僕は富野由悠季監督のアニメが好きなのだ。そして、富野監督の作品の分析をブログに書いていたら、いつの間にかブログ界の富野監督係みたいになってしまった。
それで、富野由悠季の世界展というのが今年と来年に全国各地の美術館で巡回展示される。
www.mbs.jp
それについて、複数の人からTwitterのDMやリプライで「グダちんさんが富野由悠季の世界展を見に行かないのは文化的損失」とか言われたりチケットを融通してもらったりしている。そういうふうに僕を褒めるのは、変質者の僕をつけあがらせるので、あんまりよくないと思うのだが。(すげこまくんみたいだし)まあ、ご好意には甘える。
でも文化的損失とか言われるとプレッシャーがですね。
んで、肺炎がなんとか治る算段がついたのと、兵庫県立美術館でのGのレコンギスタ劇場版I「行け!コア・ファイター」の先行上映会に当選したので次の日曜日に行ってくる。そういうわけでここ1週間で富野由悠季の世界展の図録を大急ぎで読んだ。
- 出版社/メーカー: キネマ旬報社
- 発売日: 2019/06/22
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そしたら、なんだか腹が立ってきました。なんで腹が立つのか、それを書くのですが、この文章は富野監督が好きな僕が、富野監督のために仕事をできている学芸員へ抱く嫉妬と、学芸員のようなインテリの職業につくことができなかった自分の劣等感などでできているので、あまり良い文章ではないです。そのくせ1万5千文字あります。オタクは本当に気持ち悪いのです。
あと、全体的に掲載された絵コンテなどの文字が小さいので虫眼鏡で読んだのだが、そこは物量として仕方がない。しかし、富野監督は字が汚いな…。
- 富野上げが気に食わない
富野由悠季の世界展なので、富野由悠季監督を中心に図録の解説文などが書かれている。それは仕方がないといえばそうなのだが、富野由悠季の世界というのはもちろん、富野監督が作家である以上あるのだが、スタジオワークでのアニメ制作でもあるので、富野由悠季監督作品の世界は富野由悠季の世界だけでできているわけではない。
もちろん、富野監督の書いた企画書や絵コンテだけでは美術展として地味すぎるので大河原邦男先生や安彦良和先生やあきまんたちの設定画などがあるわけだが。
それでも企画書の比重が大きい。
それで、富野監督の70、80年代、の仕事である無敵鋼人ダイターン3、伝説巨神イデオン、戦闘メカザブングルには企画がある程度出来上がっていた時点で後から富野監督が参加したというのは有名な話である。が、参加した富野監督が世界観をブラッシュアップして作品にしたという富野監督の手柄が図録の解説文では強調されており、他のスタッフへの敬意が足りない気がした。
読み物の文脈として、富野由悠季の世界を強調する流れの演出の文章(文章にも演出はある)になっておるので、「おもちゃ向けの企画に後から参加した富野監督が世界観を大幅にオリジナリティを以て作り直したので、名作になった」というふうな流れの文章が多い。まあ、それは一面としては事実なのだろうけど。
しかし、サンライズのアニメの歴史においては、富野監督だけでなく勇者ライディーンや戦闘メカザブングルの企画を練っていた鈴木良武先生や、機動戦士ガンダムと∀ガンダムに参加した星山博之先生の貢献も大である。特に、鈴木良武(五武冬史)先生は富野監督が機動戦士Vガンダムでぶっ壊れた後に、富野監督に指名された今川泰宏監督とともに機動武闘伝Gガンダムをシナリオ面で支えたので、ガンダムが大ピンチだったときに助けてくれた偉大な人である。Gガンダムがなかったら黒歴史も∀ガンダムもなかったわけで。
鈴木良武先生のことは、矢立文庫のサイトの、高橋良輔監督のインタビュー連載に詳しい。
www.yatate.net
監督は人格を持った存在として扱われる、ライターはその影の存在として黒子としてしか扱われないなあという。まあずっと長い間の認識ですから、もう身体に染み着いちゃってる。
