| |  | | | 学生会の歴史と綱領 | 歴代会長 | 第31~41期役員 | 在日韓国学生運動の足跡 | | | 在日韓国学生運動の歴史 1945年8月15日、日本が敗戦し祖国が光復されると在東京留学生たちが8月16日~17日、東京神田にある韓国YMCAに100余名が参集し、学生たちの権益と親睦を目的とした団体を組織することになる。大学別でみると中央大学、明治大学、早稲田大学、日本大学、法政大学、慶應大学、東洋大学、拓殖大学、東京農大、日本女子医大、その他各種大学などに在学中の学生たちだった。 同年9月14日、早稲田大学・大隈講堂で「在日朝鮮留学生同盟」結成大会を開催し、約300余名の学生が参集した。各大学で10余名の委員を選出し、総務、財務、共済、文芸、芸術、女子の6部を置き、初代委員長に金成麟、副委員長に文英彦が選出された。 綱領は以下の通りだ。 (1)我々学生はその本分を堅持し、真理の研究に邁進する。 (2)我々学生はその本分を自覚し、朝鮮文化の建設に努力する。 (3)我々学生はその本分を発揮し、世界文科の発展に貢献する。 同年8月下旬、東京新宿区角筈2丁目の財団法人朝鮮奨学会(当時、川岸文三郎理事長)を接収し、同奨学会の理事陣を韓日両国人で構成した。池來漢氏が理事長、日本文部省から麓保孝氏が理事に出された。 朝鮮奨学会建物を学生同盟会館に使用し「在日本朝鮮学生同盟関東本部」の結成を9月初まで完了させ、10月には全国中央本部を設置した。総会員は高等・専門学生以上で907名にもなったという。 1946年1月末に開かれた総会で委員長に中央大学の金奎成氏が選出され、各大学では留学生会を再整備して委員を選出した。各大学別委員は以下のとおり。 ◆中央大学:金奎成、金漢熺、金圭昇、李鍾鳴、李鍾九、陳冥根、李元植、崔龍淵 ◆早稲田大学:姜理文、李榮吉、呉命煥、柳海應、崔京泰 ◆東京大学:朴俊榮、金煕星、琴基昌、金昌煥 ◆日本大学:金世基、金聖誾、金松子、金聖壽 ◆明治大学:朴千石、金秉錫、張昌洙、田炳昊、金應烈 ◆東京女子大学:李一順 ◆白百合女子大学:李仁子 ◆聖心女子大学:金貝玉 ◆拓殖大学:鄭煕燮 ◆東京工大:李永煕 ◆専修大学:鄭鎭浩 ◆東京農大:金奎會 ◆その他:盧泰錫、田ジョンチョル、南昌玉 同年5月、全国の学生数は1,300余名であり、中央本部金奎成、東北は張東淳、関西は蔡東奎が各々委員長職を受け持っていた。 1947年5月委員長に尹榮基が選出され、関東・東北・中部(京都)・西部(大阪)に組織が拡大され、本同盟が着手した事業は祖国の南北統一を企画することと在日留学生たちの復学および民生問題などだった。日本文部省の協調を得て、文部次官通達により全国公私立各大学に次のような事項を要請した。 (1)学費納付猶予\r (2)衣食住確保要請および配給実施 (3)進学就職および帰国便宜提供 当時、マッカーサー総司令部から与えられた配給品を節約しその一部を売却した後、極貧学生に奨学金として分けてあげ毛布などを直接分配してあげた。 学生同盟が結成し前記学生会および朝鮮総督府東京事務所(東京都港区田村町)などを接収して使用した。最初、学同は朝鮮奨学会建物2層を使用し、淀橋警察署が一層を使っていたが、その後学同が建物全体を使用できるようになり、1948年8月15日大韓民国が樹立できるまで約3年間在日学生と同胞の権益擁護事業を推進した。 しかし同年5月に成立された姜理文などの朝学同執行部は独裁的であり、配給物資を私用化しており、朝連の指示に従い学同を運用したため右翼系学生は学同内左翼系学生の肅清を断行したのである。 