねえと、工藤新一と黒羽快斗は成り立たねえからさ」
頬張ったポテトを飲み込んでから、あっさりと快斗は言った。そこでようやく快斗が言いたかったことを理解した。そうだ。正体が分かったうえで、なかったことにしなかったうえで接する工藤新一と黒羽快斗の関係は、新一が怪盗キッドのこと見逃さなければ成り立たないのだ。だから偶然会うことしか、相手の選択肢にはなかった。
「あー……」
ぶっちゃけそこまで考えてなかったとは言えず、アイスコーヒーを啜った新一に、どうやら新一の気まずさを察した快斗がぷっと噴出した。
「ま、こいつが怪盗キッドだって言われても、今更証拠なんて出てこねえから。おめーだって自分ちの資料から推理したけど、証拠はなかったんじゃねえの?」
テーブルで頬杖をついて、面白そうに笑う。確かにそうだった。証拠はないのだ。この目の前でポテトを食べている男が怪盗キッドだという証拠は。
「だからまあ、俺と友人関係持ったとしても、工藤新一の名に傷はおそらくつかねえから安心しろよ」
さらっと言い放ったそのセリフに、ほっとしたのは確かだ。
「自分の名前に傷がつくとかそういうのは考えてねえけど、おめーを警察に突き出さなくていいのは良かった」
怪盗キッドは犯罪者だ。だが、現行犯でもなければ窃盗の逮捕は難しい。確固たる証拠がなければ。その証拠がないのだから、黒羽快斗は捕まえることが出来ない。捕まえなくてもいいのだ。犯罪者だけれど、贖罪とは対極の位置にあるようなこの男を。そのことに快斗に言われた言葉で気づいて、そして安堵した。
口にポテトを咥えたままの男はきょとんとした顔で新一を見ていた。間抜け面だ。なんだか居た堪れなくなり、新一もポテトをつまみながら「なんだよ」と尋ねた。
「いやあ、やっぱおめーのそういうとこ好きだなって思ってよ」
照れたように笑った快斗に、つられて新一も頬が赤くなった。
これが黒羽快斗と工藤新一の出会いだ。
ほどなくして、ふたりは時間があれば互いの家を行き来するようになる。そして、その夏、お付き合いを始めたのだった。
一九一六
その変化に初めて気付いたのは新一だった。
キッチンに立ち、朝食の支度をしている同居人の隣でコーヒーメーカーにポットをセットしていた時のことだ。
「……快斗、背、縮んでねえか?」
四月に東都大学へ入学し、数日後にあった身体測定で新一よりも身長が0.5センチ低く悔しがっていた快斗との、これまで全く感じなかった身長差を感じた気がしたのだ。0.5センチ身長差があるとわかったときには感じなかった身長差を。同時に身長が二年間伸びていないことに対し、快斗がかなり悔しさを滲ませていた事も思い出す。
「ハァ? んなことあるかよ」
顔を顰め、今頃になって自慢すんのかこの野郎とぶつぶつ言いながら快斗はさっさと会話を切り上げた。フライ返しで綺麗に焼きあがった目玉焼きを白い皿にのせ、今度はウィンナーをフライパンに投入する姿を眺める。たしかにそんなことはありえないわけで、言われてみたら縮んでいない気もする。
新一も昨晩の快斗のやたらと丸まっていた寝相を思い出し、背筋が固まっているだけだろうとその会話を続ける事はしなかった。
ポットにぽたぽたとフィルターからコーヒーが落ちていく。ウィンナーの焼けるおいしそうな匂いと、落としたてのコーヒーの香ばしい匂いが部屋へ広がっていく。快斗の十九回目の誕生日の穏やかな朝のことだった。
このときの違和感を、この瞬間に追及しなかったことを新一は後悔することになる。
――変化はこの時すでに、静かに、そしてゆるやかに、はじまっていたというのに。
大学二年生になった五月。あと一日で新一の誕生日を迎えるという新緑の季節。風はあたたかくなり、満開だった桜は葉を茂らせている。
気のせいではなかった。それは冬に確信した。けれど、ごまかしようがない、目を逸らしきれない変化に一番戸惑っていたのは快斗自身だろう。だから言えなかったのだ。言わないでくれと、無言で言われているような気がして。
「快斗。いま、おめー身長いくつだ」
去年の六月。快斗の誕生日に聞いて以来、身長の話は出さなかった。新一の身長は伸びた。しかし、伸びた以上に身長差が明らかにできているのだ。
去年の快斗の誕生日、新一は快斗のサイズぴったりの薄手のパーカーをプレゼントした。身長差が若干出来たとはいえ、服のサイズは変わらない。つまり新一と同じだった。プレゼントしたパーカーをすぐに羽織り、ぴったりだと喜んでいた快斗の笑みだって覚えている。――そのパーカーが、大きいのだ。
目を逸らしたくても、事実から目は逸らせない。見逃してはいけない。だから新一は言った。
大学がゴールデンウィークで休暇になり、快斗は新一の家に昨日から泊まりに来ている。このまま休暇中は新一の家に泊まることになっていて、連泊二日目の朝のことだ。ベッドから抜け出し、パーカーを羽織った背中にベッドに転がったまま新一は尋ねた。
「……やっぱ縮んでっかなあ」
そういって新一を振り返った快斗の表情は、観念したような、逃げるのを諦めたような、そんな表情で、新一はその手を掴んですぐに自宅から飛び出し隣家に向かった。
休日の朝だ。灰原も阿笠も寝ていたが、ただならぬ新一の雰囲気にすぐにはっきりと目を覚まし、苦笑する快斗の身体検査を始めてくれた。
「検査室の狭さは知ってるでしょう。あなたはコーヒーでも淹れて待ってて」
白衣を着た灰原にそう言われ、新一は渋々頷くしかなかった。
快斗は灰原と阿笠とも仲がいい。快斗が工藤邸に来るようになって、灰原とたまたま遭遇したとき、あっさり「君は戻らなかったんだな」なんて言ったからだ。隣で驚く新一を尻目に、灰原も「ええ。せっかくのデータだったけど、この姿結構気に入ってるの」とあっさり答えた。後日聞けば、いきなり新一が親しくなった人間で、なおかつ容姿が似ていて、昔なじみのような雰囲気を出す相手なんて、絶対安静の一か月間になにを新一がしていたか知っている灰原にとっては、黒羽快斗が何者かなんて朝飯前の推理だったらしい。阿笠にもあっさりと正体をバラした快斗は、阿笠の研究に興味深々で、ふたりで研究室に篭ったりすることもしばしばある。
だから、きっと、真剣に「身長が縮んでいる」という流してしまいそうな発言を、きっちりと調べてくれるだろう。居心地がいいはずの、慣れ親しんだ阿笠邸で、どうにも落ち着かないまま、新一はぬるくなってしまったコーヒーを啜った。
検査室から出てきた三人に「どうだった」と間髪入れず新一が尋ねれば、灰原はため息をつきながら「とりあえずコーヒー飲みながら話しましょう」と告げた。そのままソファに座った灰原に頷いてから、新一が淹れておいたコーヒーを三つ、カップへいれる。新一自身のおかわりも。
カップをトレーに載せ、ソファに戻れば、相変わらず苦笑いを浮かべている快斗と、眉間に皺を寄せている灰原。そして腕を組み首を傾げている阿笠。ことりと音をたてながら、テーブルにカップを並べ、快斗の隣に新一は腰を下ろした。
無言の空間に耐えられるはずもなく、新一は口を開いた。
「結果は」
灰原への質問だった。しかし、新一の問いに答えたのは、眉間に皺を寄せたままの灰原ではなく、隣に座っている快斗だった。
「俺、若返ってるんだってさ」
なんともないように言われた言葉が理解できず、新一は快斗の顔を唇を薄く開いて見つめるしかできなかった。やはり苦笑いを浮かべている快斗に、どういう意味か聞こうとすると今度は阿笠が口を開く。
「快斗くんの細胞が老化してないんじゃ。いや、日々老化していくはずの細胞が同じペースで回復し続けているというべきか」
腕を組みながら、阿笠が難しい顔をして唸った。
「つまり、APTX4869の副作用で急激に起こる幼児化のようなものが、ゆっくり通常の成長ペースで引き起こされているということよ」
「……は?」
「いま、黒羽くんは十五歳の頃の身長のデータとほぼ一緒なの。おそらく今度の誕生日で完全に一致するわ」
ふーと深く、そして長い息を吐いた灰原に、快斗はやはり苦笑した。うすうす感づいていたような、そんな様子だった。
「……何言ってんだよ、今度の誕生日で快斗は二十歳になるんだぜ?」
事実を、言った。そんな新一に俯きながら灰原は言葉を続ける。
「そう。黒羽くん、去年の誕生日のときにはすでに身長の低下が始まっていたそうじゃない……黒羽くん、あなたなにか心当たりあるんじゃないの」
俯いていた顔を上げ、灰原はまっすぐに快斗を見た。
「気のせいだと思いたかったんだけどなあ」
ぼすんと快斗はソファの背もたれに背中を沈めた。おなじソファに座っている新一の身体も揺れる。
「多分、十七歳から俺の身体は老化せず若返ってる」
ソファのへりに後頭部をつけて、天井を見上げながら快斗が言う。喉仏が浮き出ているのを、新一はどこかぼんやりと眺める。
「去年新一に身長のこと言われてまさかと思ったんだけど、成長痛みたいなのが夏くらいにあって……俺、高一の時身長伸びたからさ。また成長すんのかなって喜んでたけど伸びる気配は一向にない上に、どうやらこれが縮んでるっぽくて」
淡々と快斗の口から言われる話は信じがたいものだ。だからこそ、快斗も信じなかったし、信じたくなかったのだろう。今日、新一に確信を持った一言を言われて、観念するまでは。
「心当たりな。あるんだよこれが」
新一が淹れたコーヒーに誰も手を伸ばしていなかった。その中で、ゆっくりと顔を戻した快斗がほんのわずかに小さく息を吐き、カップに手を伸ばす。飲みやすい温度になっているだろうコーヒーを二口ほど口に入れてから、またカップをテーブルに戻した。
「十七の時、なにがあったって言ったら……俺、不老不死の伝説を持ってる宝石を探してたんだよな」
誰に言うわけでもなく、快斗はぼそりと呟いた。しかしはっきりとその場にいる人間に届いたその言葉は、三人の動きを止めるには十分の威力を持っていた。
二〇一五
怪盗キッドの目的というのを、新一は改めて聞くことをしてこなかった。
怪盗キッドは観衆に夢を見せる存在でもあった。新一も夢を見せてもらった人間のひとりだ。終わったことだし、謎にしておいた方が、楽しいこともある。それは以前ふたりの間で交わした話からでもそうなった。でも、聞かないからには解決策が見つからない場合、新一には詳しく聞くという選択肢しか残っていないのだ。
隣家で新一の誕生日の直前。快斗の身体に起こっている異変が発覚した。衝撃的な一言を快斗は新一・灰原・阿笠の前で告げ、驚く三人にははっと笑ったあと、ソファの背に改めて沈んだ。
「それって」
目を見開いた灰原に、快斗は小さく微笑む。妙に落ち着いてる雰囲気に、新一はまだ理解が追い付かない。
「哀ちゃんはやっぱ知ってんの? パンドラっていう不老不死の伝説がある宝石のこと」
だというのに、快斗は普通に話を進める。阿笠と新一は無言で顔を合わせてからふたりをみやることしかできない。
相変わらずマイペースにコーヒーを啜っている快斗に灰原は「本当に少しだけれど」と前置きをしてから、眉間に皺を寄せた状態で話し出す。
「月に宝石をかざすと、宝石の中に赤いもうひとつの宝石が現れる……その宝石により不老不死が手に入る、と。組織は不老不死の研究をしていて……そういう情報は施設のデータにあった。その中にあったのが、このパンドラの情報よ。おとぎ話だと、思っていたのだけれど」
「だよなあ。ほんとおとぎ話の与太話だと思ってたんだけど」
「その宝石が実在したのね」
「そ。実在した上に、その不老不死に俺がなったとか……もはや笑い話だな」
よっと上体を起こし、自身の膝に片肘をついて快斗がため息をつく。あっけらかんとした様子に焦れたのは新一だ。
「待て、ちゃんと説明しろ。じゃあ、あの突入の時になにかあったってことか」
隣に座る快斗の肩をガッと掴めば、阿笠が「かなり採血したからあまり揺らすな新一」と優しい声でたしなめる。阿笠の気遣いは伝わってきたが、それでも冷静でいられなかった。
だって、快斗が若返っているってどういうことだ。しかもAPTX4869の成分なわけでもない。あの日、赤い色を纏った快斗が担架で運ばれてきたことを思い出す。詳しいことは聞いてこなかったけれど、いま聞かなければならないことだった。
「あー……じゃあ、そのあたりは今度話す」
「……快斗」
「そんなコエー顔すんなって。大丈夫だから」
自身の肩に乗っている新一の手をそっと外し、そして快斗はへらっと笑った。
「まずはおめーの明日の誕生日ちゃんと祝って、俺もちょっと自分でいろいろ調べて、そんで考えがまとまったらちゃんと話す。それでいいだろ?」
きゅっと握られた手が温かくて、新一は何も言えなくなってしまった。
「……黒羽くん」
「哀ちゃんにもちゃんと話す。っつーか、考えがまとまったらドクターの意見も仰ぎたいし。ちょっと待ってて」
「――何を言っても無駄なのね。いいわ、黒羽くんのタイミングで。言い出したらきかないそういうところ、本当にあなたたち似た者同士ね」
首を緩く降ってから灰原がため息をついた。灰原がようやく手に付けたコーヒーはおそらくぬるくなっている事だろうと思った。
そんな会話をしたのが一か月と少し前。その話題に触れるのはタブーのような雰囲気の中、ふたりはいつも通り、これまで通り過ごした。あくまで表面上は、だ。
快斗がそのように振る舞うから、新一もそうするしかなかったとも言える。
快斗がふらっと予告なしに工藤邸に来て泊まっていったり、新一が事件の捜査協力が江古田付近であれば、事件終わりに快斗の家に泊まりもした。
大学も同じ講義のときは一緒に受けたし、昼食も週二回ほどのいつものペースで共にした。
改めて知り合ってから、新しい関係を作り始めてからと変わらない関わり方だ。だけど。
(いつ、話しをしてくれるのだろうか)
そんな思いは、新一の誕生日の前日からずっと、いつだって付きまとっていた。きっと快斗もわかっている。わかっているからこそ、触れてこなかったのかもしれない。
そしてやってきた六月二十日。快斗の誕生日を明日に控えたその日、新一は捜査一課に協力要請を受けた。連絡を受けたのは大学の講義中。快斗と同じ講義を受けているときだった。
「わり、事件。終わったらおめーんち行くから」
「おう、いってら。気をつけろよ」
他の受講生の邪魔にならないように小声で隣の席の快斗に言えば、適当に返される。本来の予定は、この講義が終わった後、適当にふたりで買い物をし、快斗の家で食事をしながら誕生日を祝う流れだった。予定が予定通りいかないのも、皮肉なことにいつも通りだ。
大学を出てタクシーを拾い、事件現場に着いたのは昼過ぎ。季節柄、空は厚い灰色の雲に覆われていて、いまにも振り出しそうだった。そんな雲を一瞥してから、新一は捜査一課の輪の中に合流した。現場は通りに面した本屋での殺人事件。
事件の概要、現場の状況を高木から聞き、容疑者になっている四人からもそれぞれ話を聞いた。遺体の検分も鑑識に説明をしてもらった。凶器はまだ見つかっていないらしい。見つかればきっと、事件解決の決め手のひとつになるだろう。
ゆっくり現場の本屋を回りながら、新一はひとつひとつ謎を解き明かしていった。そうして、一時間程たったころ、容疑者のひとりが言ったことに矛盾が発生していることに気付いた。あとはもう、いつも通り推理を披露して、犯人の名を告げるだけだ。
「わかりましたよ、高木刑事」
「本当かい工藤くん! すぐに目暮警部に報告してくるから待ってて。なにか用意するものとかはあるかい?」
そばにいた高木に声をかければ、目を輝かせて尋ねてくる。協力的な高木に感謝しながら、トリックの実証に使いたい道具を伝えればすぐに手配をしてくれた。
本屋のレジ前に集まった四人の容疑者と、入り口の自動ドアを背にして立つ新一。そしてその五人を取り囲むように並ぶ捜査一課の面々という状況が作り出された。
新一は自身の推理を披露し、使われたトリックを実証した。普段と同じように順調に。そうしてひとりの名前を口にした。犯人の名前として。
「証拠はないわ」
新一に自身の名前を告げられた女性は顔を青くしながらそう言った。よくあることだ。現時点で証拠は手元にない。彼女自身がいまだに持っているからだ。
「まだ見つかっていない凶器。貴女、まだ持ってらっしゃいますね」
静かに、しかしはっきりと、広い空間に新一の声が響いた。ごくりと生唾を飲み込んだのはいったい誰だろう。
刹那。女性が動いた。目つきがまるで変わって、最初に身体検査をしたはずの懐からバタフライナイフを取り出したのだ。開かれたナイフにはべったりと血がついていて、新一はすぐに確固たる証拠が見つかったことを把握した。その把握で、次のモーションが遅れたのは新一のミスだった。
「工藤くん!」
高木と目暮の焦った声、飛び出した佐藤の伸ばした手。そしてバタフライナイフを両手で胸の前で握り、髪の毛を振り乱して新一に突進してくる女性。そういえば、この女性は短距離の選手と言っていた。どおりでスタートダッシュが素晴らしいわけだ。すべてがスローモーションで流れる中、背中で自動扉が開いたことに新一が気付いたと同時。新一は強い力で後ろに引っ張られた。
悲鳴が、本屋に響いた。ついさっきまで真っ青な顔をしていた女性は佐藤が取り押さえていた。だが床に押し付けられた手に、その女性が持っていたはずのナイフがない。
「…………かい、と?」
ナイフが姿を消した代わり。新一の前に、見慣れた背中があった。今まで何度も呼んできた名前を呼べば、振り返ったのはやはり快斗で。
まだ講義が残ってるんじゃないのかとか、どうしてここにいるんだとか、疑問に思うことはたくさんあった。だけど、一番理解できないのは、消えたはずのナイフが快斗の腹に突き立てられていることだった。
「救急車!」
目暮が叫び、高木が弾かれたように動き出したことで、新一も現状を理解した。
「快斗! なんで!」
振り返って、やけに落ち着いた笑みを浮かべた快斗がゆっくりとその場に座るのを、新一は咄嗟に支える。すぐに羽織っていた自分のシャツを脱いで、ぐるぐると突き立てられたナイフに巻き付け動かないように固定する。じわりとシャツに赤色が染み込んでいくのに比例して、快斗が新一に体重を預けた。
「あー……いってーな、やっぱり」
「バーロ! 当たり前だろ!」
ふざけたことを言う快斗を抱えながら叱りつければ、快斗はハハと乾いた笑いを漏らした。
「体力温存のためにひと眠りするから静かにしろよ新一。あとわかってると思うけど、処置終わったらすぐ病院出る段取りしててくれよな」
眉を寄せているのは痛みを我慢しているからだろう。ナイフを抜いていないので出血量こそ大したものではないが、抜けばきっと大惨事になる。快斗自身もわかっているらしく、駆け寄って大丈夫かと声をかけてきた目暮に「ちょっと寝ますけど大丈夫です」と短く答え、新一を一瞥して「無事でよかった」と呟き、そして目を閉じた。
運び込まれた警察病院で、腎臓を傷つけている可能性があると言われた時、新一はその場を動けなくなった。
腎臓は血液量が多い器官だ。多量の出血は免れない。すぐに手術となり、新一は手術室の前で立ちすくむしかなかった。手術が終わり、集中治療室へ入って、一時は容体が悪くなり治療室を騒然とさせたにも関わらず、麻酔が切れてすぐに快斗は目を覚ました。すぐに検査をして、容体が安定しているとのことで捜査一課の面々から怪我を負わせる展開になって申し訳なかったと直に謝罪を受け、快斗は結果オーライですと笑った。そうしてようやっと個室へ移動し、新一と快斗はふたりきりになれた。
「目覚めたばっかりだったのになかなかハードだったな」
「そう言うなよ。この時間になるまで警部たちもここでおめーのこと見守ってたんだ」
「今何時? ああ、もうこんな時間か……」
白いベッドに横たわる快斗と、その隣に座る新一。快斗が目を覚まして以降初めて交わした会話がこれだ。その事実に気付いて、新一はどっと気が抜けた。ずっと緊張状態だったらしい。
「……マジでなんで庇ったりしたんだ」
「新一なんかぼーっとしてたし、庇わなかったらそれこそヤバかっただろ。それにさ、不老不死なら死なねえじゃん」
不安だった気持ちで勢いそのままに噛み付けば、快斗はさらっとそんなことを言った。
「……は?」
正論に付随していた突然の発言。意味が理解できず思わず聞き返す。
「でも死にかけたんなら不死の要素はやっぱりねえのかな。ここ一ヶ月ずっと考えてたんだ。怪我したら瞬く間に傷がふさがるとか、そういうのあるのかなって。やり方が違ったから不老要素だけ取っちまったってことか……」
白いベッドに転がりながら、快斗がぶつぶつとひとりで呟いた。快斗の目が覚めたことに喜ぶことも、無茶な真似をした快斗を叱り付けることも中途半端になってしまった。気持ちのやり場がない上に、快斗が言い出したことも気になった。間違いなくこの一ヶ月と少し、ふたりの間でタブーになっていた話題だったからだ。
「つーかありがとうは? 新一くん」
「助かったけど、感謝は絶対にしねえ」
「死にかけたから?」
「たりめーだろ……俺がどんな気持ちでいたと」
「俺だってなんとなく嫌な予感がして情報集めて現場行ってみれば、刃物向けられてる恋人見つけてどんな気持ちだったと思う?」
「あれは」
「しょうがなくはねえだろ。新一は推理は完璧なのに、犯人の予想外の行動への対応がいつも甘い」
ベッド脇の椅子に腰掛ける新一を、まだ麻酔が抜けきっていない目で快斗は睨みつけた。快斗の言うことはもっともだ。それでも庇われたことに感謝するなんて無理だった。ましてや不確定要素のことも考えていたなんて。
「……お互い様ってことにしねえ?」
個室のため、ふたりが黙れば部屋には沈黙が落ちる。
新一としては、快斗のことを許したくない。快斗もきっと許せない点なのだろう。だけど互いにそれは譲れないことだから、この言い合いはいつまでも終わることはないはずだ。
ふーと快斗が大きく息を吐く。目を伏せると、快斗の黒いまつ毛が揺れた。
「賛成」
伏せていた視線を再び上げて、快斗は笑った。快斗はまだ目が覚めたばかりだ。この不毛な言い争いは、終わりがない分体力の消耗しかしない。快斗もそのことに気づいたようだった。そしてなにより。
新一はちらりと腕時計を見る。時計の針がてっぺんで重なってから、二十分程経っていた。
「あと、過ぎちまったけど誕生日おめでとう」
「おう、サンキュ」
新一の言葉に快斗は歯を見せて笑った。本当は事件終わりにケーキを予約していた店に寄って、快斗の家を訪ねて、そこで初めて誕生日おめでとうを告げるつもりだった。だから大学では一緒にいたが、今回初めての祝いの言葉となった。
「ケーキ、好きそうなの予約してたんだけどな」
「哀ちゃんが機転を利かせて取りに行ってくれてたりは……」
「ありえない話じゃねえけど、その身体で食う気か?」
「当たり前だろ」
「バーロ、やめとけ」
まさか病室で誕生日を祝うことになるとは思いもしなかった。そんなことを言えば快斗も「俺も」と笑った。
翌朝快斗は医者の診察後、容体も急変することはないだろうし、化膿に気を付けながら安静にしておけばいいということで大部屋へ移動することになったが、事前に新一がしていた手続きにより自宅療養となった。通院の話はかかりつけ医がいますので、とあっさり快斗は断った。
しかし絶対安静には変わらない。阿笠と灰原に車椅子を調達してもらい、快斗はとりあえず新一の家に暫く来ることになった。家が広くてよかったとこの時新一は初めて思った。
二階に上がるのは大変なのでリビングに簡易ベッドを設置し、そこを快斗の寝るスペースとした。退院初日はさすがに心配だったので、新一も布団を持ってきて、隣で眠ることにした。
「明日さ」
暗くした部屋に、快斗の声が落ちた。
「うん?」
「あの件、話しするから。まずは新一だけに」
「……わかった」
「おやすみ」
「おやすみ」
淡々と暗闇で会話した。すぐに隣から寝息が聞こえてきたが、新一はなかなか眠りにつくことができなかった。
* * *
ソファに隣に座りあう。いつかの告白のときをぼんやりと思い出しながら新一はコーヒーを啜った。テレビは朝の情報番組だ。
「何から話せばいいんだろうなあ」
快斗がテレビに顔を向けたまま呟いた。大して見ているわけでもないだろうに視線を外さないのは、告白の時のシチュエーションと変わらない。変わったのは、目に見えないことばかりだ。
「まず怪盗キッドが探していた『パンドラ』の話なんだけど」
刺激物はまだ駄目よと灰原に言われたため、快斗が口に含んだのはリンゴジュースだった。
ずっと知りたかったけど、聞きたかったわけではない。探偵だから自分で暴きたかった。けれど、いまは聞かなければならない。頭の片隅でいろんな思いを巡らせながら、新一も快斗と同じようにテレビを見つめた。内容なんて入ってこないけれど。
「哀ちゃんも言ってた『パンドラ』の与太話なんだけどさ、正しいのは『ボレー彗星近づく時、命の石を満月に捧げよ。さすれば涙を流さん』ってやつで」
「ボレー彗星って」
「そ、あの突入の日に一番地球に近づくって話題になってた彗星」
新一の言いたいことを的確に拾った快斗はそう言って、ふうと深いため息をついた。思わず快斗に視線をやれば、快斗も新一を見やる。視線が交わり、快斗が小さく笑った。
「パンドラって石は単独で存在してるんじゃなくて、ビッグジュエルの中に入ってんだ。困ったことにそのビッグジュエルがなにかわかんないし、一見ただのビッグジュエル。でも確認方法があって……」
「――……ビッグジュエルを月にかざす?」
「そう。そしたら赤い光を放って石が姿を現すんだ。そしてそれをボレー彗星が一番近くなってるときにすると、涙を流す。その涙を飲んだら、不老不死になれるっていうのが『パンドラ』なんだ」
