なみのりすと

人生の波にのって、楽しく生きるライフログ。

続・学校教育なんてもういらない ~ コメントへの感想など

昨日書いた記事ですが、はてなブックマークの「総合の人気エントリー」に入ったおかげで、かなりの反響がありました。

 

www.naminorist.com

 

で、初心者ブロガーの僕はどう思っていたかというと「うわーなんかめっちゃ見られてるー、はてブでコメントされてるー」とはしゃいでました。

 

この記事をなぜ書いたかというと、実は最近「中田敦彦のYouTube大学」にハマりすぎていて、「教育系の動画配信はまだまだ伸びるし『量』も『質』近い未来には爆発的に伸びる」との単純な思いから勢いで書いた面が大きいので、考察が薄くて抜け漏れが多いのはその通りです。

 

あと「学校教育なんていらない」というタイトルだけど、本当は「いまの学校教育ぜんぶいらない」じゃなくて「いまの形の学校教育はいらない or 変化する」という主張なので、釣り針デカかったのはここで謝っておきたいです。ゴメンナサイ。

 

一応、はてなブックマークでたくさんのコメントをいただいたので、気になったコメントにだけ好き勝手に感想を書いてこの件は終わりたいと思います。

 

 

コメントへの感想とか

学校には「託児機能」がある

完全に頭から抜け落ちてました、コレ。

学校以外のコミュニティで同様の役割を担えるものというと「学童」があるけど、いまの学校の規模感でスライドしてきたら受けきれない。

また今後そのようなコミュニティが出てくるとも考えらえれない。

 

「給食でしか1日の食事が摂れない子の救済や、虐待のSOSをキャッチする機能がある」という意見もあり、学校には子供の生活状況の公的なチェック機関としても役割があるということですね。

 

しかし、「教育」だけでなく「託児や生活指導」まで含めてすべて「学校」という一つの組織が担っているという事実は、「教師」かかる負担の大きさを改めて感じさせます。

 

何らかの強制力がないと人は勉強しない

それはその通りで、そういった意味での学校は残ると思います。

例えば「ライザップ」ではないですけど、ちゃんと進捗を管理する体制は必要。

 

ただこの辺、少なくとも小学生くらいの年齢だと結局は「学校という場への時間的拘束」以外の「簡単な強制力」を見出すのが難しいのかもしれませんね。

 

格差が広がる、学校には底辺を救い上げる役割がある

底辺を救い上げる役割は必要ですし、前回の記事でも別にその役割を「放棄する」とはいっていません。

学校には「底辺を救い上げる役割」が必要で、なおかつ「伸びしろのある子の足を引っ張らない仕組み」が必要だと思っています。

つまり、「下は最低限だけど上は無限大」という意味での「格差」は許容すべきと考えます。

 

スタディサプリでは内容不足、リテラシーない奴は無理

内容が足りないのはまあそうでしょうね。でも足りないなら作ればいいだけです。

ただし、リクルートの食い物にされるのは僕も嫌。

 

「リテラシー無いとそもそも知恵が手に入る場所にたどり着けない」って、それはいまの教科書と一緒で「国が審査して整備」すればいい話。

できるかは知らんけど。

 

まだ28記事めでこうなっちゃうのキツくないかな?

「おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。」

なんかご心配おかけしてすいません。

 

もうひとつのテーマ「教師の負担を減らしたい」

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前回の記事では上手く消化しきれなかったので書かなかったテーマがありまして。

それは「教師の負担を減らしたい」ということです。

 

はてなブックマークのコメントを読んで、学校という組織は非常に幅の広い役割を担っているということを再確認しました。

それだけ学校、そして「教師」という存在の役割が大きいということです。

 

僕の親族・友人に、休職中の教師が2人います。

いずれも業務多忙による精神疾患が理由です。

 

「学校や教室という『ハコ』については考え直すべき」という意見がありましたが、確かに学校は「閉じすぎている」し、もっと役割をアウトソーシングしていいと感じています。

 

例えば地元の中学校は、僕が通っていたころは「部活に入るのが必須」でした。

しかし、いまは外のスポーツクラブや習い事で決まった時間に活動していれば、部活に入らなくても良いのだそうです。

 

だから「教えること」だってアウトソーシングしてもいい。

オンライン学習が学校教育のすべてを代替するのは難しいかもしれませんが、その一助になればと良いなと、そう思っています。