と、鈴木良武先生ほどの人でも苦労を持っているので。
アニメというのはそういう人々が集まっての集団作業なのだが。富野由悠季の世界展なので、富野監督の功績を強調する文脈にならざるをえないのは一面では仕方がないのだが。
しかし、「不完全な企画を富野監督が名作に直した」というふうな書き方はどうも「物語性」が強すぎる感がある。
せめて、脚注で富野監督以外のスタッフがどのような人だったのかという紹介とか、他のスタッフの仕事の導線が少しでもあれば印象も違ったと思うのだが。脚注がないので、富野監督一人の功績を強調するイメージの本になっていて、オタクとしてはどうもなあ、って思う。もちろん、フルカラー400ページ4000円の大ボリュームの本なので、富野監督以外の情報を載せるのは物量としても編集時間としても難しい面もあったのかもしれないのだが。
また、ひどいのはママは小学4年生のこと。もちろん、富野ファンとしてはママ4のオープニング絵コンテを見れたのは良いのだが。
この絵コンテは、幅広い仕事に取り組むことが発展・成長のためには必要だと誰よりも知る富野が、初めて女児向けアニメに取り組むサンライズへ贈った力強いエールにも思える。
というのは褒めすぎでしょう!ママ4の監督の故・井内秀治監督が魔神英雄伝ワタルの監督をしたり、や21世紀の女児アニメのプリティーリズムで脚本を書いていたりという功績は書いてなくて、井内秀治監督の紹介が「Zガンダムなどの絵コンテを書いていた」という富野監督の下に置くような書き方もどうかと思う。
そもそも、サンライズの経営が苦しかったのはロボットアニメ衰退期のガンダムZZの頃という証言を何処かで読んだ。(富野監督がお金を使いすぎたのでは?)
それで、サンライズはシティーハンターやミスター味っ子など原作付きアニメをZZと同時期の1987年にやりはじめて立ち直ったという経緯があるらしい。
なので、1992年のママ4は、たしかに女児向けアニメとしてはサンライズ初なんだけど、「ロボット物以外の幅広い仕事に取り組むサンライズ」としては既に先にシティーハンターとかをやってたので、富野監督がオープニング絵コンテを書いたという程度で力強いエールとか言ってしまうのは、ちょっと上げすぎだし史実と違うんじゃないかと。いや、面白いオープニングなんですけどね。ミライちゃんがすごくたくさん行列しているインパクトとか、奇想はおもしろい。でも、富野監督がサンライズに対するエールを送った、と言うほどすごいものなのかな・・・。単にF91とVの間で暇だったからでは?とかも思ってしまう。
富野由悠季の世界展を企画した全国の7人の学芸員さんは、富野監督に2回も断られたのに、三顧の礼で企画を通したくらい富野監督が好きだし熱意のある人達だと思う。しかし、それがちょっと他のスタッフへの軽視になっているのではないかという懸念があるのだ。
これは以前、ガンダム誕生秘話という番組を見たときに書いたことでもある。
nuryouguda.hatenablog.com
テレビの怖さというのはこういうことで、クローバーは駄目な商品を出したかもしれないけど、ガンダムブームの後、そこそこいい商品も出していたわけで。悪い商品を出していた会社が倒産して、正しいガンプラを作っているバンダイが勝利した、っていうストーリーを作るのはバンダイにとっても緊張感をなくして駄目にする危険なことだと思う。
現実は色々とあるので、それを整理するために物語性を強めてしまうのはしかたがないのだが、それを真実とするのは危険なのではないかと思う。
(ちなみに、この記事はガンダム誕生秘話に登場した氷川竜介先生にRTされて、僕はたいそう肝を冷やした)
過去を美しく語るのは人間の本能として気持ちいいのだが、同時に美しくないものを黒歴史として隠すのも人間の本能なのだ、ということを描いてきたのが富野作品なんじゃねーの?