与太話と快斗が言った通り、ただの迷信のようなそれに新一はどういう反応を見せればいいかわからず口を閉ざす。それもわかっているのか、快斗はそのまま話を続けた。
「まあ、その石を探してたのも理由があるんだけど、聞いとく?」
へらっと快斗がなんでも無いように言うので、新一は思わず顰めていた眉を少しだけ下げた。
「バーロ、親父さんがらみだろ」
「ありゃ、わかってたんだ」
「それくらいは予想つく。おめーが二代目ってのも。パンドラのことは知らなかったけど……」
「さすが名探偵」
「それで?」
「で、まあそのパンドラをとある組織が探してて、俺の親父はその組織に殺されたらしく。新一が大嫌いな復讐をするためにパンドラを探してるやつの目の前で粉々にぶっ潰してやろうと思ったわけだ。それが二代目怪盗キッドの目的」
さらっと、やけにあっさり重要な話を快斗がするので口を挟めなかった。
復讐の連鎖に心を痛めたことがある新一だ。復讐はなにも生むことはないとわかっている。何人もそういう人たちを見てきたから。復讐しようとする人がいたら、これからも新一は止めるだろう。だから、あの華々しいショーを観衆にみせた怪盗キッドの目的が復讐だったことや、「新一が大嫌いな復讐」と、言葉に皮肉を混ぜられたことに少しだけ胸に痛みを覚えた。快斗もきっと新一と同じことを思っている。けれど、それ以上に譲れないことがあったのだ。新一への皮肉ではなく、冷静にみた怪盗キッドへの、自身への皮肉だと思えば、あっさりと言い放った快斗を抱きしめたくなった。しかし、話はまだ続く。
「あの突入の日、おめーのとこの組織は、キッドと因縁のある組織がパンドラを探していることを知り、取引を持ち掛けた。大金を払うことで、パンドラの涙を分け与えてやるってな。だから俺はそうなる前に取引も、パンドラ自体もぶっ壊したかったんだ」
父親を殺した相手を殺すという敵討ちを目的に掲げない快斗でよかったと思う。だから復讐を目的にしていても、観衆は怪盗キッドに夢を見た。『江戸川コナン』だって。
「おめー、目的達成出来たって。壊せたって言ってたよな」
あの日、救護室で交わした会話を新一は思い出す。怪我を負った、キッドの変装である『瀬戸瑞樹』と交わした会話だ。取引が成立する前にパンドラを壊したのだとすれば、不老不死につながる涙はきっと流れていないし、飲んだ者もいないはずだった。それなのに、なぜ、快斗は。
新一のコーヒーマグを持つ手に力が入った。
「そう。宝石の受け渡しが行われて、俺んとこの方の組織のボスが宝石を月にかざして確認したら、まあものの見事に赤い石が現れて……やっぱり探してたけど、心のどこかで与太話だって思ってたから、結構びっくりした」
新一の緊張を解すように、快斗が肩をすくめておどけてみせる。それでも、新一の緊張はほぐれることはなかった。だって、話の核心はここからだ。
「で、パンドラを奪って、奪ったらもちろん攻撃されるわけで、大乱闘になって、怪我をした。なんとか状態を整えて、パンドラごとたたき割ったんだけど……多分、そのときに怪我してた箇所にパンドラが流した涙が触れたんだよなあ」
「……は?」
「ボスが月に翳した時点で姫君はスムーズに涙を流してくれてたみたいで、俺が叩き割るときにはビッグジュエルごと赤色に染まってたんだ。だから叩き割った破片が飛び散って、傷跡に触れた」
冷静に、快斗がその時の状況を口にする。
「実際に口に含んで飲み込むことで不老不死になったはずのものが、その涙で染まった宝石の破片で中途半端に傷口に触れたなら、不老で若返っていくことになったっていう中途半端な……恩恵っていうのも癪だけどよ、受けることになっちまったんじゃねえかって」
快斗が言葉を切った。やたらと静かな空間に、テレビから流れる笑い声が響く。機械的にも聞こえるその笑い声をどこか遠くで聞きながら、新一はテレビを見つめる快斗を見つめた。
表情は、ない。新一もどういう顔をしたらいいのかわからなかった。笑い飛ばすことができたらよかった。バカみたいなことを言うなと言えたらよかった。でも、言えない。新一の飲んだ息の音が、テレビの笑い声に混ざった一瞬。快斗は眉尻を下げて、笑顔を見せた。また、肩をすくめて。
「っていうのが、俺の推理です。つーかこれしか原因になりうることが思い浮かばねえ。ちなみに対策もな」
新一の方をみて、快斗は笑う。
「パンドラを叩き割ったのが十七の後半。若返りがどの時点でスタートしたのかは定かではないけど、そのタイミングで始まったんだったらと仮定すると、そこから一年かけて十七を迎えた状態になる。そうしたらさ、十八の時点で十七。十九の時点で十六。そしていま、二十歳になったはずの俺の身体が十五歳の頃のデータと合致することになるんだ」
快斗の推理はあくまで仮定だ。だけれど、完璧なポーカーフェイスと、おそろしく辻褄が合う話に、新一はこれが真実だと理解した。言葉が、でない。
またテレビから笑い声が聞こえる。握りっぱなしのコーヒーマグの持ち手は、すっかり新一と同じ温度になっていた。
「快斗」
やっと発することが出来た言葉は、相手の名前で。手に張り付いたのではと錯覚するようなコーヒーマグをテーブルに置き、新一はゆっくりと手を伸ばした。恋人になったときから比べるとやはり小さくなった。それを痛感すれば、新一の腕の中に収まった快斗にめまいがしそうになる。
「新一と二十歳になった祝いに酒飲もうと思ってたんだけど、十五の身体でこの傷じゃさすがに無理だな」
大人しく新一の身体に収まった快斗は、新一の背に腕を回し、新一の背をぽんぽんと叩いた。まるで子どもをあやす様なそれに、あやされるべきなのはお前なのにと、快斗に見えないところで新一は歯を食いしばった。
「残念だな。結構楽しみにしてたんだぜ?」
一定のリズムで背中を叩かれる。酷く落ち着くはずのそれが、回数を増やすたび、新一の心を締め付けた。
身長のことを大学で友人に言われる度に「マジックで身長を低く見せるトリックの練習中だ」と返し続けていた快斗は、この年の夏季休暇明け、退学届けをだした。
理解が追い付かなくても、しなければならなかった。身体検査を夏季休暇中で隣家で詳しくおこなったが、打開策はまったく思い当たらなかった。薬の影響でなっているわけではないので、それは当たり前だったのだが。
秋の始まりとともに荷物を実家から新一の家に運び入れた快斗はそれ以降、新一の家で暮らすようになる。――快斗が、自分の状況をすべて飲み込んだのだと理解した新一も自然と、なるようにしかならないかと思えるようになったのだった。
二一一四
「新一、まとめた資料ここ置いとくからな」
「おう、サンキュ」
新一の部屋に入ってきた快斗は、パソコンに向かっている新一の手元にぱさりと紙の束を置いた。それは大学へ行く前に新一が調査を快斗に頼んでいたものだ。作業の手を止めて、置かれた紙を拾って目を通せば、痒い所に手が届く資料。
「さすがだな……あ、これも調べてくれたのか」
「一応関連資料ってことで」
「助かる。いまから調べようと思ってたから」
「おう。あと三十分もすれば晩飯も出来上がるからほどほどにしとけよ」
そう言って新一の部屋をあっさり出て行った快斗の身長はおそらく一七〇センチを切り、一六八センチほど。中学校二年生の頃の身長だ。
昨年大学を辞めた快斗は、まず工藤邸を隅から隅までピカピカにした。別にきれい好きというわけでもなかったのに、どうしたのかと思えば「身長が低くなったせいか埃が目に付くようになった」と顔を顰めた。やりだしたら完璧主義の快斗である。最初はリビングと快斗が自分の部屋に使い出した客間を掃除しただけだったのだが、次にキッチン、書斎、と続けば新一の部屋も掃除し、結果家の庭にも手を出した。おかげで幽霊屋敷の汚名は返上され、近所の評判がよくなった。
そうして掃除をすべて終えた快斗は、家事全般をするようになった。
「別にそんな完璧にこなさなくてもいいんだぜ?」
「なんか、新一のための専業主夫って感じで悪くない」
「……そういわれるのも悪くない」
「だろ? 愛感じるだろ?」
新一の気遣いの言葉にニシシと笑いながら答えた快斗を思い出す。家事のコツも掴んだ快斗は、料理も極めはじめ、いまでは栄養バランスのとれた食事を新一に出してくれるようになった。しかも美味いものだから、やはりこいつはチートだなと感じるもので。
最終的に炊事洗濯掃除をきっちりやっても時間を余らせるようになり、手慰めにマジックをしていた快斗に新一が「時間あるならこれ調べてくれねえか」と事件の調べものをお願いしたことをきっかけに、そういった裏方の調べものをしてくれるようになったのだ。
割り切ったらしい快斗は暗い表情は一切見せない。そのおかげで新一も普通に日に日に若返っていく快斗と過ごせている部分がある。快斗は外にもあまり出ない。出るとしても、変装用マスクを被り別人として出ている。快斗の幼馴染や昔なじみには、留学してそのままそっちに住むと言って家を出たそうだ。
快斗は母親だけには現状を正しく伝えたらしい。どういう反応だったかなど詳しいことは、新一は聞いていないけれど。――聞けて、いないけれど。
ふうと息を吐いて、資料に再度目を通す。優秀すぎる助手だ。あの警察を手玉にとっていた怪盗キッドだと思うと少し頭が痛くなる話ではある。
時計をちらりとみる。快斗が出て行ってからまだ十分ほどしかたっていないが、作業の切りは良い。今回の事件は、過去の捜査の再調査のため急を要するものではない。パソコンをスリープ状態にして、簡単に机の上を片付けて新一は部屋を出た。そのままキッチンに向かえば、いい匂いが廊下に漂っている。
「今晩はなんだ?」
キッチンに入りながら、コンロに向かっている快斗に声をかけた。おたまでぐるぐると鍋をかき混ぜている快斗が顔を上げ「ハヤシライス」と答えた。
「あとサラダ」
「すげえいい匂いする」
「市販のルーじゃなくてトマト缶から作ったからな」
「へえ……食器だすか?」
「じゃあカレー皿とスプーンと箸」
「了解」
しっかり板についてきたが、この会話も最初しだしたときは少しむず痒かった。
用意をして、ふたりで席について、そして夕食を食べる。この後は風呂にお互い入って、リビングで一緒に過ごしたり、それぞれの部屋に戻ったりと自由だ。随分所帯じみた感じになってきた。それが心地よくもあり、少し寂しくも感じる。
「快斗」
「ん?」
大口を開けた快斗がスプーンですくったハヤシライスを頬張ったまま首を傾げた。かわいい。
「今晩は一緒のベッドで寝ようぜ」
そういってからしゃきしゃきのレタスを口に入れれば、快斗が目をぱちりと瞬かせてから、口の中のものを飲み込み「じゃ、俺が新一の部屋いくな」と、目を細めて笑った。はにかみ混じりだったのは、きっと新一の気のせいじゃないだろうと思う。
数日後、快斗が新一を朝見送る際、玄関でぽつりと言った。
「ちょっと母親に会ってくる。明日には戻るから」
温度のないようなその言葉に、靴を履くため下げていた顔をはっと上げ快斗をみれば、気のせいだったのだろうかと思わせるいつも通りの表情。きっと気のせいではなかっただろうに。
「……わかった」
「飯は作り置きしとくから、今晩はチンして食えよ」
「わりいな。じゃ、いってくる。おめーも気を付けてな」
「ほいほい。新一こそな」
ひらひらと手を振る快斗に見送られ、新一は家を出た。これから捜査協力だ。大学は土曜日なので休みである。
見上げた空は、やけに青い。これから殺人現場に行くなんてまったく思えない清々しい空だった。
* * *
「最近、黒羽くんはどうなの」
その夜、工藤邸を尋ねる者があった。快斗の不在を知っていたのだろう、灰原だった。
お茶を淹れてやって、リビングで待つ灰原の元へ行く。最初は今日の探偵団の様子を話していた灰原だったが、ふたつほど話題を終えてから聞かれた質問に、やはり本題はそれかと新一は小さく笑った。
灰原は、快斗を気に入っている。だから、余計に気にかけてくれている。不器用なやさしさを、新一も、もちろん快斗もわかっている。
「この前、久しぶりに一緒に寝たんだけど」
「下世話な話はいらないわよ」
「バーロ、聞け。夜中、多分快斗も無意識なんだろうけど膝をさすってて」
「膝?」
「ああ、うめき声も上げててさ。多分、成長痛じゃねえかと思う。だから……多分、また身長がぐっと低くなるんだろうな」
「……そう」
目を伏せ、両手で新一に渡されたマグカップを持つ灰原の声は小さかった。優しいからこそ、どうにもしてあげられない自分に悔しさを灰原は覚えているはずだった。
灰原の隣に腰を下ろし、そして新一もテーブルに先に置いていたマグカップを手に取った。快斗も今頃、母親と夕食後のお茶でもしているのだろうか。以前会った時よりも幼くなっている我が子をみて、快斗の母親はなにを思うのだろうか。自分の母親のことが脳裏をよぎった。ふざけた態度をしながら、いつでも『江戸川コナン』を見守ってくれ、ときには力になってくれた母親だ。もちろん父親も。ただ『江戸川コナン』は新一が十年分若返った身体なだけだった。そこからは正しく遡った時間を再び送ろうと身体が育っていたことを新一は覚えている。快斗の母親は、若返り続けるという状況を、一体どう受け止めるのだろうか。
「……快斗が〇歳になったとき……どうなると思う」
ぽつりとつぶやいた新一の言葉がやけに部屋に響いた。
常々考えていたことだった。でも、一度も口に出したことのない話題でもあった。隣で息を飲む気配がして、数秒。
「……わからない。けど先のことを予想することがこんなにも怖い」
落ち着いた声に、新一は隣を見る。目を伏せた灰原の睫毛が揺れた。そう、わからない。誰にもわからないのだ。新一にも、灰原にも、もちろんここにはいない快斗にも。
「でも、あなたはそれを考えるのね、工藤くん」
苦いものを混ぜた笑みを向けられ、新一も自然と苦い笑みを浮かべるしかなくなった。
「いまから馬鹿な事言うけど、真剣に考えてくれ」
「……ええ」
新一が言おうとしていることを、灰原は察しているようだった。泣きそうな顔をさせていることに、申し訳なさを感じながら、それでも考えたいことがあった。
「APTX4869が十年程度身体を若返らせる作用を働かせるとして、解毒剤を飲んだ人間がもう一度若返る確率はどれくらいだ」
テレビはつけていない。ひたすら静かなリビングだ。はっきりと告げた新一の言葉はまっすぐに灰原に届いた。新一の視線と一緒に。その視線から逃げるように灰原は目を閉じた。
「工藤くんの体は、一度細胞が若齢化した記憶を持っている。何度も試作の解毒剤を服用したことで、はっきりと。癖づいているようなものね。だから、きっとあなたが黒羽くんと同世代の期間を少しでも作りたいのであれば、きっかけがあれば簡単に作用すると思うわ」
閉じた小さな瞼にぎゅっと力が入ったのがわかった。
「灰原」
名前を呼べば、ゆっくりと開かれる瞳。新一と灰原の目が合う。その瞳が先ほどよりも憂いを帯びていることに、言いたいことが正しく伝わったことを新一は知った。
「本当にあなたって酷なこと言うわよね」
眉尻を下げ、灰原は視線を再び手元へ落とした。持っているマグを口に運び、一口飲み込む。
「でも、言うと思ってた。だから、作ってみるわ。もう一度
あなたが飲むAPTX4869を」
強い意志を持った、だけれど葛藤を携えた言葉だった。
「ありがとう」
謝るべきだった。けれど、きっと彼女は謝られたくない。だから、新一は感謝の言葉を告げるだけにとどまった。
二二一三
帰宅したら、快斗が背伸びをしていた。
新一が帰ってきたことに気付かないまま、自分の身長よりも高いところに片付けていた加湿器をとるため、精一杯背伸びをしていた。つま先立ちをして、腕を伸ばして。
新一なら、簡単にとれる高さだ。だけれど、一六〇センチほどになった快斗には、もう踏み台がなければ届かない高さ。
新一は快斗に気付かれないように、もう一度家を出た。秋も終わり、冷たい風が頬を撫でた。そのままの足で隣家へ行く。
「灰原、俺、APTX4869飲むの、やめるよ」
もう少しで調整できると思う。灰原に言われたのは先週の話だった。今年度で大学生活が終わる。そのタイミングに合わせて、新一はAPTX4869を再度飲もうと思っていた。
飄々としている快斗だけれど、新一が更に年を重ね、そして快斗がこのまま若返り続ければ年齢差は開く一方だ。生活スタイルは変化し、ふたりでいることに違和感が生まれる。だから、新一は一瞬でも同世代の期間を作ろうと思った。仮説通りであれば、新一はAPTX4869を飲むことにより十二歳頃まで若返る。快斗はいま十三歳の身体だ。丁度、同じ年の期間を過ごすことが出来る。なんでそんなことをしたんだと、快斗には怒られるに違いない。それでも、身近に状況は違えど若返った人間がいるということは、確実に快斗の気持ちを楽にすると思った。『江戸川コナン』がそうだったからだ。『灰原哀』という、中身が十八歳の少女が日常に加わったことでどれだけ気持ちが楽になったかわからない。だから、勝手だけれど、快斗と一緒にいたいから、新一の一存でAPTX4869を飲もうと考えたのだ。
新一の突然の来訪。そして自身の発言を覆す言葉に、灰原は目を見開き、そしてほうと息を吐いた。
「いきなりどうしたの」
酷く安堵した声だった。ずっと葛藤していたに違いない。それさえ承知したうえで、新一は灰原に酷な事を頼んだ。
だけど、思った。高い位置にあるものに手が届かない快斗の、随分小さくなってしまった背中を見て思った。
「俺まで小さくなったら、高い位置にあるもの、取れなくなるんだ」
情けなさを滲ませることを避けられなかった。どうして気付けなかったのだろう。だけど、気づけた。薬を飲む前に気付けた。
同世代になれば、一時的に快斗の精神面は楽になるかもしれない。でも、同じ工藤邸に住み続けるとして、その後の生活は酷く困難なものになるだろう。隣家に迷惑をかけ、両親にも金銭的にサポートしてもらわないといけない。中学生ふたりが、高校生と小学生が、ここで暮らし続けていくのは現実的に難しい。
「……快斗はいつも俺が望んでいる以上のことをあっさりやって与えてくれるんだ」
「……ええ」
「……だから、快斗の手が届かなくなった所があれば、脚立の場所を教えてやりたいし、脚立に乗れないなら脇を抱え上げてやりたい」
でも、一番この状況を受け入れていなかったのは、新一だった。
一緒にいたいなら、この状況を受け入れることが一番だったのだ。出来ていたつもりだった。だけど、それはあくまで、つもり、だった。いまやっと理解できたのだ。年齢が開いていっても、一緒に居たいのなら、全部、時の流れも身体の変化も受け入れなければならない。
「だから、ごめん。調整してくれてたのに」
心配そうに阿笠がふたりのやりとりを陰から見守ってくれていたことを知っている。両親もきっと新一がなにかをしようとしたり、快斗との近況をあまり電話の際に話さないこと、そして頑なに会わせなかったりすることで察しているはずだ。それでも何も言わない。
「馬鹿ね。私は最初から飲んでほしくなんてなかった。知ってるくせに」
灰原もそうだった。新一の判断を全部見守って、そして受け入れていたから。
はあ、と灰原がため息をつく。ちらりと時計を見て、小さく笑った。
「早く帰って、黒羽くんに脚立の場所教えてあげなきゃいけないんじゃない? まだ背伸びしてるかも」
「あ」
久しぶりに見た灰原の明るい表情に、新一の目の前も開けた気がした。
慌ただしく隣家を出て、自宅まで数十メートルの距離を駆けだした。
快斗とずっと一緒にいられる方法を考える。できるだけ、快斗に負担がないように。――まずは、脚立の場所を思い出すことから。
* * *
「この鍋めちゃくちゃ旨い」
お椀に入ったキノコをもぐもぐと咀嚼して、新一は言った。今日はいつもの夕飯と違い、リビングのテーブルでカセットコンロを設置して鍋をふたりで食べている。高級ラグに直接座りこんで。
「きのこってすげえダシ出るよな」
快斗も自分のお椀に入っているキノコを口に運んだ。熱かったらしく、ハフハフとしてからごくりと飲み込む。鍋の中身は白菜、ネギ、人参、ニラ、鶏団子。そして舞茸、しめじ、エリンギ、椎茸などなどキノコたっぷり。キノコ嫌いにはたまったものじゃない鍋だが、ふたりは特に嫌いと言うわけでもない。快斗に夕飯のメニューを聞いたとき「キノコ鍋」と応えられて、正直期待はまったくしていなかったのだが、想像以上のおいしさに新一は感心した。作った当の快斗も感動しているらしかった。
寒さのピークが過ぎた二月半ば。それでも昨日などは雪がちらついていた。どうにもここ数日ダイニングの暖房の効きが悪く、快斗が新一が大学にいっている間に脚立にのって色々いじってくれたのだが、寿命という結論に落ち着いた。リビングの方がまだマシだという理由で鍋をリビングで初めて決行したのだが悪くない。テレビを見ながらふたり鍋をつつく光景はなかなか乙だ。これに炬燵でもあったら最高なのだが、あいにくこの家には炬燵はなかった。
「そういや卒業式の後って謝恩会あるって言ってたよな?」
快斗が新しく自分のお椀に鍋の中身をおたまで移しながら新一に問いかけた。二週間後に控えている卒業式の日のことだとすぐ理解する。
「そう。何個かのゼミが合同でやるらしい。立食パーティーみたいなの」
「へえ。無事に卒論提出できたから出席できるやつだな」
「……その節はお世話になりました」
鍋に伸ばしていた手を新一はぴたりと止める。なにせ、この件に関して新一は快斗に頭があがらないのだ。
「ぷっ、冗談だっつーの! 新一が卒業できないなんて事態にならなくてよかったぜ」
ケケケと白い歯を見せて快斗が思わず項垂れた新一の下痢ツボをつつく。そう、年末から先月の頭くらいまで捜査協力ラッシュだった新一は一月末提出の卒業論文がほぼ白紙の状態だった。しかも大学の講義全体を通して出席事態がまばらだった故、単位取得はギリギリ。ゼミの単位は通常の講義の二つ分の単位がとれるため、絶対に卒論を提出して評価をもらい単位をゲットしないといけなかったにも関わらずである。
そしてやっと先月の頭に卒論作成に本格的に取り掛かった新一は現実に気付いたのだ。これはヤバイ、と。資料集めすらまともに出来ていなかったのだ。とうてい間に合いそうになかった。
「卒論がやばい」
朝、廊下で顔を合わせるなりそう言った新一に快斗はにやっと人の悪い笑みを浮かべた。徹夜明けだったせいかその人の悪い笑みさえ輝いて見えたのだけれど。
「快斗様手伝ってくださいお願いしますって言ったら考えてやらんでもないぜ」
「快斗様手伝ってくださいお願いします」
「プライドどこ行った名探偵」
「卒論提出できなくて卒業できなかったとか両親に一生ネタにされること考えたらおめーに頭下げるくらい」
「全然下げてねえし流れるような棒読みだったけどな」
そんなこんなで快斗が資料集めを手伝ってくれたのだ。集めるだけでなく、引用できそうな文章にきっちりチェックを入れ、出典情報もまとめてくれていたのだから有り難い。膨大な量の参考文献が自宅にあったというのもよかった。
おかげで新一は無事に期日に卒論を提出し、卒業見込みを手に入れたのだった。つまり、快斗なくしてこの卒業は成しえなかったのである。
慢性的な寝不足の日々でかなりしんどくはあった。しかし新一の部屋で新一がパソコンを叩き、ベッドの上で快斗が資料をああだこうだ言ってまとめていたあの時間は、存外楽しかった。そう言ったら、快斗には怒られるだろうか。一緒に大学へ通い、講義を並んで受けていた時間を思い出して、少しわくわくしたなど。
「で、そのゼミのやつから何時くらいに帰ってくるんだ?」
「わかんねえけど、日を跨ぐ前には帰ってくるつもり」
「おっけー」
顔を上げた新一に、本題だったらしい質問を快斗が尋ねる。二次会にも顔を出す羽目になりそうだから、新一はそう答えた。
空になった新一のお椀に快斗がついでとばかりに鍋をよそってくれた。
「なあ、これまた作ってくれよ」
「気が向いたらな」
「しめは?」
「うどん。卵でとじる」
「最高」
* * *
カツカツと革靴の音が住宅街の道に響く。風はまだまだ冷たい。スーツの上から着ているコートのポケットに入れたままの手は一向にあたたかくならないが、それでも出しているよりましだった。なにせ、マフラーに埋められないむき出しの鼻の頭が酷く冷たいのが分かるからだ。
空の色が少しずつ濃くなってきている。夏に比べればまだまだグレー掛かっていいるが、それでも季節の移ろいを確かに感じた。
いつも通り、角を曲がって一直線。大きな門の前に立ち、静かに玄関へ向かう。鍵をキーシリンダーに差し込み、ドアを引き開ければ、玄関にスーツケースを持った快斗の姿。
驚きを隠しきれない快斗の表情に、やっぱり案の定だったなと新一の口から自然と苦笑が漏れた。
「どう、して」
「おめーが約束しなかったから」
淵に腰かけ、足のサイズが小さくなったからと先日新調したスニーカーを履きかけた快斗が新一を見上げる。後ろ手に玄関ドアを閉め、新一はそのまま快斗を見下ろした。ああ、なんだかいつかの屋上の距離感といっしょだなと思った。視線の位置は逆だけれど。
「ここ最近、おめーは約束をしようとしなかった。決定打はこの前の鍋だ。まだ寒い日が続くってのに、いつもなら安請け合いするおめーが『気が向いたら』だ? 嘘つきたくないって感情が働いてんなら、勝手に出ていこうとすんな」
新一を座ったままの快斗がぎっと睨み付ける。図星だったらしい。いつも通りポーカーフェイスを貫けばいいのに、こういうとき素直だから、新一は快斗に惚れたのだと思う。
