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ドラゴンテイル 辺境行路 作者:猫弾正

一章

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土豪 33

 クーディウスの本拠であるパリトー村を、冷たい乾いた風が吹き抜けていった。

洞窟オークに対する拷問を行なっていた納屋から出ると、リヴィエラは気持ちを切り替えようとして、息を小さく吐きながら灰色の空を見上げた。

嫌な熱を帯びた耳の怪我が冬の風に冷やされる。と、その苦痛は凍てつくような痺れへと変化した。

掌で左耳の怪我を抑えながら、しっかりとした足取りで歩き出したリヴィエラだが、周囲を行きかう屋敷の洗濯女や彼女自身の郎党が、郷士の娘の血塗れの姿を目に入れて慌てて集ってきた。

「お嬢!」「何があったんですかい!」

ざわめきながら遠巻きにしている者は兎も角、主の娘の傷に動揺した手の者たちがひどく五月蝿い。

耳の奥に鳴り響いてくる。

「あまり騒がないで……耳鳴りがする」

郎党たちの野太い怒鳴り声や、女たちの金切り声は、今のリヴィエラにとって耐え難い不協和音に感じられた。


 立ちくらみを起こした郷士の娘リヴィエラが顔を顰めていると、程なくして騒ぎを聞きつけたのか。

クーディウス家の娘である栗毛のフィオナが裏庭の反対側から姿を現した。

「どいて……退きなさい!」

屋敷の方から足早に近づいてきたフィオナは、人波をかき分けると幼馴染の傍らへ駆け寄った。

「リヴィエラ……その顔。血だらけじゃないか!」

「……怒鳴らないで……頭に響く」

よりにもよって耳元で叫んでくれた。嫌そうな顔のリヴィエラが呻くのも構わずに、焦った様子のフィオナは召使いに向かって叫び続ける。

「誰か、包帯と薬草、それと水を持ってきなさい!急いで!」

「大丈夫……大したことはない。それより大切な話がある。遂にオークの計画を掴めた」

大切な事を伝えようとする友人に、しかし、珍しく動揺しているらしいフィオナは聞く耳を持たなかった。

「何が大丈夫なものなの!兎に角手当てを!」

「……大事な話がある。手当ては後でも出来る」

「手当てが先よ!来なさい!」

滅多に見せぬ激しい剣幕に、根負けしたリヴィエラは苦々しい顔で言葉を飲み込んだ。

心配しているのが少し嬉しくもあり、しかし、面倒な事になったとも思う。

フィオナは、何やら小言でも言い出しそうな雰囲気を纏っているのだ。


 薬草と包帯を入れた木製の桶を抱えて、赤毛のジナが駆けてきた。

屋敷には、マリーという名の中年の女薬師がいるはずだった。

怪訝に思ったリヴィエラの視線に気づいたのだろう。

「マリーさんは、森の方に薬草を摘みに行っていて留守です」

既に流暢な南方語を喋りつつあるジナは、機織りだけでなく薬草の扱いも手馴れていた。

その境遇への同情と働き振りから、急速に屋敷での地歩を固めつつあるように見え、少し感心させる。

井戸の傍の丸太に座り込んだリヴィエラの傍らで、赤毛のジナが屈みこんで傷の手当を始めた。

座り込んで大人しく傷の手当を受けながら、リヴィエラはフィオナに意味ありげな視線を送った。

幼馴染の視線を如何に解釈したのか、豪族の娘フィオナが肯きながら口を開いた。

「それで……大切な話って。オークの企みが分かったそうだけど」

折が悪い。モアレ村の生き残りであるジナに一瞬だけ視線を走らせてから、リヴィエラは聞かせたくないと判断した。

「……二人きりで話したい」

「ジナなら大丈夫」

だが、性格や信用できるか否かの問題ではないのだ。

豪族の娘フィオナの即答に、眉を顰めたリヴィエラは困ったように首を振るうが

