『宇宙戦艦ヤマト2202』とは何だったのか 第五章「作劇篇」
たとえば、『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」。
帝星ガトランティスの大帝ズォーダーともあろう者が、なぜか辺境の星・地球の一士官ごときに目をかけて延々と自分の心中を語り続ける。
それを聞かされた古代は古代で、ズォーダーの長広舌から解放されると三隻のガミラス艦に向かい、三隻に分乗している民間人らすべてに声が届く状態で、艦内の森雪一人への個人的な思いを長々と告白する。
いずれも相当に恥ずかしい展開だ。
このように時と場所を考えない長広舌は、日本の映画やテレビ作品でしばしば見かけるところではある。福田靖氏が脚本を担当した『LIMIT OF LOVE 海猿』をニューヨークで上映した際は、フェリーの沈没という一刻を争う状況下で主人公が長電話し、あまつさえヒロインにプロポーズまでする展開が爆笑をかったという。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』もニューヨークで上映したら爆笑してもらえるのではないだろうか。
とりわけ、第9話のクライマックスは『LIMIT OF LOVE 海猿』を上回ると思う。
飛行中のガミラス艦から外に出て、空中に身を投じる森雪。100式空間偵察機で雪を追う古代。だが、明らかに古代は間に合っていないから、雪は地面に叩きつけられて死ぬか、地を覆う溶岩に焼かれて死ぬと思われるが、なぜか雪も古代も青く輝く謎の空間に入り込み、いつまでも落下していられる。
ふわふわと宙に浮いている雪を、偵察機の外に出てしまった古代が空中で抱きしめたのが、雪が身を投じてから二分後。古代はなんの推力も持たないはずだが、空を飛べるようになったのか、なぜか雪ともども機内に戻って、コクピット内で雪を抱く。何にもぶつからずにいつまでも落下していられる不思議な空間で、いちゃつく二人。挙句に古代は婚約者の雪にプロポーズ。たしかに雪がヤマトに乗艦するかしないかで二人が仲違いしたことがあったけど、あれで婚約は破棄したことになっていたのか。二人の関係の薄さに驚愕。
波動砲を撃つと二人がはじき出されて助かるという真田さんの謎理論の下、ヤマトが放った波動砲と思しき光が二人を包むまでが、雪が身を投じてから五分後。その約40秒後にコスモタイガー山本に発見され、なぜか寝てしまう古代。
こう文字に書いて読んでみても、劇中で起きていることが何なのかよく判らない。少なくとも、ニューヨーカーが笑いそうなポイントがたっぷりあるのは間違いなかろう。
2202はどの回も多かれ少なかれこんな感じで、そんな話を今ここでしなくてもと思うような生硬な独白、長広舌に尺を取るかと思えば、状況や背景に関する丁寧な説明は端折られたり、真田さんの一方的な謎理論のつぶやきで済まされたり、観ている側は教えてもらっていない複雑な設定を劇中人物だけが共有して納得しているらしかったりと、受け手の置いてきぼり感が凄まじい。
『LIMIT OF LOVE 海猿』は、たとえ長ゼリフがバカバカしくても云わんとするところは判るし、主人公たちの置かれた状況も受け手に判るし、どんな危険が迫っているのか、どう解決しようとしているのかも判るから、なんだかんだ云って観れば手に汗握るし感動するし共感もする。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』にはそれがない。
なぜこんなことが起きてしまうのだろうか。
■『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』の制作プロセス
少し長くなるが、福井晴敏氏とともに脚本を担当した岡秀樹氏が語る脚本の制作過程を引用しよう。
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まず福井さんが作られた構成メモという書類がありまして、それを熟読したうえで、1話30分の物語に落とし込むためのロングプロットを僕が起こします。
構成メモの時点では多分に“小説的”なところもありまして、各話ごとに切り分けられてはいますが、長さもまちまちなんです。
福井さん曰く「切り捨てられることを前提に、たくさん書いてある」とのことで、登場人物の心情とか、裏事情などを理解してもらうために、あえて多くの情報がこめられているわけです。
つまり「すべてを脚本にせよ」という性質のものじゃないんですが、それだけにどこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。勘どころを掴むまでは苦労しました(笑)
そうやって書かれたプロットを福井さんと羽原監督に見ていただいて、OKが出たら全体会議となります。
