コンピューターのほとんどは、1936年に英国の数学者アラン・チューリングが考案したモデル(チューリング・マシン)を原型とする0と1が並んだビット列などで演算を行う。
その一方、脳の構造を模した深層学習(ディープ・ラーニング)という、チューリング・マシンとは異なる計算方式が新たに登場。さらに量子力学、化学反応、波動、生物進化など「自然計算」と呼ばれる分野も注目され始めた。
そんな中、「計算」の定義を拡げた新しい「計算パラダイム」を主張するのが、株式会社
Preferred Networks(PFN、プリファードネットワークス)フェローで、元日本IBM株式会社東京基礎研究所長の丸山宏氏である。「社会や自然界は複雑な構造を持ち、多くのパラメーター (parameter)が互いに束縛しながら動くことで出来ている」とし、効率的に課題を解決するにはチューリング・マシンを超える「計算パラダイム」へのシフトが不可欠だと提唱する。
子どもたちのコンピューター教育についても、丸山氏は「アルゴリズム(演算手順)から始める学び方はこれから一変する」と予測する。
今年8月、専門家らに呼びかけ、「計算の未来と社会」と題する会議をIBM天城ホームステッドにて開催し議論を交わした丸山氏に、コンピューターや私たちの社会はこれからどのように変わるのか、お話を伺った。
実用化が見えてきた量子コンピューター
――コンピューターの学問と聞いただけで、一般の人は難しい印象を持ちます。計算の世界で今何が起きているのか、分かりやすく解説していただけますか。
丸山 私が計算パラダイムに関心を持つようになったきっかけは、2つあります。1つは、深層学習を研究するうちに従来のチューリング・マシンの計算モデルに限界を感じたこと。もう1つは量子コンピューターが登場し、実用化がある程度見えてきたことです。
文部科学省は小学校でプログラミング教育を始めていますが、やっていることはアルゴリズム(演算手順)をプログラムとして書き下すことです。コンピューターを動かすための「0か1か」の手順をステップ・バイ・ステップで書いていくチューリング・マシンをモデルにした「古典計算」です。
しかし10年後、今の小学生が大人になる頃には、世の中はもう「古典計算」の時代ではなくなっているかもしれない。ですから、「計算」の範囲を今のうちから広げ、いろいろな種類があることを知っておいてほしいのです。
計算の定義を一番広く見ているのが「自然計算」の分野です。その中でも1歩先を行くのが量子コンピューターで、今回の会議では日本IBMの小野寺民也氏が発表しました。原子や分子の「重ね合わせ」や「もつれ」を利用して、高度な計算を行うことができます。得意なのは量子力学のシミュレーションですが、分かりやすい例には、ケタが大きい整数の素因数分解などがあります。
IBMは今年1月、世界初の商用量子コンピューター「IBM Q System One™」(写真1)を発表しました。これから解ける問題の範囲が広がっていくことが期待されます。
写真1:IBM Q System One™
出典:https://www-03.ibm.com/press/jp/ja/pressrelease/54650.wss
写真2:IBMの量子コンピューター
出典:https://www.ibm.com/blogs/think/jp-ja/ibmq-quantum-computer/
波動、化学反応、遺伝子の進化、光も「計算パラダイム」の1つ
――量子コンピューター以外の自然計算にはどのようなものがあるのでしょうか。
丸山 物質や空間を伝わる振動(波動)を利用する波動計算があります。振動を伝える物質や空間を媒質と言いますが、媒質中を波が進む時スピードが変わったり、重ね合わせが起きたり、干渉・屈折・共鳴の現象が起きたりします。これらの現象が「計算」なのです。会議に参加した日本IBMの片山泰尚氏はナノテクノロジーの専門誌で波動計算を提案し、年間ベスト論文賞を受賞されました。
化学反応については、分子計算の専門家である萩谷昌己・東大教授が、会議で「いろいろな分子を試験管の中に入れて振ると、さまざまな化学反応が起きて分子同士が結合する。その反応の1つずつが計算であり、膨大な自然計算をしている」と説明されています。
また生物の遺伝子が突然変異を起こして生き残っていく過程も進化計算と言われ、数学的には最適化問題を解いていると言えます。
ニューラル・ネットワークの世界では、米ウィスコンシン大学が、内部に空気の泡を閉じ込めた小さなガラス板を利用する計算を研究しています。光を横から入れると、内部で散乱や反射された光が反対側から出てきます。入った光と出た光を対応させれば、光速度での計算が可能になり、少なくとも推論に関してはものすごく速くて電力消費が少ないニューラル・ネットワークになります。
このように計算は、これまで人間が考えていたよりはるかに広い概念であることが分ってきました。10年ぐらい先には、古典計算ではない計算が普及するパラダイム・シフトが起きるでしょう。社会はそれに備えておかなくてはいけません。
お金と電力エネルギーを大量消費する深層学習
――深層学習は、自動運転への応用などが注目されてブームのようになっていますが、実際はどのような状況なのでしょうか。