いつのまにか一緒にいるのが当たり前になって、自分たちの間に名前を付けるのであれば恋人という名前がぴったりな気がした。だから、好きなんだろうなと思った。無自覚だったけれど怪盗キッドという存在に惚れこんでいたのは随分前からだったし、きっと黒羽快斗のことがずっと好きだったんだと思う。だから告白を快斗にされたとき、自覚して、そしてすぐに賛同した。
快斗はいつだって、新一が求めた以上のことをやってきた。その快斗が新一の求めたことに最初から答えようとしなかったのは異様だった。あくまで自然に快斗は装っていたが、快斗の入浴中にこっそり覗いた快斗が部屋として使っている客間には全く荷物が増えていなかった。それどころか、新一の家に住み始めるときに持ってきたスーツケースに持ち込んだものはすべて収められていて。この家を出ていく気なのだと、すぐにわかった。そして、最初から、きっとこの家に住み始めたときから、出ていくつもりだったことも。
「俺の今日の日程を確認したのは、帰ってくる前にこっそり出ていく計画を組んだからだな。まあ、卒業式が終わってまっすぐ俺が帰ってきたから、おじゃんになったわけだけど」
見上げる快斗の顔から表情が次第に消えていく。それでも、新一は言葉を続けた。
「んで、出ていこうとしたんだ」
発した言葉は思いのほか苦しそうだと新一自身そう思った。間違いなく新一は快斗のこの行動に傷ついた。
快斗が俯く。スニーカーの靴紐はまだほどけたままだ。
「お前が、俺と一緒にいようとするから」
冷たい玄関に、静かに快斗の声が落ちた。ああ、快斗の本音だ。新一はそう思った。
「この先、俺はどんどん若返る。もしかしたら若返りが加速化する可能性だってある。そのとき、異常な目で見られるのは一緒にいるおめーだろ。俺がもっともっと若くなって、物の分別もつかない子どもの身体になったとき、仕事の邪魔になるに違いないんだ」
快斗の手が、スニーカーの紐に伸びる。
「いい感じの人ができても異様な体質の子連れなんて、どんだけ新一がいい男でも普通の奴じゃ願い下げだ。俺だって、そんな扱い受けるおめーを見てらんねえ」
結ぼうと掴んだ紐が、かすかに震えているのは、快斗自身が抑えきれない感情を吐露したからだった。
「探偵を本職としてやってくおめーの、俺が認めた名探偵の、負担に俺がなるんだ! わかるだろ! 一緒になんていたくないんだよ!」
眉間に皺をよせ、新一を睨みつける。声を快斗が荒げたのを聞いたのは初めてだな、なんて冷静に考えた。そして、それを嬉しく思ったことも。
「だから思い出作りに、この二年間一緒にいたって? 最初から出ていくつもりで。俺が止めるってわかってるからいないうちに出ていこうとして?」
はあ、と深い息を新一は吐き出した。馬鹿だなあ、と思った。そして、愛されてるな、と。
「おめーをひとりになんかさせるわけねーだろ」
睨みつけているままの快斗に、新一も本音を言い放つ。まっすぐ届いたらしいその言葉に、快斗が噛みつこうとするのを遮って、新一は言葉を続けた。
「快斗の懸念事項その一。周りの目」
ポケットに入れていた手を出し、顔の横へ持ち上げる。ぴんと人差し指を伸ばし、快斗に見せつけた。
「旅に出よう。別に、日本にこだわる必要はねえ。俺たちを知ってる人間がいない街に行けば問題はなにもない」
「……は?」
「タイミングを見計らって、転々としていくんだ。次の成長のタイミングでいったら、声変りとかか? 好きな街に行こう。なに、こういう時に使わなくていつ使うんだっていう妙に人脈がある血縁者がいる。パスポートとかはおめーが適当に偽装できんだろ。な、楽しそうだろ?」
左の頬を引き上げ、笑って見せる。
「でも探偵は!」
睨みつけていた快斗の表情が動揺で少しだけ緩んだのを確認して、今度は中指も加えて指を二本立てた。
「快斗の懸念事項その二。俺の探偵事情」
ついでに、広い玄関で一歩踏み出した。快斗との距離が近くなる。
「探偵なんてどこでもいつでもできる。シャーロックホームズは仕事を選り好みしていた。俺がしたっていいだろ」
ついに口を薄く開いた快斗に、こみ上げてきそうな笑いを抑えながら、新一は曲げていた親指も伸ばした。
「快斗の懸念事項その三。俺に良い人が現れてもうまくいかない」
一番馬鹿な懸念事項だと思う。前のふたつは予想していたが、まさかの三つ目だった。きっと普段は考えないタイプのくせに、きっと今の状況が、自分のことを受け入れないといけないという義務感が快斗にこんな感情を抱かせたのだ。
「行くはずねえだろ。俺が好きなのは、この先もずっと快斗なんだから」
絶対に、ありえないことなのに。
「これで懸念事項はすべて解消したな。ほら、スーツケース戻してこい。あ、でも荷造りは解くなよ。おめーがパスポート偽造完了したら出国する予定だから」
いやに優しい声になった。こんな声、自分に出せたのかと思う。だけど、相手が快斗だから。こんな状況の癖に、新一が求めてもいないことを勝手にやってのける快斗だから、新一は一緒にいて、ゆっくりだけど、快斗みたいにうまくやれないかもしれないけれど、快斗にも与えていきたいと思っているのだ。
「……むちゃくちゃだよ、名探偵」
新一を見上げる快斗が眉間に皺を寄せた。大きな猫目がキラキラと輝きだして、ぽろりと水滴を零した。頬を伝って落ちていくそれを拭うため、新一はふたりの間にあった距離をゼロにする。
「でも、そんな俺をおめーは認めたんだろ?」
膝を床につければ、スーツ越しに冷たさが伝わってきた。でも、目線はこれで一緒だ。
「うん、そう……馬鹿だなあ、面倒な子どもを手放すチャンスだったのに」
「わりーけど、面倒な子どもを追いかけるのが趣味なんだ」
そう言って笑った新一の腕の中に、ぽすんと快斗が収まる。
もう十歳近くふたりの身体年齢は離れている。すっぽり腕の中に入った快斗の背中を新一がさすってやると、快斗の小さく肩が震え、嗚咽を漏らしはじめた。それを見て、APTX4869を飲んではいけないことに気付けたこと、そして快斗が出ていこうとしていたことに気付けて本当に良かったと思った。新一が見た、快斗の初めての涙だ。これまでも、もしかしたらひとりで泣いていたのかもしれない。いつでもへらへら、けろっとしている快斗だから、新一に素を見せてくれているとは思っていたが、全部を見せてもらっているわけでもないと思っていた。ようやく、快斗の全部を見て、触れられた気がした。
背中に回した腕に力をこめると、小さくなった快斗の手が、新一のジャケットをぎゅっと握りしめた。
二三一二
ロンドンの市街地を走るバスは基本的に赤い。そして二階構造だ。
新一は定番の赤いバスの二階の窓から異国情緒あふれる街並みを眺めて、椅子に背もたれる。腕時計を見れば、午後八時。ギラギラとしていない街の灯りはどこか染みる。
今日は曇り空だ。大抵ロンドンの天気は曇り空か、日本でいう霧雨。ザーッと降るようなことはあまりないが、青空と相見えることもなかなかない。故に洗濯物は部屋干しがデフォルト。そもそも寒い土地のためベランダがある家もあまり見ない。湿度は高くなく乾燥しているため、部屋干しをしても問題はないのだが、日本の事情に慣れていると、どうにも日干ししたあの布団の感覚が恋しくなるのは確かだ。
バスの中の電光掲示板に新一の降りるバス停名が表示される。棒にあるストップボタンを一度押せば、リンと鈴の音が鳴った。すぐに新一の後ろの方からもリンと鈴の音が鳴る。子どもでもいるのだろうかと微笑ましく思っていれば、そのまま連打されたのかリンリンリンと音が響く。ロンドンのバスの降車ボタンは日本と違い、押すたびに鈴の音がなるのだが、こう続くこともない。やはり子どもか、と後ろをちらりと振り返ると、五つ後ろの席に見慣れた顔があった。目を見開けば、子どもはにんまり笑って停車したバスに合わせて立ち上がり、新一の隣をすたすたと通り過ぎる。慌てて新一もバスを降りれば、いたずら成功を喜んでいるらしい快斗がズボンのポケットに手を突っ込んで口角をあげていた。
「バーロ、なにリンリン鳴らしてんだよ」
「いやあ、疲れてるみたいだったから勇気の鈴をリンリンリンってな」
「……不思議な冒険真っ只中ではあるな」
「うまい」
石畳の歩道をふたり並んで歩き始める。ガス灯のオレンジ色の灯りが目に優しい。
「どこ行ってたんだよ、快斗」
「俺のホームズが気になる事件を一気に引き受けちゃったもんだから身体が足りねえみたいで? 代わりにハイドパークまで情報収集をちょっと」
新一の肩のあたりから快斗の視線が突き刺さる。うっ、と息を詰まらせると快斗の表情が崩れ、くくくと笑い出す。いたたまれなさに「悪かった」と言えば、快斗が「別に気にしてねえよ」と新一の背中をバシバシ叩いた。
ここ数日、新一は事件解決に奔走していた。ロンドンに引っ越してきて半年ほどたったが、引越ししたての頃、探偵事務所の看板を掲げる前に立て続けに事件に巻き込まれたのだ。快斗が呆れるレベルの巻き込まれ率だった。
引っ越した先のこちらではフラットと呼ばれる日本で言うところのマンションで、一応引っ越しの挨拶をと隣に挨拶に行けば隣人はご臨終。食材の買い出しにスーパーへ行けば銀行強盗と鉢合わせ。ちょっと市場に行ってみようかと足を向けてみればひったくりに遭遇。観光名所へ気まぐれに行ってみると爆弾事件。そして遭遇した事件を見事すべて解決した新一は、ロンドン警察や街の住人に「ホームズの生まれ変わりだ」と持て囃され、探偵事務所の看板を掲げずとも勝手に依頼が舞い込んでくるようになったのだ。
浮気調査は引き受けない。とにかく難事件。密室や不可思議な事件も好きらしい。そんな噂が広まり、おかげさまで新一の元に舞い込んでくるのは新一の探偵の本能を揺さぶってくるようなものばかりで。そしてなんだかんだお人好しの新一である。頼ってくる人間を無碍にはできず、他の人間でも大丈夫だろうという事件以外を引き受けていった結果、およそ三週間あまり快斗と住むフラットを空けることとなってしまったのだ。
その申し訳なさは間違いなくあって、快斗の反応に救われる。つまり現在、三週間ぶりの自宅への帰宅中、同居している恋人と偶然出会ったという状況なのだ。
「帰宅時間メールで貰って、被るかもなあって思ってたんだけどさ。まさかバスで見慣れたヘタ見るとは思わなかった」
「乗り込んだとき気づかなかったけど」
「一番後ろの席で眠ってたから。身体傾いてたし、座席で見えなかったんじゃねえかな」
「ああ、それで」
快斗のスニーカーと、新一の革靴の音が足元で響く。大通りを進み、ベイカー街二二一B番地の水色のプレートを通り過ぎ、路地裏へ入る。嘘みたいな話だが、快斗が出国前に株と宝くじを当てたためロンドンの市街地に住むことが出来た。そして引っ越してすぐにフラットの隣人の事件を解決したお礼にと管理会社に家賃を半額にしてもらったため、貯蓄までしつつ生活水準も日本にいたころと変わることなく過ごせている。有り難い話だ。
路地に入ったところに、ふたりが行きつけのパン屋がある。大通りと比べると人通りは少ないが、紅茶はもちろん、コーヒーも店内で飲めるそのパン屋は知る人ぞ知る有名店らしく、いつも賑わっている。快斗はこの店のベーグル、新一はクロワッサンのファンで、頻繁に購入しているのだ。また、紅茶がスタンダードなイギリスでこんな家から近いところで好みのコーヒーと出会えたことも嬉しい。
丁度閉店作業を終えたところらしく、店を営む夫婦がシャッターを下ろしている。その後ろ姿に挨拶をすると、奥さんが暗がりでもわかるほど表情を明るくした。
「ホームズにベイカーストリートイレギュラーズ! 今帰りなの?」
「うん、おばさんも今から?」
「そうなのよ。あ、いまサンドウィッチを持ってきてあげるわ。ちょっと待ってて」
「え、マジで? やった!」
イギリスなまりの英語に、見事になまりを合わせて快斗が話し、俺も行くよと奥さんのあとをついていった。
そのやりとりを吃驚しながら見るしかないのは新一だ。なんだこの状況。三週間前は顔を覚えてもらった程度だったのに。いや、ていうかベイカーストリートイレギュラーズって誰だ。ホームズは俺のことだろうけど、え、快斗か? 快斗なんだろうけど、え? ぐるぐると思考を巡らせていると、シャッターの鍵を閉めた店主が新一の隣に立って笑っていた。
「ホームズは出張だったらしいね」
「あ、そうなんです」
「君が出張に行ってからカイトが毎朝食べに来てくれてね。夫婦で嬉しいねと話していたんだ。ベーグルが好きと言うから一個おまけしてあげたりして……」
毎日メールしていたのに、その話は聞いていなかった。朝食はどうしたなんて話はさすがにしないか、と納得しつつあっという間に夫婦の懐に入ったらしい快斗に苦笑する。
「二週間前かな? ここ最近売り上げと焼いたパンの数が合わなくて、閉店後に今みたいにシャッターを下ろしながら話をしていたら、たまたま今みたいにカイトと会って話を聞かれてね。俺が解決してやるよと言うから、妻が面白がってベイカーストリートイレギュラーズねと。しかも見事に万引き犯を捕まえてくれたんだ。僕の妻はカイトにぞっこんさ」
「ハハ……」
ベイカーストリートイレギュラーズはホームズの小説の中に出てくる。情報収集や推理力に長けている子どもたちだ。ホームズが頼りにするほどの優秀さを持っている。
「ああ、悪く思わないでくれ。彼がみすぼらしい恰好をしているとかそういうわけではなく」
「いえ、そういう意味で苦笑したわけではないんです。快斗に面白い称号をつけて貰ってうれしいですよ」
店主が慌てて言うので、新一も慌てて弁解した。店主がほっとするので、新一も今度はちゃんと微笑んだ。
ベイカーストリートイレギュラーズの子どもたちはお世辞にも裕福な家の子どもには見えない。そのことで店主は新一が苦笑したと思ったらしいが、事実はそうではない。なにせ、快斗はベイカーストリートイレギュラーズでもなければ、ホームズの弟子でもない、平成のアルセーヌルパンだったのだから。新一が苦笑してしまうのもしょうがないのである。
旅の最初の土地にロンドンを選んだのは快斗だった。てっきりパリにでも行くんだろうと思っていた新一だったので、驚いて理由を聞けば「平成のホームズがロンドンで思う存分探偵やってんの見てみてえなって思って」なんて答えられた。そんなの、快斗は楽しいのだろうかと思ったのだが、快斗も快斗でしっかり楽しくやっているらしい。ちなみに学校は通信制に通っていると答えて誤魔化しているようだ。
正直、もっと閉鎖的な暮らしになるのかと思っていた。世界にふたりだけとでもいうような、そんな旅をするのかと。
でも、快斗も新一も人が好きだ。いろんなことに巻き込まれてきたし、汚く目を伏せたくなるようなことにも遭遇した。それでも、人が好きなのだ。閉鎖的になるはずがなかった。
「やべえ新一。晩飯用にサンドウィッチもらっただけじゃなくて、明日の朝用のパニーニまで貰っちまった」
店の裏側から出入りしたらしい奥さんと快斗が表に戻ってきた。紙袋を抱えてはしゃぐ様がどうにも微笑ましく、新一は噴き出してしまった。
「それだと、明日の朝食べに来れないんじゃねえのか」
「あ」
ハッとしたのは快斗だけでなく、快斗の後ろで喜ぶ快斗を見ていた奥さんも一緒だったようで、新一の隣に立っている店主も噴き出した。
「コーヒーをサービスしてあげるからパニーニ持ち込みで来たらいい」
そんな言葉も添えて笑い続ける店主に、またふたりが表情を明るくするので、新一も堪えることなく笑う。
いつまでロンドンに住めるかはわからないけれど、ギリギリまで住もう。そしてできる限り、毎朝このパン屋で朝食をとろう。そう新一が決めた瞬間だった。
二四一一
「新一、声変りが来そうだ」
そう言った快斗の声は、少し枯れていた。
ここ数日痰が絡んだり、声が不安定だった気がしていたが、どうやら声変り直後の症状だったらしい。言われてみれば喉仏も以前より目立っていない気がする。
「そうか、じゃあ次のところ考えるか」
引っ越した時から備えついていたソファに背もたれながら新一は言う。声変りについて、いつ来るだろうかとは思っていたが、快斗にいつ来たんだと聞くことはしなかった。
「……なんか新一、もっと寂しそうなっつーか、シリアスな雰囲気だすと思ってたんだけど」
「出してほしいなら出すけど」
「いや、別にいい」
はーっ、とため息をついた快斗は近所の紅茶店で買った茶葉で淹れたミルクティーを飲んでいる。いつもストレートを飲んでいるのだが、ミルクやはちみつを入れるとまた旨いことに気が付いて、ここ数日快斗が飲み続けているのだ。もしかしたら、喉のことを気にしていたのかもしれないと今更ながら気付いた。
「こう言ったらおめー怒るかもしんねーけどさ」
一応、言っておこうかな、と思い新一は口を開いた。快斗はなかなか自分の思っていることを相変わらず言わない。否、思っていることは言うのだが、肝心な事を言わないのだ。
もう癖なのかもしれないとも思う。父親を亡くしたときからの、怪盗キッドをしていたときからの。そう考えると、この癖は快斗の心に根付いてしまっているわけで、治るのはあまり見込めない。
「声変り前の快斗の声聞けるなんて、すげえ体験じゃねえか。ちょっと楽しみなんだよ」
ところが最近、新一が本音を話すと素直な反応が返ってきたり、本音がぽんと返ってきたりする。快斗の耳の淵がほんのりと赤に染まったので、今回は前者だったようだ。
「よし。じゃあ、次はパリにしようぜ」
気分を良くしながらさらっと言ってやれば、今度は目を見開いた。ポーカーフェイスが崩れるのを見られるのも楽しい。
このころの快斗は、怪盗キッドを通っていないのだ。マジックをしていたから、同世代と比べれば達者なものだが、それでも新一が出会った十七歳の快斗と比べれば、表情の豊かさは百倍くらい差があった。それが最近とてもかわいく感じるのだ。
「すっげー様式美って感じ……」
スーツケースをひとつずつで旅をしているふたりとしては、家具付きの物件は必須だ。多少お値段は高くなるが、パリもやはり満喫しようと市街地の家具付きのアパルトマンを借りた。パリのアパルトマンは日本のアパートでは考えられない美術品といってもいいほどの装飾が外装になされている。
「ロンドンで稼いだからこそ住める場所だな」
快斗がテーブルをひと撫でする。これも管理人直々に市場で買い付けたアンティークらしい。審美眼はたしかなふたりなので、良いモノだとすぐにわかった。そのことを考えれば、この賃貸の家賃は妥当だ。
スーツケースをとりあえずお互いのスペースに片付けて、このマンションに来る途中に買ってきたコーヒーメーカーに快斗が豆を突っ込んだ。豆を投入すると自動的に挽いてくれ、水を入れるとブラックコーヒーがポットに落ちる便利なコーヒーメーカーだ。
ロンドンを出ると、パン屋の夫妻に報告に行ったとき本当にふたりのことを惜しんでくれた。そして普段人に分けたりしない、お店のオリジナルブレンドを豆でプレゼントしてくれたのだ。当分パリでコーヒー豆を買う必要はない。
コーヒーメーカーや家具はすべて新しいものだ。ロンドンで買ったものはすべてロンドンに捨ててきた。持ってきたのは、夫婦にもらったコーヒー豆とスーツケースだけだ。
「……なあ、新一」
「……待て、俺も今気づいた」
ソファに腰かけたばかりの新一は、快斗が続けるだろう言葉を遮り、ゆっくりと立ち上がった。窓の外からは青空が広がっている。ロンドンと違い、気候は穏やかだ。日本の気候に近いが、梅雨時期はなくからっとしているらしい。
後頭部をぽりっと掻いてから、快斗を見やった。
「ついでに晩飯も調達してくる」
「頼んだ」
キッチンから苦笑いを浮かべた快斗が新一にひらひらと手を振る。歩いてすぐのところにスーパーがある。安くでマグカップもきっと買えるだろう。
パリでの生活が始まる。
二五一〇
とある通りで、猫のお面をつけた少年がシルクハットを持って立っていた。流暢なフランス語は時々ジョークを交えて、足を止めた人々に笑いをもたらす。
右手に持っているシルクハットの中身を観客へ向け、中になにもないことを確認させると、ついでとばかりに最前列でシルクハットを凝視していた幼女にもシルクハットの中に腕を突っ込ませて確認させた。
「あ、今日はラッキーな日だ」
そんな通行人の声が聞こえて、観客がひとり、またひとりと増えていく様を、街路樹の影から新一は眺めた。
シルクハットから盛大に花弁が舞い、そしてうさぎのぬいぐるみが現れる。歓声があがり、さっき協力してくれた幼女に新しくシルクハットから取り出した花束といっしょにぬいぐるみをプレゼントした瞬間、通りには拍手が溢れた。
シルクハットを地面に置けば、コインや紙幣が次々と投げ入れられる。見ていて清々しい。
猫のお面をつけた少年は両手を広げ、深々と頭を下げた。止まない拍手の中、広げた両手の指の間にピンクの手のひらサイズのボールがどこからともなく現れる。それを視認した新一は、街路樹の陰から歩き出した。今日の昼食はどの店にしようかなんて考えながら。
背後でポンと小さな音がして、風にのってピンクの煙幕がかすかに新一の前までやってきた。
「消えた!」
「すごい!」
後ろから聞こえる感動と驚愕の声に、こっそりと口元を緩ませながら歩道を進む。季節は長い秋に入っていた。
* * *
薄手のコートを着て丁度という季節だが、日中はまだ暖かい。テラス席に案内されても、気持ちよく食事できるくらいには。
昼時で店内の席が空いていなかったので案内された席だが、至って問題ない。むしろ好都合だ。
「あ、新一」
トートバッグを持った少年が通りがかり、ぴたりと椅子に座った新一の前で止まった。身長約一四五センチ程になった、パーカー姿の快斗である。
「おう、お疲れラッキーキャット」
「……それ新一に言われるとなあ。見てたのか」
「ああ、たまたまな」
「依頼は?」
「終わった。で、おめーがこのあたり通ったらいいなって思って待ってた」
「ヒュー、相変わらずキザだな」
「小さな女の子に花束とぬいぐるみやって恋されちゃうヤツには負けるぜ」
「るせー」
軽口を叩き合いながら、快斗がテーブルを挟んで新一の正面に座った。メニュー表を渡せば、トートバッグを地面に無造作に置いて受け取るものだから苦笑せざるを得ない。
新一の表情の変化に気付いたらしい快斗がメニュー表から顔を上げる。テーブルに立てながら見ているせいで、顔が隠れてしまっているのだ。
「いや、そんな小さなバッグの中にあんな小道具が入ってるとは誰も思わねえよなって、改めて」
肩をすくめてそう言ってやれば、快斗がふっと笑う。挑発的なその笑みは、幼い外見から見事に怪盗の気配を滲ませるもので、アンバランスなその様子にゾクリとした。
パリに来て、ロンドンと同じような感じでまた探偵として口コミだけでやっていけるようになった新一だ。快斗もロンドンの時と同じように、新一の探偵の手伝いをしていたのだが、ロンドンのときよりも要領を掴んだらしく新一が頼んだことを効率的に行うものだから、空き時間が出来るようになってしまったらしい。快斗は家でぐうたらする性分でもない。そこで新一が提案したのだ。ストリートマジックでもしたらどうだと。
「パリの北部は大道芸人で溢れてるだろ。その中に子どもが混じってたって別に大丈夫だろ。身バレが嫌なら仮面でもなんでもつけてやりゃ問題なさそうだし」
人前ですれば話題になり、下手すれば動画サイトに投稿される可能性が出てくる。動画サイトに載れば、自然とこの少年は誰だという話になるに違いない。過大評価ではなく、正当な評価であり、予測だった。新一ですらそういうことを考えていたのだから、快斗もそうだったのだろう。ピカデリーサーカスで有名なロンドンで快斗はマジックを全くしなかった。なにせ幼い身体になっても腕はプロ級なのだから。
しかし、フラットで快斗が手遊びのようにボールを消しては現し、増やしては減らし。トランプを生き物のように操っているのを新一はいつも見ていた。マジックをやりたいのだ。日本で新一の家にいるときから、人前で快斗はマジックをしていない。人に見られてこそ、マジックは成立するというのに。
新一の言葉は快斗の中で予想されていなかったものだったらしい。目を真ん丸く開いた快斗は「仮面……」とぽつりとつぶやいた。盲点だったとでもいうようなその音色に、新一は眉尻を下げて優しく微笑んだ。
それからほどなくして、パリの大道芸人が多く集う通りに、猫のお面を被った少年マジシャンが現れるようになった。ふらっと現れ、その場を沸かせ、ふらっと去る。プロ級の腕前を持つ少年はおそらく髪色から東洋人だが、お面のせいでまったく顔がわからない。現れ方があまりにも規則性がないため、次第に「ラッキーキャット」と呼ばれるようになり、見ることが出来たらその日いいことが起きるなんて都市伝説みたいな話までついた。
もちろんラッキーキャットの正体は快斗だ。快斗は新一にストリートマジックを始めたことも、その日ゲリラショーをやるかやらないかも全く知らせてこなかった。だからパリ警察の女性警察官が「ラッキーキャットをさっき見たの」と嬉しそうに話しているのを聞いて、まてまてもしかしなくてもそれは、と詳しくと詰め寄ったのだ。
その日の晩は「なんで教えてくれなかったんだ」「別に教えろとか言われてねえし」と喧嘩になった。次の日の晩まで口を利かなかったのだが、快斗が先に折れた。項垂れながら「なんか妙に照れて……ごめん」と言う、幼い姿の快斗にすぐさま新一は謝り返した。その容姿で項垂れると、こちらが悪いことをした気になる。
しかしその日以降も快斗はゲリラショーを開催する日を新一に知らせたりしなかった。