最近読み始めたルネ・デカルトの方法序説でも
どんなに忠実な歴史でも、読みごたえがあるものにしようと史実の価値を変えたり増大させたりはしなくても、少なくとも、はなはだ平凡であまり目立たない事情はほとんどつねに省かれている。そのせいで、残りの部分は実際とは違って見えるようになり、自分の生き方を歴史から引いてきた模範によって律する人は、我々の小説(円卓の騎士物語、ローランの歌など。ドン・キホーテも同時期にあったらしい)に出てくるとんでもない騎士のようになって、自分の力に余ることを企てようとするのである。
と、ルネサンス直後の近代の初めの時期にすでに司馬史観を批判するような事が書いてあるわけで。歴史を整理するというのは危険性もあるのだ。
また、ラ・セーヌの星は僕も好きだけど、総監督に大隅正秋監督がいるのに、第3クールの監督をした富野監督の功績のように書くのもなあ・・・。
そういうわけで、オタクとしてはやはり個人としていろんなスタッフの仕事を調べて、文献にも自分で目を通して、もっとアニメを見るしかないと思うのだが。僕自身も富野監督と出崎統監督と幾原邦彦監督にフォーカスするだけで三十代後半になってしまい、脚本家の星山博之先生たちガンダムのローテ脚本家、首藤剛志先生や高屋敷英夫先生や榎戸洋司先生などをあまり掘り下げられていないので、時間がない…。
- そもそも観念的すぎる
富野監督が、この「富野由悠季の世界展」に際して「概念の展示はできない」と反対したということは多くの記事で取り上げられている。
なのだが、おそらく展示物の大半が「初期の企画書」であるからだろう、観念的な世界観を云々する文章がこの図録には多い。富野監督自身がいろいろな世界観の違う作品を作るに際して観念的なことを企画書に書いているというのも大きい。アニメで世直しをしたいと言ったり、富野監督も観念的なことを言うくせがある。
それは富野監督自身も図録の序文で反省していて、
仕事を成立させるために、先に思い(観念的なこと)を吐き出してしまい、そのあと付けを考えるということを繰り返してきました。
と、自覚していらっしゃる。
なのだが、美術館の学芸員というインテリが書いているからか、本書は観念的だ。(僕の醜い嫉妬だ)
構成が六部構成なのだが。
第1部 宇宙(そら)へあこがれて
第2部 人は変わってゆくのか?
第3部 空と大地の間で逞しく
第4部 魂の安息の地は何処に?
第5部 刻の涙、流れゆくその先へ
第6部 大地への帰還
という風に、美しい言葉で章立てしてある。それで、作品の時系列ではなく、その観念的な流れにそって作品が紹介されている。
福岡市美術館学芸員の山口洋三氏による序文では、
第1部「宇宙へあこがれて」から、第6部「大地への帰還」まで。不思議なことに、初期から最近作までの流れが、富野作品一つ一つの物語の構造と符合したのである。
「それでも、生きていかねばならない」とは、記憶をつなぐ行為そのものでもあろう。そのとき、重要なのは物語である。
まあ、アニメーションも小説も物語なので、その展示において物語性が重視されるのは当然だと思うけど。スタジオワークでのアニメ制作という人間たちの事実を「物語」に当てはめていくのは人を記号化することではなかろうか?という懸念を持ってしまう。富野作品の紹介を美しく構成したいというのは、美的センスのある美術館の学芸員の本能かもしれないが。綺麗に語ることを意識して、事実(作品の制作順番など)がちょっと変になってる気がする。あと、しょうがないとはいえ、やっぱりガンダムとイデオンに紙面がたくさん割かれていて、世代的にブレンパワードやキングゲイナーのオタクとしては、食い足りない面も。
また、企画書や初期稿を重視するあまり、実作品よりも富野監督の最初の原案を「正しいもの」、実作品を「会社の事情などで歪められたもの」という風に物語化しているような項目が多いように思う。
特に聖戦士ダンバインの項目で、初期に構想されたラストシーンが紹介されているのが顕著だ。ダンバイン、確かに後半の地上編などの賛否が別れる作品なのだが。僕は後半の、異世界人も地上人もやけくそになって核兵器をボコボコ乱射するグルーヴ感がかなり好きなんですよね。そして、それだけヤケクソの戦争をしながら初期案のチャム・ファウエンドとオープニングの口上につなげる豪腕演出とか、好きなんですよね。
