文系トップが理転して苦労した話(2)
いざ!理転
理転するというのは、成績の面から言えば、僕にはデメリットしかありませんでした。文系の時は、みなさんご存知の進研模試、全統模試で全国単位で名をとどろかせていたのに(大体いつも全国で数十番以内でした)、このまま勉強していけば無事志望校に合格もできていたのに、全くタイプが別の理系に変えるなんて!今思っても血迷ったとしか思えません。キリスト教世界では「神の導き」というそうですが、それに近いものがあったと思います。僕は無神論者なので、この場合、「利己的な遺伝子」が僕のそれにあたるでしょう。つまり、僕にとっての導きは、極めてエゴな偶然の産物でした。
無の夏休み
受験を半年後に控える受験生にとって、夏休みは全国常連水泳部の夏合宿のようなものです。えぐい量のご飯を食べエネルギーを得てから、朝から晩までひたすら泳ぎ続ける。途中で吐いたり、足をつったりしても、大会で勝つことだけを目標に青春の夏休みをささげているんです。まさしく受験の夏もそうで、内側から湧き上がる自由の衝動を抑圧しながら、ひたすら問題を解き続ける。朝起きてから着替えもせず机にかじりつき、気づいたら夜現象の連続。そのうち昼夜逆転してきて、受験勉強が僕の生きる目的では!?なんて思うようになってくる。外にもほとんど出ないもんだから、コミュ障が悪化していく。このカオスな環境下、気分はまるでランボーのよう。自分の能力と精神の極限に無心で挑む、無の期間です。
実際何をしたかというと、数学ⅠAⅡBⅢの青チャート、東大過去問、理系プラチカ、大学への数学、生物資料集、生物・化学重問とかを一通りやってましたね。きつかったです....
fig.1高三九月駿台ベネッセ記述模試の結果
努力の成果!
無の夏休みは、夏休み明けの駿台ベネッセ記述模試で最高の形で報われました。念願の全国一位!悪魔に魂を売ったかいがあったというものです!限界って、全然限界じゃないんだなって悟りました。(笑)ただ精神のバランスをとるために、一つにのめりこみすぎないようにストッパーをかけてるんだな、と。当時はこの結果のためだけに、あらゆること(スポーツもアニメも読書もテレビも談笑も、必要最低限度の生活を営むためのこと以外は徹底的に省きました。そう、進撃の巨人でアルミンが言ってました。
『何かを変えることのできる人間がいるとすれば、
その人はきっと大事なものを捨てることができる人だ。
化け物をもしのぐ必要にせまられたのなら、
人間性をも捨て去ることができる人のことだ。
何も捨てることができない人には、
何も変えることはできないだろう』
僕は頭脳王だかで出てるようないわゆる神童とは程遠く、要領も良くなく、努力と根性でなんとかなりあがってきたような人間なので、こうした結果を得るために、あまりにも多くのものを失いました。
当時の僕は、自分が何者かも、何をしたいのかもわからず、テストの結果だけを頼りにしながら生きる、孤独な開拓者そのものでした。
読書の薦め
話が変わりますが、僕が読書を人に勧めるとき、よく「多元的な人格」論を議論の場にだします。僕の持論ですが、確実に僕を支える哲学です。
どういうことかというと、本来人間には数多くの人格になれるポテンシャルがあると仮定します。例えば、花を愛でて幸せを感じる、体を動かすことで快感を感じる、人に奉仕することで繋がりを感じる、人との同調を嫌うなどなど ……無限個の人格パターン(2^n -1通り(nは自然数))(n→∞)が存在するものとします。人は成長するにしたがって、膨大な経験をする。社会的生物であるため、経験は本質に先立つのです。また、経験は個人を取り囲む環境に支配されています。ので、個別の環境中で特に不可欠な人格があたかもダーウィンの自然選択説(生物学の真理)に従うかのように、選択され、強化されます。こうして、各人固有の人格が形成されるのです。