この時活動した学生たちは金聖誾(日大)金昌煥(東大)鄭國殷(慶大)裵徹(中大)孫宗武(日大)金聖壽(日大)朴千石(明大)金應烈(明大)趙英振(明大)鄭炯和(明大)安基伯(明大)李相錫(明大)朴炳憲(明大)梁緊乙(明大)朴永録(日大)崔道敬(日大)李相台(中大)朴準、徐相夏などだった。 1949年5月8日、明治大学講堂で在日朝鮮学生同盟第4回定期総会が開催されたが、約700名の右翼系学生が参集し、この時左翼系学生300名が動員され、乱闘が始まった。 しかし、右翼系学生が団結し会議を進行させたことに、結局、左翼系学生は対抗できずに退場してしまった。 右翼系学生は会議を秩序に進行し、活動方針を決定した後、代表金聖誾、副代表鄭國興などの委員を選出した。 続いて右翼系学生は東京都新宿区角筈にある朝鮮奨学会建物内の在日朝鮮学生同盟本部に入っていき、建物の引き渡しを要求する際、左翼系学生と乱闘が起きた。この乱闘は5月8日以後、約4日間継続され、いわゆる「5・8学生事件」として、相互の間に多くの負傷者が相次ぎ、日本の警察機動隊および米軍司令部関係官などが出動して建物を閉鎖するに至った。 韓学同は東京都新宿区若松町21番地(現在の東京韓国学校)の民団中央本部内に中央本部および関東本部を置き、事業を推進することになった。当時の学生数は約600名だった。 左翼系学生は在日朝鮮学生同盟を東京都新宿区原町2-13の朝連女性同盟本部内に置き、相互対立に激しさを増していった。 韓学同が展開した学生運動は ①朝学同との闘争 ②学生進学指導 ③韓国文化研究 ④各大学内韓国学生同窓会の結成 ⑤朝鮮奨学会の奨学金支給要請 ⑥民団および駐日代表部に学生同盟後援要請 この時、主に活躍した学生は李相錫、朴炳憲、鄭炯和、安基伯、楊泰根、趙英振、廉政哲、朴準、徐相夏、李炯録、朴孝在などである。 1950年、民団中央本部講堂で開催された総会で金應烈氏が代表委員に選出された。6・25動乱が勃発すると同年7月、米軍極東指令部に在日学徒兵の出兵を要請し、GHQに交渉した。 その結果、出兵の承諾を得て、学徒義勇軍を編成するようになった。これがいわゆる「在日学徒義勇軍」である。 100余名の学生が埼玉県にある朝霞キャンプに入隊し、韓国戦線に勇躍、出陣するようになった。在日韓国学生は日本各地で祖国の将来を憂慮し率先自願することで戦線に出陣したのだった。 1950年5月21日に起きたいわゆる「法大事件」を調べると、学生たちを包摂するために、朝学同が法政大学で総会を開催したが、そこに安基伯、鄭炯和、朴炳憲、趙英振、楊泰権、李相錫など右翼系学生約50名が参席し、総会開催の不当性を指摘した。しかし、左翼系学生が乱闘を始め、この動乱で李相錫同志が残酷にも殺害される不祥事が発生した。この事件以後、韓学同と朝学同との対立は深刻化していった。 1950年6月25日、北韓共産軍の武力南侵によって「6・25動乱」が勃発。在日韓国学生たちは祖国愛を発揮し、学業を中断し危機に陥っている祖国と民族を救うため勇躍軍門に入隊した。 同年7月、学徒義勇軍の組織に於いて在日韓国学生同盟が主動になりUN軍司令部および駐日代表部金龍周公使に陳情し、血判書で祖国参戦を自願し、出兵運動を展開させた。 民団では東京都新宿区若松町21番地に自願軍本部を置き、在日同胞に呼訴した。8月初にUN軍司令部の内諾を得た後、第1次79名、第2次233名、第3次123名、第4次、第5次などに渡り青年及び学生6441名が出兵した。 