[小沢一郎 妻からの離縁状](週刊文春 2012年6月21日号) 「週刊文春」(6月21日号)が「小沢一郎 妻からの『離縁状』」とのタイトルで、民主党の小沢一郎元代表(70)の妻、和子氏(67)が支援者に宛てた手紙を全文公開した。そこには「(東日本大震災後、小沢氏は)放射能が怖いと逃げた」「国のためどころか害になる」などと衝撃的な内容が記されている。[ZAKZAK 2012/06/15]
登録者:自称人民解放軍の司令官に相応しい人格だと思いました。
尚、「
吉田清治の長男、衝撃の告白[新潮45 2016年9月号]」
[吉田清治の謝罪碑を書き換えたのは私です『新潮45 2016年9月号』] と[
在日特権と犯罪 板東忠信著]を追加登録しました。
何だか、吉田氏と小沢氏が似ているように感じたからです。(2016/09/08, 2016/10/13)
政局がにわかに緊迫してきた。野田首相が政治生命を賭ける消費増税法案の採決が迫り、小沢グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は小沢氏の政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に宛てた悲痛な手紙を公開する![松田賢弥]
まだ強い余震がある中、お変りございませんか。
この度の大震災ではさぞご苦労があったと思います。ご家族・ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。何のお手伝いもできず申し訳けありません。故事の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情なく思っています。
このような未曾有の大震災にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。
八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰れでもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ」お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手つだっても、もらった覚えはない。何もしていないのに、うぬぽれるな」と言われました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になリ、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在までやってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていたヾいたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙の時には、皆さんがご菅労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。
隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。S.Pさんや秘書の手前、料理や洗濯は変らずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。
それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をきすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。
■「なんですぐ岩手に帰らないのか!」 ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。
三月十一日、あの大東災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情なく仕方がありませんでした。
そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書達を逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子きん達もどこか逃げる所を考えて下さい」と言うのです。
福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの! なんですぐ岩手に返らないのかー 内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。
川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われたからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖きに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのてす。
私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げだすとは何事ですか」と怒鳴りまLた。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。 小沢は「じゃあしょうがない。食料の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。女性秘書達と川辺の家族は一ヶ月余り戻ってきませんでした。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。
彼らに一緒に岩手に行こうと言われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
三月十一日「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さい」と書生が言いに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に水道水を使います」と言いましたら、それなら先皇のご飯は僕達で作りますと断ってきました。
それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。「東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。
三月二十五日になってついに小沢は耐えられなくなったようで旅行力バンを持ってどこかに遂げだしました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。
その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った? こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行ってません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜若手議員を集めて酒を飲みながら管内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが教射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいら首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。
この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。
本当に情なく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会長にまで相談していました。
もう岩手のことは頭になかったのでしょう。
■放射能をおそれて魚や野菜を捨てた こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたかと思うと申し訳けなく恥づかしく思っています。
、更に五月たは長野の別荘地に土地を買い計画図を書いています。
多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら充分でなく不自由な避難生活を送られている時に、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィス0という会社名義で土地を買いい、秘書の仲里が担当しているということでした。
天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の観察と称して釣りに出かけました。
千乗の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。
かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。
長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受けとったら岩手に義満金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。
ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。
七月には別の所に住所を移しました。
ご家のご多幸を心より祈り上げております。
小澤和子
(注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)
■松田賢弥『闇将軍 野中広務と小沢一郎の正体』 - 【小沢一郎の母・ 荒木ミチ】
- 済州島出身の朝鮮労働党員、コリアン売春宿の女将。小沢一郎に実姉のスミ子、則子がいるが 養女という形。浅草の泥棒市で日本人の戸籍を入手。
岩手出生としているが、住民は一郎が居たのは中学一年の一年間だけと言う。
- 【小沢一郎の父親】
- 小沢佐重喜は東京で自称弁護士 として北朝鮮の工作員として活動。
戦後、岩手方面に進駐した「朝鮮進駐軍」の指導者となり拠点を作る。朝鮮進駐軍の小沢部隊、 戦後に日本人を虐殺していた朝鮮総連の武装テロリスト工作員の親玉。