しかし、人が他人とのかかわりだけで得られる影響は有限で、年がたてばたつほどに、新鮮さはうすれていく。そんな中、運命の本(文化)との出会いは、人間の理性にダイレクトに働きかけるので、それまでとは異なる次元を創り出す。各次元には必ず自分は存在していて、無意識に自分のメインにいる次元に働きかけてくる。例えば、何かうまくいかないことが立て続けにあって、自分の無力さに打ちひしがれているとき、中原中也の詩の一節、「なすところなく、日は暮れる」が浮かんできますし、公共空間で身体障碍者の人やお年寄りの人に気づきもしない人たちを見ている時、中島義道が言っていた、「公共空間における”からだ”の睡眠状態」を体感する。他にも、アニメで言ってみると、数学で基礎の問題から発展問題まで解かなけれないけない時、僕には不条理の大群が僕の精神をずたずたにしているイメージがありました。こんな時、僕を支えていたのは、進撃の巨人のエレンだと思います。彼が僕の中のある次元に存在していて、彼の圧倒的不条理に無鉄砲に突っ込んでいく姿勢を示してくれている気がします。
つまり、その状況状況に合わせて多種多様な視点の考えが浮かんできて、僕の思想を豊かにしてくれるのです。今まで気づかなかった世界に触れることができる、第Nセンスの獲得。僕にとって、こうしたセンスは人間の五感と同等に不可欠で、人間は恒常的に文化に触れて、あるいは創造していく生物だと考えています。例えば、視覚が突然なくなれば、正常な認識ができなくなるじゃないですか?それと似た論理で、この第Nセンスを獲得すれば、よりたくさんのこと、より大切なことを見つけ出せるんだと思います。自分の中に多元的な自分を創り出すことで、限りなく理性的な、人間的な生活をおくれるんだと信じてます。
悲惨散々!ぐれて浪人
結果だけを目指して勉強に明け暮れた結果、僕に残ったのは小手先のスキルだけでした。問題作成者が期待する答えを採点者が気に入るように仕立て上げる操作。ある時、はっと気づいて後ろを振り返ると、そこは惨憺たる荒野が広がり、僕の心の中に巨大な虚無空間が広がっているような、安部公房がいうところの「砂漠」が僕の中に広がっているような気さえしました。
成績のいい人にありがちな傾向に、プライドがめっぽう高いというのがあります。ご多聞にもれず僕もそうで、今まで勉強しなくても何とかなっていたものがあふれだしたため、僕のガラスのプライドは完全に砕け散り、ぐれました。(東大実践模試とかオープンとか、本格的に難しい模試になると全くできなかったことも原因のひとつです)特に数学に関しては全くうまくいかず、普通の応用問題ぐらいならいいんですが、大学の過去問とかチャートの総合問題になってくると、できませんでした。加えて、今までやってきた社会二教科(世界史と地理)ではなく、生物と化学の膨大な暗記・演習もあり、完全にまいった僕は、受験を放棄するという形で、ずるずる浪人することになりました。つまり、理系的才能に乏しかったってことです(笑)理系の場合、数学と理科二科目、英語の出来でほぼ決まります。特に数学ができるかできないかの差はかなり大きく、受験勉強の半分は数学に費やすほどですが、理系数学のバックグラウンドがない状態であまり得意でない受験数学をやるのは本当につらかったです。周りにはいとも簡単に点を取ってくるやつがいるのに、なぜ自分は取れないのか!僕もやつらと同じように最初から理系で目指してれば数学も出来ていた!国語や英語なら負けないのに!受験の理不尽さ、自分の選択の大きさに打ちひしがれ、浪人していきました。
半分遊んで、半分勉強した浪人時代
