法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

表現の不自由展と宇崎ちゃんのポスターの相違点について

献血募集ポスターに『宇崎ちゃんは遊びたい!』の3巻表紙絵が流用されて、さまざまな議論があったらしい。

宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)

宇崎ちゃんは遊びたい! 3 (ドラゴンコミックスエイジ)

流行にうといもので、漫画のタイトルすら聞きおぼえがなく、私個人はどの立場からも確信をもって主張しがたい。


ただ、下記の匿名記事には首をかしげるところがあったので、いくつか記録をかねて書いておく。
表現の不自由展と宇崎ちゃんのポスターの共通点について
まず論争の発端からして事実誤認をしていないかという疑問がある。

例によっていつもの太田啓子弁護士の適当に難癖を付けて周囲のフェミニストを焚き付けて、いい感じに燃え始めたら自分はつぶやきを消して「え、私、そんなこと言いましたっけ」となかったことにしようとする火付けしぐさなんだから「はいはい、いつものね」と黙ってスルーしておけばいいのに、こぞってブクマをつけまくってやがる。

実際の太田氏のツイートを参照すれば、外国人による批判的なツイートでポスターの存在を知って、同調するように批判をしていることがわかる。

能動的に太田氏がポスターが見つけたわけもないし、たとえその批判が不当だとしても*1、それはすでに付けられている難癖に同調したという問題だ。


そして本題の、表現の不自由展と宇崎ちゃんのポスター*2の共通点だが、この匿名記事は相違点の指摘を奇妙な論理で反駁している。

grdgs あいトレの場合は「表現自体を許さない」だったのに対し、こちらは「TPOを考えろ」だからまったく違うわな。

はい、馬鹿丸出し。確かに「表現自体を許さない」とのたまったネトウヨもいただろう。立川流を名乗るワイドショーのコメンテーターもいただろう。

だがそんな過激な言い分はまともに取り合っている奴らはほとんどいまい。

さまざまな有力政治家が不自由展を非難して抑圧の姿勢を見せたことや、暴力的な脅迫が示唆されて実際に展示が一時中止されたことすら忘れているのだろうか。首をかしげながら匿名記事を読んでいくと、「文科省補助金不交付にしろ、河村市長の座り込みにしろ、いずれも大衆からの批判がなければまかり通るものではあるまい」などと大衆が同調していることを認めているが。
いずれにせよ、匿名記事が大雑把に「規制しようとする」と主張しているのに対して、id:grdgs氏は「許さない」と「考えろ」と表現を変えているのは示唆的だ。考えるようにうながすことは、それ自体がひとつの自由であるべき言論だ。
今のところ太田氏らの脅迫にさらされているわけではない以上、日赤側は批判に対して反論することも、批判を受けいれつつ表現をとりさげないことも、あえていえば批判を黙殺することもできる。


匿名記事が表現規制についてよく考えずに主張していることは、id:tikani_nemuru_M氏への反駁で、より明確になっている。

例によって上から目線でドヤ顔を披露しているがここでidコールされているmemorystockが問題視しているのは、

memorystock この絵やキャラを守りたいのではなく、規制理由をきちんと言語化出来る人がおらず「NGじゃん」「本当に嫌」が規制派トップなのはアレすぎではと危惧するものです。挙句「戦士」↓のような無意味な侮辱に逃げるし。

とあるように、あのポスターの批判派がポスターを撤去するだけの理由をまともに言語化していないことである。

「公権力による規制と大衆からの批判」の相違を無視して「規制」と書いて揚げ足をとられたのであれば、言語化能力が欠けていたのはmemorystock氏の側だろう。
ついでにいえば、きちんと理由を言語化できない「NGじゃん」「本当に嫌」は、感想の範囲にとどまるのであれば、それもまたひとつの表現の自由だろう。
感覚的な反応それ自体が悪いわけでは必ずしもない。問題なのは、規制したい真意を糊塗するように「こうした表現に税金を使うのはおかしい」といった後づけの主張をする態度だ*3


もちろん不自由展とポスターは、匿名記事も書いているように「まったく同じ」わけでも「まったく違う」わけでもない。
ただ少なくとも表現の自由という基準で見れば大きな開きがあるといわざるをえない。不自由展は制限された閉鎖空間でおこなわれ、文脈を解してもらうために様々な手段を講じた。ポスターは第三者に広く公開されるものであり、一枚絵全体で文脈を読みとってもらわなければならない。
匿名記事は「大衆からの批判」という共通点をもって、不自由展とポスターが同じように規制の危機にあるかのように主張している。不自由展の展示物は、多くが公権力によって規制された作品という順序すら誤認しているのだ。

そうした大衆からの批判が公権力による規制に繋がる危険性が炙りだされたのが表現の不自由展ではなかっただろうか。

文科省補助金不交付にしろ、河村市長の座り込みにしろ、いずれも大衆からの批判がなければまかり通るものではあるまい。

そもそも、匿名記事の主張が正しいならば、大衆からの批判がされた表現は全て規制の危機にあるというのだろうか。たとえば『けものフレンズ2』の制作者に対して批判とは呼べない攻撃が一部であったが*4、ならば『けものフレンズ2』への批判は表現の自由をさまたげているといえるだろうか*5
まさかそのようなわけはあるまい。不自由展への弾圧を批判する側にしても、必ずしも展示物を全肯定はしていないし、時には明確に批判的な評価をくだしているくらいだ。


表現の自由と不当な批判という、重なりつつも同一ではない行為を混同している問題が、おそらくこの匿名記事の根底にある。
もちろん、議論で勝てない誤った批判であるからこそ、権力による抑圧や暴力による弾圧につながることはよくあるだろう。
しかし、たとえ批判内容はそれなりに妥当であっても、脅迫的な言辞を用いれば、それは表現の自由を驚かしていることになる。
逆に、事実誤認にもとづく明らかに誤った批判であっても、それを発表することが表現の自由をさまたげるとは限らない。
表現の自由とは、批判されない特権のことではない。

*1:少なくとも画像のトリミングなどはおこなわず、きちんと公式サイトのキャンペーンページも提示して、問題提起できるかたちにはしている。「絶対負けんなよ!」「原発ふざけんな!」「放射能に負けないよ!」といった叫びも同時に収録した映像作品から「放射能最高!」という叫びだけ切りとって批判されたような事例とはそれだけでも異なる。「反日」「福島ヘイト」と批判。アーティストが作品に込めた本当の思いとは

*2:以下、それぞれ「不自由展」「ポスター」と略記する。

*3:一応、匿名記事がそうだと断言するわけではないが。

*4:

*5:不自由展への攻撃とで、象徴的な情景も報道された。『クローズアップ現代+』「表現の不自由展・その後」 中止の波紋 - 法華狼の日記