下記、Netより
◇東日本大震災から1年3ヶ月:
全員家族のもとに還したい
行方不明者1200人以上を捜索する岩手県警の月命日 十日、午前九時半。被災して現在は使われていない旧釜石署庁舎前に、百三十六人の警察官が集まった。東日本大震災の行方不明者摸索に際しての出動式だ。釜石暑からは五十人。他は、県警各署や全国からの応援出向警察官だ。
未だ千二百人以上の行方が分からない岩手県では毎月、月命日に当たる十一日前後に、警察署員、海上保安署員による大がかりな捜索を行なっている。
他地区に先駆けて十日から捜索を開始した釜石署員らは、まず鵜住居小学校のプールに向かった。重機を使って、プール内に溜まっているヘドロを掬い、その中を丹念に調べ上げる。あいにく朝から雨が降ったうえ、ヘドロからは強烈な異臭が漂う。しかし、隊員の士気は高いまま。
続いて、近くに建つ釜石未申学校そばの沼に移動した。
「ここを調べて欲しい、と住民から依頼がありました」
彼らを突き動かすのは、全員を家族のもとに還したいという一念だ。地域に住む人が「ひょっとして」と感じる場所であれば、なおさら熟も入る。
県南の大船渡署では、翌十一日から四十五人が陸前高田市沿岸部を摸索した。海上保安署員は、二艘の小舟を出して海上から。警察官は、危険な岩場を歩いて。
「絆」「がんばろう日本」といったフレーズは、いつしか聞こえなくなってしまった。しかし被災地では、今なお地道な捜索が続けられていることを知っておきたい。
(週刊文春 2012年6月21日号)
「小沢は放射能怖くて逃げた」週刊誌報道に驚き 2012/06/15:産経
発売中の週刊文春(6月21日号)に載った「小沢一郎 妻からの離縁状全文公開」には驚いた。「小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。…岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました」。地元・岩手の有力支援者に宛てた妻和子さんの手紙では、東日本大震災直後の小沢氏はかなり狼狽していたようだ。
和子さんが「私は逃げません」と激怒すると「じゃあしょうがない。食料の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と書生に命じ、その後は鍵をかけて全く外出しなかった、との記述もある。震災直後、なぜ小沢氏が被災地に駆けつけないのかと思ったが、「そういう事情か」と謎が解けたような感じだ。
かつては、ときの総理大臣より権勢を誇り、いまも影響力を持つ小沢氏だが、和子さんの記述通りだすれば虚像と実像の落差はあまりにも大きい。「国民生活が第一」と口では言いながら、国民の生命、財産を守る国会議員としての使命はどこへやら、ということになる。
長い間一番身近にいた妻に、人には絶対知られたくない部分をここまで暴かれると、ふつうの男なら立ち直れないかもしれない。それでも、小沢氏はグループの親分としては消費税政局が大詰めのいま、増税法案が採決に突入した場合、造反し除籍覚悟で神輿を担いでくれる議員たちの手前“虚勢”を張り続けなければならない。
しかし、その数は30人にも満たないとの見方もある上、この醜聞では“宮入り”前に神輿は放り出されかねない。かつての「剛腕」もいまや哀愁さえ感じる。「愛人」「隠し子」まで出る刺激的な記事を一言で表せば「面白うて、やがて哀しき…」ではないか。
原発事故で出動の福島県警警察官:小林良樹慶応大教授の調査
「死の恐怖」68%「任務放棄考えた」41% 産経2013/03/08
一昨年3月の東京電力福島第1原発事故で、原子炉建屋の爆発直後に住民の救出や避難誘導に当たった福島県警の警察官は、68%が死の恐怖を感じ、41%は任務の放棄も考えた。
任務放棄の気持ちが生じたのは、ほとんどが自分や家族の安全を心配したことが理由。ただ実際に現場を離れた人はおらず、「任務を継続できたのはなぜか」の問い(複数回答)には、92%が「仲間との連帯感があった」、85%が「使命感や誇り」と答えた。
小林教授は「素晴らしい頑張りだったが、彼らをヒーロー視するのではなく、連帯感や使命感を育む組織づくりや幹部のリーダーシップ養成、家族の安否を確認できるシステム構築を進め、首都直下地震など想定される危機への冷静な備えが必要」と提言している。
建屋が爆発した23年3月12~14日、原発周辺に出動した管轄の双葉署員と機動隊員ら計125人に書面でアンケート。うち11人は面談して聞き取り調査した。
調査結果によると「死の恐怖を含め放射線の危険に強く懸念を感じた」(85人、68%)「一定の懸念を感じた」(30人、24%)と、合わせて9割以上が不安を抱えながら行動。自由回答では「原発から上がる煙を見て死を覚悟した」などの記述があった。
任務放棄の気持ちが「強く」「多少は」生じたと答えたのは52人(41%)。「逃げたかったが、誰かがこの仕事をやらなければならない」「辞職も考えた」と苦悩した胸の内が明かされた。任務放棄の気持ちが「生じなかった」は70人(56%)だった。
- ■産経:「日本有数の技術屋だ」 吉田氏高く評価。2014/08/18
- 「吉田調書」では現場の作業員について、「日本有数の技術屋」「危険な現場に自ら率先して行こうとすることに本当に感動した」と、高く評価する。調書からは「フクシマ・フィフティーズ」と世界が称賛した勇敢な姿だけでなく、現場の作業員の有事での工夫と判断力で事故の被害を最小限に抑えられたことが浮かび上がる。
平成23年3月11日に全交流電源喪失後、2号機では原子炉隔離時冷却系が動いているか確認できない状況が続いていた。12日午前2時55分に冷却系の運転を確認したが、バッテリーが8時間しか持たないことから、電源の選別が迫られた。
この時の状況について、吉田氏は「うちの連中は、車のバッテリーを外したり、ものすごい知恵を働かせてやれることを全部やった」「不要な負荷を全部切ったのは現場の判断。私がそこまで言っていない。私はそこまで分からないというか、逆によくやってくれたなと思っている」と、現場が瞬時に状況判断したことを評価した。
さらに、事故直後に専門技能を持つ協力企業もいないなかで、ケーブルや給水ラインの調達、接続ができたことについても言及。「口幅ったいようだが、ここの発電所の発電員、補修員は優秀だ。今までトラブルも経験し、肌身で作業してきた経験があるから、これだけのことができたと思う」と評価した。
そのうえで、「私が指揮官として合格だったかどうか、私は全然できませんけども、部下たちはそういう意味では、日本で有数の手が動く技術屋だった」と絶賛した。
3号機爆発直後は、高線量のがれき撤去や注水のためのホース交換をしなければならず、作業員を危険な現場に送り出さざるを得なかった。吉田氏は「注水の準備に即応してくれと、頭を下げて頼んだ。本当に感動したのは、みんな現場に行こうとするわけです」と、危険を顧みずに職務を全うしようとする姿をたたえた。
~ 吉田清治の長男、衝撃の告白 ~ [新潮45 2016年9月号]
止まらない日本バッシング
平成二六年八月五日、朝日新聞は朝刊一面で「慰安婦問題の本質 直視を」と自社の立場を説明する記事を掲載したうえで、一六、一七面の見開き全面を使って「慰安婦問題 どう伝えたか 読者の疑問に答えます」と題する同問題の検証記事を掲載した。八〇年代から同紙が執拗に報道してきた慰安婦問題の記事について、各界から疑問や批判が高まったため、やむなく対処した格好だった。
ここで同紙は、初めて「慰安婦狩り」をしたと話してきた吉田清治氏の証言を「虚偽」と判断、一六本の記事を撤回した。だが、二日続いた検証記事では謝罪の言葉がなく、そこにも批判が集中したため、九月一一日、ついに木村伊量社長や杉浦信之取締役らが会見を開き、謝罪するに至ったのだった。
あれから二年。
国内では、教科書から慰安婦問題の記述が消え、ある程度決着がついたように見える。だが、海外では解決どころか更なる悪化を見せている。慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決する」とうたった昨年末の日韓合意締結後にも、アメリカやオーストラリアで、在米・在豪韓国人、中国系活動家ら(※抗日戦線+韓国系)による反日ロビー活動に拍車がかかり、新しい慰安婦像設置の動きも加速している。また史実にそぐわない慰安婦問題の記述が米国カリフォルニア州の高校教科書に掲載されることが、今年七月、教育委員会の満場一致で決定された。これが他州に及ぶ可能性もある。
何より問題なのは、「吉田証言」を根拠とするクマラスワミ報告が撤回されなかったことだ。
クマラスワミ報告は平成八年、国連人権委員会の決議に基づいて提出された日本への非難勧告書だ。そこでは、第二次世界大戦終了時に行われた米軍の「慰安婦」等への聞き取り調査とともに、吉田証言が重要な証拠として出てくる。
中にはここうある。
「強制連行を行った一人である吉田清治は戦時中の体験を書いた中で、国家総動員法の一部である国民勤労報国会の下で、他の朝鮮人とともに1000人もの女性を『慰安婦』として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している」
平成二六年、外務省の佐藤地人権人道担当大使は、作成したラディカ・クマラスワミ女史と面会し、朝日新聞の吉田証言による記事は虚偽であったとする訂正報道に従い、吉田証言の引用部分の撤回を申し入れた。だが彼女は「吉田証言は証拠の一つに過ぎない」とし、いまだそれに応じていない。
また、
韓国政府も平成四年に「日帝下軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を作成して吉田証言を採用しているが、それを取り消したという話は聞かない。
朝日新聞が吉田証言の記事を撤回しようとも、国際的には事態がまったく改善されていないのだ。「(慰安婦は)残虐性と規模において前例のない二〇世紀最大規模の人身売買のひとつである」というアメリカ合衆国下院一二一号決議は、いまも生きている。