「たまたま見つけたほうが楽しいだろ」
そんな理由で。追いかけっこのような、かくれんぼのようななそれに心が躍ったのも確かだったが、それよりも快斗のマジックを久しぶりに見たいという気持ちの方が強かった。探偵の情報収集能力をフルで使い、一週間後にやっと見つけたラッキーキャットのゲリラショーは酷く嬉しくて、楽しくて、出来た人垣の後ろの方から背伸びをして眺めたほどだ。
「新一は注文したのか?」
「あ、まだ」
「どれにすんの」
「ラザニア」
「俺も」
快斗の声に数か月前の記憶から引き戻される。店員を呼び、快斗が注文するのを見守る。店員に「しっかりしているわね」と褒められた快斗はまんざらでもなさそうで、新一は息を吐いた。
「おめーなあ」
「おめーだってちっこいとき色々得してただろ」
「……否定はしない」
渋い顔を作ると、快斗がケケケと笑い声をあげた。店内の込み具合から、料理の提供まで時間がかかるかもしれないなと考えながら、新一は快斗に向き直る。当の快斗はまだメニュー表を眺めていた。
「注文し忘れか?」
「いや、どれもちゃんとうまそうだなって……しみじみと」
快斗のげんなりした口ぶりから、ロンドンのことを言っていることがすぐにわかった。
「パン屋の飯はうまかったけど、基本的に他の店って飯うまくなかったもんな……」
「ああ、信用できるのはパンとパスタだけだった」
「言えてる」
秋の風が通りを吹き抜ける。快斗の柔らかい黒髪を揺らして、奥へ。メニュー表をまた眺め始めた、あどけない表情をこの街で知っているのは自分だけなんだなと思うと、冷たくなった風の温度さえ気にならなかった。
二六〇九
快斗が帰ってこない。スマートフォンを見ながら、新一はため息をついた。
ラッキーキャット出現の情報は本日の昼過ぎで、以降の消息は掴めない。時刻は二十時半。この時間まで、九歳の身体となった快斗が街中をうろついていれば、警察に補導されたりすることもあるだろう。そういう時、新一の連絡先を言わないだろう快斗が時間を食っている可能性もある。その場合は笑い飛ばしてやろうと思うのだが。
――何もなければいいのだ。何も。
しかし、ラッキーキャットの出現情報の位置が少し引っかかっている。この出現情報が治安のあまりよろしくない場所だったからだ。パリは治安にムラがある。
こういう時の、新一の勘はやけに当たる。もう一度ため息をついて、部屋の暖房を切った。季節は冬。かなり冷え込んだ夜のことだ。
ハンガーにかけていたコートをいつもよりも乱雑に取り、玄関へ向かう。部屋を出る前にもう一度スマートフォンの画面を見た。快斗からの連絡は、入っていない。
* * *
「おめーが有り難いことに子ども扱いしないから、すっかり忘れてたんだよなあ」
新一の背中にある重みとぬくもりに安堵を覚え、同時に一緒に切なさがこみ上げた。
ラッキーキャットの目撃情報があった場所に向かった新一は、やはり見当たらない快斗の姿に厳しい表情をしながらあたりを見回した。なにかヒントはないだろうか、と。探偵のスキルをここで発揮せずいつ発揮しろというのか。
そして見つけたのは、快斗がマジックで使っている紙吹雪の欠片。片付けやすいように風で飛ばされないよう快斗が特殊加工している紙だ。色とりどりの紙が、十メートル間隔くらいで歩道に落ちていた。
見落とさないように通行人を避けながら新一は歩道を進んだ。大通りの歩道で、赤い紙を見つけて次の紙は、と探すが見当たらない。どうしたものか、と顎に手を当てたとき、細い路地がふと目に入る。
建物の壁沿いに、見覚えのあるスマートフォンが落ちている事に新一が気付けたのは、そしてそのスマートフォンが新一以外の誰にも気付かれていなかったのは不幸中の幸いだった。
すぐに路地に駆け寄り、スマートフォンを拾い上げ快斗のものだと確認した。壁に手を置き、薄暗い路地を進んで行く。
およそ二十メートル程進んだところで行き止まりになった。奥の通りの建物が行く手を阻んでいるのだ。進めていた足を止め、腕時計のライトを照らしてあたりを見回す。暗かったため気付かなかったが、二歩程手前にかなり細い隙間があった。子どもひとりが服を汚しながらなら、入れる程度の。
そっとライトを照らしてみる。排水パイプの向こう側に、黒髪が見えた。
「快斗」
「あ、新一か。よかった。ちょっと手伝ってくんね? 出られなくて」
暗くて表情は見えないが、声が元気そうで安心した。
「なにやってんだこんなとこで……出られないって、」
「足くじいちまってさー、動けないんだよ」
「は?」
「ちょっと引きずってでもいいから引っ張り出してくれ」
「……文句言うなよ」
お互い腕を伸ばし合えば丁度手を掴める距離だ。
ぺたりと地面に座り込んでいるらしい快斗に向かって腕を伸ばすと、指先をぐっとつかまれる。そのままおもいきり引っ張るとずるずると快斗が這い出てきた。コンクリート打ちっぱなしの地面は酷く冷たいだろうに、その上をずるずると。
「おめー……」
そして出てきた姿にぎょっとする。顔はいま出来た汚れだけじゃない汚れがあるし、唇の右端が切れ腫れていた。
「理由きく?」
「おめーが喋るの嫌じゃなければな」
壁に背もたれさせて、しゃがみこみ、快斗の足を時計のライトで照らして、確認する。触れてみるとかなり熱を持っていた。
「これ今から腫れるぞ」
確かにこれは痛みで動けないだろう。九歳の身体で痛みに耐性があるほうがおかしいのだ。もちろん、十七歳でもなのだが、それは置いておいて。
「まことに情けないんだけど」
「ほれ」
「あー、さすが。以心伝心ってやつかな」
「バーロ、誰だって考えつくだろ」
おずおずと、しかしへらっと笑って新一を見上げた快斗にしゃがんだまま背中を向けると、遠慮気味に首に腕を回された。その腕をぐっと引っ張り、身体を前にして背中に乗った快斗の臀部を支えながら立ち上がった。所謂、おんぶである。そのまま歩き始めると、快斗もおんぶされる要領を掴んだのか、重みが少し和らいだ。完全に脱力されると人間は重いが、そもそも九歳の身体で、しかも背負いやすいようにバランスをとっているのだ。かなり軽い。
「バーロ、力抜いてろよ」
「いやー、おんぶされるとか何年振りだろうな」
「知らねえよ……で、状況説明は?」
先程忍ばせていた足音を気にせず鳴らし、新一は路地を進む。大通りの灯りが近くなり、やっと大通りに出た。
バスもまだ走っているが、タクシーでも捕まえるのが一番だろう。快斗の足に負担をかけたくない。背負っている快斗が「うーん」と唸り声を発した。
「言いにくいのか?」
「そういうわけじゃねえんだけど……まあ、簡潔に説明すると、ゲリラショーをいつもの大通りでやろうとしたところに、以前ショーに来てくれた女の子が、あっちの通りでやってってお願いしてきてさ……まあ、別にこだわってねえしいっかと思ってショーやって。んで、人垣が消えてからいつも通り簡単に清掃してたら、こわーいお顔のお兄さんたちにからまれまして」
「まじかよ」
「大マジ。かわいい快斗くんのナンパかって思ったんだけど……」
首筋に快斗の息がかかった。ため息をついたらしい。
「お前がラッキーキャットだなってテレビ出演を打診された」
「……打診ねえ?」
「……脅しかな?」
「はぁ……」
おどけたように言う快斗に、自分の肩越しにぎろりと視線を投げればへらっと笑ってそんなことを言うものだから、新一は肩を落とした。
「……女の子は?」
「まあ、脅されてたか、お小遣いもらって俺にお願いしてこいって言われたのかもな。俺のこと呼んだ理由も言わなかったし、ショーの最中に姿も見えなかったから。足が治ったら無事かどうか確認のために探そうとは思ってるけど」
「バーロ、そんくれえ俺が探しといてやる」
「さすが名探偵」
「で?」
なかなかタクシーが見当たらず、とりあえず大通りを自宅の方角へ歩き出した。途中でタクシーを捕まえればいい。
「結果、怒らせちまってよー。上手い事逃げたはいいけど、追いかけられるし、相手の足ははえーし、一回捕まって大人しくしろって殴られるし、逃げてる最中におばあさん避けたら足ひねっちまうし……まあ、逃げ切ってあの路地に入ったんだけど」
そんなことだろうとは思ったが、やはり聞いていて気分のいいものではなかった。落ちた肩がなかなか上がってくれない。新一の気分が落ちていることを察して快斗が飄々と話すのだから、さっさと浮上させなければならないのだけれど、それでもそのこわいお兄さんとやらをどう見つけ出すか考えてしまう。
「スマホ落としたし、足もやっちまったし、どうしようもなくてさ。紙吹雪落としといたし、新一こねーかなー。来たらラッキーだなーって思ってたら」
すっと小さく息が吸い込まれる。
「きた」
肩にあごをぐりぐりとしてくる快斗を、新一は黙って背負いなおした。
照れ隠しだろうか。甘えているんだろうか。そんなことを考えれば、簡単に気分が浮上してきた。我ながら単純だ。でも、普段頼ってこない恋人が、こんな状況になっても大抵ひとりでなんでもこなしてしまう快斗が、こんなことを言ってくるのだ。不謹慎であるとわかっているが、険しい顔をつくっていた顔の筋肉が緩んでいく気がした。
大通りを車が通り過ぎていく。ヘッドライトの光の波を横目で見ながら、新一は歩き続けた。しばらく無言だった。
「……おめーが有り難いことに子ども扱いしないから、すっかり忘れてたんだよなあ」
そこに落とされた、独り言みたいな呟き。
「いま、俺は見た目も、身体能力も九歳だってこと」
否、独り言なのだろう。きっと話す気なんてなかった快斗の気持ちだ。意識は新一と同じ年でも、身体年齢やおそらくストレス耐性だって九歳レベルで。
「情けねえなあ」
だからこそ零れてしまった本音だったに違いない。
タクシーは見当たらない。もう少し歩けば交差点に行き当たる。そこにいけば、タクシーは拾えるだろうか。
「……おめー、江戸川コナンがしくじっては危険を回避してたの知ってるだろ」
そんなことを考えながら、新一は声を発した。はっきりと。しっかり後ろの快斗に届いたらしい声に、快斗も反応を返す。
「危ない橋渡って?」
「ああ……それ、情けないって思ったか?」
「まさか」
間髪入れず快斗が言うので、新一は鼻から息を漏らし小さく笑った。当たり前、というかそれ以前の問題だったらしい。考えたこともなかったような、何を言っているんだお前はというような、そんな音色だった。
「江戸川コナンも一人で何とかしようとして、危ない目にあって、でもなんとか回避して……で、周りにサポートしてもらってた」
コツコツと石畳を進む。交差点が近くなって、街並みの雰囲気も変わってきた。治安が悪いエリアを抜けるのだ。
「だから、おめーは情けなくなんかねえよ」
後ろから首に回されていた腕にぐっと力が入ったのが分かった。肩口に額を擦り付けられる。ふわふわの髪の毛が頬にあたってくすぐったかった。
二七〇八
新一の目の前には数字が見えないカードが五枚。ババ抜きのように快斗がトランプを右手に持ち、新一へ向かい突き出している。
「はやく引けよ」
「いや、でも俺の引いた一枚で次の行き先が決まるんだぜ?」
「そうだよ。だからはやく」
ぐっと前に出されて、新一も腹を括った。
こんなタイミングでパリを出るつもりはなかったのだが、昨年の冬に、快斗が追いかけられた男たちがまた快斗を探しているという情報を新一が掴んだのだ。捕まえて警察に突き出すには、快斗の証言が必要になってくる。
無事だったし別にいいかなという快斗を無視して、せめてお灸を据えさせろと社会的に痛い制裁をこっそり加えたのは新一だけの秘密だ。以降も念のため定期的に動向を探っていたところの情報だった。
というわけで、快斗の誕生日を迎えた後、パリを出ることにしたのだ。とくに次に行きたいという土地が思い浮かばず、快斗がクジにしようと言い出したのはついさっきの事。
先に新一が持っていた六枚のトランプのカードを快斗が引き、次に快斗から新一が残りのカードを引く。快斗の引いたカードよりも新一が大きな数字を引けばカナダ。小さな数字を引けばアメリカ。同じ数字だった場合はタイ。というわけで、タネも仕掛けもない状態でいまふたりはベッドの上でカードを引き合っている。
無言で新一が手を伸ばす。綺麗に扇状になったカードを、一枚、人差し指と親指を使いつまみ上げる。そのままカードの数字を見ることなく、ふたりの間にあるシーツの上に、新一はぱさりとカードを置いた。
現れた数字はスペイドのジャック。そのトランプの隣にある快斗が先にひいたカードは、クローバーのエースだった。
「カナダか」
「いいじゃん、オーロラみようぜ」
「え、さみい」
「ううわ、相変わらず情緒ねえな新一」
ぶうたれながらさっさとトランプを片付け始める快斗に苦笑して、新一は肩の力を抜いた。蓄えは十分にある。
明日起きたら、イエローナイフの物件探しの始まりだ。
二八〇七
「俺さ、賢いじゃん」
テントを張って、ランタンの光に照らされる中、持ってきたアウトドア用のミニチェアに腰かけた快斗が言った。足元はムートンブーツ。防寒対策のコートは新一とサイズ違いのモッズコートだ。
ココアにマシュマロをいれたサーモマグを、手袋をはめたまま快斗に渡し、新一もミニチェアに腰を下ろす。横並びになって座ったふたりのまわりは森だ。そのため外灯はなく、ランタンの灯り以外なにもない。だが、野生の動物の声は聞こえてくる。
「否定はしない」
一口ココアを飲み込んでから、そう答えてやれば「素直に認めろよ」と快斗が文句をつけた。
「で、本題は?」
唇を尖らせながら、新一と同じく手袋をつけっぱなしでサーモマグを両手で持つ快斗にそう尋ねてやると、うーんと唸った。そして口を開く。
「いままで一応考えてたんだ。お前が江戸川コナンになったときみたいに、脳に入ってる知識は消えてない。そもそも体格の若齢化にともない身体能力が低下しているだけで、脳は若返っていっているわけではないのか、それとも、脳も若齢化が進んでいるけど、記憶としてこれまでの生活を記録しているため、今の俺でいられるのか」
湯気がたつココアに、ふうふうと快斗が息を吹きかける。そんなことせずともこの気温だ。すぐ冷めてしまうだろうに。それでも、新一もなんとなく、快斗と一緒に自分のココアに息を吹きかけた。足元で土がじゃり、と音を鳴らす。
「記憶として残っているなら、どこかのタイミングで元々の容量から小さくなっている脳がキャパオーバー起こして、エラー発生しちまうんじゃねえかなって思ってさ。だんだん思い出を忘れるのかもしれないし、スイッチが切れたように一度に忘れるのかもしれない」
静かな、落ち着いた声だった。
「きっとそうなったら、俺は俺だけど、俺じゃなくなるんだろうな」
風はない。見上げた夜空には星が輝いている。何も言えないまま、新一はココアの二口目を口に含んだ。やはりそれは冷えていて、ぬるくなっている。
遠くの空に、青白い線が浮かび上がるのを見つけた。
「あ」
隣から、快斗の声が漏れる。
青白い線は、どんどん大きく、そして距離をのばし、遮る物のない夜空全体にカーテンを広げ、裾をゆらゆらと動かし始めた。星空が透けて見える。ふたりとも息を呑んだ。
イエローナイフに住むのは現実的でないと、結局利便性を考えバンクーバーに引っ越した。三か国目の新居は今までの蓄えがあるので一番家賃が高いものになった。
探偵の仕事もはじめてカナダに慣れて、数か月。冬季に差し掛かり、快斗がそろそろイエローナイフに行こうと言った。
アウトドア用品一式をそろえる最中、スポーツショップの店主に観光客がこない穴場のオーロラ観測スポットを教えてもらった。大正解だったなと、空を見上げながら新一はぼんやりと思う。
「俺は」
自然とぽつりと言葉が漏れた。
「どんな快斗であっても、一緒にいたいと思うよ」
夜空のカーテンが揺れる中、快斗の肩も小さく震えた。寒さのせいか、それとも。
「……忘れたくねえなあ」
かすかにひきつった声に、気づかないふりをしようとして、でも上手くできず、新一は少しだけミニチェアの位置をずらし、快斗との距離を縮めた。
夜空に広がるカーテンは広がり続け、ふたりの頭上さえも覆っていた。
二九〇六
誕生日を祝いたいとずっと思っているのだが、毎年なぜか依頼が入る。毎年毎年入るものだから、快斗が仕組んでいるのではないかと思う程だ。新一の誕生日は馬鹿みたいに盛大に祝う癖に、自分の誕生日は気にすんなと快斗は言う。
(……まあ、若返っていってるから、祝われることが複雑な気持ちになるのはわかるけど)
それでも、快斗がこの世に生まれたことを祝いたいと、新一は毎年思っているわけで。……まあ、依頼で祝えないのだけれど。
そんなこんなで、快斗と付き合うことになって以降、大学一年生の時こそ祝ったが、若返りが発覚してから十年近くまともに新一は快斗の誕生日を祝わせてもらっていないのだ。
六月二十一日。案の定、探偵の依頼が入り、顔見知りの刑事に「今日は気迫がすごい」と言われるほどの勢いで新一は事件を解決した。
「ただいま!」
がちゃりと玄関を開け放ち部屋に上がれば、リビングのソファに足を伸ばして座り、腿の上でノートパソコンのキーボードを叩いていたらしい快斗が目を丸くした。
「へ? どうした? 捜査協力は?」
「終わらせてきた」
「マジかよ、家出てったの二時間ちょっと前じゃなかったか」
壁に掛けてある時計を快斗がびっくり顔のまま見上げる。白い壁にかかった壁時計の針は午後五時を指していて、新一は手に持っていたビニール袋をキッチンカウンターにどさりと置いた。
「何買って来たんだ?」
ソファから立ち上がらず、快斗が視線を投げてくるので、新一はニッと口角をあげて笑顔を見せてやった。
「今からケーキ焼いてやるから、待っとけ」
「マジでどうしたんだよ新一」
「祝われたくないんなら、せめて一緒にケーキくらい食いてえなって思って」
眉間に皺を寄せた快斗にそう言ってやると、快斗の眉尻がへにゃりと下がった。主語はなくとも、すぐに誕生日のことを言っているとわかったのだろう。
ビニール袋からガサガサとチョコレートや小麦粉、ケーキ型などを取り出し、調理台に置いていく。はかりを買うのも忘れなかった。お菓子はグラム単位で左右される繊細なものだと、ロンドンのパン屋の夫妻がシュークリームを分けてくれた時に言っていたからだ。
「作れんの?」
「レシピ通りに作るから安心しろ」
「いや、まあ、うーん」
ソファの上で快斗の足がもぞりと動く。
「……じゃあ、俺も作る」
なにか言いたいことがいっぱいあるが、言葉にするか悩み、きっと一言に集約したのだろう。それがひしひしと伝わってきて、新一は手を洗う水の冷たさで緩んだ表情を引き締めることにした。失礼な言葉も含まれていそうだが、それは気にしないことにする。
あえてプレゼントを形の残らないものにしたのは、快斗がきっと嫌がると思ったからだった。
新一だって、思い出があればいい。もし消えてしまう快斗の記憶になったとしても。
快斗がおずおずとソファから立ち上がり、新一の横に並んだ。身長差はもう四〇センチ程開いている。
「……調理台、高いんじゃねえか」
思ったままのことを言えば、げしりと脛を蹴られ、痛みで低い声が出た。機嫌を損ねてしまっただろうか、と思いつつ横目で快斗の表情を伺えば、予想に反して満面の笑みだった。ぶすくれていると思ったのだが、どういうことだ。
正しく新一の疑問が伝わったらしい快斗が、新一を見上げながら腕まくりをする。慣れた仕草は、日ごろ料理を作ってくれているからこそのもの。
「はじめての共同作業です、ってな」
にかっと笑った快斗の笑顔があまりにも心臓をゆさぶり、新一は衝動のまま、その小さくなった体に抱き着いた。ぐえっとかわいい姿に似つかわしくない声が聞こえたのは、ご愛嬌である。
三〇〇五
事務作業をする新一の横を行ったり来たりしながら快斗が朝から忙しなく動いていた。新一が朝から部屋にいるのは久しぶりで、だから快斗が家事をしているのを見るのも久しぶりだった。
掃除機をかけ、乾燥機にかけた洗濯物をたたみ、クローゼットへ片付ける五歳児の姿は、非常に可愛くはあるのだが、やはり大変そうだった。新一のカッターシャツを持ち運ぶときなど裾が床につきそうだ。
この頃快斗は家を出なくなった。買い物も新一と一緒に買い出しに行くようになった。買い物をする量が、快斗の持てる量を超えてしまったからだ。
現在ふたりの身体的年齢差は二十五歳。快斗に家事を全面的に任せるのはそろそろ酷――否、限界に思えた。一昨年くらいからそれは少しずつ感じていたのだが、どうやら楽しんで家事をやっているらしい快斗に家事分担をしようかと提案するのは憚られていたのだ。
パソコンのキーボードを叩く手を止める。リビングで畳んだバスタオルを片付けに脱衣所へ快斗が入っていった。リビングにはまだ畳み終わった洗濯物がたくさん残っている。この洗濯物を片付け終わるまでに、快斗は家の中を何往復するのだろうか。
「快斗ー」
「んー?」
名前を呼べば、脱衣所から姿を見せないまま快斗の声が聞こえた。
「昼飯の準備ってしてるか?」
「いや、まだ。もう腹減った?」
随分と高くなった声が廊下を通って新一に届く。つい一時間前に快斗が作ったサンドウィッチを食べたばかりだ。まだ空腹は感じていない。そのサンドウィッチを作るときも、いつの間に買ってきたのか踏み台を使って作っていたなとぼんやりと思う。
「そうじゃなくて、昼飯外に食いに行かないか」
「お、いいな。メープルシロップのところ行こうぜ」
「パンケーキの? あそこ混むし早めに出るか」
タオルを片付けたらしい快斗がリビングへ戻ってくる。壁にかけている時計を見るとオープンまで十分程。いまから向かえば待ち時間なしで入れるだろう。
新一はパソコンの作業を保存し、そしてシャットダウンした。パソコンデスクから立ち上がり、快斗が持ち切れなかった洗濯物を持って一緒に片付け始めた。きっと快斗があと三回は行ったり来たりしなければならなかった量を、一度で片付ける。
「お、気が利く」
「いつも気利いてるだろ」
「……いつも?」
「おい」
「うそうそ。サンキュ」
新一を見上げながら快斗がケケケと笑う。もう快斗の身長は『江戸川コナン』よりも低い。
* * *
基本的にふたりは別々のベッドで眠りにつく。しかしその夜、快斗が新一のベッドにもぐりこんできた。珍しいこともあるもんだと小さな体を背中から抱え込んだ。
おとなしく抱え込まれた快斗に「どうした」と尋ねた。想像以上に優しい声が、新一の口から出ていた。
「……語彙がさ、段々減ってきてる気がするんだよなあ」
ぽつりと快斗が零した。
テレビもない、静かな寝室だ。新一は快斗を抱え込んだまま掛布団をかけなおす。快斗の肩口までしっかりと。
「他にもさ。作業してるとき、特定の方法をとれば作業効率がよくなるのもわかってるのに、その特定の方法が思い浮かばなかったり……明らかに知識量も減ってる」
自然と快斗を抱きしめる腕に力が入った。快斗のふわふわの髪に鼻をうずめる。新一と同じシャンプーの匂いだ。ずっと一緒に住んでいるのだから当たり前なのだけれど。
「前言ってた脳のキャパオーバーが、始まったんだと、思う」
快斗の腹に回していた新一の手に、快斗の手が重なった。ここ最近子ども体温になったのか快斗の体温は新一よりも高めだ。
「俺は、いつ新一のことを恋人だと把握できなくなるのか……それが、何よりも怖い」
だというのに、重なった手はとても、冷たかった。
「恋人として新一のこと好きって言えなくなるんだ」
きっと快斗じゃなければ、この年齢までこんなにしっかりとした、十七歳以降の記憶を保持したまま暮らすことはできなかっただろう。快斗自身も言っていたが、快斗が賢かったから、新一はこれまで『過ごしてきた記憶をもった快斗』と接することが出来たのだ。
「……おめーが俺のことを恋人だとわからなくなっても、俺はわかってる。おめーが好きだと言えなくなっても、俺は言える。それでも不服なら、聞き貯めしといてやるから、言える内に腐るほど言えばいいんじゃないか」
快斗の小さな肩に後ろから顎をのせて、はっきりと言った。
「腐らせたりなんかしねえけどな」
自分自身への誓いのような。そんなものにも聞こえるそれは、新一自身、快斗がオーロラを見ながら言ったあの日からずっと考えていたことだ。
きっと快斗は忘れてしまうだろう。でも、新一はずっと覚えている。何歳の快斗だって、新一の恋人で。なにもかも忘れた快斗だって新一の恋人だ。
新一の手に重なる快斗の手に、温度が篭る。小さく震えながら、握り込むことすらできない手は、新一の手の甲をきゅっと掴んだ。
「……つーか、おめーはっきりと好きって俺に言ったの告白以降ねえからな」
すこし不機嫌さを滲ませながら言った。場の雰囲気を払拭するつもりもなく言ったのだが、予期せずそれは快斗の気を引く事に成功したらしい。潤んだ瞳のまま新一を振り向き、ぽかんと口を開ける。
「は? 嘘だ」
「嘘つくかよ、こんなこと」
「えー……いや、でもたしかに……いつも思ってるから口に出してるつもりだった」
「おい、いきなり爆弾放りこんで来るな」
萌えるってこういうことだよな、と思いながら快斗に文句を言うと、快斗も眉間に皺を寄せた。
「新一だって、俺にはっきり好きって言ったことねえぞ。告白の返事だって『俺も』だけだったし」
「え? 本当に?」
「嘘つくかよ、こんなこと」
「……いつも思ってるんだけどな」
「はい、爆弾」
くすくすと笑い始めた快斗が新一の腕の中で体をひねる。
正面から向き合い、ぎゅっと抱きしめれば身体が密着した。隙間なく引っ付き合うと、なんとも心が満たされる気がする。鼻をすする音が胸元でして、心の中で二回目だな、と思った。