富野由悠季の世界は初期稿を作るけど、富野由悠季の作品の世界はそこに色んな事情やスタッフの意見とか脚本家とか演出のアイディアが加わって、それで完成品の作品アニメーションになるわけです。富野監督も企画書や絵コンテを書くけど、絵コンテ通りに作画するとアニメーターに「もっと新しいアイディアを入れろ」と怒ったりする人なので。
もちろん、オタクとしてはなかなか見られない初期の企画書を読むこと自体は楽しいのだが。でも、企画書は企画書であって、僕が面白いと思ったのはアニメーション本体だから。
富野作品が面白いと思ったのは、その観念が優れているとか、思想的に高度だからとか、そういうことだけではない。(そういうことも含むけど)やっぱりアニメーションとして、見て「うぉー!なんだかよくわからんけど面白いし元気出た!」という快楽体験を、僕は小学生の頃のガンダムの再放送とかF91とかVガンダムで積み重ねてきて、それで富野監督のオタクになったんだけど。
「なんだかよくわからんけど元気が出るし面白い」というのが僕にとっての富野作品で、それを「もっとわかりたいので資料を見たり分析する」というのは二次的な楽しみなんですよ。まあ、それでGレコではベルリの全部の戦闘行動を解析するというトンチキなことをしてしまっているのですが…。
富野作品の価値は僕に言わせれば思想性は二の次で、「面白い作品である」という感覚が先なの。だって面白くないとGレコのベルリの戦闘シーンの分析のために50回も巻き戻して見たりしないもん。面白いから分析作業してても苦痛ではない。つかれるけど。
でも、富野由悠季の世界展の図録の文章は観念的だ。まあ、富野作品はアニメだけで20作品以上あるし、それぞれが数十話あるので、その映像体験の感覚をまとめるのは物量的に無理なので、観念的にならざるをえないのだろう。
しかし、やっぱりアニメオタクとしては企画書は一つの構成要素であって、その観念や思想がいかに素晴らしくても、やっぱり評価は(企画書の思想性を補助線としながらも)アニメーション作品本体を見たときに面白いかどうかで見ます。
序文で富野監督も言っているけど。
「演出」という仕事は、感覚的な仕事であると同時に、たいへん観念的な作業で、「概念(考え方)を示すことができる仕事」なのです。
というわけで、「観念的な概念」と同時に「感覚的な面白さ」も演出の仕事なので。僕は感覚的な面白さを重視して、インテリの学芸員の方は観念的な概念を重視しているのだろうか。
それはそれでいいのだけど、観念の塊である企画書に重きをおいていて、完成作品そのものの解釈がやや浅いと感じた。これくらいの解釈なら、僕だって資料にアクセスできればできるんじゃないかと思ってしまう。図録の後半に膨大な参考文献が載っているけど、まあ、大体、記録全集とかロマンアルバムとかなので、それを持ってるオタクにとっては既知の内容なのかも。「あたし、みんな知ってたな」みたいな。
でも、僕も全部の作品のムック本を集めているわけではないので(ひどいときには買っているのに読んでないやつとか・・・)、それを持ってないファンにとっては、富野由悠季の世界展は入り口としてはいいのかなあ?
- ネタバレがひどいけど誰向けなの?
しかしながら、「闇夜の時代劇 正体を見る」の絵コンテがほとんど全部掲載されているのはファンとしては嬉しいのだが、同時に「いや、この作品は正体のネタバレドッキリがキモなので、ここで載せられると困る」という気持ちもある。
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キャラクターの生死とか正体とか、ネタバレに配慮して伏せられている部分とラストシーンのネタバレまでしている部分がある。
まあ、僕はアニメの富野作品は全部見ているからいいけど・・・。またザンボット3とか敵の正体などのネタバレを知ってても実際に見てみると、それ以上に膨大な情報量と情感があるし、富野作品はネタバレの一つや2つでは面白さは減じないと思いたい部分もあるが。
作品一つで完結しているし、それ自体が面白い絵画や彫刻などの展示と違い、物語作品であるアニメを展示することは、そりゃあネタバレは避けられないと理解もするのだが。
とりあえず、物語のネタバレを踏んでしまうのは仕方ないとして、そもそもこの「富野由悠季の世界展」の観客ターゲットはどれくらいなの?
