赤十字の献血ポスターで不自然に乳房が協調されたイラストを採用したとされる件について、イラストが性的だとか女性を搾取しているとか、逆に騒ぎすぎだとかこれくらい大したことないとか、お互いにたたき合うのは不毛なので、お互いの前提があまりにかみ合っていない点を話し合うべきだと思う。
政治的正しさを全て撤廃した私個人の心理としては、女性を搾取するような表現は焚書にしたいし女性をエロい目で見た男は打ち首獄門でいいと思っている。去勢した男だけがよい男。
で、なんで私がそのような過激な感情を持つに至ったかというと、そこに至るまでのそびえたつクソのような事柄を千切っちゃ投げ千切っちゃ投げしてこれまで戦ってきたからなわけです。密度の違いこそあれほとんどの女性は電車で尻を触られたり見知らぬ人に暴言を吐かれたりといった嫌な体験を積んできている。その前提において出てくるのが「エロは死ね」というお気持ちです。そのお気持ちだけで突っ走って実際に表現を燃やそうとするのは政治的に正しくないですが、そこまで過激になるに至ったお気持ちそれ自体は尊重され保護されケアされるべきものです。
ですが多くの善良な男性は、女性がエロの文脈の中でどれほど乱暴に扱われ傷ついてきたかを知らないようです。電車の中で尻を揉まれる気持ち悪さとか、それを告発したときのセカンドレイプに対する怒りとか、ほとんどの男性は想像したことすらないらしい。
ほとんどの男性の中でエロはコミュニケーションでありお互いwin-winな楽しいスポーツとなっています。そしてたぶんそれが正しいあり方なのですが、ごく一部の頭のおかしい犯罪者が大多数の女性に加害しているせいで男性の思うエロと女性の強要されるエロが大きくズレているという点をまず考えてほしい。
とかいうと主語がでかいとか被害妄想とか言われるんですけどね、主語をでかくしているのはどっちだと。
やれ化粧してこいだのスカート履けだの笑顔でいろだの女じゃ話にならん責任者を呼べだの胸のでかさだの、こちとらただちんこを持ってないというそれだけの理由で個性とか人権とか完全無視して押し付けられ続けているわけです。私は私でしかないのに、私の意志なんか完全無視で女ジェンダーを押しつけられて、私=女、とひとくくりにして扱われる。その状況下で「女を棄損するもの」はすなわち「私を棄損するもの」と同義として警戒せざるをえない。
たとえば私がブラジャーをつけづに乳首をびんびんにおったてて薄いシャツ一枚で外出して胸を揉みしだかれたとして、揉んだ男も悪いがブラジャーをしない女も悪いとか平然と言われるでしょう。きつくしめつける下着が嫌いとかそういう私個人の感覚はまるっと無視されて「女=私」として扱われる。
逆に、私がワイシャツから透けた男性の乳首をつねったとしたら、私は刑犯罪者として粛々と処分され、ノーブラの男性はノーブラでいる自由を微塵も脅かされない。そんなお花畑にお住みの男性様におかれましては男性の乳首を協調したポスターなんか微塵も脅威ではないでしょうね。not all men ですもの。
だから巨乳ポスターに対抗するものは巨根ポスターではありません。表層を反転させるのではなくそれをとりまく状況を反転させないと本当の敵は出てこない。
↓こちらの人が「巨乳に対して巨根をもちだすのはちがう」ということを書いていらして、男性の求める性的なものと女性の求める性的なものの質が違う点を挙げているのですが、それだけだと片手落ちだなと思う。
(一部の)女性が不快に感じる性的な表現を男性にも伝わるようにたとえるなら、たとえば進撃の巨人の世界みたいなのを考えるといいと思う。
巨人が人間をおやつ代わりに気楽に食べちゃうような世界で「人間っておいしいよね!」というポスターは人間にとって命の危機でしかないし、そのカウンターとして「巨人っておいしいよね!」と書いても意味が無い。
そこで巨人が「俺は『巨人っておいしいよね!』というポスターが不快ではない、だから人間だって『人間っておいしいよね!』ポスターを受け入れるべきだ」とか言い出したら死に晒せ金玉すり潰して東京湾に埋めたろか、という気持ちになる。
だからやるべきはポスターの規制ではなくて、規制したくなるほどの迫りくる身の危険をどうにかすることで、それは人間対人間のあたりまえのコミュニケーションを構築し教育していく方法を模索することだ。男性は巨人ではないし女性は食料ではない。