慰安婦問題最大の焦点は「日本軍が慰安婦を強制連行」したかどうかである。だが日韓両政府が血眼になって記録を調べても、それを証明する公文書資料は見つかっていない(※米国でも見つかっていない)。だから山口県労務報国会下関支部の動員部長だった吉田清治氏の「軍の命令で朝鮮人女性を強制連行し慰安婦にした」という証言が重要だったわけだ。だがそれが虚偽であることは、朝日新聞の撤回を待たずともはっきりしていた。当の清治氏自身が、週刊新潮の取材にこう答えているのだ。
「まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もあるんですよ。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやってることじやありませんか。チグハグな部分があってもしようがない」(平成八年五月二・九日号)
- ■産経:米政府の慰安婦問題調査で“奴隷化”の証拠発見されず。 2014/11/27
- 米政府がクリントン、ブッシュ両政権下で8年かけて実施したドイツと日本の戦争犯罪の大規模な再調査で、日本の慰安婦にかかわる戦争犯罪や「女性の組織的な奴隷化」の主張を裏づける米側の政府・軍の文書は一点も発見されなかったことが明らかとなった。戦時の米軍は慰安婦制度を日本国内の売春制度の単なる延長とみていたという。
IWG(ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班)は慰安婦問題について、下記のように指摘した。
(1)戦争中、米軍は日本の慰安婦制度を国内で合法だった売春制の延長だとみていた。
(2)日本軍は将兵の一般女性への暴行や性病の拡散を防ぐためにその制度を始めた。
(3)その結果、米軍は慰安婦制度の実態への理解や注意に欠け、特に調査もせず、
関連文書が存在しないこととなった。
ヨン氏は「これだけの規模の調査で何も出てこないことは『20万人の女性を強制連行して性的奴隷にした』という主張が虚構であることを証明した。日本側は調査を材料に、米議会の対日非難決議や国連のクマラスワミ報告などの撤回を求めるべきだ」と語った。(⇒[マイケル・ヨン氏の記事の日本語訳])
尚、同じIWGの調査で731の最近細菌兵器、人体実験の嘘も暴かれている。これを報道してこなかったのがNHKを始めとする日本のマスコミ、及び外務省だ。
また自ら済州島の調査を行い、すでに平成四年に産経新聞で証言の信用性について疑義を投げかけた現代史家の秦郁彦氏もこんなエピソードを書いている。
電話で清治氏と話した秦氏が、「
『著書は小説だった』という声明を出したらどうか」と勧めたところ、「人権屋に利用された私が悪かった」「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら…このままにしておきましょう」と話したという。
吉田清治氏は意識的に歴史を控造した。それは明らかである。ではなぜ、何のためにそうしたのか。虚偽の証言を続けてきた動機は何なのか。それらはいぜん謎のままである。いやそれどころか、実は清治氏がどんな人間であるか、どんな経歴であるか-どこで生まれ育ち、何をしてきたのか、その学歴も職歴も実はよくわかっていないのだ。
いったい吉田清治とは何者なのか。
今回、私は吉田清治氏の長男のロングインタビューに成功した。そこからわかってきたのは、思いもよらない新事実だった。
謎の生い立ち
長男は関東北部の県で質素な一人暮らしをしていた。現在六六歳。翻訳で生計を立てているという。小柄で温厚、とてもまじめそうな風貌だった。
「父が犯した慰安婦強制連行の捏造について、吉田家の長男として、日本の皆様にたいへん申し訳なく思っております。できることなら、世界中の慰安婦像をクレーン車で撤去したい。父の過ちを糺したい、少しでも罪滅ぼしをしたい、そういう気持ちから、私の知りうることをすべてお話しします。私自身、なぜ父があんなことをしたのか知りたいのです」
と、吉田清治氏の長男は語り始めた。
清治氏は平成一二年七月三〇日に死去するが、それまでずっと一緒に暮らしてきたのが、この長男だった。
清治氏は、その生年からしてはっきりしていなかった。出生地も諸説あった。さらに言えば、門司市立商業甘同校に通ったが、その卒業名簿(平成一〇年発行)では第11回卒業者の物故者のほうに入っている。
今回、長男から見せてもらった資料から、清治氏ほ、大正二年一〇月一五日生まれとわかった。出生地は、福岡県鞍手郡宮田町大字長井鶴。本籍は福岡県遠賀郡芦屋町大字芦屋である。
本人は本籍などを山口県としていたが、お隣の福岡県で生まれ育ったわけである〈そして本名は、吉田雄兎という。これはすでに判明していた事実だが、長男によれば、「本来でしたら雄治という名前になるはずだったのですが、役場が書き間違えて治を兎としてしまった。父は、本名が好きではないと言っていました。それでぺンネームをつけて清治としていたのでしょう」とのことだ。
父は音吉、母はタメ。長男だが、姉が三人いたという。
清治氏は、大正八年、わずか五歳で吉田家の家督を相続している。祖父の藤太郎が亡くなったあと、父を飛ばして雄兎が戸主となっているのだ。
その経緯は不明だが、祖父・藤太郎は遠賀郡にあった三菱石炭鉱業の貯炭場の主任をしており、当時は羽振りが良かった。芦屋の役場の向かいに土地を買って家を建てたのは、この藤太郎だったという。急死した原因は、当時大流行したスぺイン風邪。地元の福岡県立門司商業高校(門司市立商業高校の後身)の記念誌にも、大正七年から八年にかけ北九州で大流行とある。
幼くして祖父から直接家督を相続した清治氏だが、この他にも吉田家には不可解な記録がいくつもある。清治氏の従兄従弟として他家から二名が入籍しているほか、清治氏と四歳しか違わない朝鮮人が清治氏の養子となっているのだ。これは後に詳しく記す。
吉田氏は門司市立商業高校に学び、昭和六年に卒業。そして、「東京の大学をでる」と、自著『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社)には記している。どうやらこれは法政大学らしいが、進んだ学部、卒業したか中退したかは定かでない。法政大の名簿にその名前はない。
その後は何をしていたのか。
前掲書では、昭和一二年に満州国国務院地籍整理局、昭和一四年から一年余り陸軍航空輸送隊の嘱託、一五年に中華航空上海支店に勤務していたという。同年六月に金九(朝鮮独立運動家)を輸送したかどで逮捕され、懲役二年の判決を受け、昭和一七年に諌早刑務所から出所したことになっている。そして同年、問題の山口県労務部国会下関支部の動員部長に就任したとい、うのだ。
これには以前から疑義が差し挟まれてきた。歴史学者・上杉千年氏の調査では、中華航空社員会で清治氏を記憶する人はなかったし、
逮捕についても先の秦郁彦氏の追及に「アヘン密輸に絡む軍事物資横領罪」と答えたことがある。また逮捕された人物が出所後すぐ、半官半民の半ば公職に就くおかしさも指摘されている。
長男が言う。
「父は胸のレントゲンを撮ると白い影が写ったんだそうです。結核と間違われるけれども、結核ではない病気なんだそうです。それで軍の徴用を免除され、軍属みたいな形でいろいろな仕事をしました」
そして、「上海の航空隊とか、満州で地籍整理をやっていたのは聞いています。満州では、一年間現地の学校で勉強して中国語がしゃべれるようになった。それで部下の朝鮮人二人、中国人を五人から一〇人くらい、馬車や馬、ラバに乗せて調査に行った。そこでは航空写真をもとに中国人が測量し、彼らを朝鮮人に管理させていたということです」
清治氏はこの満州で李禎郁という人物を養子にしている。昭和一二年四月のことだ。清治氏と四つ違いだから一九歳の若者である。禎郁氏はその五年後、満州で日本人と結婚する。
清治氏は前掲の自著で、東京生まれの金永達なる人物を昭和一二年に養子とし、同年小学校教師の日本人と結婚、直後に小倉連隊に入り、昭和一三年九月、中国の間島省で戦死したと書いている。
もともとあった事実を歪めて話を作っているわけだ。
「若い頃、正義感に燃えて養子にしてやったと父は言ってましたが、どこまでがほんとのことなのか。私は会ったことがありません。ただ養子にしたことで、親戚から戸籍を汚したと、非難されたようです。また職場からもよく言われず、それが刑務所に投獄される理由になったと言っていた。ただ詳しくはわからないのです」
この養子を巡って何があったのか。
戦前に禎郁氏には二人の子供が生れた。長男は昭和一八年に福岡で出生、次男は昭和二〇年八月に中国・遼寧市で生まれている(翌年落陽で死去)。だから日本と大陸を行き来していたことがうかがえる。戦後は日本に来て、吉田家の籍からは昭和二三年に抜けているが、その後も清治氏の人生に影を落としていく。
吉田清治の戦後
「慰安婦狩り」をしたという山口県労務報国会下関支部について、長男はほとんど何も聞いていない。ただし、これだけは訴えたいとこう述べる。
「労務報国会の下関支部は朝鮮人男子の労務というか、下関市内の大工、左官、土木工事の方々を雇って日当で払う仕事の現場監督みたいなものですから、従軍慰安婦とは何の関係もない。そのことは長男としてはっきり言っておきたい」
労務報国会は日雇い労働者の組織化を図るため昭和一七年六月に設置された半官半民の組織である。吉田清治氏が在籍していた確かな証拠はないが、否定する材料も見つかっていない。ただ長男はこんなことを言う。
「終戦時、父は労務報国会で物資の管理をしていたそうです。だから戦後、その物資を自由に隠匿できた。戦後一番必要になるものは何かと考えると、食料です。それを作るためにお百姓さんには肥料が必要ですから、そこにあった配給の余りものの肥料を隠匿して『下関肥料』という会社を作った。一時はもうかったようです。ただ父は商売の経験がない。どんぶり勘定であっと言う間に倒産してしまいました」
調べてみると、昭和二五年九月一八日付で「下関肥料株式会社」という会社が登記されていた。取締役二名に続き、「会社を代表する取締役」として吉田雄兎の名前がある。昭和二六年に取締役一人が辞任し、清治氏の妻フサエさんに替わっているから、この頃までは活動していたのかもしれない。
同時期、清治氏は下関市議会議員選挙に共産党から立候補して落選している。昭和二二年のことだ。これに関しては、「雇っていた朝鮮人がみんな共産党で、それで立候補したんじゃないかな。担がれて、その後は共産党とのかかわりなんて一回もないです」と、長男はそっけない。
