戦時下の歌謡というと、いまだに「政府や軍部に無理やり作らされ、歌わされたもの」「スローガン的で、退屈で、マーチ調の軍歌ばかり」というイメージが根強い。
なるほど、そういった抑圧的な側面があったことは事実だ。だが他方で、企業(レコード会社、新聞社など)が営利を求めて企画を立て、クリエーター(作詞家、作曲家など)が活躍の場を求めて音楽を作り、そして大衆が娯楽を求めてそれらを消費した側面もあったことを見逃してはならない。
「上からの統制」だけでは、戦時下の歌謡を十分に説明できない。それは、企業やクリエーター、大衆の主体性をあまりに軽んじている。かれらはけっして単なる操り人形ではなかった。だからこそ、多種多様なレコードが制作されたのである。
そもそも日本のレコード産業は、1930年代に群雄割拠の戦国時代を迎えていた。ビクター、コロムビア、ポリドール、キング、テイチクなどのレーベルが出揃い、ヒット曲を送り出そうと切磋琢磨していたのだ。それだから、話題のテーマはたちまちレコードのネタに採用された。
1931年9月に勃発した満洲事変とて例外ではなかった。レコード会社はその進展にあわせて、時局的な音楽をつぎつぎにリリースした。エロ・グロ・ナンセンスを歌った「エロ歌謡」も、軍事衝突を歌った「時局歌謡」も、大衆の需要に応じた商品だったという点では、地続きだったのである。
たしかに日中戦争(1937年7月勃発)がはじまると、内閣情報部や陸海軍が募集・推薦・後援などで関与した歌も数多く作られるようになった。ただそれらは、毎月数百も出る新譜のなかでほんの一握りだった。
アジア太平洋戦争の初期にも、企業やクリエーターの主体性は失われていなかった。緒戦の快勝にあわせて、景気のいい時局歌謡をここぞとばかりに送り出したのである。結局その勢いが目に見えて衰えるのは、戦局の悪化により、レコードの生産もおぼつかなくなってからだった。
最後に、音楽のジャンルについて一言触れておく。当時のレコードには、ジャンルが併記されていた。時局的な音楽でいえば、「軍歌」「愛国歌」「国民歌」「時局歌」「軍国歌謡」などがそうだった。
もっとも、そこに明確な使い分けは見られなかった。同じ歌でも、歌手やアレンジによって「軍歌」が「流行歌」や「童謡」になることもあった。学術的な概念ではなく、商品の説明なのだから当然だろう。このようなジャンル分けも商品の一部として注目されたい。
山田耕筰
(『婦人グラフ』第3巻 第2号
1926年2月)
1932年2月、上海北郊の廟行鎮で、3名の日本軍工兵が自爆して味方の突撃路を開いたと報道された。かれらは「肉弾三勇士」もしくは「爆弾三勇士」と讃えられ、一躍国民的なヒーローとなった。新聞社やレコード会社は、この国民的な熱狂に便乗して、各々「三勇士」の歌を作ることを計画した。そのなかでもっとも成功したひとつが、朝日新聞(当時は大阪朝日新聞と東京朝日新聞)による、この「肉弾三勇士の歌」であった。12万4561篇の応募作から選ばれた一等当選の歌詞は、大御所の山田耕筰によって作曲された。
現在でも盆踊りでよく使われる「東京音頭」は、1933年にリリースされた。翌年にはレコード各社の競争で「さくら音頭」も作られた。このことからもわかるように、音頭ものは当時の売れ筋商品だった。「〜音頭」とするだけで曲ができるので、「防諜音頭」「満洲音頭」「建国音頭」など時局色が濃いものも多数作られた。防空思想を啓発するこの「防空音頭」もその一例。「どどんがどん」という定番のリズムで高射砲が撃たれ、敵機が落ちていくという歌詞は物騒だが、なかなか工夫されている。
葦原邦子
1937年11月の東京宝塚劇場公演 軍国レビュー「南京爆撃隊」の舞台写真(「長谷川清関係文書」より)
東京宝塚劇場で公演された軍国レビュー、「南京爆撃隊」の主題歌。貴志中尉とは、第二次上海事変で戦死した、上海特別陸戦隊の貴志金吾を指す。海軍省軍事普及部(海軍のプロパガンダ担当部署)には松島慶三という文化に明るい軍人がおり、とりわけ少女歌劇にはみずから原作を書くほどのめり込んでいた。作詞者の海野啓一は、かれのペンネームである。ビクターの新譜案内には、「宝塚フアン、葦原フアン、必聴の豪華版!」と書かれている。男装の麗人として知られた、葦原邦子の人気にあやかったものだった。
古関裕而
(『音楽知識』第2巻 第10号
1944年10月)
日中戦争の初頭、毎日新聞(当時は大阪毎日新聞と東京日日新聞)の企画で「軍歌:露営の歌」が作られ、爆発的にヒットした。これを受けて、児童合唱団が歌った「少年軍歌:露営の歌」、芸者出身の歌手などが歌った「流行歌:露営の歌」など、さまざまなアレンジ版が作られた。「続露営の歌」は、その名のとおり「露営の歌」の第二弾を狙ったものである。作曲者の古関裕而によれば「大したヒットにはならなかった」(1)ようだが、レコード会社のたくましい商魂がうかがえる。
鳥越強
(『軍用犬』第6巻 第1号
1937年1月)
こちらも毎日新聞が歌詞を募集したもの。歌詞の募集にあたっては、多くの場合、高額の懸賞金が用意された。そのため、懸賞金や名声を求めて応募を繰り返す「常連投稿者」が存在した。作詞者の鳥越強(高松商業学校教諭)もそのひとりで、あちこちの懸賞公募歌に名前をとどめている。消費者の側も、たんに受け身ではなかった証拠である。
東条英機
(「近代日本人の肖像」より)
1941年1月、東条英機陸相より「戦陣訓」が示達された。ビクターでは、この「戦陣訓」の歌謡化を企画し、「戦陣訓の歌」を制作した。ところが、リリース前に他社より「こうした公のものを、一社だけ発売するのは不都合だ」(2)と待ったがかったという。結局、コロムビア、キング、テイチクでもそれぞれ「戦陣訓の歌」が作られた。もっとも、一番ヒットしたのはやはりこのビクター版だった。
丸山鐵雄
(『放送文化』第10巻 第8号
1955年8月)
日本放送協会に勤める丸山鐵雄は、『レコード文化』1942年3月号に「陥落へ待つてましたと歌を売り」と皮肉を書いた(3)。レコード各社が前月15日のシンガポール陥落を受けて、記念ソングを次々にリリースしたことを受けてのものである。丸山は時局便乗商品に厳しかったが、この「シンガポール陥落の歌」については「力強く線の太い点、陥落の歌として成功して居る」と珍しく高い評価を与えている。
※レコードの発売月などのデータは「歴史的音源」によった。ただし、ジャンルのみ一部を補った。
〔引用文献〕
〔参考文献〕
(近現代史研究者・辻田 真佐憲・つじた まさのり)