「あー……畜生、涙腺まで緩んでやがる。感情のコントロールができねー」
「いつかおめーのポーカーフェイスを崩したいと思ってたんだよ。感情むき出しの快斗なんて新鮮だな」
狭くなった額にかかる前髪を流し、唇を落した。途端に快斗の頬が朱に染まる。
「っっとキザだな!」
小さな拳にぽすぽすと腹を殴られ、新一は笑った。
その晩、ふたりは抱き合ったまま、いろんな話をした。怪盗キッドと江戸川コナンとして接していた時のこと。ふたりが再会したときのこと。ロンドンのこと。パリのこと。
「なあ、快斗」
「おめーいつ俺に惚れた?」
「そういうの聞くの恥ずかしくね?」
「ほらほら」
「あー……確保されたとき」
「……確保?」
「はいはい、俺はこれで終わり!」
わーっと頬を染めて、快斗は話題を新一に「そっちはどうなんだよ」と振り返した。あっさりと「いつのまにか」と答えると、小さく舌打ちをされた。不服だ。
そうやって、朝焼けが見える時間までふたりは話し続け、次の日は昼過ぎまで惰眠を貪ったのだった。
三一〇四
好きの爆弾を投げ合ったあの日から、元々少ないわけではなかったスキンシップが多くなった。
スーパーからの帰り道、快斗から新一の手を握ってきて、新一もそっと握り返した。もうすぐ夕暮れだ。肌寒さが強くなるのと比例して地面の影が伸びる。歩道を歩くふたつの影は真ん中でつながっていて、胸の奥がほんのり熱くなった。
「新一、そういや柔軟剤切れかけてる」
「じゃあドラッグストア寄るか」
快斗の声はずいぶんと幼いものになった。口調も一般的な四歳児と比べれば流暢に喋るが、それでもやはり十七歳のしゃべりを知っているだけに――あの月下の奇術師を知っているだけに、たどたどしく感じる。
手を繋いだままぶんぶんと快斗が腕を振るので、新一は腕に力を込めて腕を振るのを止めようとした。快斗が負けじと動かそうとするので、空中で腕相撲状態だ。しかも、ふたりしてポーカーフェイスを貫いているため、すれ違う人間にはわからない空中腕相撲。
自動ドアが開き、手をつないだままふたりはドラッグストアに入った。腰の曲がった老夫婦とすれ違う。にこやかに老夫婦に微笑まれ、新一は軽く会釈した。
「素敵な親子ね」
夫人の声が背中で聞こえた。自動ドアが閉まった。もう店内に老夫婦は残っていない。
「ところがどっこい、恋人なんだなあ」
快斗がにんまり笑って新一を見上げるものだから、新一もつられてくくっと息を詰めながら笑った。
「愛してるぜ、快斗」
腰をかがめて耳元でこそっと言ってやると、間髪入れず胸倉をつかまれ、かがんだ体勢を強制的に維持させされた。そして同じように耳元で紡がれる愛の言葉。
「バーロ、俺のが愛してる」
毎日言い合っている「大好き」に「愛してる」は、ありがたみが薄れることもなく、言う度に気持ちが膨らんでいく。
店内に流れる安っぽいBGMを片隅に、ふたりは笑いあった。世界の中心は、いま、ここだった。
三二〇三
効果音をつけるのであれば「ずーん……」だろうか。
項垂れながら新一の後ろに立っている快斗はなんとも珍しい。レアだ。かなり遡るならば、おそらく一度見た事がある。あの時の原因は何だっただろうか。多分、冷凍庫にとっていた快斗のチョコアイスを新一が勝手に食べたとか、そういうことだった。
「つらい……」
ゴウン、と低い音を鳴らして止まった洗濯機から、乾燥機へ洗い立てのシーツを移動させていると、この世の負の感情をすべて背負ったような声が背中から聞こえて、新一はついに噴き出した。なにせ快斗の見た目は現在三歳児。その三歳児が項垂れながら「つらい」だなんて、かわいすぎるだろうと思うのだ。外見とのミスマッチが酷い。
「しょうがねえだろ、その身体なんだから」
今朝目覚めると、快斗が真っ青な顔でベッド脇に立っていた。どうしたのかと慌てて起き上がれば、手にほんのりと冷たい感覚。そこで新一はすべてを察した。気にすんな、と快斗に言ってすぐにシーツをベッドから剥がし、脱衣所へ。そしてシーツを洗濯機にぶち込んだ。そう、おねしょである。
とぼとぼと新一の後ろをついてきた快斗は、新一が脱衣所を出ようとしてもそこから動かず、ひとりになりたいだろうかと思い、新一には計り知れないショックを受けている快斗を置いてリビングへ移動した。二十分後、そろそろ洗濯が終わるなと思い戻ってきたら、先ほどと全く変わらない位置にいる快斗の姿。とりあえず快斗が自発的に動くまで放置だ、と後回しにして作業をしていると、やっと聞こえた声が「つらい」である。
乾燥機の扉を閉め、ボタン操作をしていると新一の太腿にぽすんと快斗が抱き着いてきた。手を止めて見下ろすと、ぐりぐりと額を新一の太腿に押し付けながら、短くなった腕でしがみついてくる。
「ほんとごめん……ありがと、あいしてる……」
たどたどしく必死に伝えられた言葉は太腿に吸収され、くぐもっていたが、それでもちゃんと新一に届いた。
ショックだろう。中身の精神年齢は新一と同じ年だというのに、おねしょをしても自分で片付けられず、恋人に片付けてもらうなんて。それでもちゃんと言葉の最後に愛してると言ってくるのが快斗らしいなと思った。息を漏らすように笑って、新一は未だしがみついている快斗をひっぺがし、正面から抱きしめた。しゃがみ込んでやっと目の高さが同じくらいになる、そんな恋人だけれど、愛しくてしょうがなかった。
「俺も愛してる」
抱きしめたままぐっと立ち上がり、快斗を抱っこした。そのまま頬にちゅっとリップ音を鳴らしながら唇を落とす。
変わらない青く大きな瞳をぱちくりと瞬かせた快斗は、新一の両頬を掴み、ぐっと引き寄せた。唇同士の距離がゼロになり、また離れる。額をくっつけあい、肩を揺らしてふたりは笑った。
* * *
昼食をとって、ふたりは部屋を出た。快斗が食事中に、苦渋の決断を下したのだ。「おむつを……かおう……」と、レタスにフォークを力いっぱい刺しながら。
「おねしょ一回くらいならまだおむつじゃなくてもいいんじゃねえか? 寝る前に水分控えたら……」
「いや、ねるときだけでもとりあえず、はく。目が覚めたときのダメージが、なんかこう……」
険しい表情で、ぐううと唸る快斗を場違いにもかわいいと思ってしまって、少し罪悪感が芽生えた。おむつなら自分でも処理できるが、シーツは処理できないと快斗は考えたのだろう。多分だが、おねしょをした事実もショックだったろうが、新一にそれを処理させたことが更にショックだったのではないかと思う。
「わーった。じゃ、食い終わったらドラッグストア行こう」
肩の力を抜いて新一がそう答えれば、ほっとしたような、それでいて複雑な感情を抱いているらしい快斗が、こくりと頷いた。そして黙り込むこと数秒、苦笑交じりにニパッと笑う。
「世話かけるな」
「いーってことよ」
ウィンナーを頬張りながらすぐに答えると、今度こそ快斗はまじりっけなしの笑顔を見せた。
いつも通り手をつないでドラッグストアの自動ドアをくぐった。快斗がするりと新一の手を離し、ととととと、と駆け出し、ひとつの棚の前でぴたりと止まった。珍しい行動に驚きながら後を追うと、快斗が棚の一角を指さした。
「しんいちー、おむつあった」
快斗が指さしていたのは、ずらっと子ども用のおむつが陳列されている棚だった。丁度棚整理をしていた女性店員が快斗を見て、にこやかにイギリスなまりの英語で快斗へ話しかける。
「お父さんのこと名前で呼んでるのね」
「うん?」
「許してくれるパパは素敵ね」
「うん」
ふたりはにこにこしながら、一見すると微笑ましい会話を通路で繰り広げた。新一は呆然とその様子を眺めるしかない。胃のあたりがずんと重くなる。
店員が新一に営業スマイルを向けてから、他の棚の整理のためその場から離れていった。おむつ売り場の前には、新一と、そしてきょとんとした顔でそんな新一を見上げる快斗。まるでこの空間だけ、世界から切り取られたような気分になって、体のどこかが、ざわざわとする。どこの器官だろうか。あえて言うなら、それは心なのだろう。
「……快斗?」
名前を呼んだ。恋人の名を。
「…………パパ?」
少しだけ考えたのだろう。さきほど言われた店員の言葉を。なんで自分が、新一のことを新一と呼んでいるのか。――新一と自分が呼んでいる新一は、快斗のなんなのだろうか、と。
決してふざけているわけではない。純粋に言っているのだ。第一、この手の冗談を、快斗は若返り始めてから、一度も言ったことはない。ふたりの「恋人」という関係を茶化すような冗談は。でも、こればかりは、冗談がよかった。
ああその時が来てしまった。覚悟はしていたけれど、それでも足元が暗くなった気がした。しかし不思議そうな顔をして新一を見上げる快斗の存在だけは、はっきりと分かった。しっかり、しなければならない。これからだって快斗と暮らすのだ。足元の暗さなんて、気にしている場合ではない。でも、いまだけは、少しだけ。
力が抜けてしまっている足をどうにか動かし、数歩進んで、新一は冷たい通路にしゃがみこんだ。白いフロアで、快斗と目の高さが一緒になる。不思議そうに新一を見ていた快斗の表情は、不安そうなものに変わっている。子どもに不安は伝染するというのは本当なんだなとどこか他人事のように思いながら、新一は快斗の小さな体を抱きしめた。
ここで俺たちは恋人だと言っても、快斗にはわからないだろう。いつか言ったように、新一だけわかっていればいい。でも、でも。その呼び方だけは。
「……新一で、いいんだぜ」
そう言って、腕にぎゅっと力をこめる。されるがままだった快斗が、新一の顔を不安そうにのぞき込んだ。
「……しんいち」
「そう。パパじゃ、ない。だからこれからも新一でいい」
「わかった! しんいち!」
でも、新一と快斗の間で、名前で呼び合うというのは、意味があることだったのだ。決して過去形にしたくないけれど、嘘偽りない姿で再会したふたりにとって、名前は本当に大切で。
無意識のうちに抱きしめる腕が震えていた。目頭は熱くなっていないので、自分が泣いていないことだけはわかった。
「しんいちどうした? どっかいたい?」
新一の背中を小さな手がさすさすと撫でる。
「大丈夫。ちょっとだけ、待っててくれ」
「ん」
そしてわかったのは、快斗は不安を覚えているのではなく、新一を心配していたということだった。快斗は、どこまでもひたすら快斗だ。
大きく息を吐き、意を決して身体を離す。快斗が新一の顔を見上げた。頬の筋肉を引き上げ、笑って見せる。快斗が笑い返した。それだけで、これからもやって行ける気がした。
三三〇二
「待て快斗!」
「やー!」
「バーロ! 服を着ろ、服を!」
郊外の一戸建て。地域のつながりがそこまで強くなく、生活には困らない場所を選んだら自然とそうなった。はじめて引っ越し先を自分だけで決めた新一が選んだ土地はアメリカの田舎町。今までと変わらず、徒歩圏内にスーパーとドラッグストアが存在する。民家は一軒一軒離れている。大声を出しても、ぎりぎり隣の家には聞こえない、そんな距離感だ。
ドタバタと広い部屋を縦横無尽に駆け抜ける快斗を新一も負けじと追いかける。快斗の走った経路には水滴が落ちていて、小さな肩にかけられているタオルできっちり身体を拭けていなかったことがわかった。無論、新一は拭こうとしたのだ。快斗が逃げるのである。
ソファの後ろに逃げ込んだ快斗を、持っているTシャツごとがばりと抱き込めばキャッキャと笑い出す。無邪気な笑みに絆されそうになるが、残念ながらこちらはそれどころではない。
「なんでおめーは風呂あがる度に脱走するかな……」
「たのしい」
「楽しいのか」
「あとあつい」
「服が?」
「うん」
「でもその恰好で外行ったりできねえだろ。アイス食べてえって言ってたじゃねえか」
つるつるふわふわの素肌はいつまでも触れていたいがそうもいかない。なにせ相手は全裸の二歳児。快斗が持ちながら走っていたタオルで身体を今度こそきっちり拭いて、膝の上に座らせた快斗に服を着せる。アイスという単語が効いたのか今度は大人しく両手をあげる快斗の瞳がきらきらとしていた。まったく憎めない。
ここに引っ越してから、新一は快斗を放って仕事に行ったりはしていない。貯蓄は今までのもので十分やっていける。あと五年くらいは細々と暮らせば持つだろう。最悪在宅ワークをすればいいし、快斗がやっていたように株で収入を得ることだってできる。
快斗がいそいそと新一が持っていた紙おむつを自分で履きだすので、新一の思考は一気に引き戻された。バランス感覚が異様に良い姿に苦笑するしかない。
最近毎度脱衣所から全裸で逃げられる。そして毎回、今のような追いかけっこを繰り広げるのだ。年相応といえば、それまでだ。――快斗は覚えていないけれど、でも、覚えているのかもしれない。新一から逃げるという快感を。新一に確保される喜びを。
それならこの毎回の追いかけっこも悪くないと思ってしまう。まあ、体力的には少々つらいものがあるのだが。
ハーフパンツも自分で履ききった快斗が、んっと小さな右手をしゃがんだ新一の前に差し出してきた。息を漏らすように笑い、その右手をつかむ。ふにふにとしたまんじゅうみたいな手は、もう魔法を紡がないけれど、この手が魔法を紡げることを新一は知っている。
「あいす!」
「はいはい。ついでに夕飯の買い出しもするか」
つないだ手を離さないまま、新一は立ち上がり、財布を持って玄関へ移動した。下からぴんと伸ばされた手は、新一の手をぎゅっと握ったまま。快斗は大きな目をとろけさせ、満面の笑みを浮かべていた。
三四〇一
バターンと物が倒れる音が廊下に響き、新一は食事の準備をやめ、すぐにリビングへ移動した。そこには泣くのを我慢して、顔をくしゃくしゃにしている快斗が額を赤くしてうつぶせのまま新一を見上げていた。
「んちぃ……」
新一は眉根を寄せながら廊下にしゃがみ込み、倒れている快斗の脇腹に手を差し込んで立ち上がらせる。相変わらず渋い顔をしている快斗に苦笑すれば、快斗は丸みを帯びた手で額の赤くなった部分をさすさすと撫でた。唇がつんと出ていたり、額を撫でる仕草がかわいくて、新一は表情筋が緩んでしまった。
廊下に日の光は入らない。薄暗い、ひんやりとした廊下で快斗を正面に頭を撫でてやる。
「大丈夫かよ」
「んー……」
会話を成立させるのは、もう無理だ。少し前まで元気に家の中を走り回っていた快斗は、最近膝を曲げ体重移動をしながら歩行する、という行動が出来なくなった。小さな子ども特有のペタペタという足音を立てながら歩行する。すでにこの広い一戸建ての家から、角という角が除外されている。今みたいに、ふいに快斗が転倒するから。
それに伴い意思疎通が難しくなった。それでも、きちんと音になりきってはいないが新一の名前を呼んだり、返事をする。それだけのことが、こうも愛おしい。
わしわしと頭を撫でてやる。新一の手で掴めそうな、小さな頭だ。この時にはもう快斗の癖毛は健在だったらしい。もう少ししたら、髪の毛の量も薄くなるのだろうか。
快斗は結局泣かなかった。我慢強い子どもだ。
あと数か月で、歩けなくなるのだろう。つかまり立ちをして、ハイハイをするようになって、そして起き上がれないようになって。
新一の作る快斗の食事は、もう新一と同じものではない。
いまは離乳食の完了期のものを食べさせているが、どんどん食べる力もなくなり、歯も薄桃色の歯茎の中にひっこむのだ。そろそろおかゆの作り方を新一は勉強しなければならない。
育児書を買うか悩んで、インターネットで調べるだけにとどまっている。育児では、ないから。
「んち」
うるんだ瞳で見つめられて、新一は笑みを浮かべた。下手くそな笑みになったかもしれない。
自力で座ることが出来なくなったら、快斗は寝たきりになる。寝返りも打てなくて、ただ、寝て、泣いて、新一が作ったミルクを哺乳瓶から飲んで、また寝て。それだけになってしまう。それでも、快斗は快斗だ。
不思議と、快斗と付き合うことになってから、新一の中で快斗と離れ離れになるというイメージは全くなかった。否、付き合い始める前からかもしれない。
本当の自分を隠した姿で出会ったふたりは、なにも隠さない姿で再び出会った。だから、きっともう離れることはないんだ――なんて、新一は考えていたのだ。
でも、きっと、別れはくる。
言ってやればよかっただろうか。一緒にいたいと思う、ということだけじゃなくて、自分たちが離れるという行為は運命に背いているということを。若気の至りを具現化したような発言だ。でも、それを恥ずかしがるんじゃなくて、きちんと。快斗が、快斗の言った、快斗である内に。一緒にいるのが、自然なんだって。別れる日がやってくるのだとしても、言ってやれば、快斗の笑顔はもうひとつ増えただろうか。
後悔はいくつもある。あのときもっとああ言ってやればよかったとか、そもそも快斗が若返るきっかけになったあの日一緒にアジトに突入していれば、もしかしたらとか。そんなことを何度も考えた。新一は、もしもの話は嫌いだ。それでも考えてしまったのだ。
何度か、弱音は吐いたけれど、それでもいつも笑って、ふざけていた快斗に、もっとしてやれたことはあったんじゃないかと。
以前、新一は灰原に、いつも快斗が与えてくれるように、新一も快斗に与えたいと言った。与えてやれただろうか。快斗のプライドを気にするあまり、あまり快斗のやることに手出しも口出しもしないようにしていたけれど、もしかしたらもっと自発的に快斗は与えてほしかったかもしれない。『江戸川コナン』の経験則は、快斗が七歳だった一年間しか生かされなかった。
もう、なにもかも、わからないけれど。それでも、快斗の救いに新一はなれただろうか。いま、転んだ快斗を立ちあがらせることしかできない新一は、快斗に、あと何をしてあげられるのだろう。
黙り込んだ新一を快斗が見つめる。猫目なのと瞳の色は相変わらずの快斗。たまらず抱きしめると、腕の中でもぞもぞと快斗が動き始める。
「こんなときくらい、大人しく収まれ」
ぼそりとわがままを言ってみる。すると快斗の動きが止まった。
薄暗い廊下で、小さな快斗の身体をぎゅうと抱きしめる。腕ごと抱きしめても、新一の腕はもう余ってしまう。それだけ小さな身体に、快斗は変化した。新一が床に膝をついてやっと、そこに立つ快斗と目線が同じ高さに近付くのだ。
もし伝わったのなら、本当に快斗は小さな頃から賢く、我慢強い子どもだったのだろう。そんなことを思った。
三五〇〇
産声を新一に聞かせて、快斗は新一の腕の中から消えた。
新一にはなす術もなく、ただただ、快斗を抱きしめることしかできなかった。
リビングのソファに腰かけて、快斗を抱いていたというのに、確かに腕の中にあったぬくもりが、姿かたちもなくなった。こんなときまで、魔法みたいな演出をしなくても、なんて思いながら空っぽの腕の中を新一は見つめた。
六月二十一日。快斗の誕生日の夜のことだった。
快斗がいなくなった一戸建ての家は、新一にはあまりに広すぎた。でも、どうにも家を引っ越す気にはなれなかった。
快斗の生活に合わせて購入したベビー布団や、おもちゃを捨てることなど到底出来なくて、家の中には一人暮らしと思えないほどの物が溢れていた。
数日ぼんやりと過ごしてから、新一はパソコンを立ち上げた。仕事をしようと思った。あと、食べて、寝て、ちゃんと生きようと思った。
そこからはひたすら探偵の仕事をした。これまで各国での活動を実名でしていたので、すぐにアメリカでも工藤新一の名は問題ない安心のブランドだと把握されたし、警察からの捜査協力の要請がくるようになった。
家は手放さないまま、何も捨てないまま、新一はアメリカ全土を飛び回った。数日家を空けて、帰宅して、最低限の掃除をして、そして寝て、また出かける。
たまに酒を飲んだ。酒に逃げた訳ではない。快斗がいなくなったという事実もちゃんと受け入れることが出来ていた。覚悟だってずっとしていたのだから。だけれど、やはり眠れない日があったのだ。
だから、二十歳になった年からずっと飲みそびれていた酒に手を伸ばした。快斗と飲んでみたかったなあなんて思いながら。酒を多量に飲めば、泥のように眠ることが出来たけれど、寝覚めはよくなかった。内容こそ覚えていない物の、好ましくない夢を見ることは確かだった。そしてまた家を出て、依頼を受けた現場に足を運ぶ。
そんな日々を、静かに、淡々と繰り返した。
三五
五月三日。広い道を歩きながら、くたくたになった新一は自宅を視界に入れた。
なんとなく、明日は自分の誕生日だな、なんて思って、相変わらず灯りのついていない大きな一戸建ての家を眺めた。今日はまれにみる晴天で、夜空には星が瞬いている。北斗七星を見つけて、自然と目を伏せた。
ふいに赤ん坊の泣き声が聞こえた気がして、この数週間家に戻っていない間に近くの家に新生児が生まれたのだろうかなんて思う。
しかしその声は新一が歩みをすすめる度に、新一の鼓膜を震わせて、ついに新一は歩みを止めた。
目の前にあるのは、家の玄関だ。新一がもはや寝泊まりのためだけに使っているのに、決して手放さない家。仕事を頼み辛いからこちらに越してこいとアメリカ各地の市警に言われても、あらゆる女性に誘われても、それでも手放さず、拠点にしてきた家。快斗が新一の腕から消えて、約十一か月、ひとりで寝て起き続けた家。――その家の中から、赤ん坊の泣き声が聞こえる。
そしてこの声は。耳に焼き付いて、忘れることなんてできないこの声は。忘れたくなくて、毎日必死で思い出していた、この声は。
蹴破るようにして玄関の扉を開けた。土足禁止の家にしているにも関わらず、靴を脱ぐという行為に頭を働かせること自体放棄して、新一は廊下を駆け抜けた。
脱衣所の前を通って、キッチンへ続く扉を開けて。泣き声が大きくなる。リビングのソファに目をやれば、そこには産声をあげている、間違いなく生まれたばかりの赤ん坊の姿があった。
信じられなくて、固まる。だって、その赤ん坊はどう見たって快斗が新一の前から消えてしまった位置に寝ていて、そして同じ姿をしていたから。
呆然と抱き上げようと手を伸ばして、自分が帰宅したばかりだということに、やっと頭が働いた。
すぐに脱衣所へ走り、その場で靴を脱ぎ、手を洗い、いつも着ている綿一〇〇パーセントのパジャマを身に着け、白いタオルを手に取った。そのタオルは、快斗が消えるときに、快斗を包んでいたものだった。
三六〇〇
日付が変わった。新一の誕生日だ。だけれど、そんなこと気にも留めず新一は手に持っていた白いタオルで赤ん坊を優しく包んだ。そしてゆっくりと首と腰をタオル越しに支えながら腕に抱えた。あたたかい、その存在を。
「……快斗」
先入観なんかじゃない。間違いなく一年前に別れた恋人の姿と一緒で、同じ場所で、ありえない状況下で。
呼んだ名前は微かに震えていたけど、くちゃくちゃの赤らんだ顔の子どもが、必死に、泣きながら手を新一に伸ばすので、新一は恐る恐る抱えていた右手から人差し指を伸ばした。
目が見えないはずの赤ん坊は、迷うことなく新一の節くれだった右手の人差し指をきゅっと握りしめ、そしてぴたりと泣き止んだ。
そのまますうすうと寝息を立て始め、それでも新一の指を離すことはせず。
あまりの出来事に、新一はよろよろとソファに座り込んだ。もちろん腕の中のあたたかい存在を起こさないようにだけれど。
「快斗」
もう一度名前を呼んだ。今度は震えていなかった。
どうやって快斗はここに現れたのだとか、何時くらいから泣き続けていたのだろうかとか、不老不死はもしかしてこういうことなのだろうかとか、ぐるぐると考えながらすやすやと眠る快斗を見つめる。握られ続けている指に力が込められた気がした。
いま考えている難しいことなんて今の状況で深く考えられるはずもなかったけれど、それでもひとつだけわかったことがあった。
快斗が、新一の元に帰ってきたのだ。新一の恋人が、新一の元に。
部屋が静寂に包まれる中、久しぶりにふたつの呼吸が部屋に存在している。
それがどれだけ嬉しいことなのか、新一だけがわかっていた。――新一だけが、わかっていればいい。
* * *
すぐに出生届を出したのは、快斗が今ここに確かに存在するということに、新一が安心したかったのかもしれない。
そんなことを思いながら届け出を出し終えた新一は大きく、そして深く息を吐いた。
腕の中では快斗が大人しく眠っている。もうすこししたらミルクを欲しがるだろうが、家に帰り着くまで眠っていてほしいというのが本音だった。なにせ、届け出を出したとき、ものの見事に役所の係に怪しまれたからだ。
それはそうだろう。新一には婚姻関係もなければ交際中の女性もいない。だというのに、病院で貰うはずの記録を持っていない赤子を連れて出生届を出しにきたのだ。怪しんでくださいと言っているようなものだ。危うく警察沙汰になりそうなタイミングで、新一はある存在を思い出した。ちょっと待ってくださいと英語で伝え、慌てて電話を掛けた。数年ぶりにかけた番号は、父親の番号だ。
「頼む、父さん、後生だ」
「まったく数年ぶりに連絡がとれたと思ったら……今度はちゃんと聞かせてもらうよ。お前の声が明るいからな、新一」
呆れを滲ませながらも優しい声に、新一は不覚にも安堵を覚えた。数年ぶりに電話したのは各所に顔の広い父親だ。相変わらず世界的な推理小説家の父親がどう手を回したのかはわからないが、ストップを食らっていた出生届はすぐに受理された。
話が通ってから手続きが終了するまでの待ち時間、優作が電話を切らなかったので、新一はいくつか会話をした。
住んでいる州を言えば、なぜロスに顔を出しに来ないのかとため息をつかれたが、その弁解も会いに行ったときにすると伝えた。すると間髪いれずに笑われて。
「出生届をお前が出さなければいけない子がいるんだろう?