全体会議で出た色々な意見を受けて次は脚本化です。まずは僕が「ゼロ稿」と呼ばれるものを作ります。「初稿」は、あくまでも福井さんが書かれるものですから僕が書くのはそのたたき台に当たるものですね。
もちろん、その「ゼロ稿」も福井さんと羽原さんに様々な意見をいただいて何度か書き直すんですが、それでOKとなったものを再び全体会議にかけ各パートの意見をもらい、今度は福井さんが持って帰って徹底的に書き直します。
福井さんが書き上げてきたものが全体会議で承認されると、それがようやく「初稿」となります。必要とあれば、第二稿以降は福井さんが直接書いています。
その間に僕のほうは次のロングプロットに着手して、あとはひたすらその繰り返しですね。
(略)
ただ、脚本が全てということではなく、さらにアクションやビジュアル面でのアイデアが、小林(誠)副監督を中心とした方たちから出されて、それが絵コンテに反映されていくわけです。
その過程で、脚本にあった要素がいくつか整理されていくこともあります。
「2202」の脚本はもとから長めに書かれています。でも、それでいいんだとスタッフ間での申し合わせがありました。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておいてくれという意味です。
その上で、さらに新たなアイデアが出てくれば豪快に盛り込んでいく。そうやって完成した映像が皆さんがご覧になられているものなわけです。
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以上の発言から、次のことが判る。
(1) 脚本の基になるのは福井晴敏氏の構成メモ。小説家の福井晴敏氏らしく多分に小説的なメモであり、切り捨てねばならないほどたくさんのことが書いてある。岡秀樹氏にとっては、どこを拾ってどこをスルーすべきかという取捨選択が難しい。
(2) 脚本は長めに書かれている。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておく。
(3) 脚本完成後でもアクションやビジュアル面でのアイデアが小林誠副監督たちから出されて、絵コンテに豪快に盛り込まれていく。その過程で、脚本にあった要素が整理されてしまうこともある。
(2) 脚本は長めに書かれている。絵コンテを作る段階で各話の演出が取捨選択をするので、アイデアはなるべくたくさん入れておく。
(3) 脚本完成後でもアクションやビジュアル面でのアイデアが小林誠副監督たちから出されて、絵コンテに豪快に盛り込まれていく。その過程で、脚本にあった要素が整理されてしまうこともある。
他の作品でSF考証を担当することの多い堺三保氏が、「脚本の決定稿が絵コンテ化されてアフレコ台本になるまでの間にドンドン変わっていくので、コンテとアフレコ台本のチェックをさせてくださいと頼んでいる」と述べているように、アニメの制作において脚本完成後に変わっていくことは多いのだが、特に2202では、脚本段階では存在しないアイデアが絵コンテ化以降に盛り込まれることがあるようだ。
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羽原:なにせ福井さんのアイデアがすごくて、山のように出てくるんで「ちょっと入りません」みたいな話をしながら調整させてもらっています。フィルムを作る段階でもコンテを見てもらって「ここはもうちょっとこういうセリフにしたほうがいいんじゃないか」とかいろいろアドバイスをいただいたりしながら作っているので、僕は監督っていう立場ですけれど、今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです。
(略)
羽原:大体すごいアイデアは小林さんなんですよね。(略)僕らが考える前にどんどん出てくるので、僕はもう「ええ!すっげえ!!」と言っているだけです(笑)
G:福井さんも泣く泣く外さなければならないぐらいに盛りだくさんのアイデアを出してくるし、小林さんもまた本編に入らないぐらいにアイデアを出してくると。
羽原:本当にたくさんあって、いつもびっくりです。
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岡氏や羽原監督の話を要約すれば、こういうことだろう。
(a) 本編に収まりきれない福井晴敏氏の多分に小説的なアイデアを、岡秀樹氏や福井氏自身が脚本にしようとするが、1話30分の枠に収まるような脚本になっていない。
(b) 小林誠副監督たちからもメカや描写に関するアイデアがたくさん出される。絵コンテ以降にこれらのアイデアが盛り込まれることもある。
(c) 羽原監督は福井氏や小林誠副監督が大量のアイデアを出すことを歓迎している。