「しっかりしているし、口も堅い」

はっきりしないリヴィエラの態度に対して、フィオナはぴしゃりと言葉を続ける。

此の数日で、随分と信頼を得ているようだな。

それでも止めておいた方がいいと考えるリヴィエラだったが、微妙な雰囲気を読んだのか。

赤毛のジナが口を挟んだ。

「私が聞かない方がいい話なら、傷の手当が終わったらすぐに下がります」

「構わない。話して」

顎をしゃくった豪族の娘フィオナが、リヴィエラの方へと身を乗り出してくる。

溜息を漏らしたリヴィエラは、渋々だがグ・ルムを絞って聞き出したオークの計画について語り出した。

「オークは兵を集めている。その狙いも、何時ものような農園や丘陵近くの小村落での略奪とは訳が違う」


「……彼らが兵力を結集させつつあるのはモアレ。北から攻め寄せる心算なんだ」

手短にだが、オークの狙いの一部始終を話し終えたリヴィエラ。

案の定と言うべきか。聞き終わったフィオナは絶句していた。

やはり、草原地帯に接する北の方から攻められることは想定していなかったのだろう。

無意識のうちに抱いていた固定概念をひっくり返されて、脳裏でオークの戦略を咀嚼するのに時間が掛かっている。

苛立たしげに己の髪の毛を握り締めたフィオナからは、常日頃、浮かべている余裕の笑みが完全に消え失せていた。

「百も兵がいれば、間違いなく抜かれる。警告を送るべきか。いや、いざという時、援軍を送る手配……駄目だ。それじゃ間に合わない」

オークの襲撃も滅多に受けない北の村々だ。襲撃の備えも心構えもないに等しいとは云わないまでも、丘陵周辺の村々に比べてどうしようもなく手薄に違いない。

北の村々をどうやって守るか。守れるのか。

一気に切り裂かれたら、最悪、人族とオークの勢力バランスが逆転するかも知れない。

併せて、政治的な効果も考える。

だけど、間違っていたら……それだけで父さまが、クーディウスが信望を落としてしまう。


 深刻な事態に頭を痛めるフィオナは、取り乱した姿を取り繕うことも忘れていた。

当然に傍らに立つモアレからの逃亡者に対して気配りの余裕も失せていたが、やがて改めてジナの尋常でない様子に気づいた。

故郷に無数のオークが集ってきていると知ったジナは、蒼白な顔つきで佇んでいる。

気まずそうな視線を送って何か言いたげにするフィオナだが、リヴィエラの説明の途中から俯いて震えていたジナはさっと立ち上がると、一礼して駆け出していってしまった。

黙々と行なっていた手当ては、途中から包帯の巻きがやや雑に成っているものの上手く終わっている。

「此のことはまだ口外しないように!」

駆けていく赤毛のジナにリヴィエラが声を掛けるも、聞こえたのかどうか。

冷静さを幾ばくか取り戻したフィオナが、膨れた様子で包帯の位置を調節している幼馴染のリヴィエラを攻め立てた。

「馬鹿。どうしてジナに聞かせるのよ」

「馬鹿とはなんだ。最初に躊躇ったのに、貴女が構わないって」

リヴィエラの反論に、ますます眉を上げながらフィオナが口調も荒く言い返した。

「揚げ足を……オークの企みだって云ったじゃない。普通は、滅ぼされた故郷の話なんてするとは思わないでしょう!」

「フィオナは何時もそうだ!気まずくなると人を責めて!自分の間違いを認めないんだ」

二人は互いに軽く睨み合い、それからさも相手が悪いのだとでも言いたげに首を振ったり、はぁっ、とか、ふぅっとか溜息を漏らしてみせる。

深刻な仲違いではない。

子供の頃より稀に行う、二人にとっては様式化された儀式だったし、こんな軽口のやり取りがフィオナに常の冷静さをある程度、取り戻させる効果もあった。


 井戸の傍に腰掛けながら、ぶちぶちと嫌味っぽく言い争う二人の娘だったが、大声でリヴィエラの名を呼ばわりながら駆け寄ってくる青年の姿を目にして口論を中断した。

