さて、わたしはここまでアドラーの原著『個人心理学講義』と『人生の意味の心理学』を読んでみて、アドラーという人にわるい印象はもちませんでした。良心的な、一生懸命なカウンセラーさんだったのだろうなと思いました。
また、同時代のフロイトが捏造だらけだったことが明らかになったり、ユングはポエムだったと言われることなど考えると、意外とアドラーが一番「まっとう」な人だったかもしれない、とも。
しかし。
ここでは、アドラー心理学全体の解説を試みるつもりはありませんが、現代人の目からみると、どうみても明らかにおかしいところがあります。見立てもおかしいから治療アプローチも間違っている。
そして、それがどうも思想全体に影響を与えているのではなかろうか?と。部分的な間違いではなく、全体に及んでいるのではないか?と。
非常に「ざっくり」とした整理ですが、アドラーの考える「いい人」「わるい人」とはどんなものか、みてみます。

よろしいでしょうか。
アドラーのいう、「共同体感覚をもとう」「他人に関心をもとう」「協力しよう」「貢献しよう」どれも、間違いではないんです。むしろ、常識的なことです。わたしも小学校の先生にさんざん言われました。
しかし、カウンセラーであるアドラーが、こうした言葉を口酸っぱくして言わなければならなかった相手とは、どんな人だったか?
実は、アドラー自身が描写する、「他者に関心のない人」「協力しない人」「貢献しない人」、ひとことで言うと「共同体感覚のない人」とは、よくよくみると、現代でいうところの発達障害者、なかでもアスペルガー症候群の人に当てはまりそうなのです。
なんども言いますように、アドラーはカウンセラーとして、「人生がうまく行ってない人」に関わってきました。その中で、不幸な事例をたくさん見てきました。
そして、人生の不幸を作り出すのはこういう人だ、と彼なりのモデルをつくりだした、それが「共同体感覚のない人」だったようです。
ところが、彼がカウンセリング場面で手を焼いたような、「共同体感覚のない人」とは。
おそらく、知能程度は普通かそれ以上で、なのに他者への共感や思いやりに奇妙に欠けた人物だったろうと思います。そしてアドラーはそうした人びとは先天的にそうなのだろうとは考えませんでした。後天的な育て方のせいでそうなった、と考えました。だから、教育者向けに「こういうことを徹底して教え込みなさい」とクギをさすことになったのです。
アドラーが自閉症スペクトラムと定型発達の区別がついていなかっただろうと思われる記述――。
このパラグラフの前半は自己中な大人のことを言っています。自分の損得勘定ばかりを考える大人のことです。そして後半は自己中に育てられた(とアドラーが考えている)子供のことを言っています。そうした子供の特徴として、アドラーは「視線を合わせない」ということを言っているのです。
このブログの長い読者の方々だと、「損得勘定にばかり関心」そして「視線を合わせない」どちらも、アスペルガーの人の特徴だということがおわかりになるでしょうか。
アスペルガーに限らず発達障害の人は共感能力が低いので、自分の言動が他人にダメージを与えているということがわかりません。またワーキングメモリが小さいので、「情けは人のためならず」というような話はわからないんです。まわりまわって自分にもいいことが起きるというお話は長すぎるんです。勢い、てっとりばやく自分の手元にお金がいくら残るか、いくら節約できるかという話がすきです。
(これも、例外として高機能の人だとお勉強するとちゃんと慈善事業ができるようになることがあります。ビル・ゲイツ氏などはたぶんそうなのでしょう)
だから、現代のお医者さんによるとアスペルガーの人に問題行動をやめさせようとするとき、倫理道徳の話では理解してくれないので、「そんなことをするとあなたが損するよ」というと、きいてくれることがあるそうです。
また、自閉症スペクトラムの人は視線は合わさないですね。これも、他人の視線は情報量が多すぎるからしんどくなるのだ、という説があります。
でも、アドラー先生にとってはこれらは自己中でけしからんことのサインなんです。
それは仕方ないんです。アドラー先生の時代に発達障害概念はなかったのですから。
ここでちょっと年表的なものをお出しすると、
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自閉症やアスペルガーについての報告が出てきたのはアドラーが亡くなったより後です(表左)。アドラーは、精神遅滞、今でいう重度の知的障害の人のことはみたことがあったようです。しかしIQは高いが認知能力の一部を欠損しているアスペルガーの概念などは全然知りませんでした。