(b) 小林誠副監督たちからもメカや描写に関するアイデアがたくさん出される。絵コンテ以降にこれらのアイデアが盛り込まれることもある。
(c) 羽原監督は福井氏や小林誠副監督が大量のアイデアを出すことを歓迎している。
『宇宙戦艦ヤマト2202 愛の戦士たち』は1話30分枠である。全26話ということも初めから判っていたはずだ。
にもかかわらず、2202の制作プロセスからは、思いついてしまうアイデアを削ろうとする努力が感じられない。
小説ならいい。雑誌の連載回数を増やすことも、単行本のページ数を増やすことも、編集部と相談すればできないことではない。かつて福井晴敏氏が脚本を担当した映画『人類資金』(2013年)は、上映時間は140分しかないのに(それでも邦画としては長めだけど)、映画制作と並行して執筆された小説版は全七巻に及んだ。
一方、尺の決まっている映像作品では、尺に収めることが重要だ。
もちろん、ただ削ればいいわけではない。受け手が理解し、共感し、感動できるように充分な情報と説明と描写を提供し、しかも、あれもこれもと欲張らずにきっちり尺に収めねばならない。尺に対して過不足ない作品にするのが、もっとも難しいことなのだ。
どうも、2202の制作プロセスの記事を読むと、そして完成した作品を見ると、このもっとも難しいところに責任をもって取り組んでいる人がいないようだ。ストーリーや設定を検討している段階ならともかく、脚本作り、絵コンテ作りが進行している中でのこれはどうしたことか。
絵コンテマンや演出家が取捨選択するということは、なくしても構わない贅肉がたくさんあるということだ。もしも、どこも作品に欠かせない筋肉として昇華させていたら、取捨選択を他人に任せられるはずがない。完成度が高ければ高いほど、ここを削れば矛盾が生じる、この描写は欠かせないといった重要な場面・セリフだけになるはずだ。
ましてや、もともと枠に収まらないボリュームの脚本なのに、さらに副監督らがアイデアを豪快に盛り込んだりしたら、それでも放映枠は30分だからと何かしらを削除したら、グチャグチャになってしまうだろう(自分のアイデアを盛り込みたい人は、とうぜん他人のアイデアを削るだろう)。
上のインタビューでは言及されていないが、SF考証の小倉信也氏だってきっといろいろ考えていたはずだ。
できあがった作品では、真田さんが謎理論の断片を急いで口走るだけだったりでわけが判らなかったが、もしかしたら周到な設定が用意され、惑星とか重力とかヤマトの機能等々の特性を充分に説明できれば、受け手も腑に落ちる理屈が存在したのかもしれない。
それをどれだけ作品で活かせるか、受け手が納得できるように伝えられるかも、脚本家や演出、監督のバランス感覚があればこそだ。
多くの特撮番組やアニメの脚本を手がける小林靖子氏が脚本家としてデビューしたきっかけは、『特捜エクシードラフト』放映時に勝手に書いて送ったシナリオが東映のプロデューサーの目に止まったからだという。無名の小林氏が会社勤めのかたわら書いた脚本のどこが注目されたのだろうか。
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東映のプロデューサーさんと当時のメインライターさんが読んでくださって、「結構使えるかも」っていうことで連絡くださったんです。
(略)
後でお会いした時に言われましたね。「マニアックじゃないところがよかった」って。大抵、特撮好きの人が書くシナリオは「好き」が溢れてしまって、設定が凝りすぎな場合があるんですよ。でも、テレビ作品は、それを求めているわけではない。私はそういう方向は全然興味なかったので、お話1本、30分作品として尺ちょうどいいぐらいで、構成できていたんでしょうね。
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そのジャンルを好きな人がやりがちな「あれもこれも盛り込みたい」という欲望に、小林氏は囚われていなかったのだ。『特捜エクシードラフト』放映の翌1993年、『特捜ロボ ジャンパーソン』で早くも小林氏は脚本家デビューする。
尺とボリュームのバランスが大事だなんて、いまさら云うまでもないことだ。
■生まれる「時間」
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マンガ原作のアニメ脚本を書くのが意外と大変。
(略)
実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど、マンガを映像にすると“疑似三次元”になる。たとえばですね、「時間」が生まれるんですよマンガからアニメに映像化した時に。
(略)