時代を少し遡るが、清治氏が結婚したのは、昭和一九年五月のことである。下関市に婚姻届を出している。妻フサエさんの実家は、農業のかたわら、煙草と塩の専売店を営んでいたという。戦後の混乱期は実家かその付近に住んでいたようだ。
そして今回のインタビューをした長男が生まれるのは、昭和二四年。二年後には次男が、その翌年には三男が誕生するものの、三男は生後一週間ほどで他界してしまう。
長男の記憶するところでは、清治氏は生涯、仕事らしい仕事に就いたことがないという。
「小学校のとき、経済的な理由で何回も引っ越しました。だからよく転校した。貧しかったと思います。ただ父は非常に気位が高くて、働かずに家にいても男子厨房に入るべからずという感じで、女子供のやるようなことは絶対しない。母の実家にいたときだけ食事には困らなかったという記憶があります」
記録では、昭和三〇年から三五年まで、一家は東京・三鷹に住んでいたことになっている。
「借金取りに追われて、逃げるようにして三鷹へ行ったんじゃないでしょうか。四人掛けの席の真ん中に板をかけて親子四人、ゆったり足を伸ばして座れるようにしたのを覚えています」
長男の生年を考えると、三鷹には入学した小学校があった可能性がある。長男は下関市の小学校二校にも通った記憶があるから、中学までには下関に戻っている。その東京での時間が何だったのか、長男にはわからない。
戻って間もなくの頃だったか、清治氏はNHKが募集していた「ラジオと私」という懸賞に応募して、一等、一〇万円を獲得したという。当時の大金である。「私が小学六年か中学一年頃かと思いますが、いい作文でした」と、長男は振り返る。
父(清治氏)が帰宅すると、ラジオから流れてくるはやりのコマーシャルソングに合わせ、息子二人が楽しそうに踊っていた。普段、父は子供に歌謡曲を聞かせないようにしていたから、母がラジオを消そうとすると、父はその楽しそうな様子に「そのままで、消さないでよい」と母に告げたーー。
そんな話だったという。
「テレビが買えない貧しい家庭を象徴するものがラジオでした。父は教育に関して厳格でしたので、家では歌謡曲など聞かせてもらえなかった。でもこの時は楽しそうな様子に思わず笑みがこぼれたという内容で、短い文章の中に幸せな家族の情景が浮かぶと高い評価を得たのです。父は福岡に行って表彰され、賞金をもらってきた。あの頃が吉田家が一番幸せだった時かもしれません」
この頃、清治氏は朝鮮人の経営するパン屋に勤めていた。
「その経営者は戦前からの付き合いだったので、父の首を切るにも切れない状態だったそうです。だからその社長はこれで辞めさせることができると喜んだ。一家はその賞金で引っ越すのですが、父はそのお金で三回も四回も引っ越せると言っていました」
清治氏によれば、懸賞に応募したのはこれだけではない。「応募のほか、ラジオとかテレビのモニターもよくやっていました」 … いまで言う投稿マニアだったのか。
やがて清治氏はもう一つ、大きな懸賞で佳作となる。
昭和三八年、週刊朝日が「私の八月十五日」の手記を募集し、結果が同誌八月二三日号に掲載された。特選は一名、後に作家、エッセイストとして知られる近藤富枝である。記事には他に入選五名、佳作一〇名の氏名が出ている。その佳作のひとりに吉田東司の名前がある。それは清治氏のことだった。
入賞作までは全文掲載されているが、佳作は編集者が抜粋しながら紹介している。以下、引用する。
(特選から佳作に至るまでの各編は、すべて、戦争の被害者としての立場から、八月十五日を想起したものばかりであった。しかしただひとりだけ、下関市の会社員吉田東司氏(四九)は、加害者の立場からあの日を回顧する。
「私はそのころ山口県労務報国会動員部長をしていて、日雇労務者をかり集めては、防空壕掘りや戦災地の復旧作業に送っていた。労務者といっても、そのころはすでに朝鮮人しか残っていなかった。私は警察の特高係とともに、指定の部落を軒なみに尋ねては、働けそうな男を物色していった」
「奴隷狩りのように」と吉田氏自身もいう。その最中にはいったのが終戦のニュースだった。朝鮮人の報復への恐れは、直ちに頭に浮んだ。帰宅した吉田氏の家の前には、案の定、二十人ばかりの朝鮮人が集っていた、動員された朝鮮人の行先を教えろという。問いつめられた吉田氏はついに捨てばちになった。
「私は靴ばきのまま座敷にかけ上がると、床の間の軍刀をつかんで玄関へとび出して叫んだ。
『どうせ戦争に負けたんだから、いまここで死んでやる。おれのしたことに文句がある奴は、殺して道づれにするから前へ出ろ!』
私は気ちがいのように逆上し、軍刀を抜いて彼らに近づいた。彼らはわめきながら逃げ散った。私はこれまでにしてきたことも、これからしなければならないこともわからなくなって、真夏の太陽の下でむなしく軍刀をふりまわしていた」
)
山口県労務報国会下関支部の元動員部長・吉田清治としての活動の始まりだった。
抜粋部分だけでも手慣れた文章である。最後の一文など非常にドラマチックで、話を盛り上げて書く手法を持っていることがわかる。
長男はこの投稿について少しだけ父から話を聞いていた。
「労務報国会で雇っていた朝鮮人の大半は共産党員だったそうです。終戦の八月一五日か翌日、家に集まってきた彼らに軍刀を振り回したというのは嘘だと言っていました。当時、軍人でもない父に、軍刀は支給されていなかったのです」
それなら話自体の信源性も疑われるが、この内容を事実としてすぐに著作に取り込んだ人物がいた。朝鮮大学校で教鞭を執る歴史研究家の朴慶植氏である。
強制連行文献のバイブルとされる彼の『朝鮮人強制連行の記録』に引用されるのだ。
ただこの時点では、記事は労務報国会の仕事の範疇での体験であり、「慰安婦狩り」をしていたとも、済州島に行ったとも書いていない。
次に彼が労務報国会元動員部長として書くのは、昭和五二年。最初の著作『朝鮮人慰安婦と日本人』である。一四年後のことである。
この間の吉田氏の足取りはこれまでいっさいわかっていなかった。
長男次男のソ連留学
「ソ連留学は私たち兄弟の意志で、父とはまったく関係ありません。貧しかったので、普通に大学へは行けなかった。高校を卒業したら働くか、ただで行ける大学に進むしか選択肢がありませんでした。
東京にいたなら防衛大学校も考えられる。でも住んでいるのは下関です。それでいろいろ探したんですが、フルブライト留学生は旅費は自分持ちだった。一方、ソ連留学は総評(日本労働組合総評議会)が橋渡しをしていて旅費も生活費も全部無料。それで試験を受けてみたら受かった」
ただし、まったく父・清治氏の関わりがないわけではなかった。
「試験に受かったから行けるわけではないんです。誰かの推薦が必要だった。私たちがいた小野田セメントの労働組合は合化労連(合成化学産業労働組合連合)と言って、後の総評議長となる太田薫氏が委員長だった。彼が下関に来た際に、父が推薦をもらえるよう頼みこんだ。それで推薦が決まったんです」
当時、ソ連は社会主義を学ばせるため、周辺国から積極的に留学生を受け入れていた。多くの留学生は、モスクワ大学で一年間語学研修をした後、各地の専門分野に秀でた大学に転入した。
長男は昭和四四年ごろモスクワ大学に留学、その後ウクライナのキエフにあるハリコフ大学物理学科に進学した。次男も一年遅れでモスクワ大学を経て、ハリコフ工科大学に留学した。
しかし吉田兄弟はともにソ連の大学を卒業できなかった。
「父が合化労連に頼んで推薦状をもらったことが会社にわかってしまって、解雇された。両親の仕事がなくなったわけですから、戻ってきて働かなくてはならなくなった。だから留学していたのは三年半ほどです」
やむなく帰国した兄弟は北九州市八幡西区にある自動車整備工場に板金工として就職した。帰国当日に求人雑誌を購入し、会社に電話してその場で決めたという。翌日から工場に通った。会社が用意してくれた職場近くのアパートに居を定めた兄弟は、そこに両親を呼び寄せる。以来、一家の家計を支えるのは、留学帰りの兄弟となった。
「父は健康がすぐれないこともあり、全然仕事をしていなかったですね。あんまり給料がよくなかったので、私は土曜日曜は別にガードマンのアルバイトをしていました」
その後、一家が上京するのは、昭和四八年のことである。
兄弟はその前年に“ソ連留学記”を出版していた。自費出版ではない。長男次男の名前が出ているため書名は秘す。
当時、ソ連留学は珍しかった。このため留学中から帰国のたびに編集者が来て話を聞いて行ったのだという。
「自分で書いたというよりは、出版社の人が来て、何度もインタビューしてまとめたものなんですよ」と長男は振り返る。その内容は、留学中の日々の暮らしや学生、特に女子大生との交流などを軽いタッチで綴ったものだ。
どうもこうした関係で知り合った人物の勧めで上京したらしいが、一家は神奈川県横浜市鶴見区に引っ越し、長男は川崎にあった東芝のトランジスタ工場に勤めることになった。
そこで一家はそれぞれ大きな転機を迎えることになるのだ。
公安-菅察と吉田家
まず長男について。
さらりと驚くべき話が披露された。その話を聞いた時、何度も聞き返さずにはいられなかった。
「公安警察の方から、日ソ合弁の船会社で働かないかという話があったんです。そこでロシア語ができる人を探しているので、入社して彼らを監視してほしい。横浜港に入るソ連船の船舶業務を全部取り仕切っている会社ですから、重要書類が山ほどあるわけです。それを随時コピーして渡すだけでなく、公にできない活動もしていました。弟も別の会社に就職させるということでした」
ソ連に留学し語学が堪能ということで、兄弟とも公安警察からリクルートされたというのである。昭和五一年のことだ。
にわかには信じがたい話だが、当時、彼を勧誘した神奈川県警の刑事にもインタビューすることができた。仮に堂上明氏とするが、七八歳の彼の記憶は鮮明だった。
「東芝のパーツ工場にソ連の大学を卒業した人物がいるという情報が入ってきて、会いに行きました。当時、水上警察署のほうから船会社でロシア語ができる人間を求めているという話があった。これはすぐに就職させられると、兄は東洋共共同海運に、弟は別の運輸会社の横浜支店に就職させました」
堂上氏は、昭和三七年に警察学校に入学し、翌年から神奈川県警の戸部署、横浜水上署、本部外事課、鶴見署などに勤務し、公安警察の最前線で諜報活動を行ってきた人物である。途中、ロシア語の教育も受けている。