私がそちらにいくよ。もちろん有希子と一緒にね」
きっとウィンクなんてしながらこれを言っているんだろうな、なんて考えていれば、どうやら母親はその場にいなかったようで、あっさりと電話は終了した。
こうして『工藤快斗』が誕生した。
誕生日は五月四日。新一と同じ誕生日だ。
* * *
「快ちゃんのお母さんに連絡はとったの?」
きゅるんと効果音が付きそうな愛らしい表情だと思う。相変わらず年齢がわからない容姿の有希子が快斗を腕に抱きながら、電話を終わらせた新一に尋ねてきた。
季節は夏。室内の温度はクーラーで快適に保たれている。
「いや、連絡先わかんねえし……あと、俺は確信してるけど、証拠があるわけでもねえし……難しいよな」
快斗が再び新一の元へ帰ってきてから事情をすべて話した結果、有希子が新一の家に遊びに来るようになった。探偵業は「育休に入りますのでしばらく電話対応でおねがいします」と各位に伝えたところ目を丸くされ、事情聴取でもさせられそうな勢いだったがうまいこと躱し、新一はただいま育児奮闘中だ。否、相手は恋人なのだけれど。
「張り切って赤ちゃんのお世話を教えようと思ってきたのに、手慣れてるんだもの」
久しぶりの再会は夫婦そろってだった。出生届の一件から一週間後である。そして新一が快斗に哺乳瓶でミルクをやり、手際よく背中をさすってゲップをさせ、おむつを素早く替える様をみた有希子がつんと唇を尖らせて言ったセリフは、新一を酷く安心させた。
本当に変わらない。音信不通なんて親不孝もいいところなのに、久しぶりに会って事情を話せば「お疲れ様」とふたりとも新一に笑いかけてくれた。
ひとりで赤ん坊の世話をするというのはなかなかのハードワークだ。なにせ昼夜問わず要望を泣き声で訴えてくるのだから。この赤ん坊が快斗だという確信を持っているからこそ耐えられるハードさだと深夜快斗を抱きながら思うときがある。
しかも電話対応でと言ったため、アメリカの各市警からアドバイスを仰ぐ電話が遠慮なくかかってくる。そのタイミングで快斗が泣いていたらわたわたしてしまうのはしょうがないだろう。だから、今みたいに電話がかかってきたときに有希子がいて、新一の代わりに快斗をあやしてくれるのは本当に助かることだった。
そして有希子は新一が警察と電話をしている様子を見て、連絡すべき相手がいるのではないかということに思い至ったらしい。もしかしたらずっと引っかかっていて、そろそろ聞いてもいいかなと頃合いを見ていたのかもしれないが。
新一の答えに、眉を下げて「確かにそうね」と言った有希子の気持ちもわかる。自分の子どもがどんな状況になっているのか親ならば知りたいだろう。それがどんな状態でも、生きていればと考えてくれる両親の元で新一は育ったから、きっとそうなのだろうと思う。
確かに快斗のスマートフォンにはロックがかかっているため、中身はみれない。だけど、連絡先だって調べればわかるのだ。新一は探偵なのだから。でも、本当に証拠がない中で「この赤ん坊は快斗なんです」と突然言ったところで信じてもらえるのだろうか。
快斗が母親にどんなふうに若返りの話をしていたのかも把握できていない。あやふやなのに踏み込んだ話というのは、面識のない相手にいきなりするのは難しい。それに、懸念事項だってまだまだある。不確かな状況で連絡をいれるのは、やはりどうなのかとも思うのだ。
「新ちゃん、難しい顔になってるわよ」
どうやらミルクを飲んで眠ったらしい快斗をゆらゆらと揺らす有希子が苦笑を浮かべた。
「……はっきりわかったらいいんだけどな」
「そうね」
すやすやと眠る快斗は、本当に快斗なんだろうか。その不安は、確かに新一の中にも存在する。だけれど、快斗なのだ。証拠不十分もいいところだけど、快斗なのだ。
* * *
「だあ」
「……おめーいま普通に立ち上がったな?」
ぐらぐらと重心が定まらないものの、それでも二本足で快斗が立ち上がった。快斗が戻ってきてから七か月とすこしのことだ。
新一がトイレから戻って、そろそろおむつを替えてやろうと支度をしていると、ベビーベッドの中で座っていた快斗がなにも掴まないまま立ち上がって新一を見て一声上げたのだ。満面の笑みで。つかまり立ちを先日したので、もう少ししたら立つかもなあなんて思っていたが、こんなタイミングとは。
思わずぷっと噴き出すと、快斗もつられたように笑うものだから新一はすかさず写真を撮った。考えてみれば、快斗が若返りの最中に立てなくなったのはこれくらいの時期だったように思う。きっと同じ速度で成長しているのだろう。若返りもおそらく元々の成長ペースを遡っていたんだろうと思うと、新一と出会うまでの快斗の成長を一番間近で見ることができているのだ。しかも生で写真を撮るなんて非常にレアな経験だと思う。若返っている最中は、きっと快斗が嫌がるだろうと思って、どんなに可愛いと思っても写真を撮ることはしなかった。だから、いま、かなりの頻度で撮っている気がする。反動である。
寝返りもあっさり、ハイハイもあっさりした快斗は、立ち上がることもあっさりした。調べたところかなり赤ん坊のなかではハイペースの身体能力の成長っぷりだ。チートっぷりはこのころかはら発揮されていたのかと呆れさえ覚える。
「だあ」
「はいはい、んだよ」
ベビーベッドの上で堂々と立ちながら新一を見て喋る子どもに、新一は微笑みかける。小さな手を伸ばされ、それをきゅっと握ると満足そうに快斗はその場にしゃがみ込んだ。
「おめーすぐ歩けるようになりそうだな……」
「あー」
「いつ歩けなくなったかな……すぐだった気がすんだけどな……」
肉付きのいい手の気持ちよさに、にぎにぎとすると、不満そうに見上げられた。その顔が癖になりそうだなあ、なんて思いながら、にぎにぎを続行する。
食べ物もミルクだけでなく、離乳食が始まって、食べるものの幅も広がってきた。おかゆを作る用の米はなぜか優作が送ってくる。きっちり日本米を。同じアメリカに住んでいるというのに、不思議な状況だ。おもしろくもあり、有り難くもある。
以前は変化が寂しくてしょうがなかった。だけど、いまは、変化が嬉しい。
三七〇一
「し・ん・い・ち」
「んち」
「……し・ん・い・ち」
「んちー」
「……なんかよー、それ前も思ってたけど、発音がなんだかなあ……トイレ行きたいみてえじゃねえ?」
ソファの上に座る新一の腿の上に跨り、きゃっきゃと手足をばたつかせる快斗にはそんな気はまったくない。と、思う。快斗は快斗なりに「しんいち」と新一が発した言葉を真似している。はずだ、多分。
他の言葉もだいぶ喋れるようになってきた快斗だが、サ行がうまく発音できないらしい。そんな快斗に「しんいち」という音を覚えさせるのは難しかった。絶対覚えさせるけども。
ぼすんと胸元に顔を勢いよく快斗が埋めてくるので衝撃に小さく呻きながら抱きしめてやれば、また楽しそうにもぞもぞと腕の中で快斗は動いた。
感情表現がはっきりしている快斗だが、いまはご機嫌らしい。不機嫌なときはとことん不機嫌で、まったく笑顔を見せない。笑ってくれている方がいい。不機嫌な顔もかわいいけども。
時計をちらりと見ればそろそろお菓子の時間だった。なるほど、お菓子の時間前だからか、と納得しながら、快斗を抱きかかえ、ソファから新一は立ち上がった。
アメリカの子ども向けのテレビを流しっぱなしにしてキッチンへ移動する。
「ホットケーキでも焼いてやろうか」
「あい!」
「意味わからないまま返事してるだろおめー」
くくっと笑うと、不思議そうな顔をして新一の至近距離で快斗が首をひねる。それが酷く愛おしくて、新一はぷにぷにの頬に頬ずりした。
「やー」
「いやとか言うなよ……いやいや期にはまだはえーだろ。おらおら」
うりうりと頬ずりを続ければ、小さな手が新一の顔を押しのけてくるのでほんの少しだけ傷つきながら、そういえば若返りのときも同じことをして、そしてされた気がするなと思った。
三八〇二
託児所というものを使ってみるかと思い立ったのは、ニューヨークで連続殺人事件が起こり、ニューヨーク市警に協力を仰がれたタイミングだった。電話対応では無理がある事件内容だ。
明け方の電話で、このタイミングから母親を呼び出すのはさすがに気が引けた。ロスに一旦行って預けるとなると時間云々もあるし、変なスキャンダルになる可能性もある。有希子のスキャンダルは新一にとって別にいいのだが、まだ二歳になったばかりの快斗にとってカメラに囲まれるのはストレスだろうし、変に探りを入れられるのも面白くない。なにより快斗は新一の恋人であって、メディアが言うだろう「工藤夫妻の第二子」と報じられるのは不快なわけで。
そういうわけで、二十四時間営業の託児所にその場で電話をかけると、朝から預かることが出来ると言われたので、快斗の荷物をリュックに詰め、自分の何泊になるかわからないが早く帰ってきたいという気持ちで鞄に洋服を詰め準備をした。
いまや二語文を達者に喋るようになった快斗は、人見知りもまったくせず、じゃあ行ってくると言う新一に駄々をこねることもなく、あっさりと「いってらっしゃい」と託児所の先生の足元で新一に手を振った。
託児所には多くの子どもが預けられていた。社交性がある快斗だ。きっと友達もできるだろう。基本的に新一といるので、快斗に新しい刺激をあたえてくれるはずだ。そんなことを思いつつ、あっさり手を振ってきた快斗を思い出し、急いでニューヨークに向かう道中なのに、やけに寂しかった新一である。
そんなこんなで三泊ニューヨークで仕事をし、急いで託児所に快斗のお迎えに行った新一を出迎えた快斗は、満面の笑みで新一を迎え入れた。
ああ、疲れが吹っ飛びそうだと事件疲れの新一が、託児所の入口で両手を広げると、すかさず快斗は腕の中に飛び込んできた。
「パパ!」
「………………パパ?」
にかーっと笑い、新一の腕の中で新一の顔を見上げる快斗は大層かわいいのだが、新一は快斗を抱きしめたまま動けない。託児所の入口でしゃがみながら硬直していると、託児所の先生が快斗の荷物を持ちながらふたりの元へやってきた。
「パパさんおかえりなさい。お疲れ様です。快斗くんいい子でしたよ」
犯人はお前か。と叫びたくなるのをぐっと我慢し、営業スマイルで適当に御礼を言ったあと、新一はにこにこの快斗の手を引き自宅を目指した。いろんな子どもに話しかけられた快斗は律儀にバイバイと全員に手を振り返していたので、なかなか託児所を出ることが出来なかったのだが。
「快斗ぉー」
「ん?」
スーパーで夕飯の買い物をして、いつもの道を歩きながら快斗の名前を呼んだ。やけに情けない声になってしまったのはしょうがない。未だにショックが抜けないのだ。
「パパじゃなくてしんいちだって」
「パパ、いうって」
「先生は俺のことパパって言ったんだろうけど、俺はおめーのパパじゃなくてだな」
「いいの!」
「よくねえよ」
「パパ、めっ!」
「なんで怒られなきゃなんねえんだよ!」
精一杯腕を伸ばしながら新一と手をつなぐ快斗に話しかければ、最終的に叱られた。いやいや、良かれと思って預けた託児所でまさかこんなことになるとはと項垂れれば、叱りつけたのは快斗のくせに心配そうに下から新一のことを覗いて来る大きな猫目。
「んだよ、おめー。若返りのときはすぐに呼び直してくれたくせに……」
それでも恨みがましく見れば、へらっと歯をみせて快斗が笑うので、とりあえずため息をひとつ吐くことでその場は諦めた。もちろん、家に帰りついてから新一ときっちり呼び直させたが。
* * *
新一のエゴなのかもしれない、とベッドですやすやと眠る快斗を見ながら思うこともある。だって自分たちは傍から見れば親子にしか見えない。容姿だって新一に快斗は似ているのだから。出生届を出して、なにかと生活しやすいからと養子縁組もしている。書類上の関係は、義理の親子なのだ。
快斗が快斗だという証拠は未だになくて、でも、新一の中では確信していて。ぐるぐると考えだすと止まらない。
それでも、快斗の横にもぐりこめば、眠りながらもスルスルと新一のそばに寄ってくる快斗。その動作は、やはり紛れもなく快斗で。だから新一は自分の事を、快斗にパパと呼ばせたくないのだ。
三九〇三
その日はとても気持ちのいい朝だった。
寝室の窓にかかった遮光カーテンの隙間から光が伸びて、ベッドの上に一本の線を作ったのを、目を覚ました快斗はぼうっと見つめた。上体を起こして、カーテンの隙間から見える青空を確認する。部屋の中は薄暗い。カーテンを開ければ光が部屋には満ちるだろう。
なんだか長い夢を見ていた気がして、まだ重い瞼をこする。
中途半端に開いたドアの向こう側から小気味の良い音が聞こえて、そちらに視線をやる。ああ、新一が朝食を作ってくれているんだと小さく笑って、数秒。快斗はベッドから飛び降り、いつも履いているスリッパも履かず部屋を飛び出した。
驚きに満ちた目で、キッチンに立っている新一が快斗を見た。目が、合う。
「ど、どうした快斗。嫌な夢でも見たか」
玉ねぎを切っていた手を止めて、水で手を洗い、ペーパータオルで新一が手慣れたように濡れた手を拭く行動をとるのを、快斗は呆然と見上げた。そしてわかった。すべての記憶を自分が持っていることに。
「新一」
目頭が熱くなるのを感じた。
リビングから気持ちのいい風が入ってくる。新一が朝起きて窓を開いたのだろう。明るく清潔な部屋は、家政婦も雇わずすべて新一が整えているものだ。
「……快斗?」
風で快斗の前髪が揺れる。そんな快斗を、新一が不思議そうに見つめていた。
「新一」
はっきりと口に出した。自分の舌の短さを改めて実感しながら、快斗は新一に微笑んだ。上手く笑えているかはわからない。それでも笑いたかった。
いま新一は何歳なんだっけ。確かこの前の誕生日で三十九歳になったはずだ。白いシャツをルーズに着た新一は大人の色気を纏っている。だけど、四十手前には決して見えない。二十代といってもまだ通用しそうだ。
そんな新一の蒼い瞳が、綺麗に開かれていく。快斗から視線を離さないままゆっくりと。そしてその瞳が潤む様を、快斗は初めてみた。本当に初めて。ああ、綺麗だなと、不謹慎ながら思った。今度は喉がひきつった。
よろ、と新一が一歩踏み出す。スリッパが脱げてフローリングに転がった。白い素足がぺたりと音を鳴らす。寝室につながるドアの前に立ちながら、快斗は自らの両手を新一に向かって伸ばした。また一歩、新一が踏みだす。ふたりの距離が近くなり、そしてゼロになった。
苦しいくらいに抱きすくめられて、まるで隙間なんてないみたいな、そんな抱擁に不満などあるはずがなかった。広い背中全体を抱き返してやれないのは申し訳ないけれど、それでも精一杯新一の白いシャツを握りしめた。
「好きだよ、新一」
久しぶりに、言った言葉だった。持ってる愛情を、新一が与えてくれた愛情をしっかりと乗せて、その言葉を告げた。
新一が快斗の小さな肩に鼻頭を埋め、小さく震え始めた。シャツを握る手を一度離し、背中をさすってやると肩口にじんわり冷たいものが染み込んでくる。
「なあ、新一は?」
いじわるかもしれないけれど、さすっている手を体の間に移して、新一の身体を引き剥がした。だって、顔が見たいのだ。
朝の光に新一の頬がきらきらと輝いた。くしゃりと歪んだ表情は、嗚咽と水の滴を流すことを我慢しているようだ。こんな時くらい思い切り泣いてくれればいいのにと思いながら、かすかに頬に残る雫の軌跡を、唇を寄せて吸い取った。
「キザ野郎……」
新一が下手くそな笑いを快斗に向ける。こつんと大きさの違う額をくっつけ合う。鼻先が触れ合ったので、目の前にある新一の唇に自分の唇を快斗は重ねた。
「それがおめーの恋人だろ?」
ちゅっと音を立てながら唇を離し、にやっと笑ってやれば、新一が目元を赤くしながら目を細めて笑った。こんな無邪気な笑みも久しぶりに見た。
「虫歯菌移らねえように口にはしてなかったのに」
「残念だったな。治療費頼むぜ新一」
「あー……チクショウ、嬉しい」
「へへ、俺も」
「……言いたいこともやりたいことも、山ほどあるぞ」
「……俺も。でも取り急ぎの案件がある」
「んだよ?」
再び額をくっつけてから、まるで内緒話をするように囁き合う。
「夜のおむつも卒業させてくれ」
「ぶはっ」
深刻な問題なので殊更真剣に言ったが新一が顔を逸らし笑い始めた。だってこんな恋人同士のやりとりをしている快斗のズボンの下はおむつなのだ。由々しき事態である。
* * *
「全部、記憶あんのか?」
「そう、全部。まあもちろん前回……つって良いかよくわかんねえけど、おむつ買いに行くことになってからの記憶はねえよ? でも昨日とか、もちろんそれ以前も新一に育ててもらってる記憶もある。ちゃんと自分の人生として把握してる」
「記憶が繋がったってことなのか……?」
「どうだろうな……一時的に繋がってるとかじゃねえと良いんだけど、ちゃんとこれまで成長してるし、脳の容量もデカくなってるだろうし、そうじゃないと、思う」
「わかんねえことだらけだな」
「……でも繋がった」
「……ああ」
ソファにふたり並んで腰かけながら、朝食を食べる。いつもはダイニングテーブルで食べるが、なんとなく隣に座りたくて快斗がそう言えば、新一は優しく笑って、リビングのテーブルに朝食の準備をしてくれた。トーストは冷めきってしまっているけれど玉ねぎ入りのオムレツは熱々だし、冷蔵庫から出したばかりのオレンジジュースはおいしい。
新一が噛り付いているトーストを見て、自分のトーストを快斗は見た。
「俺もトーストにバター塗りたい。この人生でまだ食ってない」
この人生、と表現するしかないのだろう。新たに成長しているのだから。そう思いながら口にすれば、新一がきょとんと快斗を横から見つめた。
「快斗には塩分キツいんじゃねえか?」
「……おめーも高血圧とかやばいんじゃねえの」
「……ジャムも没収すんぞ」
こんな軽口の叩き合いも何年振りなんだろう。快斗の身体に内包してある魂は新一と同じ年だ。正真正銘、この人生では三歳でも。だというのに、会話の内容は変わらない。それが本当にうれしくて、ずっと新一が快斗のことを恋人として扱い続けてくれたことが嬉しくて、そして少しだけ照れくさくなった。
新しい暮らしが、はじまる。
四〇〇四―四一〇六
「幼稚園とか行くか?」
「行く必要あるんだったら行く。そっちの方が新一が仕事しやすいとか」
「いや、別にそういうわけじゃ。暇かなって」
「じゃあ行かねえ。家で家事やってる。普通の四歳児じゃねえからこれからは普通に留守番もできるし気にすんな」
一緒にベッドにもぐりこんで、快斗の手を新一がにぎにぎしながら言うので、ぽつぽつ答えると、新一の眉間に皺が寄った。微かに、だけれど。
「どうした?」
「……なんつーか、ひょこひょこあぶなっかしい快斗をもうちょっと映像に残しとけばよかったなと思って」
「バーロ、やめろ。恥ずかしい」
「かわいかったのに」
「それが恥ずかしいっつってんの」
快斗の記憶が繋がって一年、ふたりは様子見をしていた。快斗がまた記憶を保有できなくならないか、若返り始めないか。幸せな時間の中にも緊張が走っていた。
だが、今回ふたりは誕生日を五月四日に迎え、六月二十一日も無事過ごした。おそらく大丈夫だろうという結論を一旦つけたのが今日だ。それを機に、新一も探偵業を復活させることにした。故の、幼稚園の提案だったらしい。
快斗の誕生日が五月四日になったといっても、母体から生まれたわけでもないし、よくわからない石の効果で若返りが発生し、二回目の人生を快斗が送り直しているのであれば、六月二十一日にまた変化が起こる可能性は捨てきれなかった。そのためふたりは今日、〇時を迎えるまで緊張しっぱなしだった。ベッドに潜り、手を握り合っていた。
四歳児の身体では午前〇時を迎えるまで起きるのがなかなか困難で、何事もなく九月二十二日を迎えることができた安心感も手伝い、快斗は今かなり眠い。
そんな中でのこの新一の発言だ。あしらい方が雑になるのも申し訳ないが許してほしい。何より、動画で「この快斗かわいかった」と見せられる快斗の身にもなってほしい。離乳食食べ始めの動画をみせられてもさすがにどういう感情がその時働いていたかなんて覚えていない。ただの生後六か月の赤ん坊だったのだから。しかもその相手が親ではなく恋人。反応に困る。――と、まで考えて、ずっと思い悩んでいたことを快斗は口にだした。
「新一、明日さ。母親に電話しようと思うんだ」
やはり眠くて目をこすると、新一が腫れるぞと言いながらたしなめてくる。手慣れた感じに恥ずかしくなりつつも、酷く優しい視線を投げられて甘んじて受け入れるしかない。
「そっか。俺も灰原と博士に連絡するかな」
「哀ちゃんと博士にも俺から連絡する。電話はもちろん代わるからさ。……駄目か?」
「駄目なわけねえだろ。喜ぶと思う」
大きな新一の胸に引き寄せられて、すっぽり収まる。自然と胸元に顔を擦り付けてしまい、子どもの本能の恐ろしさを知った。
若返っていたことを知っている人たち。母親は、もうずいぶんな年だ。連絡も快斗が記憶を保有できなくなってからはとれていない。元気にしているだろうか。灰原と阿笠も、それは同様で、新一もきっと心配をかけるからと考え連絡を同じ時期からとっていなかったらしい。少し緊張するけど、すべて事情を知った工藤夫妻がみんな元気だし、きっと待っていると先日会った時に快斗に告げたから、明日快斗は電話をすることが出来る。
「新一もさあ、ずっと連絡してない人いるだろ。何してたかとか言っても良い様な……西の探偵とか」
「服部アイツ俺が返さなくても、毎月メール寄越すんだよ。蘭も近況報告送ってくる」
「いい友達だな。……俺の幼馴染と、白馬、あともうひとり女友達もそうだ。定期的に連絡くれてた。新一が携帯もパソコンも処分しないでいてくれてたから、全部読めた」
新一のあたたかい腕の中で顔だけ動かし、新一を見上げる。
「ちょっとずつさ、連絡してみようと思うんだ。何が起こっていたかどうか言うかは追々考えるけど。だから新一も気にせず連絡しろよな」
「別におめーに気を遣って連絡してなかったとかじゃねえぞ? 気にしてたのか?」
「そういうわけじゃねえけど……でもまあ、振り回してきてる自覚はある」