マンガをページをめくりながら読んでると、時間経過とか距離移動とかあんまり気になりませんよね。でも映像にした途端、画の中に奥行きが出るのと、映像なので時間がどうしても流れるわけです。それが実はコマとコマの間ですごく重要な細部になったりする。例えば『ジョジョ』なんかだと、ジョジョがいつまででも走りながら、ずっとしゃべってるんですけど、実写では「この人、どこを走ってるの?」ってなってしまうから映像的な処理が必要になるんです。ちゃんと映像に翻訳して落とし込まないといけない。この人はどれくらいの距離を走っているんだろうと測ったりもします。ホントに細かい設定なんですけど、そういうところからキャラの心情描写を書きこまなければならないんです。
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たとえば、100メートルを走るあいだに五分もしゃべり続けたらおかしいから、脚本を書く際は100メートルでしゃべりきれるセリフに収めなければならない。あるいは五分間しゃべり続けられるようなシチュエーションに改変しなければならない。マンガではなんとなく許される表現でも、実際に時間が流れる映像作品ではおかしくなってしまうから、細部まで配慮する必要がある。それが「映像化する」ということだ。
小林氏が「実際に絵コンテを描いている人でさえ気づいてなかったりするんですけど」とわざわざ付け加えているのは、映像にすると「時間」が生まれることに気づかないで描かれた絵コンテや完成したアニメーションを実際に目にしているからだろう。
2202の第9話「ズォーダー、悪魔の選択」は、これに気づかずに(無頓着に)作った典型的な例だろう。火急の際でありながら、のんびり長ゼリフをしゃべり続ける登場人物たち。セリフのやりとりが終わるまで、古代と雪を乗せたままいつまでも落下し続ける偵察機。
時間経過や距離移動の妥当性にまで落とし込んだ心情描写になっていないから、ニューヨーカーでなくても笑うしかないシーンになってしまうのだと思う。
第11話「デスラーの挑戦!」では、ヤマトの乗組員たちが、デスラー砲で撃たれてから、このままだと何が起こるか、どう対処すべきかについて話し始めて、破壊されることなくまんまと逃げおおせていた。撃たれた後に対処して間に合うのだから、デスラー砲恐るるに足らず。
小林氏のインタビューでは、ご自身の経験から、マンガからアニメに映像化した場合について語っているが、氏が述べていることは小説から映像化した場合についても同じことだ。
小説もマンガと同じく「時間」がない。正確にいうなら、受け手が時間の流れを止めたり、巻き戻したり、素早く進めたりできる。読者はページをめくる手を止めて、そのページをじっくり読んでもいいし、気になる箇所に戻ってもいい。何ページも続く独白でも、難しい用語が交ざる会話でも、さっと読み進めたり読み返したりしながら理解を深めることができる。
この特性を利用したのが、推理小説の最終章の前にある「読者への挑戦」のページだ。推理作家は、あえて読者にページをめくる手を止めさせて、トリックが解明できてから先を読むよう促すことがある。本は読者の手の中にあるから、解明できなくても読み進めることはできるのだが、それでは悔しい思いをする。そんな思いをするのも小説の楽しみの一つだ。
映像作品はそうはいかない。始まったが最後、ラストに向けて一方的に進行する。登場人物が周囲の状況を気にせず何分も話していたら受け手に笑われるし、さりとて大事なセリフや出来事はゆっくりと判りやすく、受け手の印象に残るように話さなければならない。小説家が考慮する必要のないそのチューニングにこそ、脚本家の、絵コンテマンの腕が問われる。
映像作品でも、Blu-ray Discやテレビ放映の録画、配信であれば、一時停止したり、場面を戻したりできるじゃないか、と思う方がいるかもしれないが、何度も見返して作品を分析するのが目的ならいざしらず、初見の鑑賞で一時停止や早戻ししてもらわないと理解できないようなら映像作品として失敗だ。
作り手なら、ここで受け手の感情を盛り上げようとか、ここはいったんクールダウンさせようといった計算を働かせているはずだ。しかし、一時停止や場面の戻しをされたら、計算してやってきたことが台無しになる。そしてなにより、映像作品としてもっとも大事なリズムが壊れてしまう。台無しになってもたいして影響のない作品は、最初から失敗作だ。
もしかすると、2202の出来には、福井晴敏氏が小説家であることが影響しているのかもしれない。2202は、小説の作法でつくられているのではないか。
2202で、しばしば物語の核心になると登場人物が突っ立ったまま演説をはじめてしまうのは、映像の力を理解していない・信じていないとしか思えない。
小林靖子氏は、映像化すると「時間」が生まれるから大変と述べているが、「時間」を生み出せることは映像作品の強みでもある。