という疑問がある。
僕は富野アニメは全部見たけど、たくさんあるし意識的に見るようになってから10年くらいかかった。なので富野ファンでも全部のアニメを見てない人も多いと思う。ガンダムだけ好きな人とか80年代アニメブームのときが好きな人もいるだろうし。
僕も富野由悠季作の小説は全部買ってるけど、(もちろんリーンの翼とオーラバトラー戦記は両方のバージョン買ってある)読んでない作品が結構あるし…。(これは僕個人の悪い癖)
それと、図録では割りと既知のものとして映像の原則の上手下手論が書いてあるけど、みんながみんな映像の原則を読んでるわけでもないし、そこを前提条件みたいに書くのはいかがなものかと。まあ、他の絵画とかの美術展の図録でも、読者がどの程度作品の歴史やできた土地の文化の知識を持っているかのラインを引くのは難しいと思うけど。
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また、絵コンテは実作品に近いので読めて嬉しいけど、トラックアップとかの専門用語の説明が最小限なので、無いわけではないのだが、絵コンテを読み慣れてない人には少々不親切だと感じた。もちろん、絵コンテを読むのも、そこから作画作業を想像するのもアニメ業界の職業技能であって、僕みたいにアニメを見てヘラヘラしているだけのオタクには身についてないスキルですが。
ただ、絵コンテの富野監督の書き込みはユニークだし、そこは面白かった。でも、そのニュアンスや感情は絵コンテを読まないとわからないものかというとそうではなくて、作品そのものにもちゃんと反映されているので、絵コンテで答え合わせをするのは違うかな。まあ、絵コンテは面白いけど。(でも、そこからアニメーションに作り上げる手法が、今回の展示ではちょっと抜けている。富野監督を中心にしていて、アニメーターの展示ではないので仕方ないのだが。でも、こんな雑な絵と汚い文字からあんな映像を作り上げるアニメーターは凄い。同時に、アニメできれいな作画になっても富野監督の汚い絵のニュアンスが残っているのも凄い)
どの程度、観客が知識を持っているのかの線引きがいまいちわかりにくい。アニメの作り方や富野作品の話の知識とか、富野監督以外のガンダムの推移とか、アニメ業界の会社名やスタッフの名前とか。
「ロボットアニメ」盛衰史というコーナーで70年代80年代のアニメの動向が2ページでまとめられていて、それ自体は事実に即した論理的な文章だし悪くないのだけど。やっぱり紙面が少なくてトランスフォーマーとか勇者とかエルドランとかSDガンダムとかは書いてなくてアニメ業界の歴史は膨大だと思う。
富野アニメに詳しくない一般人を新たなファンとして獲得できればGレコの売上も上がるし、新規顧客開拓は常に命題としてあると思うけど。でも、知らん人がいきなりネタバレを食らうのもどうかと思う。ネタバレを避けるために読み飛ばすテクニックもあるけど、それは結構オタクとしてものを読み慣れている人じゃないと習得してないスキルだろうし。
それに、全体的に学芸員というインテリが書いている文章という感じで、読者の想定知識を結構高めに想定している感じだ。あるいは、学芸員もトミノオタクなので自分の知っていることは読者も知っている、というふうに筆が滑って書いているのか。それとも知識を図録に載せることで読者に情報を与えるのか。
僕もそこそこ美術展には行く方なので、図録もそこそこ読むのだが。図録から新しい知識を得て得をする時もあれば、何が書いてあるのかさっぱりわからんときもある。美術展の図録の正しい書き方というのは難しい。
図録に収録された富野監督のロングインタビューの一部で、展示企画を数回断ったけど結局OKを出した話が出ている。
『富野由悠季の世界』というコンセプトでやることがナンセンスかどうかを考えたんです。この展覧会を、”富野”って本体を抜きにして状況だけ見てみたらどうなるだろうと。
そうするとまず、「ガンダム」ファンの第一世代が、もう50代を超えてしまっているという事実があります。(中略)そういう時に、こういうコンセプトの展示をやることは、それはあってもいいことかもしれないと思いました。そこは理解できた。
社会の中で演出家の扱いを見ていると、いろんな監督がプライドを育てられているとは思えない。
それは映画監督が、映画の著作者として認められていないという現状も含め、映像の演出家を育てる環境がまだ整っていないんです。
だから、監督というものが社会的にもっと認められる環境をつくることにつながるように、自分を持ち上げるなら持ち上げてくれ、と。利用価値があるならやってくださいって。
また、山口洋三氏の序文でも
我々は、この稀有な「戯作者」を、もっと多くの人に知ってほしい、それもアニメファンだけでなく、現代の視覚表現に興味を持つ人々に、と願った。富野はそれを望まないだろうか。「戯作者として高みに行きたい」のならば、その高みとは「表現者」としての評価、であろう。その評価の場が、美術館における本展覧会である。