丸山 深層学習は、今は古典計算を使って無理やりという感じでシミュレートしているために、とても効率が悪いのが実情です。CPU(中央演算装置)は計算速度が遅いので、私が勤務するPFNは、GPU(Graphics Processing Unit:画像処理を得意とする演算装置)を2000枚使って効率化を図っています。しかし、GPU は高価格なので、大きな負担です。
もし、片山氏が取り組まれている波動コンピューターが実用化されれば、エネルギー消費は間違いなく2桁低減させることができます。前述した米ウィスコンシン大学のガラス板の研究も、実用化はまだ先ですが、エネルギー消費を激減させます。
米ミシガン大学も、電気のアナログ回路によって深層学習の1層分の計算を1つの半導体チップでやってしまう研究成果を発表しており、期待が持てそうです。
「全体を同時に見る」ことで実現したがん診断技術
――PFNは国立がんセンターと共同で、深層学習により血液中の成分によってがんを診断する方法を開発しています。どのような診断法なのか、説明していただけますか。
丸山 その血液中の成分はExRNAと言い、細胞の外に出てきたRNA(リボ核酸)の断片です。塩基配列が4000種類以上あり、がんの種類によってそれぞれの発現量が違うので、発現の仕方を調べることで、がんの種類を判定するのです。
従来の研究は、約4000種類の中から「○○がんを特定する支配的なExRNA」を探すことが中心でしたが、約4000種類の発現量をすべて同時に見ることにより、がん診断の精度を飛躍的に高めることに成功しました。
約4000種類の発現量を1つ1つ調べるのではなく、全体をパターンと捉えて解析する技術です。国立がんセンターが保有する実際のがん患者さんの豊富なデータをコンピューターに学習させ、診断精度を高めています。全体を捉えるというのは、まさに深層学習が力を発揮する分野なのです。
現在はたくさんのGPUを使い、多大なエネルギーを消費していますが、今回の会議で提示されたさまざまな計算パラダイムが実現すれば、様相はガラリと変わるでしょう。
これまで計算だと思っていたものは、実は計算全体のごく一部だった
――丸山さんは計算のブレークスルーを「要素還元主義からの脱却」と呼んでおられます。これはどういう意味なのか、分かりやすく解説していただけますか。
丸山 要素還元主義は古くはデカルトの「方法序説」から発しています。複雑な対象を細かく要素に分解し、最小の原理から説き起こせば、自然界の作用機序、つまり仕組みやメカニズムはすべて説明できるという考え方です。
例えば、私たちが金融システムや航空機など複雑な工学システムを安心して利用しているのは、それらがコンポーネントに細かく分解でき、各コンポーネントの正しさが検証されているからです。
このようにすべてを要素に還元して説明できれば美しいのですが、私たちの興味を引く対象の多くは非常に複雑です。社会のダイナミクスや自然界の動きは、多くのパラメーターがお互いに束縛しながら動くことで出来ており、高次元で非線形、複雑な構造を持っています。
特に生物学の分野はそうです。生物学者・福岡伸一さんの名著『世界は分けてもわからない』が指摘するように、生物は要素還元主義では説明できないというのが共通認識になっています。
生物以外でも、例えば人の心を癒す京都のお寺の枯山水は、石や松など個々の要素に分けても説明にならず、「全体として捉える」しかありません。
今回の会議では、いろいろな計算パラダイムの可能性が紹介されました。チューリング・マシンでは解けない問題がこの世の中にはたくさんあり、私たちがこれまで計算だと思っていたものは、実は計算全体の中のごく一部でしかなかったということを痛感しました。
もちろん今のコンピューターの技術は熟成されているので、それぞれの用途に応じて使われるのではないでしょうか。
グループに分かれ、新しい「計算」について熱心に議論する専門家たち
全国30数校の小学校が今秋から深層学習を学ぶ
――子どもたちのコンピューターの学習法もこれから大きく変化するとのことですが、具体的にどのように変わるのでしょうか。
丸山 これまで子どもたちに教えてきたプログラミングは、問題を解くためのアルゴリズムを考え、計算のステップを記述することでした。
しかし深層学習の場合、子どもたちは多くの事例をコンピューターに与えるだけです。すると、それを模倣する計算がニューラル・ネットワークの中に現れます。従来のプログラミング教育とは全く違うやり方です。
子どもたちにプログラミングを教えると、必ず何割かの生徒は途中で挫折します。そもそも、与えられた問題を理解することと、それを解くアルゴリズムを思い付くことの間には、思考の流れにギャップがあります。これは人の思考にとって不自然なやり方で、なかなか直感に合いません。多くの人にとって「それを思い付け」と言うほうが無理なのではないでしょうか。世の中の半分の人が「プログラミングは苦手」と言うのは不思議ではありません。
一方、赤ちゃんは周囲の人の動作を真似ることによって、いろいろなことを覚えていきます。子どもはもともと模倣することが得意なので、深層学習のように模倣でプログラミングするやり方は理解しやすいのです。