受け手に対して、どのタイミングでどんな映像を見せ、どんな音を聞かせるか、すべては作り手の思いのままだからだ。映像作品において、作り手は受け手の時間感覚を支配できるのである。突然大きな音を立てて驚かせたりもできるし、素早い動きでスピードを実感させたりもできる。五感のうちでも重要な視覚と聴覚を刺激して、受け手に「体感」させられる。
これこそが映像作品の醍醐味のはずなのだが、アイデアを詰め込むことに汲々としていた2202で、はたしてそれを味わえただろうか。
(つづく)
第15話『テレサよ、デスラーのために泣け!』
第16話『さらばテレサよ!二人のデスラーに花束を』
第17話『土星沖海戦・波動砲艦隊集結せよ!』
第18話『ヤマト絶体絶命・悪魔の選択再び』
監督/羽原信義 副監督/小林誠 原作/西崎義展
シリーズ構成/福井晴敏 脚本/福井晴敏、岡秀樹
キャラクターデザイン/結城信輝
音楽/宮川彬良、宮川泰
出演/小野大輔 桑島法子 鈴村健一 大塚芳忠 山寺宏一 神谷浩史 手塚秀彰 甲斐田裕子 内山昂輝 神田沙也加 田中理恵 麦人 千葉繁 石塚運昇 東地宏樹 赤羽根健治 池田昌子 井上和彦
日本公開/2018年5月25日
ジャンル/[SF] [アクション] [戦争] [ファンタジー]
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【theme : 宇宙戦艦ヤマト2202】
【genre : アニメ・コミック】
⇒comment
映像作品とは
「2202は映像作品ではない。少なくともその文脈で作られていない」
すごくしっくりしました。
その時間を管理する人が監督だと思ったのですが、2202に関してはそうではないようですね。
西崎プロデューサーの呪縛からようやく解き放たれたと思いきや、これなら西崎Pが居た方がよっぽど「映像作品」になったかもと思わせてしまうのは皮肉ですね。
(西崎Pに代わるもっと大きな力が働いてるのかしら? バンダイさんとか笑)
すごくしっくりしました。
その時間を管理する人が監督だと思ったのですが、2202に関してはそうではないようですね。
西崎プロデューサーの呪縛からようやく解き放たれたと思いきや、これなら西崎Pが居た方がよっぽど「映像作品」になったかもと思わせてしまうのは皮肉ですね。
(西崎Pに代わるもっと大きな力が働いてるのかしら? バンダイさんとか笑)
No title
2202とかユニコーンはターン制で進行してるんだと思います。
Re: 映像作品とは
かずさん、こんにちは。
小説家としての実績がある上に、ちゃんとした脚本も書ける人もいますね。2019年の長編アニメーション映画を例にとっても、『ドラえもん のび太の月面探査記』の辻村深月氏や『HELLO WORLD』の野崎まど氏が素晴らしい仕事をしています。
『ドラえもん のび太の月面探査記』ではじめて映画脚本に挑戦した辻村深月氏は、脚本執筆の感想を問われて次のように語っています。
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小説を書けるからといって脚本も書けるというわけではないんです。ほかの職業の領域にお邪魔するんだという気持ちを持って飛び込みました。小説はいくらでも登場人物の心情やモノローグが書けます。しかし、脚本は尺が決まっていて、テンポの良さが問われるので、そのなかでどう世界観を表現するか、最初は戸惑いました。
---
https://corocoro.jp/38190/
小説と脚本の作法の違いをわきまえているかどうか、その違いを実践できるかどうかが作品の成否を決めるのだと思います。
辻村氏が「ですが、そんな私を助けてくれたのがキャラクターたちだったんです。(略)この場面だったら、きっとのび太ならこう言う、ドラえもんならこうするという、自分の中にあったキャラクターが動き出してくれたんです。藤子先生ならどうするか、はあまりに恐れ多くて絶対に考えられないけれど、のび太ならこうする、という方だったらわかる。藤子先生が作られた世界観の厚みと凄さを感じました」と述べているように、辻村氏の場合は大のドラえもんファンであるがゆえに、のび太が延々とモノローグを口にしたりするはずがない、ドラえもんが長広舌をふるうはずがないと気づくことができました。先行作品で確立しているキャラクターを借り受けての続編づくりなのですから、既成のキャラクターを尊重することがそのまま良い作品づくりになったのですね。
もちろん映像作品は脚本家一人で作るものではありません。絵コンテで時間管理をし、演出が映像を計算し、監督が作品全体の方向づけを行います。ぶっちゃけ、つまらない話だろうが凡庸な設定だろうが、絵に切れがあってテンポが良ければ、けっこう楽しく観られちゃうものだと思います。