「……リヴィエラ!」

嫌そうな視線を闖入者のラウルに向けたフィオナだったが、互いに軽めの嫌味を言い合って気が済んだのだろう。弟の前で幼馴染との言い争いを続ける心算はないようだった。

息を弾ませながら駆け寄ってきたラウルは、想いを寄せる女性の顔が包帯まみれな事に息を飲み込んだ。

「……怪我をしたと聞いた」

「どじを踏んで耳を齧られてしまったよ。迂闊だったけど命に別条はない」

金髪のお下げを弄りながら小さく舌を出した郷士の娘リヴィエラを、ラウルは暫し真剣な眼差しで見つめていた。

「……あの」

熱っぽい視線に込められた意味を理解して、僅かに戸惑いを見せて呟いたリヴィエラだが、やがてほろ苦い顔をして肯いた。

「大丈夫だよ……私は」

険しい顔をしたまま、ラウルは彼女を見守っていた。

「そうか……せめてもの幸いなのかな」

訥々と話してからすっと手を伸ばして、何気なくリヴィエラの頬に指先で触れる。

親しい仲とは言え、此れは未婚で地位の高い女性に対しては、些か礼儀として適っていなかった。

微かに鳶色の瞳を細めるリヴィエラに、ラウルは己の行為に驚いたように赤面して手を引っ込めた。

「すっ……すまない」

「いや……少し驚いたけど」

何事もなかったかのように肩を竦めたリヴィエラは、フィオナの方へと向いた。

「そ、それでさっきの話、出来るだけ早くお父上に伝えてくれる?」

考え深そうになにやら沈思していたフィオナだが、リヴィエラの声が微かに上擦っているのに気づいた。

パリスに惚れているようだけど、ラウルの方でも満更でもないのかな。

フィオナの父親はパリスとラウル。二人の息子のうち、どちらかとリヴィエラ・ベーリオウルを縁組させる事をリヴィエラの父カディウスと話し合っていた。

フィオナも、その件では、父から相談を持ちかけられていた。

リヴィエラが妹か。勿論、幸せにはなって欲しいが……さて、愛するのと、愛されるのでは、どちらが幸せなのかな。

幼馴染の表情を鋭く観察していたフィオナは、やがて弟へと鳶色の瞳を転じた。

「ラウル。父上は?」

「ああ、書斎にいた」

物思いに沈んでいたフィオナは、丸太から立ち上がりながら

「では、パリスが帰ってきたら知らせて頂戴。

 皆の揃ったところで説明してもらう。貴方も顔を出して。ラウル」

肯くラウルに手を振ると、幼馴染を気遣ってその肩を優しく叩いた。

「リヴィエラは、それまで休んでるといい」

「そうさせてもらうよ。正直、少しきつい」

肯いたリヴィエラも立ち上がったが、館へと向かう歩調はややふらつき、乱れていたが、誰の手も借りることを断って一人で歩いていった。


 冷たい風に乱れた茶色の髪を整えながら、フィオナは憂鬱そうに溜息を漏らした。

「幸先悪いな……にしても、カディウスさん、怒るかな」

「ベーリオウル殿は、恐いからな」

姉の言葉に相槌を打ったラウルに、フィオナが怪訝そうな顔を向けた。

「何を他人事みたいに云ってるの?貴方が知らせに行くのよ」

ラウル・クーディウスは、まるで陸に打ち上げられた魚みたいに口を開くが言葉が出てこない。

「パリスには巡回があるし、私は武具の買い入れに飼い葉や糧食を集めるのと、家内の采配もあるもの。

下手な郎党を出したらたたっ斬られかねないけど、貴方なら曲がりなりにもクーディウスの嫡流だし……」

物思わしげに弟を眺めながら言葉を続ける姉に対して、ラウルは手を振って抗議した。

「いや、止めてくれよ。冗談だろう。俺だって忙しいんだぜ。

 これから、馬や鳥たちを水場に連れて行かないと……」

「それは貴方しか出来ない仕事なの?」