新一は、快斗が記憶を失ってからなにも捨てていなかった。それが新一の未練だったのか、新一自身を守るものだったのか快斗にはわからないけれど、それでも嬉しかった。何もかも移動の度に捨てていた快斗に付き合い、いろんなものを捨てていた新一が、なにも捨てていなかったことに。
若く見えるが、肌は確実に歳をとっている。そんな新一の頬を包む快斗の手は小さく、包み切ることが出来ない。それでも新一は嬉しそうに目を細めた。なんだか、新一の感情表現がストレートになった気がする。
「俺がお前と一緒に居たかったんだ。振り回されにいったんだよ」
こういう発言をするところは全然変わってない。色気が増した分、タチが悪いけれど。
* * *
住み慣れた家にはもう段ボールしかない。いまから引っ越し業者がやってきて、この段ボールを運び出せば、家の中は空っぽになる。
新一がソファのあった場所にまっすぐに立ち、ぐるりと部屋を見渡しているのを快斗は少し離れたところから見つめた。
今日、ふたりはこの家を離れる。数時間後には飛行機に乗り込んで、日本へ向かうのだ。旅行ではなく、引越しだ。工藤邸に戻るのである。まさか日本に帰ることが出来る日がくるなんて、日本を出たあの日は思いもしなかった。そして、新一が感慨深そうに部屋を見つめる様を見るという光景をみることも。
快斗以上に、新一はこの郊外の一軒家に思い入れがあるのだ。記憶をなくした快斗と過ごし、快斗を失い、そして帰ってきた快斗と暮らし、再び記憶を繋げた快斗と過ごしたこの家に。日本に帰るにあたって、家の中の家具は大体処分した。しかし。
「どうしてもこのソファは捨てられない」
そう言った新一に快斗は苦笑して、日本へ送るかと言った。その時の新一の嬉しそうな顔と言ったらなかった。
快斗は知らない。新一があのソファでどのように快斗を失い、そして快斗を迎え入れたのかを。
知りたいけど、でも、秘密のままにしておいた方がいいこともこの世にはある。
カーテンがなくなった部屋の窓から、家の前にトラックが停まったのが見えた。新一もトラックに気付いたらしく、動き出す。
今日の天気も快晴。快斗の記憶を繋げたあの日のような天気だった。
四三〇七
日本で外に出て暮らしていくのであれば、義務教育は受けるべきだよなと快斗は自分から新一に言った。
それに新一が目を輝かせたのは、仕事がしやすいからだろうかと一瞬でも思った快斗は自分の考えが浅はかだったことを知る。
「おめーのランドセル姿見たかったんだよ!」
「あらー、快斗かわいいじゃない。懐かしいわ」
快斗の母親と一緒に新一はランドセルを買いに行ったらしい。後日、千影を連れて黒のランドセルと一緒に帰宅した新一はそれはもう楽しそうだった。それでも父親のようなまなざしではなく、恋人のランドセル姿をただ見たかったという好奇心の塊の眼差しだったから快斗は言いたいことをぐっと飲み込んだ。きっと『江戸川コナン』もこんな気持ちだったんだろうなと考えて。
そんなこんなで小学校に快斗は入学した。工藤邸から通うため、帝丹小学校だ。千影はいまも国内外を転々としているので一緒に暮らすという選択肢はなかったが、日本にいる間だけでも寝泊まりすればという新一の提案で、千影が実家に滞在しているときは黒羽の家で快斗は数日を過ごしたりもしている。
帝丹小学校に入学して、数日。子どもらしい子どものふりというのはなかなかしんどいなと思っていた矢先、最初の難関が快斗の前に立ちはだかった。家庭訪問だ。担任の女性教師が教団に立ちその言葉を言い放った時、快斗は硬直した。どうにかして阻止することはできないかと考えたが、残念ながらそれはできず、妙にウキウキする新一をなだめながらその日を迎えた。
予想は的中だ。女性教師が新一にめろめろになった。
女性教師は快斗の保護者が有名な探偵ということは知っていたが、顔は知らなかったらしい。玄関で女性教師を出迎えた新一にものの見事に心臓を打ち抜かれた。快斗でも年を重ねた新一の色気に当てられる時があるのだ。初対面の妙齢の女性なんて当たり前だろう。だから会わせたくなかったのに。
わくわくと前のめりで快斗の学校の様子を聞く新一に白目を剥きたくなりながら、快斗は頬を赤くする女性教師に殺気を送り続けた。嫉妬なんてするほどやわな関係ではないが、はたから見れば親子なのだ。新一に対し色目を目の前で使われるのは面白くない。
「いい先生じゃねえか」
訪問を終えて女性教師を送り出した新一の晴れやかな笑顔に腹が立ち、快斗はやたらと長い新一の脚を蹴りつけた。
「んだよ!」
「バーロ! おめーに色目使ってたじゃねえか! だから俺のこともベタ褒めだったんだよ!」
「はあ? おめーの保護者ってわかってるんだぜ? んなわけあるかよ」
「でたよ激ニブ探偵。なんで自分のことには観察眼、働かせらんねーかな!」
「やけにつっかかるな。嫉妬か?」
「嫉妬だよ!」
「素直でよろしい」
ぐりぐりと上から頭を撫でつけられて、快斗はギリギリと歯ぎしりをした。まあ、家庭訪問が終わったのだ。しばらくは女性教師と新一が対面することはないだろう。そんな風に思っていたというのに、すぐに第二関門が快斗の前に立ちはだかった。
「じゃあ、この問題を……快斗くん」
手を上げていなかったというのになんでだ。そうか、新一の笑顔が見たいんだな。俺も見たいからわかるけど。わかるけど、それに俺を利用するなんざ百年はえーんだよ! ――なんて言えるはずもなく、快斗は「へーい」と返事をし、黒板の前に立ち、手を伸ばしチョークを持って黒板に計算式の答えを記入した。ずらりと教室の後ろに並ぶ保護者の中に、モデルのような風貌の新一が立っている。背中にちくちくと視線を感じながら、振り返った。やはり女性教師だけでなく、周囲のマダムも虜にしている新一は全く気にせず快斗しか見ていない。それに優越感を感じるがそれでも面白くないものは面白くない。どうしてやろうかと考えて、快斗は問題児になることを決意した。
「レディースエーンドジェントルメン!」
両手をばっと教壇の上で広げ、こっそり連れてきていた鳩を勢いよく羽ばたかせ、紙吹雪を教室に舞い散らせた。勉強机に座っていた児童たちは途端に目を輝かせ、女性教師と保護者達は目を見開いた。小さな手で出来る限りのステージマジックを次々と繰り広げれば、子どもたちから歓声が上がる。新一は、とちらりと見れば、腹を抱えて笑っていて両隣に立っているマダムが若干引いている。
「お宅のお子さん止めないんですか!?」
「いやあ、ふふっ、あの小さな体でよくあんなマジックやりますよねえアイツ……くくっ」
「工藤さん……」
先ほどまで夢見る少女とばかりに新一をきらきらとした目で見ていた女性とは思えない表情になっていて、快斗もひとり歯を見せて笑った。
状況をやっと把握した女性教師に止められてやっと快斗のマジックショーは終了したが、その後子どもたちは興奮して授業を受ける状態でなく、快斗に話しかけ続けるという状況になってしまった。教室中の注目が新一から快斗に移動した。新一に色目を使う人間はもういない。あの状況下で新一が快斗を止めないとわかっていたから、新一には悪いが『問題を目の前で起こした子どもを叱らない保護者』のレッテルを貼らせてもらった。
めちゃくちゃになった授業参観が終わり、もちろん新一と快斗は呼び出された。校長室である。
困りますよと言い連ねる校長の隣に座る女性教師はもう新一に色目を使っていない。その場で反省していますと「ごめんなさーい、もうしません」と快斗が言えば、隣で噴き出しそうな表情を隠すついでに新一が頭を下げた。
ランドセルを背負った快斗と、スーツ姿の新一は手をつないで下校した。
「いやあ、やりやがったな快斗」
未だに笑いが収まらないらしい新一が快斗を見下ろす。快斗の身長が伸びてきたため、ぴんと腕を伸ばさなくてももう手が繋げる。
「さすがに今日のはおめーも気づいてただろ」
「まあな。おめーがやきもきしてんのも気づいてた」
「それで放置かよ……」
ジト目で見上げる。太陽は傾き始め、オレンジ色になっていた。向かうは商店街だ。
「快斗がなんか行動に移しそうだなって思ってたからな。これで先生ともややこしいことにならなくて済みそうだ」
「そっちも気付いてたのかよ……タチわりい」
「俺が動くよりおめーが動く方が穏便に進むだろ」
「そういう奴だよな、新一って」
「誉め言葉として受け取っとくぜ。頭は下げたんだから別にいいだろ?」
さらっといろんなことを白状した新一がやっぱり笑う。これから夕飯の買い出しだ。高給取りの新一には痛くもなんともないだろうが、買い物かごに高いアイスをボックスで入れてやろうと快斗は心に決めたのだった。
四四〇八―四五一〇
小学生には運動会というものが存在する。
「んな無理にこなくていいんだぜ?」
「バーロ、去年いけなかったんだ。ぜってー今年は行く」
「……そんなに俺のリレーみたいのかよ」
「当たり前だろ。去年もビデオカメラ買ったのに行けなくてもったいねえ」
運動会の前日の夜、弁当は何がいいと聞いて来る新一に嘘偽りなく正直に思っていることを言えば、嘘偽りなく正直な気持ちを返された。去年の運動会は、張り切っていた新一は事件が起こり来られず、隣家の灰原と阿笠が運動会に来るという事態になった。故に今年の張り切り様だ。確かに、快斗も新一が運動会で活躍する姿というのは見てみたかった。それが見られるのなら、張り切ってしまうのも道理かもしれない。
そうして翌日の運動会。張り切った新一は見事に保護者席の一番前にシートを陣取り、快斗を撮影した。灰原と阿笠は今年も来ていて、灰原にもスマートフォンのカメラを向けられるものだから、さすがに少し照れた快斗である。
* * *
三回目の運動会の前日、新一がなぜか重箱に弁当の用意をしていた。
「なんでそんなでけーの……」
「おめー食べ盛りだろ」
「いやそうだけど……それにしたってそんなに食えねえって。新一も年で食細くなってきて、」
「ねえぞ」
「……はいはい」
そんな会話をし、これ以上聞き出すことはできないなと諦めて翌日の運動会を迎えた快斗は、保護者席を見て「ゲ」と呟いた。入場前の待機列だったので、隣に並んでいる女の子に「快斗くんどうしたの?」と尋ねられたが、慌ててなんでもないと首を横に振った。しかし意識が向かうのは保護者席だ。見間違いでなければ、去年と同じように最前列にシートを陣取った新一の周りに灰原と、そして服部と白馬がいるのだから。
色めきだっている保護者席は確実にイケメンアラフォー集団のせいである。そこに三十代とは思えぬ美しさの灰原がいるのだからもう収拾がつかない。ちなみに今年博士はさすがに歳なので遠慮したそうだ。
「おー、快斗。一位おめでとさーん」
「黒羽くん、大活躍だったね」
「なんっで! おめーらがいるんだ!」
障害物競走を終え、昼食時間。猛ダッシュで保護者席に向かった快斗を服部と白馬はにこやかに出迎えた。新一が大笑いしているのを横目で見て内心毒づく。犯人はコイツだ。
日本に帰ってきて、快斗は連絡を取り続けてくれていた友人たちにすべてを話した。信じてもらえるかどうかは置いておいて、なんやかんやあって今度の春から小学校に通うと。新一も服部に恋人のことを話したらしい。結果、いろんなことを心配して工藤邸に集結した面々は、こぞって快斗の保護者になった。服部も、白馬も、紅子も、青子も。
「青子くんと紅子くんも来たがっていたんだけど、用事があってこれなかったんだ」
新一と同じく未だ三十代前半に見える白馬が肩をすくめながら言う姿に、コイツ面白がってんなと思いながら快斗はブルーシートに胡坐をかいた。
「重箱の理由はこれかよ」
「そう。ちなみにおにぎりは白馬が青子ちゃんから預かってきたんだぜ?」
「え」
新一にため息をつきながら言えば、思いもよらない言葉が返ってきた。言われてみれば、懐かしい装いのおにぎりが詰まっているタッパーを発見した。鼻の奥がツンとしそうになるのを感じれば、隣からハンカチを差し出される。灰原である。
「哀ちゃん、俺泣いてねえから!」
「あら、それは失礼したわ。てっきり感極まってるのかしらって」
「哀ちゃんなんか俺に対して当たりが強くなったよな……」
「気のせいよ。連絡してくれるのが遅かったこと根に持ってなんかないから」
嘘だ、確実に根に持たれている。涼やかに笑う灰原にぐっと言葉を飲み込めば、ニヤニヤと服部に顔を覗き込まれた。
「なんや、快斗泣きそうなんか? 胸かしたろか?」
「バーロ、それは俺の役目だろ」
「ちょっとナチュラルにのろけ始めないでもらえますかね」
「ほら、早く食べないと休憩時間なくなるわよ」
ひと際にぎやかで異彩を放つシート。こんな日がくるなんて思ってもみなかった。次の年に青子と紅子も集結し、なぜか新一の幼馴染コンビも参加して、更に異彩を放つことになることを快斗はまだこの時知らないのであった。
四七一一
そういえば、声変りは早い方だった。三回目の声変りを経て、まだ安定しない喉の掠れに不快感を抱きながら、快斗はこっそりとベッドを抜け出した。隣で眠る新一は昨晩帰りが遅かったので、きっとまだ起きない。大丈夫だ。
脱衣所にこっそり向かって、ふうと息を吐いた。気配を殺したのなんていったい何年ぶりだろうか。前の人生ではいつの間にかそういうことがなくなったのであまり意識しなかったのだが、今度は意識せざるを得ない。そうだ、あの日もこんな感じで脱衣所に行った気がする。母親にばれないように。廊下の電気を点けず、脱衣所の電気だけ点けて。
服を着替えて、脱いだ服を洗面台でじゃぶじゃぶと洗い始める。何も考えないように手を動かしていれば、後ろからふいに声をかけられ、びくっと背筋が伸びた。
「快斗? どうした? ……あ」
ギギギギと音がしそうな、緩慢な動作で快斗は振り向く。嘘だろ。なんで起きてんだよ。年取ったから眠りが浅くなってんのかチクショウ。振り向いた先には、慈しむように快斗を見つめる新一の眼差し。途端に居た堪れなくなる。手元には水で流しっぱなしのボクサーパンツ。
「待ってろ、赤飯の材料を今」
「ちょっと黙ってくれるか新一。あと今スーパー開いてねえから」
「やべー、感動するな」
「黙ろう新一」
顔にある血管がいきなり皮膚の下で存在を主張しだす。確実にいま、快斗の顔は真っ赤だ。目を新一と合わせるのも恥ずかしい。そう、快斗は二度目の精通を迎えたのである。
新一がいそいそと快斗の元へ寄ってきて、手元を覗き込もうとするのでバッと隠した。実際問題、別にいいのだけどやはり居た堪れないのだ。魂は新一と同じ年だが、やはり体は思春期を迎えているわけで、どうにも感情のバランスがとりにくい。
キス以上のことはこの人生になってまだ行っていない。ここから先、新一がどうしたいのかはわからないけど、多分変化は生まれるのだろうと思う。――だけど、下着の処理をしているときに新一が現れるのは間が悪すぎる。
「赤飯ってどうやって作るんだっけ」
「作らなくていいから!」
四八一二―四九一五
新一に惚れ惚れとしている女性教師。新一の脇を固める妙にもじもじとしているマダムたち。デジャブである。
帝丹小を卒業した快斗は、そのまま帝丹中学校に進学した。学ランを身に纏うのは久しぶりだった。
卒業式には運動会に来た面々がわざわざ見に来てくれて、卒業式の保護者席がかなり華やかになった。帝丹小学校で語り継がれることになるかもしれない。恥ずかしい。
そしてなぜかまたも快斗の担任は女性教師になった。家庭訪問で睨みを利かせたが、どうにも思春期特有の視線だと勘違いされたようでどうしようもない。結果、今回の授業参観だ。こうして快斗は再び鳩を教室に羽ばたかせた。今回は三羽である。身体が大きくなったので仕込みは万全だ。やはり新一は腹を抱えて笑った。
「さすがに目立つから手は繋がないでおくか?」
「仲良し親子ですねーって見てもらえるんじゃね?」
「開き直ってんな快斗」
「俺たちだけがわかってりゃいいんだろ」
やはり校長室に呼び出されたふたりである。だが校長は快斗の話を小学校の校長から聞いていたらしい。小学校の校長にはあまり好感を持たれているイメージはなかったが、どうにも中学校の校長は快斗に面白い子だという好感を持っているようで「ほどほどにね」と微笑まれた。女性教師は不満だったようだが、新一がお世話をおかけしますと笑いかければ渋々頷いていた。
今回も夕飯の買い出しに今から商店街に向かう。新一は毎回学校行事に出来る限り来ようとしてくれる。快斗のためでなく、ただ快斗が学校生活を送っているのを見るのが楽しいからである。そういう奴だ。だから好きになった。もちろん快斗が浮かないようにしてくれている部分もあるだろうが、自分の好奇心に忠実な新一のことを、快斗は好きなのだ。
* * *
たまに、喧嘩をする。
例えば、快斗が体調を崩しているのを隠していたことだとか、新一が靴下をひっくり返したまま洗濯機にいれていただとか、原因なんてそういう些細なことだ。
どっちが悪いのかよくわからないときは、お互い大人気なくムキになって謝り合うことが出来なかったりする。しかし、相手が悪いのに、ムキになってしまったせいで謝罪のきっかけがつかめないんだろうなというときは、お互い謝罪しやすい様な空気を作ることが暗黙の了解になっていた。
新一が悪いとき、快斗は食事にレーズンをふんだんに盛り込む。イラつきをパン生地をこねる手に込めながら、バターとレーズンを練り込む。そして、レーズン入りのカレーを作る。サラダは人参とレーズンのサラダだ。まさにレーズンのフルコース。これが食卓にでると新一は謝ることしかできなくなる。素直に新一が謝ると、ちゃんとレーズン抜きのパンとカレーとサラダが出てくる仕組みだ。もちろんレーズン入りの物は快斗が食べる。
そして快斗が悪いとき。
「てめーおむつ変えてやってたのだれだと思ってんだ」
「はい! その節はお世話になりました!!」
一撃である。これに関して快斗は新一に頭が上がらないのだ。
こうして今回の風邪気味の快斗がそれを黙っていて、新一が仕事から帰って来た時には発熱していたことから勃発した喧嘩は終息を迎えたのである。
鼻水をずびっと啜りながら、新一に乱暴に貼られた熱冷ましシートの冷たさに快斗は目を細める。離乳食づくりで鍛えられたらしい新一のおかゆはかなりおいしい。熱で味がよくわからない快斗のために少し塩っ気を強くしてくれたおかゆをベッドに座りながら快斗は食べる。そのベッドの横には、看病する気満々の新一が座っていた。新一が帰ってくる前にさっさと寝て誤魔化そうと思っていた快斗の魂胆が気に食わなかったらしい。快斗的には仕事帰りの新一がこうやって快斗の看病に精を出すのを避けたかったからだったのだが。もちろん快斗は新一が同じことをやったら腹が立つ。だから今回は快斗が悪いのだ。悪いのだが。
「……つーかおむつネタ新一から持ち出すの禁止にしねえ?太刀打ちできねえ」
柔らかいおかゆをごくりと飲み込みながら、おずおずと新一に進言すれば間髪入れずにあっさりと却下された。
「バーロー、だから持ち出すんだろうが」
「ちくしょー」
壁に掛けてある時計はもう日を跨ぐ直前だ。薬がなかったから飲んでいないと言った快斗に、慌てて新一が隣家に薬をもらいに行って、薬を飲むなら飯を食えとおかゆを作り出したためこの時間になった。もちろんその待機時間、快斗はベッドに横になっていた。横にさせられていたとも言う。
またおかゆを口に運ぶ。米本来のやさしい味がじんわりと広がる。しっかりとお皿の中身を平らげるのを確認した新一に薬と水を渡された。服用するのを凝視されるのはなんだか居た堪れない。
「よし、薬も飲んだし寝ろよ」
「……最初から寝ようとはしてた」
「薬も飲まず俺にも言わずな?」
「……すみませんでした」
やりづらさを感じながら、布団にもぐりこむと、新一が小さく噴き出した。
「俺は今日客間で寝るな。学校には朝一で連絡入れるから、明日は学校休めよ」
「へいへい」
新一が言ったことに頷けば、満足そうに新一は椅子から立ち上がった。ぎしりと軋んだ椅子は、新一の勉強机の椅子だ。壊れることなく使い続けられ、二十年近く使われなかったにも関わらず未だ現役。そう、ふたりの寝室は新一の部屋なのだ。ベッドはさすがに大きいものにしたが。
新一が出て部屋が静まり返る。壁掛け時計の秒針がカチコチと存在を主張してきて気になるが、熱で頭がぼーっとするのも確かで。電気を消して、部屋を暗くするとベッドに今日はひとりなんだなという実感がわいた。
ゆっくり寝ろという意味で新一は客間へ行ってくれたのだろう。風邪を感染さなくて済みそうだし、快斗もそっちの方がいい。しかし、この年にもなって、この長年の付き合いにもなって、寂しいと感じるとは一体どんな状況だと思う。
「……熱のせいだし、新一のせいだ」
新一は快斗を絶対に子ども扱いしない。あえて言うなら恋人扱いだ。体のことは気にしてくれるけれど。それがむず痒くて、有り難くて、ついつい意地を張ってしまうのだ。
自然と瞼が下りてきた。明日目が覚める頃には、また新一がおかゆを用意してくれているのだろう。
五二一六
「……っ」
ツキリと関節に痛みが走って、そのままじくじくと傷みだす。沈んでいた意識が浮上して、痛みの元となっている箇所を自然と撫でたのが隣のぬくもりへ伝わってしまったらしい。
「……どうした?」
ぴっとリモコンの操作音が暗闇で聞こえ、部屋に淡いオレンジ色の明かりが灯る。常夜灯で浮き上がった新一の心配そうな表情に、快斗は苦笑した。
「わりい、起こした」
「全然いいんだけどよ……大丈夫か?」
先日薄いものに変えた掛布団。深夜、窓の外は雨が降っている。ざあざあとさざ波のような音を立てて、外の様子を伝えてくるのは律儀だとすら快斗は思う。
眉尻を下げた新一を安心させるように快斗は笑った。実際、心配することは何もないのだ。
「多分、成長痛」
「ああ……なるほど」
心配そうな気配はそのままだが、表情の強張りは和らいだ。そんな新一にほっとしながら申し訳なさが募る。
新一は、快斗の体調の変化に敏感だ。人とは違う退化と成長をしている身体だから、特に。
ベッドの上で横になったまま向き合う。顔の大きさも、身体の大きさも随分近くなった。手の大きさに関しては、マジックをする分、快斗と新一の大きさは同じくらいで。