その中の約100名が在日韓国学生だった。この当時の青年及び学生は1950年9月初、埼玉県朝霞キャンプに入隊し、国連軍と共に各戦線に参加した。1~2次は9月15日の仁川上陸作戦に参戦し、3~4次は元山上陸作戦に参戦、また4~5次は釜山に上陸し清津方面に出兵した。 在日韓国自願軍はソウル首都奪還作戦、白馬高地作戦など、各戦線で勇敢に戦い、戦史に末永く残る輝かしい武功を立てた。この時の学徒兵約43名は陸軍綜合学校を経て1951年3月、韓国軍に再配置された。そのメンバーは金顯英、朴炳憲、鄭炯和、文性煥、李活男、南知鉉、尹浩泰、趙英振、趙満鐵、趙鏞甲などである。 戦死者59名を出したが、銅雀洞の国立墓地に安らかに眠っており、行方不明者97名は未だその消息がわからない。他にも220余名の義勇軍参戦者が、除隊してからも日本に戻れず在日学徒義勇軍本部という名前の下、国家の被援護団体として残っている。 1951年5月、韓学同第8回総会が開催され、代表委員李元範、副代表委員朴権煕など、役員選出が行われ、機関誌「学同ニュース」を発刊することにした。 1952年4月明治大学で開催された、在日朝鮮学生同盟総会で在日韓国学生数名が出席し、朝学同活動の不当性と6・25動乱を起こした張本人等を糾弾したところ約300名を越える朝学同学生から反動分子という烙印を捺され、その場で人民裁判を受ける事件が発生した。これを「明大事件」という。 1952年5月31日、明治大学で126名が参集し、韓学同第9回総会を開催し、代表委員に朴権煕、副代表委員に朴炳憲等の役員を選出し、活動としては反共啓蒙運動、韓国文化研究などを積極展開することにした。 1953年5月30日、明治大学で韓学同第10回総会が開かれ、代表委員に錢世鎬、副代表委員に朱璟孝、鄭時弘などを選出したが、その後の臨時総会で代表委員に李金龍氏が選出され。在日韓国学生の法的地位確保に努力し、在日韓国学生代表約60名を本国に派遣した。 1954年6月5日、東京神田にあるYMCAにて約380名が参集し、韓学同第11回総会が開催された。代表委員金承浩、副代表委員に鮮千徹等の役員を選出し、各大学祭で韓国文化を紹介するほか、「韓国学生新聞」の発刊、夏期キャンプ実施、韓日学生協議会開催などを積極推進することを決めた。 1955年5月28日、駿河台の明治大学別館にて約200名の学生が参集し韓学同第12回総会を開催した。代表委員に呉世經等の役員を選出し韓国文化紹介、定期的な新聞発刊などを継続積極推進することを決め、本国から奨学官が派遣されるように本国政府に要請することにした。 1956年、韓学同第13回総会で選出された金グソル代表委員の時、各大学に韓国文化研究所(韓文研)の設立運動を展開させた。まず、明大に初めて韓文研の正式承認を得て、組織強化と学生の親睦に尽力した。 1957年、駿河台の明治大学6号館で150名余りの学生が参集し、韓学同第14回総会を開催。代表委員に金廣昇等の役員を選出し、各大学の韓文研で2世を対象し、組織を強化し、体内外的に活発に事業を展開することにした。 1958年5月24日、駿河台の明治大学7号館で約500名の学生が参集し、韓学同第15回総会を開催。張煕東等の役員を選出し、各大学祭を支援し、図書館をつくるのに大きく努力した。 1958年12月18日、神田のYMCAで韓学同総会が開催され、代表委員に李根祥、副代表委員に金榮斗、朴徳萬等の役員を選出した。