首を傾けて訊ねてきたフィオナに、ラウルは懇願するように重ねて言い募った。

「勘弁してくれ、姉さん。頼むよ」

「……分かったわ。なら、パリスに行って貰う」

ほっとしたようなラウルに、しかし、フィオナはどこか謎めいた口調で問いかけた。

「だけど……本当にそれでいいのね?」

姉の声に込められた口調が妙に気になったが、ラウルにはフィオナの内心を窺う事はできなかった。

昔から、そうなのだ。ラウルにとっては何を考えているのか分からない女であり、姉の思惑など考えるだけ無駄だとも思っていた。

それでもやけ気になったので、一応は訊ねてみる。

「……なんだよ、含みのある物言いだな」

「気のせいよ」

鼻を鳴らしたフィオナは、冷たく言い放った。




 金属の輪を縫いつけた皮革の鎧を纏い、背中には巨大な戦斧を背負っている巨躯のオークが、風そよぐ野原に仁王立ちしたまま、朝の空気を吸い込もうと腕を一杯に広げていた。

「空気が美味いな」

魁偉な容貌には似合わぬ穏やかな声。抜けるような濃い青空を見上げると、まるで雲でも掴もうとするかのように彼方へと掌を伸ばして拳を握る。

「いい土地だ。そうは思わんか、ボロ?」

副官へと呟いたルッゴ・ゾムの背後には、四十とも、五十ともつかぬ精悍なオーク族の戦士達が控えていた。

大半が体力の絶頂期にあるだろう、青年期から中年のオーク族の戦士たちだった。

数名混じる老齢の戦士たちも貌や腕に無数の古傷が刻まれ、古強者の風格を漂わせている。

「美味い?空気が?」

額に向こう傷のあるオークが、奇妙な言葉に面食らったように瞬きしながら問い返した。

「ああ、渓谷とは空気の味が違う。そんなことも忘れていた」

低い鼻を蠢かせながら、ルッゴ・ゾムは大きな肺一杯に空気を吸い込んだ。

オーク族の棲まう丘陵の盆地の南側には、所々、嫌な匂いのする沼地が点在している。

糞尿を手近な沼地に投げ捨てるオークの不潔な悪臭や、生息する動植物の違いも在るのだろう。

盆地の奥に行けば行くほど、悪臭は強くなり、年中、じめじめと湿った風に、澱んだ空気が漂っている。

春から夏に掛けては、時に砦の方まで鼻の曲がりそうな悪臭が漂ってくることもある。

ルッゴ・ゾムは、その臭いが嫌でならなかった。

同じ湿地帯にしても大地を吹き抜けていく風が肌に感じられるならばこうも違うのかと、新鮮な驚きを覚えずにはいられなかった。


 ルッゴ・ゾムの生まれた村は、元々、人族の領域に近い盆地の外縁に位置していた。

オーク族以外にも、僅かだが人やホビットなどの異種族も住まう小さな集落で、側溝を掘り、汚物は遠出して森まで捨てに行き、衛生には結構、気を使っていた。

子供の頃にはよそ者の人族やエルフ族、ホビット族などとも交流もあって、ルッゴ・ゾムが他のオークに比して清潔を好み、他種族への侮蔑や敵愾心が薄いのは、そうした育ちも幾らかは影響しているのかも知れない。

餓鬼の頃に遊んだ他所の連中とも、今、出会えば殺し合うしかねえんだろうな。

そんな殺伐とした感慨を抱きながら、ルッゴ・ゾムは野原の隅にある小さな石搭へと視線を向けた。

人の背丈の半分ほどの高さまで石が積まれたその祠は、豪族の軍勢に襲撃を受けて此の地で亡くなった村人たちへの弔いの墓標だった。

「……親父、お袋、兄貴、ムーシ」

幼い日のルッゴ・ゾムが一人素手で作り上げた墓標の下には、巨漢の戦士の父母と兄妹も眠っている。



 他のオークの戦頭が攻め込む戦いを好むに対して、ルッゴ・ゾムの戦いは守りが多かった。

敵は人の豪族だけではない。近隣の丘陵民や野盗、ゴブリンに蛮族、危険な敵を相手に廻して駆け回るルッゴ・ゾムへの、助けられたオークからの信望は厚くなる一方で、しかし、自然と人族の勢力圏に関する土地勘は働かなくなる。