「若返りが始まったこのタイミングで最初の変化に気付いたんだもんな」
懐かしむような、そんな雰囲気の中にわずかに紛れる新一の痛みに、そっと掛布団の中で手をつないだ。
「成長期もまったく同じタイミングでくるんだよなあ……」
「ぐんぐん身長伸びてきたな。高校入ってから」
快斗はこの春、高校生になった。
高校はやはり工藤邸の立地から帝丹高校だ。制服は人生初のブレザーである。新一の制服は、以前かなり拝借していたが、快斗本人として袖を通したのは初めてで、かなり照れ臭かった。新一が物珍しそうに見てくるので特に。隣家の住人も同じくだ。
「こうしてみると、やっぱ似てるけど似てねえな」
なんて顎に手を当てて言った新一はやはり家庭訪問で教師を虜にした。今年は男性教師だったが、どうやら純粋に工藤新一のファンになったらしかった。
小・中は問題児に率先してなったが、結局は生来の性格でムードメーカーになってしまった。別に悪いことではないのだが、精神年齢が上の快斗がそれを担うのはどうなんだと少し思っていたもので、じゃあ高校はどうするかと考えているうちに、なんだか快斗を見る女生徒の視線が熱を持っていることに気が付いて、快斗はしまったと思った。身長がぐっと伸びたので、快斗の明るい性格に、隠しきれない頭の良さ、身体能力の高さ。そこに加えて快斗のスタイルの良さときたら、モテるに決まっていた。
「なーんか、普通の十六歳とは思えねー色気もあるしなあ」
身体年齢は一緒の同世代の青春を奪ってしまった気がしてさすがに「さすが俺様」と言えないと頭を抱えた快斗に、恋人様は苦笑して言った。『江戸川コナン』のときの感覚に近いものがあるのかもしれない。身体年齢があるのでそれなりに順応はするが、やはり経験の差というのは大きいのだ。それでなくとも快斗も新一も、濃い人生を歩んできているのだから。
そんな経緯で、快斗の身長は伸びているのだが、ここからさらに伸びるらしい。
「……不安?」
快斗が尋ねれば、新一は薄く微笑んで、快斗を抱き寄せた。もう快斗と新一の身長差は数センチだ。身体がすっぽり収まることはない。素足が触れ合った。もうすぐ、快斗と新一が出会ったころの身長になる。
「ないって言ったら嘘になる。おめーは?」
「……すっげー不安」
「素直でよろしい」
「なんかムカツクな」
「はは、寝れそうか?」
「多分な。慣れてきた」
「じゃあ電気消すぞ」
「おー」
またリモコンの操作音がピッと鳴り、今度は部屋に暗闇が落ちる。不安をかき消すように、ぎゅっと抱きすくめられた。抱きしめ返す快斗の腕は、もう背中にしっかりと回すことが出来る。
五三一七
ふたりの誕生日はいま一緒だ。だから、新一が自分の誕生日を忘れることはなくなった。しかし、ふたりにとってやはりしっくりくる快斗の誕生日というのは六月二十一日だ。
「五月四日におめーが戻ってきたのは俺の誕生日プレゼントってことにしてるんだ」
なんて気障な事をさらっと言ってのけた新一に赤面したのは確か快斗が四歳の頃だ。六月二十一日に誕生日を登録しようという考えは、快斗が戻ってきたときになかったらしい。出生届は生まれてすぐに出すのが鉄則だが、快斗の出生はその時点でどこの病院にも記録されていなかったので、いつ出してもよかったのだ。つまり六月二十一日に誕生日をすることだってできた。
だが、とにかく快斗の存在をこの世に認めさせ、一緒に居られるようにしなければと新一は動いた、そうだ。全部新一の口から聞いた。新一の気持ちを思えば申し訳ない気持ちにも有り難い気持ちにもなるが、こんな風に言われては照れるしかない。冷静沈着なくせに、たまに猪突猛進なところが新一にはある。そもそもが熱い男だからしょうがないのかもしれないけれど。
というわけで、快斗はいま新一に一年に二回誕生日を祝われることになっている。
「十七歳おめでとう」
「……先月も言われたぜ、それ」
この会話も毎年恒例だ。快斗の返しは、やはり照れが混じっている。
この人生になる前。つまり若返りの最中。快斗は新一に誕生日を祝われるのが嫌だった。刻一刻と新一との別れが近づいてきているだろうに、と。それでも快斗が生まれたという事実は変わらないと、新一は祝ってくれようとした。その気持ちだけでも十分だったのだ。なのに、新一はいま、どうやら以前きちんと言えなかったおめでとうも言葉に込めて一緒に言っているらしい。溢れんばかりの愛は、快斗には照れくさい。しかし、いまは素直に受け取るしかない。
「好きだぜ、新一」
「俺も」
今年、快斗は新一と出会った年齢になった。
五四一八
ずっと、気になっていたことがあった。それはふたりの不安だったし、すべてを話した友人たちの不安でもあった。
「再び若返る可能性があるとしたら十七歳の終わり。前回十八歳の成長を迎えることなく若返ったのだから、どういう作用が働いているのかなんて科学者からしてみたらもうお手上げ状態だけれど、あなたの魂と身体に十八歳の記憶はない。だから十八歳の成長を身体に刻み込めるかどうかがミソだと思うの」
日本に戻ってきて灰原に身体検査を快斗が受けたとき、灰原はふたりが気になりつつも口に出せなかったことをはっきりと言ってくれた。
だから、快斗が戸籍上の十八歳の誕生日である五月四日を迎え、すべての契機である十八歳の六月二十一日を迎え、身長が一七五センチになったとき、心から安堵することが出来たのだ。身長を測る灰原の挙動を静かに見つめていた新一が、快斗の身長が一七五センチになっていると知った瞬間「あー……」と低く唸ったのを、快斗はきっと、ずっと忘れられないだろうと思う。すべてがあの呻き声に詰まっていた。だから快斗は腹からそんな新一を笑って見せた。灰原は呆れたポーズをとりながらふたりを眺めていた。そして「緊張で心臓がとまりそうじゃったわい」と言った博士に「シャレになんないからやめなさいよ」と叱りつけていた。
吉報はすぐに友人たちに知らされ、快斗の十八歳の六月二十一日は賑やかな夜となった。
友人たちを見送ったのは二十三時。残り一時間で六月二十一日が終わるタイミングだった。食器をキッチンで洗う快斗の隣に並んだ新一の身長は、一七六センチでストップした。あと一センチで快斗は新一の身長に追いつく。
「今日この日が来るのが、とにかく待ち遠しくて、とにかく怖かったよ」
新一が快斗の洗った食器を受け取りながらぽつりと言った。なんにも言えず、快斗は食器を洗う手を止めて、隣に立つ新一の顔を見る。
水が流れる音と、新一が食器を拭く布巾の布擦れの音がキッチンに落ちている。同じ高さで視線が絡み合う。
「怖かったのか」
「ああ。六月二十一日を嫌いになりたくなんてなかったから」
そう言った新一は凪いだ海のような目をしていた。たまらなくなって、持っていたスポンジをシンクに落とし、泡も流していない手で新一の腕をつかみ引き寄せた。
音もなく、新一は快斗の腕の中に入った。キッチンには水の音が鳴り続けている。
掴んだ新一のシャツが、濡れた快斗の手のせいで湿っていく。だけど咎められることはない。新一の手が快斗の背に回されたのを合図に、快斗も新一の背に腕を移動させた。
同じ高さで、同じ視線で、きついほど抱きしめ合える喜びを、ふたりは誰よりも知っている。
「快斗。誕生日、おめでとう」
「ありがと……ありがとう、新一」
新一からの誕生日祝いにはじめて快斗は素直に礼を返した。それは、あと三分で日付が変わる、そんなタイミングだった。
五五一九
高校三年生の冬、現役高校生ながらマジシャンとして活動していた快斗は、マジック協会の重役に見初められ、マジック世界大会への推薦を獲得した。イベント会場やボランティアでマジックをしたりしていたのだが、どんな時だって話はどうなるかわからない。
やはりマジックは好きで、父親を超えるマジシャンになりたいという気持ちはずっとあったのだ。どのみち進学するつもりはなかった快斗である。二つ返事で推薦を受けることにした。
高校卒業後の初めての夏、快斗はスーツケースにいっぱいのタネを仕込んで空港に向かった。もちろん隣には新一の姿もあった。
「おめーと飛行機乗るの久しぶりだな」
「最後いつだ? 俺が中学のとき? ハイジャックに遭遇した時か」
「……そういう覚え方やめねえか快斗」
「わりいわりい、じゃあ沖縄旅行のとき以来だな」
ケケケと歯を見せながら国際線の自動ドアをくぐる快斗に、新一は気まずそうに頬をかいた。
日本に帰ってきてから多忙な新一が、快斗とゆっくりしたいからと年に一回まとまった休暇をつくり、旅行に行っていたのは快斗が中学校二年生までだった。飛行機に乗ればハイジャック、バスに乗ればバスジャック、電車に乗れば爆弾騒ぎと事件に遭遇し続け、結果快斗が中学校三年生になった年からは家でゆっくり過ごすことに変更したのだ。
そんな軽口を叩きつつ、出国し向かったのはパリ。世界大会が行われる土地だ。そして、ふたりにとって懐かしい土地。
「あそこにあんなビルあったか」
「いや、なかった。日本に戻った時も大概ショック受けたけど、パリでも受けることになるとは……」
「ロンドンとか行ってもこうなるんだろうな」
「……パン屋大丈夫かな」
「……大会終わったらその足で向かってみるか」
「賛成」
青空の下を、スーツケースを引っ張りながら手をつないで歩いた。久しぶりに外で手をつないだ。
そうして迎えた世界大会で、快斗は見事に歴代最年少グランプリを勝ち取り、その場で世界的なアパレルブランドとスポンサー契約をし、プロマジシャンとしてデビューすることとなった。
「まさかラッキーキャットが現れるなんて誰も思わなかっただろうな」
「お、新一も?」
「ああ、俺も予想外だった。いつもおめーには驚かされるけど、マジックや演出で純粋に驚かせて来るんだからすげえよな」
優勝記念パーティーを終え、ホテルに向かう最中に新一が楽し気に言うものだから、快斗の心も踊った。
快斗をグランプリに導くことになった快斗のショータイム。出場者の中で最年少の子どもは、黒のタキシードに猫のお面をかぶって現れた。何人か客席で表情を変えた人間がいたのを、快斗は嬉しく思いながらマジックを繰り広げた。途中からはお面を外して。
「あのとき十歳かそこらだったはずのラッキーキャットのお面をつけて、三十年近く後に歴代最年少の十八歳がマジックをやるんだ。当時を知ってる人間としちゃ、八年後に再び現れたどっかの白い怪盗の年齢がかなり若い気がして、辻褄があわないと眉間に皺を寄せる現象とよく似てるよ」
肩をすくめながら、それでもやはり楽し気に新一は言う。新一を驚かせることが出来るというのは、エンターテイナーとして誇りだと思う。自然と口角が上がるというものだ。
「ま、歴代最年少ってあたりがちょっとズルしてる気にもなるんだけど」
しかし、新一に手放しに褒められるのはやはり照れくさくて、快斗は話題を変えた。ガス灯に照らされる石畳の道は昔と変わらない。変わらない物に安心してしまうのはきっと人間の定めだ。
「身体年齢は歴代最年少だし、誰よりも苦労してきてるんだからこれくらい気にせず貰っとけよ。若返りがなかったら、どうせ同じタイミングで貰ってたろ」
さらっとそんなことを返されて、歓喜で震えそうになるのを、快斗は会場で渡された大きな花束を揺らすだけでなんとか留まった。もちろんこの花束も新一からもらったものだ。色とりどりの、そしていろんな種類の花を新一は包んでくれていた。きっと一輪一輪に新一の込めた思いがあるのだろう。あとで、ちゃんと確認してやろうと思っている。最近少々のことでは新一は動揺しなくなった。年齢のせいかもしれないが、快斗はそんな新一の表情を崩すのが楽しいのだ。
快斗の優勝を端から疑っていなかった新一は、舞台上から見た観客の誰よりも快斗のマジックを楽しんでいた。何百席とある観客席の中でも快斗にははっきりと新一の顔が見えていた。それは何年間も、快斗が夢に見ていた景色だった。
白い衣装を身に纏っていた時。ずっと、小さな探偵のことを気に入っていた。生意気なクソガキは、ただのクソガキではないと知れば更に気に入る他なかったし、興味だって沸いた。
だけど相手は探偵で、快斗は怪盗だった。対峙することはあれど、手を貸すことはあれど、手を繋ぐことはない関係だ。
快斗は工藤新一を知っていたけど、それは情報だけで構築された工藤新一だったし、新一に関しては黒羽快斗の存在すら知らなかった。――もし、普通に出会えたら。
そんな考えを血迷い事だと一笑しながら、怪盗として探偵と対峙し続けた。最後の最後まで。
「確保」
腕を掴まれたあの時。新一が帝丹高校のブレザー姿で、快斗が江古田高校の学ラン姿だったあの時。正真正銘、快斗は捕まったのだ。怪盗と探偵であり続けようと思っていたのに、そんな考えを何を言っているんだとばかりにわし掴まれた。
普通に出会えたわけではないけれど、工藤新一と黒羽快斗を、新一は出会った。新一のおかげで。
ふたりの状況は前後関係からも快斗から行くことなんてできなかった。怪盗をやっていた快斗から行くと、探偵に迷惑がかかるだけなのだ。新一がいろんなことを見逃した上で、新一から快斗の元に来なければ成立しない、そんな関係。
だというのに、わくわくとした目で、後先考えず新一は快斗を追いかけてきた。怪盗でもなんでもない、元怪盗であった、ただの高校生黒羽快斗を、だ。それがどんなに快斗の心の奥をしびれさせたかなんて、新一は知らないだろう。知らなくていい。これは、快斗だけが知っていればいい。
怪盗キッドのマジックを解き明かそうとする江戸川コナンが好きだった。黒羽快斗のマジックを解き明かそうとする工藤新一の表情を、舞台上から見下ろすのが、その日から快斗の密かな夢となった。
夢は夢のまま終わってしまうのだと、諦めた夢だった。
自分の事のようにグランプリを喜んでくれたかと思えば、花束を快斗に押し付けながら新一は「三番目のマジックのタネが理解出来ねえ。あれは……」とぶつぶつ大会の会場で話し出すものだから、快斗は大慌てして新一の口を手でふさいだ。手の下でもごもごと言うので手を放してやると、
「魔法の手でふさがれちまったから、とりあえず黙る」
なんてニッと笑って新一が言うので、いろんな感情を乗っけて快斗は新一の脛をつま先で小突いた。きっと、この会話も夢の一部だったから。
* * *
「なあ、あれって」
「ああ……後継者、見つけたんだな」
店の外から覗き込んだ中は相変わらず繁盛していた。厨房にはちゃんとパンが焼けるのか心配してしまうくらいの老夫婦。そして、その老夫婦と一緒に作業している、優しい雰囲気の青年。販売の方にも従業員の女性がいた。青年の奥さんだろうか。
快斗と新一をかわいがってくれた空間は、変わっているけど変わっていなかった。それが嬉しくて、ふたりはベイカー街の片隅で顔を合わせて笑った。
「なあ、新一。俺、ちょっと老けメイクしてくるから、店入らねえか?」
「俺は最初からそのつもりだったぜ? 早くしてこいよ」
「おっけ! まだ入るなよ!」
あの夫婦に気付いてもらえないなんてことは、きっとない。だから、快斗の年齢の辻褄が合わないと、あの夫妻は驚くだろう。ご老体だ。驚かせすぎは禁物である。
快斗は走って近くの商業ビルのトイレに駆け込んだ。成熟したベイカーストリートイレギュラーズはどんな顔だろうかと考えながら、メイク道具を取り出し、鏡に映った緩んだ自分の顔に小さく噴き出したのだった。
五六二〇
初の世界ツアーが終わったのは五月二日。そこから飛行機に飛び乗って、乗り継ぎながら日本の玄関に着いたのは五月三日の夜更けだ。
到着ロビーで待っていたのは、どうみたって五十代後半に突入したとは思えない有名な探偵。体型が崩れることもないのは恐れ入ると思う。四十代に見られることは日常茶飯事らしい。なんで色気は増すのに顔面に皺が出来ないのか。工藤新一の不思議だ。やはり年齢不詳の母親の血を引いているからだろうか、なんていまだに若く美しい有希子の顔が頭をよぎった。先日会った時も理解できない美貌を見せつけてくれた。快斗の母親も年齢不詳の美人ではあるが、有希子はいっそ不老を疑うレベルだ。
「おかえり快斗」
「ただいま新一」
大量の快斗の荷物は先に工藤邸に送ってあるので、荷物はスーツケースひとつだ。涼やかな声が耳に馴染んで、快斗は目尻を下げた。世界ツアー中も何度か都合をつけて新一はショーを見に来てくれた。用意した特等席には座らず、一般席で見ると言い張るのだから軽い喧嘩になったことはご愛嬌。「ひとりのおめーのファンとして今回は見たい」と言われたらぐうの音も出なかった。
「時差ボケは?」
「全然平気。飛行機の中で熟睡してきたから夜通し飲めるぜ」
「……俺の体力が持つかな」
「バーロ、哀ちゃんから派手な捕物劇に意気揚々と参戦してたって聞いたぜ? ったく、無理すんなよ。若く見えても年齢は重ねてるんだから」
「うわー灰原から逐一報告いってんのかよ」
「仲良しですから」
ふふん、と右側の唇の端だけ引き上げ笑ってみせると新一が自身の後頭部をわしわしと掻いた。若い頃から変わらない仕草だ。
「そういや荷物受け取ってきたけど、ワレモノって何送ったんだよ」
気を取り直して新一が話題を変える。送ったものを一応チェックしてくれたらしい。荷解きはしてないだろうなあ、なんて思う。快斗が自分のものを勝手に触られるのが嫌がるのをわかってくれているのだ。新一なら別にいいのだけれど。
「ワイン。スタッフさんがすげーオススメしてくれてさ。ロシアでオススメしてくれた店もかなり美味かったから舌は確かだと思うんだ」
「へえ、楽しみ」
空港ロビーを歩くふたりの足取りは、行き交う人間の中で一番軽い。日を跨げば、快斗は二十歳になる。
家を出る前に新一が用意してくれていた食ベものをリビングのテーブルに並べる。
「まずはビールでいいんだろ?」
新一の問いかけに快斗がこくりと頷くと、新一が冷蔵庫から瓶ビールを二本取り出し、冷凍庫から冷えたグラスを取り出した。もちろんこちらもふたつ。
この家の持ち主の名義は日本に帰ってくるとき新一へ渡されている。だから、この家は新一と、そして快斗の家になった。
去年新調したラグは、優作から快斗へプロデビューの祝い品だ。以前使っていた物よりも毛足は短いが物は確実に良くなっていて、さすがの快斗も恐縮した。「君の父親の分も勝手ながら祝わせて貰ったよ」なんて言われたら受け取らざるを得なかったけれど。まったく工藤家はずるい。いまや快斗も工藤を名乗っていることはここでは置いといて。
そんなラグにソファを背にふたりは横並びで直接座り込んだ。テーブルを挟んで正面にはテレビ。
「ほら、快斗」
新一が瓶ビールを片手で持ち上げ、注ぎ口を快斗に向けるので、快斗は思わず姿勢を正し、グラスを両手で持って新一に差し出した。堪えきれないように新一が小さく噴き出して、しかし手慣れた様子で快斗の持つグラスにビールを注いでいく。
「じゃあ俺も」
足は崩さないまま、綺麗な比率で注がれたビールの入ったグラスをテーブルに置き、快斗も新一が持ったグラスにビールを注ぎ入れた。
世界ツアーの日程が決まり、誕生日前日に帰ってこれると発覚したその日「誕生日プレゼントは何がいい」と聞いてきた新一に快斗は「一緒に家で乾杯したい」と答えた。それに一瞬息を詰めた新一は、すぐに大きく息を吐き出し、優しく笑った。
同じ年のふたりは新一が二十歳を迎えたその年、乾杯することは出来なかった。もう遥か昔のことだ。しかし、軽口のように言ったけれど快斗の密かな夢のひとつでもあったのだ。新一と、酒を飲み交わすことは。子どもと子どもの姿で出会い、再会して、成長し、大人と大人のやりとりをすることが。
「じゃあ俺の誕生日プレゼントもそれで」
そんな快斗の意図を間違うことなく汲み取った新一の笑みは、壮絶に綺麗だった。思わず快斗が赤面するレベルで。ちなみに新一も二十歳を迎えて以降飲んでいなかったが、快斗がいなくなった期間に酒を飲み始めたらしい。「何度か酒には助けられたんだ」と苦笑した新一に、快斗はなにも言えなかった。新一は快斗がいなかった時のことをあまり語らない。快斗が戻ってきて以降は酒は付き合いで飲む程度らしい。だから、快斗は新一が酒を飲む姿を今日初めて見る。
「今から飲むんだから、足くずせよ」
「……なんか緊張する」
「おめーも緊張すんのか。世界的マジシャンカイト」
「世界的マジシャンも恋人との初めてはいつでも緊張するよ」
「ははっ、そうか」
ふたりは互いに注ぎあったグラスを右手に持った。新一に言われた通り快斗は足を崩そうとして、やめた。不思議そうに新一が快斗を見やる。
「あのさあ」
せっかく冷やしてくれたグラスの温度が下がってでも、いま言っておきたい言葉が快斗にはあった。
「そろそろ飽きたかもしれねえけど、これからもずっとそばにいて欲しい」
テレビからはくだらないバラエティの音が流れている。だけど、今日は、目を見て言った。
快斗の言葉に目を丸くした新一は、その大きな瞳をずっと細め、そして穏やかに笑った。目尻にシワが出来ているのを快斗は気付く。
「先に俺は死ぬぞ」
やはり新一の笑顔は綺麗で、言葉はまっすぐだ。鼻の奥がツンと痛む。涙腺に熱さを感じながら、それを堪え、快斗は言葉を続ける。
「そうだな。それでも、そばにいたいんだ」
「介護とかさせるかもしんねえし、ボケてお前のことわかんなくなるかもしれねえ」
「バーロー、それがなんだ。おめーは俺のおむつ何年間かえて、何年間俺がお前のことわからなかったことを耐えたんだよ」
「……俺が死んだあと、おめーちゃんと死ねるのかよ」
ここで未だネックになっていることを持ち出す新一はずるいと思いながら、快斗はくしゃりと笑った。
「そしたら、俺はおめーの生まれ変わりが現れるのを待ってるよ。お前がくれた苗字と一緒にな」
柔らかいラグの上で、新一の右手と、快斗の左手が重なり、指を絡ませあった。互いの温もりが嬉しくて、自然に距離が近くなる。
「……乾杯するか」
「おう」
こつんと額をぶつけながら、笑いあう。繋いでいない手で持つグラスをぶつけあって「乾杯」と言葉を重ねた。部屋に響いた涼やかな音を、きっと快斗は、ずっと忘れないだろう。
おわり