いつも拝読しているブログのこちらの記事を読みました。
例の中高生の読解力不足の報道が事の発端となる話題。
全編面白かったのですが、特に「ふむふむ」と読んでいたのがこちらの部分。
というわけで、厳密にいえば「何も考えていない」ではなく「思考する」ところに至っていないというのが正しい。この辺の理解が教育行政を司る人たちに進まない限り、現在生まれている教育格差とか教育の詰め込みとか発達障害の療育とかそういった諸問題は解決しないと思う。「10個を2人で分けたら何個ずつになるでしょう」はわかっても「10cmを半分にしたら何cmでしょう」ができない。ここまでくると向き合う側に根気と忍耐が絶対必要になってくるし、その前に周囲の理解が得られないのが一番悲しいことだと思う。
「読解力がない」を「文章を読み解くスキルがない」と読み替えて、「じゃあどうすればスキルを養えるのか」というのが、この一連の話題に共通する課題だと思うのだけど、こちら文章にもあるように、問題はもっと手前にあるのかもしれない。
つまりは、「厳密にいえば「何も考えていない」ではなく「思考する」ところに至っていない」という前述の引用部分。
「文章を読み解くスキル」云々ではなく、そもそも「読み解こうとしない」「思考が読み解くという段階にまで至らない」という可能性。
以下、昨晩自分で呟いたTwitterの内容。
「読み解こうとしない」「思考が読み解くという段階にまで至らない」というのは、正確には「日常生活で養ってしまった<短文を理解する能力>が自動的に先行してしまう」ということで、「長文読解に至らない」というのはその結果に過ぎないのではないか、という仮説。
<短文を理解する能力>というと、どうにもざっくりしすぎているが、それについての補足のようなものが、以下。
本当に恥ずかしい話で、英語ほど自分の中で「中途半端に学んでしまった」ものは無いと思っている。
だから、先に書いたように、文法とかほとんど分からなくて、知っている・見たことがある単語や文型から何となく情報を拾い上げて頭の中で連結させて文章にしてしまう、という愚行が、驚くべきことに無意識に先行してしまう。
「テニス」「遊ぶ」「私」という単語があったとして、勝手に「私はテニスで遊ぶ」という訳をしてしまう、という感じ。本当は「私はテニスに遊ばれていた」かもしれないのに。(あくまで例です)
つまりは、前述の<短文を理解する能力>は、この「中途半端に知っている状態」とニアイコールなのではないか、という話。
長文を読むほどに「慣れて」いないけど、でも知らない言語ではない。
だから、字面の雰囲気や知っている単語だけを何となく連結させて、「おそらくこういう意味だろう」という理解をして、実質的な「読解」にまで至らない。
Twitterで万単位でRTされたツイートにぶら下がっているリプライ欄には、こういう手順で生成されたようなツイートが沢山ぶら下がっている。
じゃあ、その<短文を理解する能力>だけが脳内を支配することを避けるために、何をどうすれば良いのか、というのが次の話。
つまりは、これに対する・・・
こういうやつ。
メディアの違いでどういう表現がイコールとされているのか、というやつ。
「長文を読む」とか以前に、思考的に「見る」を脱する練習をさせてあげられたらな、と。
面白いと思うのだけど、果たしてどうかな。
とはいえまずは、私自身ももっと本を読まなくてはならないな、と痛感しつつ、終わりにしておきます。