浪人、と聞くと、毎日予備校に通ったり、自宅で一日中勉強しているイメージが強いと思います。けど、それって本当に人によりけりで、僕の場合、夏休みまでスポーツジム(ホリデー)に通って体を鍛え、夏休み後予備校に通うというスタイルをとりました。なぜスポーツジムかというと、当時好きで見ていた「サイコパス」というアニメ、人間のあらゆる心理状態、性格傾向が計測可能となり、管理されるようになった近未来的超管理社会の話。その社会の中では、「犯罪係数」という指標によって人は統括され、主人公含む公安局のメンバーは係数値が異常な値を示した潜在犯を「ドミネーター」という銃の命令に従って執行する。正義とは何か?秩序とは?法とは?完全な社会が抱える圧倒手的不条理に立ち向かう話で、哲学的にも非常におもしろく(全能者のパラドクスやベンサム的な功利主義など)、かっこよく、ぜひ見てもらうことを勧めます。それで、このアニメの中の登場人物に狡噛慎也という刑事がいるんですが(ニーチェ並みに尊敬する人物の一人です)、ある日彼が公安局内のトレーニングルームで過剰なトレーニングをしていた。それに対し、主人公が、ドミネーターがあるのになぜそこまでトレーニングをするのか?と尋ねると、彼は、
「犯人を執行するか決めるのはドミネーターだが、実際に執行する、命を奪うのは自分なんだと、そのことを体にたたきこまなきゃいけない。」
そういったんです。
再び、僕に転回点が訪れた。プライドを失ったせいで自虐的になっていましたが、この言葉と、彼の生きざまから、「今、数学の問題を解いたり、哲学的問いに呻くのは、僕の統率者たる脳だが、実際それを行動に移すのは効果器たるこの僕自身の身体なのだ。だから、僕の体に、僕の人生の執行者は僕自身でしかありえないのだと、徹底的に叩き込むしかない」と、思い立ち、半年間、無心に体を鍛えていました。(また、三島由紀夫の影響も大きかったように思います。それに、今はぶよぶよの体になってしまいました)
夏休みいっぱいまでトレーニングに明け暮れた後、九月ごろから予備校に通い始めました。理由は、さすがにやばいなと思ったから。なにせ、高校生の頃勉強していたことは、ほとんど忘れていたからです。夏休みに受けた駿台の模試では、志望校(東北大とか)はB判定でした。別に悪くはないんですが、当時、現役の時に比べ受験勉強に対する熱意が完全に去ってしまっていたので、かなり苦労しました。
はじめての予備校
予備校での半年間はとにかく退屈で、面倒だったのを覚えてます。授業を受けて、演習をひたすらやり、そして帰る。毎日が同じことの繰り返し。加えて、教わる内容は受験でいかに点を落とさないかに特化した小手先の技術ばかり。そのための予備校ですから、僕もそれを期待して行くんですが、半年間の筋トレを終え、「勉強の真の姿とは自分の知的欲求を満たすための真にエゴで完全に自由な営みである」と悟ってしまっていたので、わけのわからん微積分の計算や面倒の極みのような理論化学のモル計算にどこか反発していました。実際、大学では暗記や計算力が求められるのではなく、新しいこと、興味のあることを自発的に学んでいく場所なので、その意味で僕は正しかったですが....
話が変わりますが、受験で成功する人としない人の違いってなんでしょう?努力だけで済むならもっと難関大を受けるはずだし、逆に能力だけなら、予備校なんてないはずですよね?まあ、必要な要素は数えればきりがないと思いますけど、絶対的に、まず「能力」次に「努力(演習量)」、「ストレス耐性」が必須です。思うに、xyz座標空間における原点を中心とする球の方程式x^2+y^2+z^2=R^2を考えたとき、成功するにはx1^2+y1^2+z1^2>R^2となるようなベクトルa=(x1,y1,z1)の成果を叩き出すしかないのです。結果がすべてですから。ただ、もう一つ決定的に重要な要素があると思っていて、それは、「偶然」、つまり、運。自分の得意な問題がが出るか、万全の体調で臨めるか。受験に臨むにあたっては最悪の状況を想定しておくといい。おそらく現実ではより最悪なことが起こりうるのだから........