PFNはこうした深層学習を学ぶための教材を作成し、文部科学省に提供しています。9月に実施される「未来の学び プログラミング教育推進月間」の一環として、全国数十校の小学校の高学年クラスに導入されます。模倣に基づくプログラミング(これを「帰納的プログラミング」と呼んでいます)が普及すれば、「プログラミングが嫌い」という子どもはいなくなるのではないでしょうか。
「火星語の翻訳機」を作る子どもたち
写真3:火星語の翻訳機に挑む子どもたち 資料提供:丸山宏氏
――どのような教材なのか、具体的に説明していただけますか。
丸山 教材には例えば「火星語の翻訳機を作ろう」というのがあります。子どもたちには0から9まで10個の数字を、自由に思い付いた「火星語」で書いてもらいます。それを皆でシートに書いてタブレットで撮影し、それを事例(訓練データ)としてクラウド上の翻訳器を訓練します。この際、翻訳器は事例を模倣するように訓練されます。
次に子どもたちが指でタブレット上に火星語の数字を書くと、先程の事例で訓練された翻訳器がパターンを判別し、対応する0~9の数字がタブレットに表示されます。子どもたちは火星語の翻訳ができる仕組みを知り、必ずしも100%の精度が得られないこと、データ数が少ないと翻訳の精度が低いことなど、帰納的プログラミングの特徴を理解します。教室にある機材だけで授業ができ、内容が面白いので子どもたちの興味を引く教材になっています。
同じように、いろいろな花の写真を学習させてチューリップを判別する仕組みを作ることもできるし、その子たちが大人になってがんを鑑別するシステムを作ることもできるという発展性があります。
――今回の会議では、富山国際大学付属高校の2人の高校生が独自に開発中のビジネスモデルを発表して、出席者の反響を呼んでいましたね。
丸山 この高校では部活動にメディア・テクノロジー部があります。さまざまなテクノロジーを使って社会問題を解決することを目的に活動しており、慶應義塾大学の「データビジネス創造コンテスト」で最優秀賞をとった実績もあります。2人が開発中のシステムの概略を紹介しましょう。
吉田怜未さんの発表 「テーマ:ストーカー被害予防システム」
夜道などでのストーカー被害は女性にとって深刻だ。監視カメラが普及し、不審者情報が流されているが、本当に知りたいのは、自分にとってのリアルタイムな安全情報。吉田さんたちはそれを実現するデバイスを開発している。首から掛けたバンドに前方と後方を見るWebカメラや赤外線カメラを取り付け、機械学習を用いた画像認識プログラムがその画像をもとに安全かどうかを自動判定する。車や人が急接近したり不審な行動をしたりすると、デバイスが警告を発する。こうした装置をみんなが装着すれば、ストーカー行為を減らすことができる。プライバシー問題や誤検知の問題をどう解決するかが残された課題である。
宮嶋奎太朗さんの発表 「テーマ:アクティブ・ヘルスケア社会」
宮嶋さんたちは、ヘルスケア分野に多様なテクノロジーを導入するアクティブ・ヘルスケア社会を目指したいと考えた。現在のヘルスケアは、体調を崩したら病院に行くというように受動的で、コトが起きてから行動を起こす。しかし、アクティブ・ヘルスケアのデータを統合すれば、体調を崩しそうな場合、前もって対処することができる。高校生の場合、インフルエンザや風邪にかかり1日休むと7時間の授業を逃すことになり、遅れを取り戻すのは大変だ。
そこで、学校内のマスク着用者数や教室内で咳をする音の回数などを分析する。数の増減と、生徒の体調悪化やインフルエンザの流行に相関関係を見つけることができれば、今後の予測に役立てることができる。このようなさまざまなアクティブ・ヘルスケアのデータを統合することで、学校や企業などの健康維持に応用できるのではないか。
丸山 私は、こうした若者たちの発想や研究開発への取り組みがさまざまな学校に広がっていくことで、深層学習をはじめとするテクノロジーへの理解が深まることを期待しています。そして子どもたちには、近い将来直面する「計算」をより広く捉える「計算パラダイム」の到来にしっかりと備えてもらい、ぜひ社会の発展に寄与してほしいと願っています。
TEXT:木代泰之
丸山宏(まるやま・ひろし)
株式会社Preferred Networks (PFN)フェロー。工学博士。 1958年生まれ。1983年東京工業大学大学院理工学研究科修士課程修了。同年日本アイ・ビー・エム株式会社入社。人工知能、自然言語処理、機械翻訳などの研究に従事。1995年京都大学より博士(工学)授与。1996年米IBMソフトウェア事業部において、インターネット技術の評価。以降、XMLやWebサービスの研究開発・標準化に従事。1997~2000年東京工業大学情報理工学研究科客員助教授、2003年アイ・ビー・エム・ビジネスコンサルティング・サービスへ出向。2006~2009年日本アイ・ビー・エム株式会社東京基礎研究所所長。2009~2010年キヤノン株式会社デジタルプラットフォーム開発本部副本部長。2011~2016年情報・システム研究機構統計数理研究所教授。2016~2018年株式会社Preferred Networks最高戦略責任者。2018年4月より現職。