彼は吉田家と非常に親密な関係を築き、一家ぐるみの付き合いに発展する。清治氏の妻フサエさんは昭和五四年に死去するが、その葬儀を取り仕切り、翌年の次男の結婚式にも親族として出席している。
「電話応対の仕方とか、待ち合わせ場所の選び方とかいろいろ厳しい教育を受けました。誰かの手帳を翻訳したり、ロシアの軍艦が入港した時には乗員名簿をコピーしたり。やっぱりお国のためですし、言われた通り頑張りました」
長男が公安のために働くようになった翌年の
昭和五二年、父の清治氏はデビュー作『朝鮮人慰安婦と日本人』を出版する。版元の新人物往来社で担当したのは、後に草風館という出版社をおこすことになる内川千裕氏である。在日朝鮮人やアイヌ関係の書物を数多く出版してきた人物だが、平成二〇年、鬼籍に入っている。したがって出版の経緯を彼の口から聞くことができないが、週刊朝日の投稿以来、長らく沈黙してきた清治氏がここで出版したのは、何らかのきっかけや理由があったはずである。
「もともとは自分の自叙伝を書くつもりくらいだったんじゃないでしょうか」と語るのは長男である。
「私が本を出したのを見て、それも口述で本を出せたわけですから、私より文章のうまい父は、出版社何社かを訪ねていけば簡単に出してもらえるって思っていたんじゃないでしょうか」
ただ、と長男は続ける。
「経験していないことは書けるはずがない。一冊、空想で書くことは不可能でしょう。だから誰か手助けした人がいる。でも私はその頃、過労死寸前くらいに働いてましたから、ずっと家にいた父とはほとんどかかわっていないんです」
同書にある朝鮮半島に出張しての男性労務者の強制徴用や下関での慰安婦調達の内容に関して、当時、さして反響があったようには思われない。そのせいなのか、昭和五五年、清治氏は朝日新聞川崎支局に売り込みの電話をかけている。それを受けた前川惠司氏が『朝日新聞元ソウル特派員が見た「慰安婦虚報」の真実』の中でこう書いている。
(「朝鮮人の徴用について自分はいろいろと知っているので、話を聞いて欲しい」と電話してきたのが、吉田氏だった。横浜市内の彼のアパートを訪ね、話を3、4時間は聞いた。(中略)当時の記憶は薄らいでいるが、それでも、彼の話には辻棲が合わないところもあった)
そう書きつつも、この前川氏は三月七日の紙面で「連載 韓国・朝鮮人2(27)命令忠実に実行 抵抗すれば木剣」と題する記事を書き掲載した。これは取消記事のもっとも古いものとなる。
わざわざ電話をしているのは、応募やモニター好きの性向が頭をもたげてきたからなのか、それともこの問題を広めねばならないさし迫った理由があったのか。どちらにしても清治氏は積極的に動き出したのだ。
土下座事件
この時代の清治氏について、驚くべき証言をする人がいる。先の神奈川県警刑事の堂上氏だ。
「お父さん(清治氏)とは、奥さんの葬式にしても次男の結婚式にしても、すぐその場からいなくなってしまって、ちゃんと話をしたことがなかった。それが突然、鶴見署へ私を訪ねてきた。昭和五五年の梅雨時のことです。玄関で土下座して私を呼んでいると連絡があったので行ってみると、清治氏がいて奇妙な話をし始めた」
それはこんな内容だったという。
“息子がお世話になっています。実はある人から、「お前の息子たち兄弟は敵国であるソ連のため忙働いていて、けしからん。こういう状況ではこれまで進めたこと、これから進めることにあんたは参加できなくなる。即刻、兄弟をソ連のために働いている会社から退職させなさい。あとの就職についてはこちらで面倒を見る」と言われました。
それで息子たちに内緒でそれぞれの会社を訪れ、退職させてきました。でもこのままうちに帰れば、息子たちに殺されてしまいかねない。どうか息子たちとの間に入って、彼らを納得させてほしい”
堂上氏は語る。
「私としては、苦労して二人を会社に入れているわけだから、それを勝手に退職させて、間に入ってくれなんて馬鹿な話はない。そもそも就職させたときに挨拶ひとつなかった。いったい何なんだろうと思いましたね」
それで堂上氏は難詰した。
「清治さんの勝手な行動で、かつて息子さんは大学を辞めて戻ってこなければならなくなった。それなのに今日も土下座までして、会社を辞めさせてきたという。親としての責任は感じていないのか、いったいあなたにそう言うのはどんな組織の人なんですかと聞いたら、口ごもってましたが、やがて半島の人ですと言いました。半島と言っても二つあるから、どちらですか、と重ねて問うと、韓国です、と。実は私は聞いた時からKCIA(韓国中央情報部)だと思っていました。それをロに出させようとしたんですが、結局、最後まで“ある組織”とだけしか言いませんでしたね。その組織がいつも二、三人、そばについていて、もう自由に行動ができないとも言っていました」
「ある組織」とともに、青田氏は活動してきたというのである。もっともその組織は吉田兄弟が堂上氏の要請で潜入していることを把握していなかった。諜報機関とすればお粗末な話であるが、堂上氏はKCIAと確信した。
まだ金大中事件が記憶から薄れていない時期だった。昭和四八年八月八日、民主活動家だった金大中は、白昼、東京都千代田区のホテルグランドパレスから拉致され、密かに日本から連れ出された。そして監禁を経て、事件から五日後にソウル市内の自宅前で発見された。これを実行したのが、KCIAだった。
それにしても、なぜ清治氏はその組織と動いているのか。その組織の言いなりになっているのか。当然、堂上氏がそこへ切り込むと、こう答えたという。
“若干、お金を借りています。これは息子たちに言っていません。わたしがちょっと困った様子を見せたら、これを使いなさいと渡されました。三〇万円くらいです。私がいまやっていることについて、その人たちはいろいろ教示してくれます”
その後、堂上氏は、川崎のステーションビル最上階の食堂に清治氏を誘い、さらにいろいろ尋ねている。だがKCIAとは最後まで言わなかった。そして「電車賃もなさそうだったので」五〇〇円くらいを渡して別れたという。
公安警察はこうした事実を知りながら、吉田清治氏の背後関係を調査した形跡がない。それはなぜなのか、
「私はこの話を上司にはしていません。この話をすれば息子たちが知り、ソ連からの情報収集に支障をきたすからです」
だからこの一件は吉田兄弟も知らないのだという。長男に確認すると、困惑気味にこう話す。
「おそらくそれは父の作り話です。子どもでもあるまいし、親が勝手に本人の許可もなく会社を辞めさせることはできません。私は自分の意思で川崎から新橋の翻訳会社に転職しました。給料がよかったからです。父は私たち兄弟をダシにして何かの理由で堂上さんに接触を図ったのではないでしょうか」
ここでもう一つ、知られざる事実に触れておかねばならない。
昭和一二年に吉田清治氏が養子とした四歳下の韓国人・李禎郁氏のことである。
すでに彼は昭和一七年に日本人と結婚し、日本と中国で二人の子供をもうけたことまでは記した。では、その後、彼はどうなったか。
戦後は日本に戻り、福岡市でさらに二男をもうけている。
そしてその頃、彼は福岡市板付の米軍基地(福岡空港)で、全駐留軍労働組合の活動家になっていた。長男は、「一度も会ったことがない。全駐労にいたことは聞いたことがあります。上京した父と付き合いがあったかはわからない」と言うが、先の堂上氏はこんな証言をする。
「あの日、あなたはなぜ韓国に興味を持っているかを聞いたんです。そうしたら、”私はいいこともするんですよ、全駐労って知ってますか。全駐労の人とも私、お話ししてます。全駐労の初代委員長、韓国人なんですよ。でもそれじゃ困るからと私の籍にいれさせたんですよ”、そういう話を聞きました」
堂上氏はその名前まで覚えていないが、これは李禎郁のことを指しているとしか考えられない。もともとあった事実に話を加えて虚実綯い交ぜにするのは吉田氏の特技だが、このやりとりからすると昭和五五年頃、禎郁氏と連絡を取り合っていた可能性が高い。さらに兄弟の留学にも関与している旨述べたという。
労働問題を扱っているという点では、ずっと青田清治氏と関係があってもおかしくない。あるいは、元朝鮮人という点が重要だったのか。
この禎郁氏は昭和五八年、福岡市南区で死去した。禎郁氏の長男にも取材してみたが、養子入りの事情など「何も存じあげません」とのことだった。
慰安婦問題の「語り部」誕生
その昭和五八年、吉田清治氏の第二作目『私の戦争犯罪』が、三一書房から出版された。奥付には七月三一日発行とある。済州島で慰安婦狩りをしたことが詳細忙書かれている本だ。例えばこんな調子である。
(隊員に肩をつかまれた若い娘が、悲鳴をあげて隊員の手を振り払った。年取った女が、娘を抱きしめて叫び立てた。隊員は年取った女を突きとばし、娘の顔を、音を立てて平手打ちした。女たちの群れが、かんだかい声でわめきたてると、隊員たちが怒号して襲いかかった。隊員に反抗してはげしくもみあい、服が裂け、胸もとが裸になった娘が泣き叫んで、塩かますにしがみつくと、隊員に腰を蹴られて床に転がった。この島の娘は、足は素肌で、ばたつかせて暴れたが、隊員は足くびをつかんで、笑いながら引きずり出した)
労務報国会下関支部動員部長の吉田清治氏が済州島の「塩乾魚の製造工場」へ慰安婦狩りに行ったときの様子である。
同書の編集を担当したのは同社の編集者で、現在は労組交流センターを組織する三角忠氏だ。担当者としていまも清治氏の証言を支持している。
「初めて会ったのは前の本が出るちょっと前のことで、日本の戦争責任資料センターの上杉聴氏の紹介で、大阪の講演会で会いました。吉田さんは何人かいる報告者の一人だったように記憶しています」
すでにそこで慰安婦の強制連行について話していたという。
原稿を頼んだのは、第一作が出てからだった。
「まだ十分に語り尽くしていないんじゃないかという気持ちがあって、もう少し加害者として、普通ならば自分の口から言いにくいことまで含めて全部赤裸々に書けないものかと考えていたんです。
当初青田さんは慰安婦狩りについて”そこまでは書きたくなかった”と言っていました。それでも彼が勇気を持って告白したのは、彼女たちが儒教文化の中でその経験を生涯口に出せず、墓場まで持っていくしかなかったからです。吉田さんはその体験をわが身を削って記した」