にも拘らず、大勢で動き回るのは危険なほどに、部隊は人族の勢力圏の只中に踏み込んでいた。

既に、武装農民が屯している守りの堅い農園を幾つも通り過ぎてきている。

近隣の農園や農場を荒らしまわることの多いオーク族でも、此処より遠出する事は滅多にあるまい。


 此処から先は、大半のオークの戦士にとっても初めて踏み込む土地だった。

さすがに未知の土地、踏み込むのに緊張しているのか?

ボロが身動ぎしない主君の背中を訝しげに見た時、無言で墓標を見つめていたルッゴ・ゾムが動いた。

南の彼方へと向き直ると、鋭い瞳で睨みながら大きく息を吸い込み、突然に吼えた。

大地に足を踏みしめ、太い腕に血管を浮き上がらせ、獅子のように空気をびりびりと震わせて、長く力強い雄叫びを肺腑から搾り出した。

朗々と響く雄叫びには、熱い何かが宿っていた。

怒りでも、憎悪でもなく、聞くものの心を猛々しく駆り立てる原初の雄叫びとしか言いようのない炎のような何か。

ボロには、訳もなく血潮が熱いと感じられた。

ぶるりと背筋を震わせて、彼もまた吼え始める。

やがて伝染したかのように、次々と部下のオークたちが狼の群れの如くに吼え立て始めた。

一人、雇われの斥候である半オークのフウだけが空気に飲まれず、或いは気持ちを解せずに、どこか怯んだような眼差しでルッゴ・ゾムとその配下たちを見つめていた。

まるでまだ見ぬ敵への宣戦布告するかのように、幾つもの雄叫びが連なった鬨の声が大気を震わせながら、丘陵の彼方へと吸い込まれていった。


「さて、行くか。道案内を頼むぞ」

吼え終わった巨漢のオークは、何事もなかったかのように力強い大きな掌でフウの背中を叩くと、咳き込む密偵の横を笑いながら通り過ぎて、気負いなく人族の縄張りを歩き出した。



「……吼えているな」

旅籠の大きな寝台に腰掛けたまま、長靴の紐を結んでいたアリアが突然に呟いた。

「野良犬共めが」

微かに陰惨な響きを滲ませた凄味のある声に、背後にいてアリアの黒髪を弄っていたエリスはにわかに張り詰めた女剣士の様子に戸惑いを見せた。

「え?何も聞こえなかったよ」

エリスには、それらしい獣の遠吠えなどまるで聞こえなかった。

実際、耳の鋭さには自信があったから困惑を隠せないでいる。

簡素な木製の櫛でアリアの髪を梳りながら、空耳だろうと告げる半エルフの娘にも、しかし、己の勘働きに強固な自信を抱いている女剣士は瞳を細めながら断言した。

「では、君には聞こえなかったのだろうな」

云いながらも、アリアの黄玉の瞳はエリスを視ていなかった。

奇妙に謎めいた、それは確信に満ちた物言いで、エリスの戸惑いを他所に、アリアは沈思するように旅籠の壁の木目に視線を彷徨わせている。


 何かに感応でもしたかのように、アリアの猛禽のように鋭い視線は見つめる先の漆喰の壁を貫き、その先にある曠野をも越えて、彼方の何かを捉えているようにエリスには思えた。

楽しそうに微笑んでいた表情からは感情の色が抜け落ち、呟いた声と眼差しは遠くて、結ばれた筈の恋人が目前にいながらも、同時に自分にはけして辿り着けない遥かな場所に立っているような錯覚さえエリスは覚えた。