と、あるので、ともすれば50代のガンダム世代がおっさんとしてのプライドを持ちながら権威のある美術館に展示されているものとして鑑賞して、ノスタルジーと優越感に浸るための権威主義なのか?と思ってしまって、それはデコデコした権威付けを嫌う富野アニメキャラからすると違うのでは?というか、「所詮インテリの言うこと!」と劣等感を感じたりする。
なのだが、山口洋三氏の序文でも同時に
その面白さがどのように作られたのかを示すこともまた本展覧会に課せられた役割である。
と書いていて決して「面白さ」を否定しているわけではない。
それにもまして、映像に限らず、芸術作品への理解は、作品そのものに触れることが第一歩である。
ともあるし、観念的な企画書を崇拝して実作品を軽視しているわけでもない。ただ、やっぱり展覧会もイベント、興行であるし、普段目につかないものを展示することに価値と集客力があるので、あんまり公開されてない企画書の展示、という方向になるのかなあ。
感覚的な面白さの展示というのは、観念的な概念の展示以上に形がつかめないので、難しい。(ビームライフルのタイミングの気持ちよさとか、シャアや鉄仮面の雰囲気の醸し出す妙な面白さとか、そういうの、文章ではわからないじゃん)
富野監督も先日の青春ラジメニアというラジオ番組のインタビューで「本当に見てほしいのは動画。最終的にはDVDを揃えるしかないのよね」とおっしゃっている。やっぱりアニメをもっと見るしか無い。
ただ、動画がどのような過程で制作されたのかということも若い世代に興味を持ってほしいともおっしゃっているので。
図録のインタビューでも
僕程度の才能でこういうことができたとするなら、この回顧を受けた皆さん方は、もっときちんと主題を拡大して、次の実りのある作品を生み出せるようになって欲しいのです。
ともおっしゃっているので、回顧を懐かしむ50代のガンダム世代だけでなく、若い映像作家志望者もターゲットなのだろうか。絵コンテの書き込みやデザインのリテイク指示などの富野監督とスタッフとのコミュニケーションの断片を見ることもできるので、そこから映像制作の勘を養ってほしいという気持ちもある?
でも、若い映像作家志望者のみんなが富野作品を網羅しているとも考えにくいので、やっぱりネタバレは・・・。それと、みんながみんな映像作家志望者というわけでもないので、そこだけをターゲットにするのも狭い芸術村になっちゃうんじゃないの?という懸念がある。
ただ、文句ばっかり言ってるけど、シートン動物記とかネタバレもクソもないくらい視聴機会がない作品の絵コンテとか、新訳Zガンダムの第2作目の冒頭の富野監督による修正原画と完成品スチールの見比べとか、そういうのは楽しい。
あと、富野監督の作品ではないけど、いのまたむつみ先生のイラストとかあきまんの油絵とかはやっぱり美術品としてのパワーは有る。
僕はここまで文句ばっかり言ってたけど、Twitterとかを見ると、割りとみんな素朴に資料を見たりグッズを買ったりして楽しそうにしてるので、僕も学芸員の観念的な感じの文章が鼻につくとかネタバレにイチイチ文句を言わずに楽しめばいいのだろう。監督笑ってうちわは使い方を誤るとイデオンみたいに大変なことになりそうだが…。
企画書や初期デザイン群も、まあ、買ってない古い作品のロマンアルバムや大全集を集め直すのはお金もかかるし、めんどくさいので、今回1冊の図録にそこそこまとめてくれているのは4000円出した価値はある。(まあ、オタクとしては長期的にはロマンアルバムも目を通していきたいけど)
しかし、Gレコの項目の文章で
『G-レコ』とはそうした我々現代人の新しい生き方をそれぞれが発見するために準備された物語ではなかったか。我々の認識を変えてこの地球を守るため。有限の地球で永遠に人類が存続し得る知見を手に入れるため。そして10万年後の未来のため。
というのは、本当にどうかと思う。
Gレコ放送当時の富野監督のこのTVインタビューを知ってないと、なんで10万年後っていう単語が出てくるのかわからんでしょ!僕はオタクだから富野監督の発言を追ってるし分かるけど、みんながみんな富野監督のインタビューを知ってるわけじゃないので。読者の大半が知らないキーワードを重厚なテーマがあるっぽい雰囲気作りのために文章に入れるのは、あんまりよくないと思うなあ。富野監督はああいう人だから唐突な事を言うのは仕方ないけど、学芸員まで富野風の空気になって唐突な文章を書くとわかりにくいので、よくないと思う。(これは富野作品の長文ブログを書いている僕に対するブーメランでもあるが)
- それでもオタクは解釈違いで揉める
そりゃあ、美術館は権威があるかもしれないけどさあ!数ページのブレンパワードコーナーで「母と和解したジョナサン」とか軽々しく書いてほしくないんですけど!!!!