済州島については「私の方からヒントを出した」という。
「私がもともと済州島に非常に興味があったんですね。金石範の『火山島』を読んでましたから。済州島蜂起の話をしたら、”あっ、そう言えば”という感じでしたね。」
済州島での慰安婦狩りはこうしたきっかけで書き始められたのだ。
同書の序文には、清治氏の週刊朝日の投稿文を自著に引用した朴慶植氏が一文を寄せている。
「これは僕が依頼しました。ただ吉田さんと朴さんは本が出る前から知り合いというか、古くからお話をされていた関係だったと思います」
『私の戦争犯罪』が出る前年、清治氏は講演会で慰安婦狩りを語り、それが「朝鮮の女性私も連行暴行加え無理やり」という朝日新聞の記事(昭和五七年九月二日、取消記事)になっている。さらに九月と11月には、サハリン残留韓国・朝鮮人帰還訴訟、いわゆる樺太訴訟で二度にわたって法廷に立ち、一度目は樺太への男子の朝鮮人狩りを、二度目は済州島での慰安婦狩りを証言している。
ちょうど執筆と重なる時期、次々に慰安婦問題を語り始めていたのだ。
その頃、長男は東洋共同海運を辞めて新橋にある翻訳会社に勤めていた。住民票も東京に移し、父とともに東京都文京区に越してきた。
その長男が衝撃的な証言をする。
「父は済州島には行っていません。それは父から聞いています。それで父は、済州島の地図を見ながら、原稿用紙へ原稿を書いていました」
ではなぜあれほど克明に書けたのか。
「材料はなかったはずです。ですからそれは、出版社や周りにいた人たちに発言をしていただきたいんです」
出版直前に、清治氏と長男は、品川区上大崎に再度引っ越した。
「父が勝手に不動産屋に行って決めてきました。それまでほ家賃四万円くらいだつたのが、一二万円くらいになった。さすがに無茶だと思ったんですが、父は五〇〇万、一〇〇〇万はすぐに入るから心配しなくていい、家賃どころか過去のお前に掛けた苦労は全部返すから、と言っていた。でもそれがのちに家計的にすごく負担になってしまいました」
先の三角氏によれば、同書は三刷までして合計で約八〇〇〇部ほど発行されたという。印税は一〇〇万円ちょっとであろう。清治氏に何かあてがあったのだろうか。
昭和五八年三月、清治氏は韓国忠清南道天安市を訪問、私費で建てたとされる謝罪碑の前で土下座した。その「望郷の丘」の碑にはこう刻まれている。
(あなたは日本の侵略戦争のために徴用され強制連行されて 強制労働の屈辱と苦難の中で 家族を想い 望郷の念も空しく 貴い命を奪われました
私は徴用と強制連行を実行指揮した日本人の一人として人道に反したその行為と精神を潔く反省して 謹んで あなたに謝罪いたします
老齢の私は死後も あなたの霊の前に拝跪して あなたの許しを請い続けます
合掌
1983年12月15日
元労務報国脅徴用隊長 吉田清治)

それは例えば「たった一人の謝罪(写真付)」(朝日新聞二一月二四日、取消記事)のように、新聞テレビなど各メディアで大々的に取り上げられた。
だがこれについても、長男は、「石碑を建てたり、韓国に行ったりするお金は、うちにはありませんでした。あれはいろいろな人からの支援だと思います」と言う。そしてこんな話を打ち明けるのだ。
「韓国から戻ってきた後、父のパスポートを見てびっくりした記憶があります。日本からの出国と帰国のスタンプはあるのですが、韓国への入国、出国のスタンプが押されていない。なぜかと聞いたら、韓国の空港につくやいなや韓国政府の人がやってきて特別室に案内され、そのままソウルの街に出たんだそうです」
さらにこうも語る。
「いずれはど長男も韓国に来てもらって韓国を好きになってもらわなきゃ困りますと偉い人から言われたそうです。立派なことをやっているんだと、そう私に自慢したのを覚えています」
一方、謝罪の旅をテレビで見ていた、先の神奈川県警刑事・堂上氏はこんな感慨を抱いた。
「正直なところ、可哀そうだなと思いました。本当のおやじさんの顔じゃなかった。痩せちゃっているし、怯えている姿そのものでしたよ。自業自得だな、しょうがないなとは思いましたが、最後には可哀そうになってきた。このあとKCIAに殺されなきゃいいな、とも思いました」
一方、訪韓謝罪パフォーマンスは、当然ながら日本の右翼を激怒させた。長男が言う。
「訪韓後しばらくして、父は笹川良一氏に呼び出され、顔面蒼白になって帰宅したことがありました。尋常でない様子に声を掛けると”韓国に強制連行の碑を建てて謝罪して回っているそうだが、今後こういうことをしたら命はないものと思えと脅された”と語ったのです」
寂しき晩年
時期的に考えて、吉田清治氏がそれに屈したようには思えない。「慰安婦狩り」の語り部としての活動は、平成三、四年年くらいまで続く。朝日新聞の取消記事は、平成三年と四年で六木もある。
- 「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 木剣ふるい無理やり動員」(平成三年五月22日)
- 「女たちの太平洋戦争 従軍慰安婦 乳飲み子から母引き裂いた」(平成三年10月10日)
- 「窓 論説委員室から 従軍慰安婦」(平成四年一月二三日)
- 「窓論説委員室から歴史のために」(平成四年三月三日)
- 「今こそ自ら謝りたい 連行の証言者、7月訪韓」(平成四年五月二四日)
- 「元慰安婦に謝罪ソウルで吉田さん」(平成四年八月一三日)
一方で、取消記事のピークの平成四年には次々とその証言の信憑性を疑う報道が出始める。前述の通り四月には、その証言に疑問を感じた秦郁彦氏が済州島で調査を行い、吉田氏の体験のような事実が出てこないことを産経新聞で発表した。週刊誌などでもその発言を疑う記事が出始める。
平成五年に河野談話、七年には村山談話が発表され、民間での賠償を行うアジア女性基金の枠組みができると、慰安婦問題の盛り上がりとは逆に、メディアは吉田清治氏の証言を取り上げることにためらいを見せるようになった。
舞台は韓国に移っていた。すでに慰安婦であると実名で名乗り出て日本政府に謝罪と補償を求める女性が、メディアの中心にいた。
そして平成八年に冒頭で書いたクマラスワミ報告書が提出され、平成一〇年に旧ユーゴスラビア戦時下の女性暴力問題に付属して慰安婦問題で日本の責任を追及するマタドゥーガル報告書が出される頃には、吉田清治という人物自体の信用性は限りなく失墜していた。
朝日新聞もすでに平成九年三月三日の特集記事で、吉田証言の「真偽は確認できない」としている。
担当編集者の三角思氏が語る。
「吉田さんが一番こたえたのは、慰安婦問題に取り組んできた中央大学の吉見義明さんや関東学院大学の林博史さんなどが学術的を資料としてはちょつと使えないと言い出したことなんですよね。お二方には、そういう言い方をするとこの本の歴史的証言を定めることになるんじゃないですかと言ったんですがね。唯一、西野留美子さんだけがいまもこの本を事実だと言ってくれている」
そう言う三角氏もー〇年近く会っていなかったというから、晩年の清治氏は失意のなか、寂しい老後だったのではあるまいか。
そんな清治氏の生活を支えたのも長男だった。清治氏と長男は昭和六一年から千葉県の我孫子市に居を移していた。長男の勤める翻訳会社の子会社がそこにできたためだ。
「一〇年くらいそこで働いて、フリーになりました。朝から晩まで、ときには職場へ寝袋を持ちこんで、仕事ばかりしていました。忙しい日々でした。とにかく生活費を稼がなきやいけなかった。当時は統合失調症の弟の面倒も見なくてはなりませんでした。離婚して私たちと同居するようになっていたんです」
そして平成三年七月三〇日、以前から直腸痛癌を患っていた清治氏は、結核性の肺炎を起こして死去した。享年八六。
「亡くなる五年くらい前から寝たきりで、一人で用を足すこともままならず、おむつをあてがっていました。何度も入院を勧めたのですが、医者と学者は嫌いだと、かたくなに拒否して家から離れませんでした」
新聞に訃報は載らなかった。もはや誰も付き合っていなかったのだ。
三角氏が当時を振り返る。
「亡くなる一か月ほど前に一時間はど電話で話しました。当時、家永三郎さんから電話があって、『私の戦争犯罪』という本が偽書だと言われているようだが、私はそうじやないと思う。非常に優れた本だ。他の人がいっさいロをつぐんでいる加害の事実をよくぞここまで書いたと、そんなことをおっしゃられて、ぜひ吉田さんに会いたいと言われたんですね。そこで吉田さんに電話した。
そうしたら吉田さんは、あの本の内容はまったく真実です、人から聞いて書いたこともデタラメを書いたわけではない、と話して、いま自分は気力が本当に失せてしまってお話しできるのは電話くらいで、家永先生とお会いしてお話しできるような状態ではないと。もう体力的にも衰弱している状態だったんです」
三角氏はいまも本の内容を事実であると考えている。
「僕は済州島にも行ったと確信しています。他から聞いて主語を自分にしている部分にしても、あってしかるべきだと。歴史的事実としてそれはあるわけですから。それにやっぱり亡くなる前、死期が近づいている中で言ったことは重いですよ。今から思うと、それまでくぐもった言い方だったのがあの時はとても潔かった」
だが、長男はまったく正反対の思いでいる。
「父は結果として大変誤った歴史を作り出してしまった。これは私が生きているうちに直さなきやいけないと思っています。軍が民間団体に軍の命令書を発行するわけがありません。労務報国会という半官半民の組織や民間組織が軍命で朝鮮人女性をトラックに載せて集めるなんてことができるわけがない。これは歴史的事実として、長男の立場から真実を定着させていかなければならない。父が暴走し始めた時に私がストッパー役になっていればと、悔やんでも悔やみきれません」
そして朝日新聞についてはこう語る。
「二年前、慰安婦報道について訂正記事を出す二、三日前に、私を訪ねてきました。取材というよりは最初から筋書き通りの形式的な質問をして三〇分ほどで引き揚げていきました。平成九年の段階でなぜ父に直接取材をしに来なかったのか。その時に真相を究明していれば少しでも慰安婦報道の歪みが正されていたのではと思います」
二年前に弟が死去した。長男ほ生涯独身だが、父と弟の世話から解放され、いま人生で初めて二四時間を自分一人だけのために使える生活が訪れたという。私の目にも長男は静謐な日々を送っているように見えた。