当時、朝学同の学生等が平和路線云々しながら反政府、反民団運動を展開させ、巧妙に韓学同の組織に浸透してきた。これを索出すると同時に韓学同自体の組織強化および民団との紐帯強化に尽力した。 1959年1月8日、韓学同進学指導委員会を設置し、同年1月20日本国奨学金支給と奨学官派遣を本国政府に招請した。 1959年5月30日、駿河台の明治大学2号館にて韓学同第18回総会を開催、代表委員に金榮斗等を選出。各大学別に開かれる大学祭を継続支援し、北送沮止運動を積極的に展開させた。 1960年、約500名の学生が参集し韓学同第20回総会を開催。代表委員に李相煕等を選出した。しかし、新執行部が本来の事業を推進せず、一部過激分子に呼応し、反民団および反本国政府行動を展開。これを是正すべく1961年11月29日、国鉄労働会館にて韓学同第21回臨時総会が開催された。しかし、この会議は両派の対立により、韓学同刷新委員会を構成させただけで、同年12月13日、神田のYMCAにてこの問題を打開すべく、韓学同第22回臨時総会が開催された。しかし、両派の対立は極限に達し、結局、流会となった。民団では李相煕代表委員を停権処分に処し、韓学同の活動は結局一時中断の状態に陥られた。 1962年4月、神田のYMCAに約100名の学生が参集し、韓学同再建同志会総会を開いた。代表委員に権五哲を選出し、韓学同の活動正常化に力を注いた。しかし、李相煕一派の反体制運動は相変わらずだった。 1962年6月9日、神田YMCAにて約200名の学生が参集し、韓学同第23回総会を開催し、代表委員に金相天、副代表委員に金漢旭等を選出し、在日韓国学生の団合と本国の実情を正確に知らせるのに全力を尽くした。 1963年6月8日、韓学同第24回総会(合同総会)が開催され、代表委員に金宰淑を選出し正常化へと向かった。これまで分裂状態だった韓学同がこの総会で統一されたため、「統一総会」とも呼ばれている。 1964年、韓学同第25回総会にて代表委員に黄迎満を選出。サマーキャンプ、大学文化祭、学術研究発表会などを開催して会員間の親睦を図るのに力を注いだ。 1965年5月、韓学同第26回総会が開催され、代表委員に梁南守を選出したが、執行部が民団および本国政府に反する運動を展開させたため、同年9月8日、民団第5回定期中央委員会にて民団が直轄処分とした。同年10月、池袋にある豊島区会館にて各大学韓文研関係者100名余りが参集し幹事会議を開催、代表委員に安洪喆を選出した。 1966年2月11日、民団第6回定期中央委員会にて韓学同に対する直轄解除が決議され、同年5月25日、豊島振興会館で開催された韓学同第27回総会にて代表委員に梁東準を選出した。新執行部は韓学同の正常化および円満な事業推進に力を注いだ。 1967年5月20日、日本青年会館にて韓学同第28回総会が開催され、代表委員に邊安石が選出された。しかし、民団および本国政府に反する運動を展開し、以後、数年間に渡り韓学同内で紛乱が続いた。 1972年当時の代表委員、趙慶済執行部の時、韓学同内の不純勢力と同調し反政府運動を積極展開したことで、同年7月7日、民団は第20回定期中央大会で韓学同を傘下団体から認定取り消した。 韓学同の前記執行部中、趙慶済代表委員、呉省三副代表委員、申東洙副代表委員、崔喜徳総務部長、裵稔組織部長等は民団から停権処分を受けた。韓学同が民団から傘下団体認定取り消しを受けた1972年7月以後、在日韓国学生たちは在日韓国人学生親睦会という集いを持ち、随時会合を持ちながら相互親睦を図ることに力を注いだ。 | | | | |