オタクなので!!!!!解釈違いで怒るので!!!!ブレンパワードのラストはふわっとしているからいいのであって、簡単に決めつけないでほしいんですけど!!!!
エマ中尉のラストを簡単に皮肉とか言ってほしくないんですけど!!!!!
一番僕を怒らせたのは、僕が小学6年生の時に同世代として直撃した機動戦士Vガンダムの項目なんですが。
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そういう、宇野常寛の母性のディストピアに影響されたようなシニカルぶった大人の解釈を11歳の、初潮もあるかないかくらいのシャクティ・カリンという少女にぶつけるのはやめて欲しいんですが。かわいそうだろ!!!!!!
Vガンダムのコーナー、10Pしかない。ガンダムとイデオンが40Pあるのに。
そりゃあ、Vガンダムで富野監督が鬱になったという曰く付きの作品ではあるんですが、鬱になったのは他にも人間関係とか金銭関係とか更年期とか色んな理由がある。それでもVガンダムのキャラクターはあの地獄を確かに生きたり死んだりしたんだよ!それを「母性」という曖昧なキーワードでまとめてほしくはない。しかもそれを11歳の子どもに!許せん!
Vガンダムは機動戦士ガンダムよりは売れなかったかもしれない。でも、俺の子供時代のガンダムはVガンダムなんだ!だからVガンダムが一番なんだ!(突然の松本零士ネタ)
あのなあ、シャクティは確かに子守をしたりおさんどんをしたりしてたので母性っぽいんだけど、11歳だぞ!しかも行方不明の母親をなんとか探そうという気持ちがあるけど、自分で探しに行くこともできず、戦争には自分は役に立たないと思って無力感を抱えていて、なんとかお隣のウッソを頼って細々と生きようとしていたところをウッソのせいで戦争に巻き込まれてパニックを起こすようなか弱い少女なんですよ。(だから、子どもだった当時の僕からすると逆に強いシュラク隊やカテジナさんやファラに魅力を感じたわけですが。最推しのマヘリアさんは…)
か弱い少女がパニックを起こした時に、戦場で突然、花の種を植えようとするんですよ。なぜそんなことをするのかというと、「戦争だけど、花が咲いたらそれを目印にお母さんが迎えに来てくれるかもしれない」という、もう、かわいそうな捨てられた子どもの発想ですよ。そういう娘をさあ、黒幕みたいに言うのは本当に辞めてほしい。
シャクティが子守をしたりしていたのは、シャクティが母性に満ちたキャラクターだからじゃなくて、むしろ、母に捨てられてそれでも母を求めて、その結果「お母さんっぽいことをする」という、「ままごと」なんですよ。(そして、それはウッソがゲームの延長でMSのパイロットになるのも「戦争ごっこ」なのでは?ということにもつながるのだが。そして、ごっこ感覚で巻き込まれた戦争で地獄を見る)
「ままごと」のような家事や子守をして、「いい子にしていればお母さんが迎えに来てくれるだろう」という子どもなんですよ。シャクティはいじらしいじゃないですか。そのシャクティの母を求める気持ちが戦争状況では齟齬を起こして悲劇を生むので、シャクティが邪魔者に見えるときもあるけど、それも含めて子どもなんだから。母をたずねて三千里のフィオリーナの系列のキャラクターなので。
まあ、シャクティは後半、超常能力や高貴さに目覚めるけど、それも結局、母親が女王だったので母親の真似をしていこうという、ままごとの延長なんですよね。まあ、母親のマリアがヤバい奴だったので、シャクティもヤバくなるんですが。シャクティ本人はあまり主体性がなく、母親の理想をついで良い子にしていよう、という程度の子どもだったと思う。