八月四日、こんな新聞記事が掲載された。
「ソウルの日本大使館前にある慰安婦を象徴する少女像と同種の像の除幕行事が、8月中にオーストラリアの最大都市シドニー郊外を含め10カ所で行われ、年内には像の建立地が韓国内外で50カ所を超える見通しとなった」(産経新聞)
始終穏やかに語った長男の胸中に、真の平穏が訪れる日は遠い。
[在日特権と犯罪 板東忠信著]を読んでいます。ビックリする内容です。在日と来日の違いを知らなくても、基礎から在日特権の実態と不法性を、客観的に学べる本です。
現在世界中でタックスヘイブンが話題になって、誰がこれを利用しているのかを追求していますが、在日朝鮮人にとっての日本はまさにタックスヘイブンの拠点です。そればかりではなく、金の成る甘い国で、マネーロンダリングや不当蓄財、送金、犯罪の隠れ蓑など、すでに移民に食いつぶされようとしています。
そして、この事実を知られないように、在日朝鮮人の事実を語る人たちに対して、差別だとか、ヘイトだとか、日本はが悪いことをした(慰安婦、南京事件など)と騒ぎ立て、日本人の純粋な良心を刺激して、社会的に事実を掘り起こすことをタブー化させて、事実を見つけ出すことを止めさせてしまう。日本人を永遠に自虐史観に閉じ込め、在日利権を手放さないばかりか、参政権まで手に入れ日本を乗っ取り、日本人を永久に奴隷化しようとしています。
現在、EUで難民問題が騒がれていますが、日本は既に難民・移民問題が深刻な状況なんです。これを出来るだけ是正しようとしている安倍内閣の政策もきちんと書かれています。
日本にはGHQの爪痕である沢山のタブーがあり、事実から目をそらし土下座外交を繰り返しても問題の解決には成りません。それなら自虐史観から一歩抜けだし、真摯に事実と向き合うことで、日米英のそれぞれの自虐史観を中立的な立場から冷静に分析しつつ、互いをより深く理解し合うことで、日米英間の信頼の絆が強固になることを願ってやみません。それは、個人の直そうとしても直せない欠点と対峙することにもつながり、嫉妬や羨望が利己主義を助長して、個人の魂と精神を蝕むように、集団的利己主義が日本社会の獅子身中の虫となり、内部を腐らせ内部から食い破ろうとしているのです。
例えば、拉致問題や在日朝鮮人の憲法破りの特権に無関心にさせられて、ヘイトだ民族差別だと脅しに屈している国民、これを助長する自虐史観の政治家や左傾マスコミたち。また、沖縄での外国人のあからさまな反政府デモや、不法行為に怒りを感じない、赤珊瑚を不法に盗まれても、原油や天然資源を堂々と盗まれていても、長野オリンピックで中国人が大挙して暴力を犯しても見て見ぬふりをする土下座政治家 … 、そして事実を伝えない反日マスコミの垂れ流す低俗な情報で事たれりとする無自覚な日本人たち、このような状況を作り出し日本民族を内部から腐らせているのです。もし、日本人がこれを食い止めることが出来きず、日米英同盟を破棄すれば、日本は崩壊して朝鮮民族の国となるか、中国の一自治区となり、チベットやウイグルや内モンゴルと同じ惨劇を味わい、皇室は滅ぼされてしまい、日本民族は魂の支柱を破壊され滅んでしまうでしょう。それは流浪のユダヤ人の再来でもあるのです。
だから、在日朝鮮人問題を正しく理解しようとすることは、この問題の解決の糸口にとどまらず、戦後自虐史観=日本人の精神的な内部腐敗からの脱却、閉ざされた言語・情報空間からの脱出であり、それは人間として(日本人として、英米人として)の誇りと希望を取り戻し、魂の輝き(精神の自由と活力)を取り戻す一里塚だと思うのです。
そうして、精神が自虐史観から解き放たれ、自己の責任において考え行動し、失敗や悪いところがあればこれを人の責任に転嫁せず、自己責任と見なし反省して、二度と周囲に迷惑をかけないという民主的な考えが定着すれば、きっと世界から争いも戦争も消え去ることでしょう。
下記「◇印」は、[在日特権と犯罪 板東忠信著]からの抜粋です。どうか、日本人の魂を取り戻すためにも、是非手にとって頂きたい本です。
- ◇ 日本は既に移民国家
- 国連の定義によれば「移民」とは「出生あるいは市民権のある国の外に12ヶ月以上いる人」なのです。日本はすでに、複数の通名使用など世襲で脱法特権を握っている40万人弱の「特別永住者」と、これにつながる在日朝鮮民族人脈の組織的社会犯罪まで容認してきた、超ご立派な「移民国家」なのに、その自覚がないのは日本人だけなのです。
そして今、この在日朝鮮民族の人口を超えて日本に定着しつつあるのが中国(平成27年の登録者数は71万4570人)なのです。はつきり言ってすでに移民政策に失敗しているのに、国内外国人犯罪検挙人口1位の座を譲ったことのない中国を主体として、さらに新しい移民を呼び込もうとしているのです。
日本は決して閉鎖的な国ではありません。海に囲まれているだけでそういう思い込みをしている人と、そういう思い込みを必要とする勢力がいて、さらなる受け入れで利益を狙う人たちがいるのです。しかし、日本人の思考回路から日本人による犯罪を防止し犯罪者を罰するために編み出された刑法や、犯罪者の取り扱いを規定した刑事訴訟法は、言葉も考え方も道徳レベルも違う外国人に対応した国際化社会にふさわしいものとは言えません。
犯罪は国際化しつつありますが、日本人の意識と法整備は完全に国際化に立ち遅れているのです。
- ◇「在日」外国人とは?
- 警察庁の定義では、永住者・特別永住者・永住者の配偶者・米軍軍人軍属が「在日」外国人に該当し、これ以外の滞在資格を持つ外国人は「来日」外国人とされています。中でも「特別永住者」は「特別」な「永住者」であり、一般永住者と区別されているのは、「国籍離脱者とその子孫」という「特」別な立場と「権」利を認められているからです。(※そして、来日者の犯罪は公表されていますが、在日の犯罪は公表されず、米国軍人の犯罪のみが針小棒大に報じられています。本書により初めて在日の犯罪統計が公表されていますが、現実は、朝鮮人による日本人殺しなどの凶悪な犯罪が多発しています。在日朝鮮人は、母国への帰国を自ら止めて残った人たちと、母国での弾圧から逃れた難民と犯罪者の子孫です。強制連行されたのではありません。)
- ◇「在日」朝鮮人の特権の数々
- 1.朝鮮総連関連施設の固定資産税の一部もしくは全部が免除されていた。
2015年、総務省が最高裁判決を受け、この状況はなくなったそうです。
2.朝鮮学校の用地使用で、無償もしくは格安の貸与を受けている。
在特会が京都朝鮮学校に対して行った街宣活動が有名。
3.特別永住者には、犯罪を犯しても、実質強制送還がない。
来日者などの外国人は万引きをしても強制送還となる。
4.特別永住者には、旅券などの身分証明書の携帯義務がない。
在日二世三世になると、日本人との見分けが困難で、日本人になりすましている。
5.特別永住者の滞在資格が世襲制。
世襲制の滞在資格を与えているのは日本くらい。憲法14条には栄誉栄転については特権を伴わないし、一代に限るとされている。
6.特別永住者の資格更新に審査なし。
また、法務大臣にも申請を許可することは出来ても、拒否することは出来ない。
7.公立学校と地方公務員への採用が有り、他の外国人よりハードルが低い。
2006年、大阪では在日先生が100人を超えている。次に多い中国人先生は3人。
8.特別永住者は国籍を変えても血統で身分が保障される。
同じ国籍を持つ外国人の問に「滞在資格格差」が発生する。つまり、特別永住 者のほぼ100%を占める朝鮮民族の血を受け継ぐ者だけが、どんな国籍を取得しょうと、どんな罪を犯そうと日本に住み続けることができるのです。大臣さえその更新を拒否することができないとなると、これは滞在許可だけでなく、立派な特権となる。
9.複数の通名を持て、複数の保険証が入手可能だった。
同一人物を知られずに講座を解説でき、所得隠しや、マネーロンダリングなどの犯罪に使われている。2012年から、公的書類には本名が記載されるようになった。
10.逮捕されても通名表記、もしくはカタカナ表記
国籍が不明なため、国際化に伴い治安の悪化を招く。
11.大学センター試験の語学を母国語に出来る。
中韓語については、英語に比べ20点も平均点が高いにもかかわらず、他の科目との是正がされていない。
12.在日関係者は「帰国子女枠」で大学受験が出来る。
帰国子女でもない、在日関係者にこの枠を適用すること自体が、矛盾している。
13.扶養控除で架空申請が可能で、実質税金を0にできる。
14.母国での医療費が、日本の国民健康保険で穴埋めできる。
日本滞在中に国民健康保険を取得し、帰国して治療を受けると、国民健康保険からお金が戻ってくる。
15.特別永住の犯罪者は、過去を隠蔽するため、通名を変えて社会復帰する。
16.在日は総連や民団のてこ入れで、「生活保護」を取得しやすい。
外国人への生活保護は憲法違反で有り、母国に保護してもらうべきです。
- 日常生活に必要な費用(食費・被服費・光熱費等)は生活扶助として支給。
- アパートの家賃は住宅扶助として一定の費用が支給
- 義務教育に必要な学用品などは教育扶助として定められた基準額が支給
- 医療サービスの費用は医療扶助として本人負担なし
- 介護サービスの費用は介護扶助として本人負担なし
- 出産費用は出産扶助として定額範囲内で実費支給
- 就労に必要な技術の習得などにかかる費用は定額範囲内で実費支給
- 葬祭費用は葬祭扶助として定額範囲内で実費支給
今や世界は日本同様外国人の流人定着により、治安と経済を混乱させる難民の阻止を最大のテーマとして 「自国最優先主義」に傾いており、主権者としての国民が、自国民を守る覚悟を問われています。
世界は福祉に寄生する「偽装弱者」や、政治活動を展開する「偽装国民」、歴史上の被害民族であることを理由に優遇を訴える「偽装被害民族」に怒りを露わにし始めていますが、これは左か右かというというステレオタイプの思考で把握すべき問題ではなく、嘘や偽善、ごまかしを嫌う人として当然の反応であると私は考えています。
そして日本でも、こうした世界に類例のない異常な状態を黙認し続けた結果、警察組織は、自然発生したナショナリズムと偏向した人権意識の板挟みになり、オリンピックを控えて国際情勢を踏まえた治安維持にあたるという難問に直面しているのです。 - ◇ なぜこんなことになったのか?