われわれにとっても、今でこそ徐々に知識が普及しつつありますが、知識がなければアスペルガーの人というのはやはり理解しがたい存在です。そして、この人たちが知的能力は高いのに人間的なことにはやたらと感度が低いのをみたとき、往々にして「親の躾が悪いんだろうか」と思ってしまいます。
アドラー先生がカウンセリングでクライエントに良くなってほしくて焦れば焦るほど、この人たち相手には空回りしたはずです。
その結果が、恐らく「共同体感覚をもて」「協力せよ」「貢献せよ」といったテーゼになったであろう。
それでカウンセリングが成功したかどうかは、疑問です。
決して、定型発達者にとっても悪いフレーズではないんですけれどね。
また、上記の表について補足なんですが、「ほめない叱らない」をアドラーが言ったはずがない。
というのは、行動理論がヒトに応用されて「ほめ育て」が出てきたのは、これもアドラー先生が亡くなった後だからなんです(表右)。だからそれについて批判するはずもない。
行動理論に対する批判の声が高まったのは(言いがかり的なものですが)1990年代です。このころに、恐らく後世のアドラー心理学の人たちが反応して、「操作することはいけない」「賞罰主義はいけない」と言い出したと思われます。アドラーが言い出したことではないはずです。ただ「アドラー心理学では賞罰主義を否定する」このフレーズは、岸見氏にかぎらずアドラー心理学を標榜する人は言っていますね。
追記:ひとつの資料
ここでは、「われわれ」という主語ですが、最初に「何てすてきな帽子だろう」と、言っています。これは、「ほめている」のではないでしょうか?そして続けて「どうすればもっとすてきにできるか提案する」とします。この2つの働きかけを、アドラーは「勇気づけ」と言っています。わかりますか?「ほめて、提案する」なんです。
この相手は3-4歳の女の子ですが、ここで「提案」単独では勇気づけになりません。女の子がつくっていたものに、いきなり「こうすればもっとよくなるよ」と言ったら。それは失礼というものです。頭に「素敵だね」をくっつけて、少女の仕事を肯定していることを示したうえでなら、提案は勇気づけの役割を果たすでしょう。
このエピソードのすぐあとにこう続きます。
ごく常識的なことを言っていて、わたしなども何も異論をはさむ余地はありません。「行動承認」のスタンスとも矛盾しないでしょう。ここでのポイントは、アドラーは「勇気づける」ことを「勇気をへし折る(奪う)」ことと対比させたのでした。決して、「勇気づけることは良くてほめることは悪い」などとは言っていないのでした。
また、著書のすべてを読んで言っているわけではないのですが、アドラーの考える「勇気づけ」の全体像は、「承認」とよく似たものだったと思われます。細かくカテゴリ分けすれば、当社の「承認の種類」と同様に、そこには「ほめる」も含むし「励ます」も含む。人が人を力づける行為全体を包含していたと思われるのです。
…ただ、細かいことを言いますとアドラーが「勇気づける」対象としたのは、こうした幼い少女であったりカウンセリングで出会う、社会から排除されたクライエントであったりし、やはりいささか「上から目線」が入っていないとはいえません。相手に行動力が「ない」「低い」とわかっているときに言うぶんには、いいものです。わたしのような年をくった人間に「勇気づけ」を使うのは「おこがましい」と言われても仕方がないのです。
もうひとつアドラー心理学の大きな問題点は、
「批判はいけない」
「対立はいけない」
と言っている点です。これは原著の中にあります。
以前から言っていますように、「批判はいけない」は心理学、カウンセリング独特の話法です。哲学の中にはちゃんと批判はあります。わたしがひそかに名乗っているドイツ・フランクフルト学派は別名「批判理論」ですし、その中の重鎮ハーバーマスはあっちこっちを批判しまくっています。
で、とりわけわが国のように「波風立てない」ことを尊ぶ気風の中では、「批判はいけない」は、非常に有害な思想です。薬が効きすぎてしまうんです。
端的に、このところわが国で連続して起きている不正問題などは、内部で適切な批判が起きないから起きるんです。
岸見一郎氏なども、アドラー先生が言ってもいないことを捏造して触れまわっていますが、これはアドラー心理学業界さんの中で批判は起きないのでしょうか?
「アドラー先生はそんなことは言っていない!アドラー先生が誤解されるようなことを言うな!」
と血相を変えて言う人はいないのでしょうか?
アドラー心理学陣営のご同業のみなさんは、岸見氏が有名になってくれれば自分のところにも食い扶持が回ってくるからと、黙認状態なんでしょうか?