なのに、2202がそうならなかったのはどうしたことか。羽原監督は「今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです」とおっしゃいますが、それがいいことなのかどうか。
第一章「SF篇」で紹介した金子隆一氏と小林伸光氏は、次のように語っています。
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金子 アニメを成功させる唯一とはいわないまでも、一つこれだけはという条件があるとしたら、ものすごく強力な独裁者がいて、その独裁者の意志が画面の隅々にまで伝わる体制ができている事でしょう。
小林 その場合、その独裁者がものすごく有能である必要がありますけどね。
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http://web.archive.org/web/20061009050726/http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no11_19980125/special2.html
小説家としての実績がある上に、ちゃんとした脚本も書ける人もいますね。2019年の長編アニメーション映画を例にとっても、『ドラえもん のび太の月面探査記』の辻村深月氏や『HELLO WORLD』の野崎まど氏が素晴らしい仕事をしています。
『ドラえもん のび太の月面探査記』ではじめて映画脚本に挑戦した辻村深月氏は、脚本執筆の感想を問われて次のように語っています。
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小説を書けるからといって脚本も書けるというわけではないんです。ほかの職業の領域にお邪魔するんだという気持ちを持って飛び込みました。小説はいくらでも登場人物の心情やモノローグが書けます。しかし、脚本は尺が決まっていて、テンポの良さが問われるので、そのなかでどう世界観を表現するか、最初は戸惑いました。
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https://corocoro.jp/38190/
小説と脚本の作法の違いをわきまえているかどうか、その違いを実践できるかどうかが作品の成否を決めるのだと思います。
辻村氏が「ですが、そんな私を助けてくれたのがキャラクターたちだったんです。(略)この場面だったら、きっとのび太ならこう言う、ドラえもんならこうするという、自分の中にあったキャラクターが動き出してくれたんです。藤子先生ならどうするか、はあまりに恐れ多くて絶対に考えられないけれど、のび太ならこうする、という方だったらわかる。藤子先生が作られた世界観の厚みと凄さを感じました」と述べているように、辻村氏の場合は大のドラえもんファンであるがゆえに、のび太が延々とモノローグを口にしたりするはずがない、ドラえもんが長広舌をふるうはずがないと気づくことができました。先行作品で確立しているキャラクターを借り受けての続編づくりなのですから、既成のキャラクターを尊重することがそのまま良い作品づくりになったのですね。
もちろん映像作品は脚本家一人で作るものではありません。絵コンテで時間管理をし、演出が映像を計算し、監督が作品全体の方向づけを行います。ぶっちゃけ、つまらない話だろうが凡庸な設定だろうが、絵に切れがあってテンポが良ければ、けっこう楽しく観られちゃうものだと思います。
なのに、2202がそうならなかったのはどうしたことか。羽原監督は「今回のヤマトは特にみんなで作ってる印象がすごく強いんです」とおっしゃいますが、それがいいことなのかどうか。
第一章「SF篇」で紹介した金子隆一氏と小林伸光氏は、次のように語っています。
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金子 アニメを成功させる唯一とはいわないまでも、一つこれだけはという条件があるとしたら、ものすごく強力な独裁者がいて、その独裁者の意志が画面の隅々にまで伝わる体制ができている事でしょう。
小林 その場合、その独裁者がものすごく有能である必要がありますけどね。
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http://web.archive.org/web/20061009050726/http://www.so-net.ne.jp/SF-Online/no11_19980125/special2.html
Re: No title
> のさん
ターン制ガンダム?
ターン制ガンダム?