- 一般的には「日韓外相覚書」(1991年)と言われ、その正式名称は「日韓法的地位協定に基づく協議の結果に関する覚書」の結果です。それは、当時の海部内閣が自虐史観にとらわれ、土下座外交をした結果なのです。そして、この不当な協定について、一切真実を知らせずにいた左傾マスコミと、海部内閣を支持した日本人の責任です。
- ◇ 外国人の生活保護は憲法違反
- 生活保護を打ち切られた中国人永住資格者が、生活保護法による支給再開を訴えた裁判では、最高裁判決にて「外国人は行政措置による事実上の保護対象にとどまり、同法(生活保護法)に基づく受給権はない」との判断が出ています。
窓口裁量による、法的根拠のない外国人への生活保護支給の決定や実施は、公務権力の濫用であり、公金の横領・横流しで、刑法や公務員法に触れる行為です。
こうした違法行為はこれを決裁した公務員縦一列の実名を公表し、納税者に納得のいく処分をするとともに、生活保護受給外国人は領事館に通報し、本国から援助させるか、帰国の措置をとってもらうことが必要。外国人の受給、さらにその不正受給実態を公表することにより、国民感情の悪化を避けたい大使館・領事館を動かすことが可能でしょう。 - ◇ あいまいな外国人「定住」規定も大問題
- 定住者とは、法務省によれば「法務大臣が特別な理由を考慮し一定の在留期間を指定して居住を認める者」とされています。
具体的には、日系人やその配偶者、「定住者」の実子、日本人や永住者の配偶者の実子(いわゆる連れ子)、日本人や永住者・「定住者」の6歳未満の養子、中国残留邦人やその親族などが定住者として認められています。「素行が善良であるもの」という但し書きがある条項もありますが、最後に「など」と書かれておりますので、これもまたファジーで曖昧です。実際に、平成13(2001)年4月、名古屋市内でイラン人の知人男性を殺害し、平成14(2002)年に懲役10年が確定して服役、出所前の平成21(2009)年に強制退去を命じられたイラン人が、服役後、「送還されればイスラム法により処刑される」として、大阪高裁に国の処分取り消しを求め、その特別在留許可を認められて、定住者となつて日本に合法滞在しているのです。
彼はイスラム教に帰属するイランの国籍なのですから、その帰属するところに返すのが当たり前。これを認めたということは、海外で殺人など重大な罪を犯した場合、日本に潜伏し、万が一国際手配で捕まったとしても死刑判決が出るであろうことを理由として日本で服役して祖国での罪を帳消しにすることも可能。これでは日本は外国人凶悪犯罪者の吹き溜まりになります。(※無論、テロ犯罪もです。)
そんなバカなことがあるはずないだろう、と言う方は、この後第三章に提示する在日外国人枠国籍別日本人殺しの一覧表(在日朝鮮人による殺人が大多数)を、一度じっくり見てみてください。そしてその犯人の誰一人として強制送還されず、日本人にまぎれて隣に生活していることを認識してください。
特別永住とは違い、滞在期間が限定的で更新時には審査はあるものの、定住資格認定にはこうした問題も存在しています。 - ◇ 在日朝鮮人優遇は、国際法にも違反している。
- 日本での特定民族の優遇は、世界でも類がありません。そんなことをすればその民族が組織化され、主権を脅かし、本国人の権利を奪い、狭め、いずれは国を乗っ取ることがわかっているからです。それどころか、特定の国家出身者や民族を優遇することは、その他の国から来た外国人への差別につながることから、国際的に禁じられているのです。(※この事実を、左傾・反日弁護士や論壇やマスコミや人権団体は、一切報じない。)
「人種差別撤廃条約」には、区別、排除、制限だけでなく優先も差別であるとするのがすばらしいところ。つまり優遇措置の著しい差があれば、それは差別なのです。在日朝鮮民族や、最近では中国人団体も参政権に言及していますが、彼らの政治参加を禁じることは差別でしょうか?いいえ、参政権を禁じるのは当然なのです。 - 第1条
- この条約において、「人種差別」とは、人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう。
- ◇ 戦後の暴力革命と在日「特権」発生
- 朝鮮進駐軍やその関係者による組織的暴力活動の中心となつた在日本朝鮮人連盟も、半島の南北分裂により在日本朝鮮人総聯合会(略称:朝鮮総聯)と在日本大韓民国民団(韓国民団)に分裂しました。
ここには日本共産党が深く関わっているのです。
日本共産党内には「民族対策部」という部署がありましたが、その構成員は戦後の日本共産党再建資金を調達した在日本朝鮮人連盟(朝連)のメンバーで、日本の統治下での現ソウルで結成された朝鮮共産党日本総局からつながる組織だったのです。朝鮮動乱発生の昭和26(1951)年に平和革命を全面否定して暴力革命を決定した日本共産党は「51年綱領」を発表、民族対策部の指揮下にあった在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が武装闘争の一翼を担い暴れまくつて、大量の検挙者を出すなど大きな犠牲を払ってしまいました。昭和27(1952)年5月に発生した「血のメーデー」事件では、当局が事態を警戒し使用禁止としていた皇居前広場に2万人が突入、うち5000人ほどが在日朝鮮民族だったと言われていて、実際に逮捕された1232人中130人が在日朝鮮民族だったのです。朝鮮動乱では国内共産主義者数十万人を裁判なしに殺していた韓国政府側は、日本のこうした状況を踏まえて、この年から在日自国民の帰国を拒否するようになります。さらに韓国は帰国事業を阻止するために工作員まで使って、帰国事業を担っていた新潟日赤センターの爆破を計画、新潟県警が工作員を発見しダイナマイトなどを差し押さえ、その複数工作員からの供述から国家テロであることが判明、幸いに未遂に終わりました(新潟日赤センター爆破未遂事件)。(※慰安婦強雨精錬公で捏造記事を書いた吉田清治には、常にKCIAの影がつきまとっていたそうです。「吉田清治の長男、衝撃の告白[新潮45 2016年9月号]」参照)こんなことをしていれば在日韓国人に対する日本人の怒りや警戒心は当然でしょう。
日本共産党は昭和30(1955)年になつてようやく暴力革命路線を見直しましたが、暴力革命に積極的に加わり朝鮮労働党を支持した在日勢力を持て余し対立するようになります。民戦はこの年に解散、その翌日に朝鮮共産党の流れで結成されていた北朝鮮労働党による朝鮮民主主義人民共和国を支持、さらに日本の内政不干渉を掲げて、「在日本朝鮮人総連合会」(朝鮮総連)が結成されたのです。
なぜ警察庁が日本共産党や朝鮮総連を公安監視対象に指定し、今もその監視を継続しているかがご理解いただけたでしょうか。警察はこうした歴史の経緯から暴力によって目的を達成しようとする勢力を警戒しています。
暴力革命政党である共産党も、かつて日本人を殺して駅前の土地を奪った在日朝鮮民族団体も、この暗黒史には迂閥に触れることができません。迂閥に触れると、さらなる暗黒史を別のネットユーザーなどに発掘されかねないので、どうしようもなくなり、「ヘイトだ!」という呪文でケムにまくしかないのです。
また一方では、「朝鮮半島の朝鮮民族も天皇陛下を中心に日本国民として生き、発展を目指すべきだ」とする人々が、日本人と共に政治結社を作り、右翼活動を展開しました。
また、ヤクザ社会も、まだ戦後で組織力の弱かった警察に代わり、地元に密着した形で自警団を結成し自称「戦勝国民」の横暴を防いだり、機動隊と共に学生運動に対抗した末に、制圧した朝鮮人団体を組み込んだりしていましたが、組み込んだ半島系が大幹部クラスに入ってきて組織を吸収され取り込まれたような形になつてしまったりして混在し、現在に至っています。(※尚、大和民族が海を越え日本に渡来する中で、皇統を守るための親衛隊の中に汚れ役をやっていた一団が居たそうです。それが、ヤクザや忍者の起源とも言われています。)
我が国民を拉致して連れて行った北朝鮮や、いざとなれば自国にいる日本人を人質とする中国、報道の自由を保証せず法を曲げて産経記者を拘束した韓国などが、日本の移民法を悪用しないはずはない。