「批判」を封じると、自浄作用がありません。向上がありません。不良品を出してしまいます。
アドラー自身が良心的な人であっても、後世のアドラー心理学が有害なものになったことに、責任の一端がないとはいえませんね。「批判はいけない」を彼自身が言ってしまっていますから。
<シリーズ・アドラー心理学批判>
●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html
●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html
●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html
●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html
●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html
●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html
●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html
●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html
●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html
また、同時代のフロイトが捏造だらけだったことが明らかになったり、ユングはポエムだったと言われることなど考えると、意外とアドラーが一番「まっとう」な人だったかもしれない、とも。
しかし。
ここでは、アドラー心理学全体の解説を試みるつもりはありませんが、現代人の目からみると、どうみても明らかにおかしいところがあります。見立てもおかしいから治療アプローチも間違っている。
そして、それがどうも思想全体に影響を与えているのではなかろうか?と。部分的な間違いではなく、全体に及んでいるのではないか?と。
非常に「ざっくり」とした整理ですが、アドラーの考える「いい人」「わるい人」とはどんなものか、みてみます。
よろしいでしょうか。
アドラーのいう、「共同体感覚をもとう」「他人に関心をもとう」「協力しよう」「貢献しよう」どれも、間違いではないんです。むしろ、常識的なことです。わたしも小学校の先生にさんざん言われました。
しかし、カウンセラーであるアドラーが、こうした言葉を口酸っぱくして言わなければならなかった相手とは、どんな人だったか?
実は、アドラー自身が描写する、「他者に関心のない人」「協力しない人」「貢献しない人」、ひとことで言うと「共同体感覚のない人」とは、よくよくみると、現代でいうところの発達障害者、なかでもアスペルガー症候群の人に当てはまりそうなのです。
なんども言いますように、アドラーはカウンセラーとして、「人生がうまく行ってない人」に関わってきました。その中で、不幸な事例をたくさん見てきました。
そして、人生の不幸を作り出すのはこういう人だ、と彼なりのモデルをつくりだした、それが「共同体感覚のない人」だったようです。
ところが、彼がカウンセリング場面で手を焼いたような、「共同体感覚のない人」とは。
おそらく、知能程度は普通かそれ以上で、なのに他者への共感や思いやりに奇妙に欠けた人物だったろうと思います。そしてアドラーはそうした人びとは先天的にそうなのだろうとは考えませんでした。後天的な育て方のせいでそうなった、と考えました。だから、教育者向けに「こういうことを徹底して教え込みなさい」とクギをさすことになったのです。
アドラーが自閉症スペクトラムと定型発達の区別がついていなかっただろうと思われる記述――。
もっぱら自分自身の利害を追求し、個人的な優越性を追求する人がいる。彼〔女〕らは人生に私的な意味づけをする。彼〔女〕らの見方では、人生はただ自分自身の利益のために存在するべきである。しかし、これは共有された理解ではない。それは全世界の他の誰もが共有しそうにない考えである。それゆえ、われわれはこのような人が他の仲間と関わることができないのを見る。しばしば、自己中心的であるように育てられてきた子どもを見ると、そのような子どもが顔にしょんぼりした、あるいは、うつろな表情を浮かべているのを見る。そして、犯罪者や精神病の人の顔に見られるのと同じような何かを見ることができる。彼〔女〕らは他の人と関わるために目を使わないのである。彼〔女〕らは他の人と同じ仕方で世界を見ない。時にはこのような子どもたちや大人は、仲間の人間を見ようとはしない。目を逸らし、別の方を見るのである。
(『人生の意味の心理学』下巻第十一章個人と社会、「共同体感覚の欠如と関連付けの失敗」、pp.129-130)
このパラグラフの前半は自己中な大人のことを言っています。自分の損得勘定ばかりを考える大人のことです。そして後半は自己中に育てられた(とアドラーが考えている)子供のことを言っています。そうした子供の特徴として、アドラーは「視線を合わせない」ということを言っているのです。
このブログの長い読者の方々だと、「損得勘定にばかり関心」そして「視線を合わせない」どちらも、アスペルガーの人の特徴だということがおわかりになるでしょうか。
アスペルガーに限らず発達障害の人は共感能力が低いので、自分の言動が他人にダメージを与えているということがわかりません。またワーキングメモリが小さいので、「情けは人のためならず」というような話はわからないんです。まわりまわって自分にもいいことが起きるというお話は長すぎるんです。勢い、てっとりばやく自分の手元にお金がいくら残るか、いくら節約できるかという話がすきです。