まあ、その良い子にしていようというスケールが「数万人のサイキッカーとともに人類を導く」というものというヤバさはあるんですが。でも、やっぱりシャクティは子どもだと思う。
そして、シャクティの母のマリアも母親としては不器用というか、そもそもちゃんと結婚して産んだわけではない人なので。なので、マリア本人も「母性」という枠組みで規定しにくいと思う。マリアは教祖や女王として祭り上げられることで「母性」を期待されて演じていたので、それも「ままごと」かもしれないのだ。「Vガンダム」という作品には、そういう歪さはいたるところにあるのだが。
そういう歪んだ状況に放り込まれて、子どもなりに必死にできることをしようとしたシャクティとかウッソとかカテジナとか、あるいは逆にリーンホースの老人たちをシニカルな解釈でまとめてしまうのは、僕は冷たい解釈だと思う。
それで、ラストシーンのシャクティは、(シャクティしか救えなかったウッソもだけど)、全人類を導こうと、子どもには無理な超能力を発揮したのに、最後には隣町の女性一人を救うこともできず、涙する。
それは「母性のディストピア」というより、シャクティという理想主義でいい子ちゃんだった子どもが「邪魔な女性をそれとなく追い出す」ということをしてしまう「女」になり始めているんじゃないか、(Vガンダムは母ではない女たちも重要)という少女の成長の悲しさだと思うのですが。(そして、カテジナがどういう末路になるかがわからないシャクティでもない、という性的な悲しさもある)
それを「大いなる母性で黒幕」という風には言いたくない。宇宙世紀やニュータイプだのサイキックだの言っても、人はそういうふうにしか生きられない、と言うだけのことだと思う。(この主題は機動戦士クロスボーン・ガンダムに続く)
そこを、「Vガンダムは母性の話」というキーワードだけでそれっぽくまとめてしまう評論家というのは、どうかと思うんですよ。
そういうわけで、富野由悠季の世界の展示の学芸員の方はもちろん、僕みたいなクソみたいな無責任なオタクと違って、展覧会の開催にあたって全国各地の美術館と連携を取ったり、関係各所に調節して資料を集めたり、図録の文章もたくさん書いたり、努力はしたと認めるけど。全部の批評を信じることはできない。
- とか長文を書いてしまったが。
肺炎が再発してほしくないし、睡眠障害のせいで日曜日にちゃんと起きれるかわからないというダメダメ障害者です。今日も昼まで寝てしまった。そのせいで寝付きが悪い。赤ちゃんかよ。(寝る前はPTSDの発作が起こるので)
それでも日曜日にGレコの映画を見るのでそれまでに該当話を見返したいし、逆襲のシャアも見返しておきたい。
しかも、11月末のGのレコンギスタの映画の本公開までにベルリの殺人考察の残り5話を書き上げたいけど、10月は頭にキア・ムベッキ隊長の末路を分析した疲れからか肺炎になって2週間寝込んだからな。半月無駄にしてしまった。うーーーー。どうしよう。1話の考察を書くのに4日かかるのだが、俺の体は持つのか?
でも、やってやるしかないです!
で、富野展の図録にもメッチャ文句をつけたけど、富野展に行ってみたら案外面白いかもしれないので、そのときは手のひらを返すのでよろしくお願いします。
プラモデルは作ってる時間がないのでと言うか既にGレコの後半の機体を5年積んでるので。なかなかかっこよくなれない僕なので、あんまり文化的損失とかプレッシャーをかけないでほしい…。いや、自己肯定感が壊れている精神障害者としては応援は嬉しさもあるのですが。うーーーー。
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