自分には永久に理解できず、また他者の触れることの出来ない領域をアリアは持っているのだ。

突然に目の前の恋人の嬉しくない真実を理解して、やや消沈したエリスの耳が弱々しく痙攣する。

しかし、濡れた蒼い瞳をそっと閉じて淡い笑みを浮かべると、エリスは恋人の髪を静かに梳り続ける。

広い世界に生れ落ちた人間が、偶々巡り合って結ばれ、共にあると云ってくれた。

これ以上、何を望むこともない。欲張れば罰が当たるだろう。



 女剣士の髪を弄るエルフの娘は、暖かな雰囲気を纏っていた。

穏やかで心底、嬉しそうな笑みを浮かべた綺麗な相貌は、見ているだけで楽しげな気持ちが伝染しそうなほどに陽気な雰囲気で楽しげに鼻歌などを歌っている。

その姿を見ているうちにエリスの持つ雰囲気に当てられたのか、アリアの胸の奥までじんわりと暖かくなってくる。

目の前にいるエルフの娘が幻みたいに思えて、不安を覚えた女剣士は、恋人の頬にそっと触れてみた。

「どうしたの?」

不思議そうに訊ねてくるエリスは、当然、消えたりはしなかった。

親しい友人や肉親が時に裏切り、或いは最後まで絆に結ばれていても戦や病で突然に姿を消す東国の世界観が、骨の髄まで染みこんだ筈のアリアが、この時、たとえ一刻であっても世界の残酷な側面を忘れるのが悪くないように感じられてしまった。

なんだろう、この可愛い生物。

その美貌以上に纏っている穏やかで優しい春の日差しのような雰囲気が、この時、アリアの心を惹きつけて離さない。

エリスは、まるで森の妖精のようにも思える。

こんな血塗れの己に対して欲情もする血の通った人間なのが、心底、不思議にアリアには感じられた。

エルフは精霊の血を引く高貴な種族と云われているが、むしろ妖精のようにも思えた。

過去のヴェルニアでは、少なからぬ人数の君主や諸侯がエルフの愛人に入れ込んでお家騒動を起こしている。

今までは鼻で笑っていたそれら貴顕の訓話を、しかし、全く笑えなくなっている自分にアリアは気づいた。

共にいると心身を穏やかに癒してくれる。不愉快な気分を拭い去り、前向きな気持ちが湧いてくるのだ。

ずっといると、私は弱くなるかも知れない。

心の何処かでそんな危惧を抱きながらも、しかし、出会ってよりまだ短い期間にも関わらず、エリスを捨てる事は出来ないかも知れないと感じ、むしろ、それでいいとも思い始めていた。

無論、全く表には出さない。

内心を明かされたエリスが調子に乗るほど馬鹿とは思わなかったが、いい気にさせたり、優位に立たせる心算はなかったし、始めのうちは、互いの内面に多少の謎は合った方が関係は長続きするものだ。


 何とはなしに沈黙の舞い降りた室内で、窓が風に軋む音だけが響いていた。

外では、今日も冷たい風が木立を揺らしながら、街道を吹き抜けている。

冬の夕暮れは早い。時刻は、もう正午を過ぎている。

アリアが再び、口を開いた。

「此れから如何する?」

「日が暮れる前にノアの様子を見ておきたい」

農婦の容態はいよいよ悪化してきていた。

エリスの物憂げな顔色を見て、アリアは無言で掌を重ねた。

「……あの子……ニーナのことは如何しようか」

半エルフの薬師の言葉にアリアが思案しながら口を開いた。

「気がかりなようだな。ティレーの知人に些か当てがある。

 僅かな縁もあるし、あの子一人くらいなら引き取れよう」

エリスは暫し考えたが、ノアにしてやれる事と言ったら、残される娘の面倒を見ることくらいだった。

或いは、渡し場の村長であるリネルが引き取って面倒を見る心算かも知れない。

彼女なら、多分悪くはしないだろう。だが、先の事など誰にも分からないのだ。

兎に角、やれることをやろう。

アリアが見守っていると、エリスは淡い笑顔を浮かべながらも立ち上がった。

「ん、では、出かけるとしますか」



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