(これも、例外として高機能の人だとお勉強するとちゃんと慈善事業ができるようになることがあります。ビル・ゲイツ氏などはたぶんそうなのでしょう)
だから、現代のお医者さんによるとアスペルガーの人に問題行動をやめさせようとするとき、倫理道徳の話では理解してくれないので、「そんなことをするとあなたが損するよ」というと、きいてくれることがあるそうです。
また、自閉症スペクトラムの人は視線は合わさないですね。これも、他人の視線は情報量が多すぎるからしんどくなるのだ、という説があります。
でも、アドラー先生にとってはこれらは自己中でけしからんことのサインなんです。
それは仕方ないんです。アドラー先生の時代に発達障害概念はなかったのですから。
ここでちょっと年表的なものをお出しすると、
自閉症やアスペルガーについての報告が出てきたのはアドラーが亡くなったより後です(表左)。アドラーは、精神遅滞、今でいう重度の知的障害の人のことはみたことがあったようです。しかしIQは高いが認知能力の一部を欠損しているアスペルガーの概念などは全然知りませんでした。
われわれにとっても、今でこそ徐々に知識が普及しつつありますが、知識がなければアスペルガーの人というのはやはり理解しがたい存在です。そして、この人たちが知的能力は高いのに人間的なことにはやたらと感度が低いのをみたとき、往々にして「親の躾が悪いんだろうか」と思ってしまいます。
アドラー先生がカウンセリングでクライエントに良くなってほしくて焦れば焦るほど、この人たち相手には空回りしたはずです。
その結果が、恐らく「共同体感覚をもて」「協力せよ」「貢献せよ」といったテーゼになったであろう。
それでカウンセリングが成功したかどうかは、疑問です。
決して、定型発達者にとっても悪いフレーズではないんですけれどね。
また、上記の表について補足なんですが、「ほめない叱らない」をアドラーが言ったはずがない。
というのは、行動理論がヒトに応用されて「ほめ育て」が出てきたのは、これもアドラー先生が亡くなった後だからなんです(表右)。だからそれについて批判するはずもない。
行動理論に対する批判の声が高まったのは(言いがかり的なものですが)1990年代です。このころに、恐らく後世のアドラー心理学の人たちが反応して、「操作することはいけない」「賞罰主義はいけない」と言い出したと思われます。アドラーが言い出したことではないはずです。ただ「アドラー心理学では賞罰主義を否定する」このフレーズは、岸見氏にかぎらずアドラー心理学を標榜する人は言っていますね。
追記:ひとつの資料
一人にされた三歳か四歳の女の子がいる、と仮定してみよう。彼女は人形のために帽子を縫い始める。彼女が仕事をしているのを見ると、われわれは何てすてきな帽子だろう、といい、どうすればもっとすてきにできるか提案する。少女は勇気づけられ、励まされる。彼女はさらに努力し、技能を向上させる。(『人生の意味の心理学』下巻第十章「仕事の問題」、p.115)
ここでは、「われわれ」という主語ですが、最初に「何てすてきな帽子だろう」と、言っています。これは、「ほめている」のではないでしょうか?そして続けて「どうすればもっとすてきにできるか提案する」とします。この2つの働きかけを、アドラーは「勇気づけ」と言っています。わかりますか?「ほめて、提案する」なんです。
この相手は3-4歳の女の子ですが、ここで「提案」単独では勇気づけになりません。女の子がつくっていたものに、いきなり「こうすればもっとよくなるよ」と言ったら。それは失礼というものです。頭に「素敵だね」をくっつけて、少女の仕事を肯定していることを示したうえでなら、提案は勇気づけの役割を果たすでしょう。
このエピソードのすぐあとにこう続きます。
しかし、少女に次のようにいうと仮定しよう。「針を置きなさい。怪我をするから。あなたが帽子を縫う必要なんかないのよ。これから出かけて、もっとすてきなのを買ってあげよう」と。少女は努力を断念するだろう。このような二人の少女を後の人生において比較すれば、最初の少女は芸術的な趣味を発達させ、仕事をすることに関心を持つことを見るだろう。しかし、後の少女は自分でどうしていいかわからず、自分で作るよりも、いいものが買えると思うだろう。(同、pp.115-116)
ごく常識的なことを言っていて、わたしなども何も異論をはさむ余地はありません。「行動承認」のスタンスとも矛盾しないでしょう。ここでのポイントは、アドラーは「勇気づける」ことを「勇気をへし折る(奪う)」ことと対比させたのでした。決して、「勇気づけることは良くてほめることは悪い」などとは言っていないのでした。
また、著書のすべてを読んで言っているわけではないのですが、アドラーの考える「勇気づけ」の全体像は、「承認」とよく似たものだったと思われます。細かくカテゴリ分けすれば、当社の「承認の種類」と同様に、そこには「ほめる」も含むし「励ます」も含む。人が人を力づける行為全体を包含していたと思われるのです。
…ただ、細かいことを言いますとアドラーが「勇気づける」対象としたのは、こうした幼い少女であったりカウンセリングで出会う、社会から排除されたクライエントであったりし、やはりいささか「上から目線」が入っていないとはいえません。相手に行動力が「ない」「低い」とわかっているときに言うぶんには、いいものです。わたしのような年をくった人間に「勇気づけ」を使うのは「おこがましい」と言われても仕方がないのです。
もうひとつアドラー心理学の大きな問題点は、
「批判はいけない」
「対立はいけない」
と言っている点です。これは原著の中にあります。
以前から言っていますように、「批判はいけない」は心理学、カウンセリング独特の話法です。哲学の中にはちゃんと批判はあります。わたしがひそかに名乗っているドイツ・フランクフルト学派は別名「批判理論」ですし、その中の重鎮ハーバーマスはあっちこっちを批判しまくっています。
で、とりわけわが国のように「波風立てない」ことを尊ぶ気風の中では、「批判はいけない」は、非常に有害な思想です。薬が効きすぎてしまうんです。
端的に、このところわが国で連続して起きている不正問題などは、内部で適切な批判が起きないから起きるんです。
岸見一郎氏なども、アドラー先生が言ってもいないことを捏造して触れまわっていますが、これはアドラー心理学業界さんの中で批判は起きないのでしょうか?
「アドラー先生はそんなことは言っていない!アドラー先生が誤解されるようなことを言うな!」
と血相を変えて言う人はいないのでしょうか?
アドラー心理学陣営のご同業のみなさんは、岸見氏が有名になってくれれば自分のところにも食い扶持が回ってくるからと、黙認状態なんでしょうか?
「批判」を封じると、自浄作用がありません。向上がありません。不良品を出してしまいます。
アドラー自身が良心的な人であっても、後世のアドラー心理学が有害なものになったことに、責任の一端がないとはいえませんね。「批判はいけない」を彼自身が言ってしまっていますから。
<シリーズ・アドラー心理学批判>
●「勇気づけ」についての副作用情報。。(2014年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51903598.html
●褒めない・叱らないは正しくない!「逆張りロジック」に正しく反論する知性を磨こう―『嫌われる勇気』著者講演会 (2015年12月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927076.html
●「自己認識には事実のフィードバックが大事」「思考的盲目が心配」―宮崎照行さんのメッセージ(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51927143.html
●「子どもさんは大いにほめてください。そして叱ってください」―正田、アドラー心理学セミナーで吠えるの記 (2016年1月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933511.html
●「誰もが活躍できる社会」とは「承認社会」―NYさんからのメッセージ (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933591.html
●「勇気を持って指摘されたからこそ、いずれ考えを改める」―永井博之さんからのメール (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51933656.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(4)メディアの考える怠惰なお客様と「行為者」の乖離、王道とパチモンの「大衆的人気」(2016年5月)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940842.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940920.html
●NHKおはよう日本 アドラー心理学特集を批判する(2)友人たちの反応 (同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940923.html
●『行動承認』Kindle化に向けて(5)行為者の脳発達と細胞レベルの変化の可能性――林田直樹先生との対話より(同)
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51940962.html
●アドラー心理学批判 「承認欲求否定」「ほめない叱らない」はどこから来るか―「共同体感覚」との関連において―アドラー『個人心理学講義』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941070.html
●アドラー心理学批判・友人からのお便り「幼稚さ、ナルシシズム亢進、成熟拒否」
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941137.html
●アドラー心理学批判 「トラウマ否定」「承認欲求否定」起源はみつけたが誤読と捏造だった―『人生の意味の心理学』をよむ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941143.html
●アドラー心理学批判 アドラーの罪:発達障害者向けのお説教と批判封じ
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941204.html
●アドラー心理学批判 まとめ:「承認欲求を否定せよ」「トラウマは存在しない」有害フレーズの捏造と岸見氏の罪
>>http://c-c-a.blog.jp/archives/51941255.html
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