勉強が嫌いなら、やらなければいい
勉強が嫌いなら、やらなければいいと思います。無理してやる必要はない。あるいは、勉強以外に自分の好きなことをプロフェッショナルなレベルに仕立てあげるほうがよっぽどいいです。僕も含め、大学の同級生に多いのは、なんでもそつなくできるけど、極めて得意なことがあるわけではないジェネラリストタイプ。もちろん、ジェネラリスト的教養も、生活を豊かにする重要なファクターですが、量産化されすぎている。そこで、自分の不得意なことはバッサリ切り捨てて、得意なことに集中する余裕ももてるようにすることをすすめます。現高校教育では、偏差値至上教育がはびこり、学生を均一化することばかり考えていますが、物差しは一つじゃないので。
自分の人生です。誰にも縛られず、自分の自由意志で決めましょう!!(ただし、論理的に)
高校教育の流れでもう一つ。高校を卒業すると、大学進学か、あるいは就職かと選択肢が限られているように見えますが、そんなことはなくて。例えば、僕のように、一年ゆっくりして自分を見つめなおしてみるのもいいし、日本一周するのもいい。実際社会で働いてみて、それから自分のやりたいこと、やるべきことに気付くのもいい(すごくおすすめ。僕もやればよかったと思ってます)どこにも卒業後すぐに進路を決めてなければいけないなんて法律はないんですから。むやみに伝統や慣習にとらわれず、じっくり考えて、少し道からはずれたことをやるのも一つの手かなと思います。
対等に競い合えるライバル
予備校に入って一番良かったと思うのが、自分と志を共にする人が数多くいたことです。みな自分の志望校に並々ならぬ情熱を注いでおり、互いに情報共有したり、教えあったり、ふざけあいながら勉強できたことです。これってすごく大事で、一人で受験勉強するのって、とにかく退屈で、面倒なんですよ。けど仲間と愚痴を共有できるから救われるし、仲間に勉強を教えたりすると自分の学習効率も大幅に上がるので、そういった意味では、悪くない半年間だったと思います。
志望校選び
志望校を選ぶにあたって、みなさん多くの点から考えていると思います。偏差値、立地、魅力、研究室..ここで、どれも選ぶ際には直接の理由にはなりえないということを言っておきたいと思います。それぞれ、必要条件ですが十分条件ではありません。これらはただの目安です。
ではどうやって選べばいいか、ということになるでしょう。僕が選ぶ際にやったのは、
①自分のやりたい分野を設定する。そのために、大学でどんな学びがあるのか、片っ端から調べる。(学部学科ごとに学べることを調べる)
②①に対して、具体的に選んだ理由を考察する
③偏差値、校風、立地、魅力、研究室などから、自分にあいそうな大学を一つ選ぶ
というアルゴリズムです。特に僕が重点を置いたのは②のプロセスで、その分野でどんなことがしたいのか、できるのか、考え抜くことです。もし本当にやりたいことが違う系統なら、学校のカリキュラムに逆らってでも、方向転換すべきだと思いますし、もしやりたいことが一つ以外考えもつかないなら、ネオジウム磁石のようにふるまうべきだと思います。実際に大学に入って充実した生活が送れている人は無意識にできていることですが、少し不安な方は参照してほしいと思います。
結論
文系とか理系とか、そんなくだらない枠組みにばかりとらわれずに、自分の思い思いにやればいいと思います。全力の拳でなぐりかかれば、向こうも全力で返してくるので、後悔はありません。そしてもし大学生を目指すなら、自分なりの志向性でまず勉強に取り掛かるべきだというだけのことです。
ただ、受験勉強というのは、本来の学問とは異なり競争色を強く帯びているので、能力や偶然が及ぼす影響はかなり大きいと思います。おそらく、日本の大半の学生は難関大学に合格できるような学力を備えていないでしょう。
人生は限りなく理不尽ですが、そんな中たくましく生きていくためには、自分の世界を作り上げるしかないと思う。さらに、そのためには、自分のまだ知らない世界に果敢にアプローチしていくことであるが、そのきっかけもまた極めて偶然なものです。したがって、これだ!と思ったきっかけに必死に食らいつき、あがき苦しまなければならない。その中で、偶然が起こる確率を大きくするためにも、理系文系という枠組みにとらわれず自分の自由意志に従った行動をすることが大事なのだと思います。
僕個人の話をしましょう。僕は現在理学部に所属しており、専門の生物学の勉強以外に、物理学や数学、哲学、文学を学んでいますが、今僕が勉強していることを実社会に直接応用する機会はまずないでしょう。かろうじて英語はインターネット検索や外国人との交流に使えるかもしれませんが。しかし、僕はそれでも一向にかまわないと考えています。無意味!!大いに結構!!そもそも、schoolの語源はギリシア語のskhole、余暇、暇からきていると考えられているのを知ってますか?余った時間の暇つぶしで学問は始まり、現在に至ったのです。ですから、本来勉強とは暇な時間を活かして、自分の知的欲求を満たすための真にエゴで完全に自由な営みであるはずなのです。そしてそれは大学生でしかできない!今やらなくていつやる!そんな思いでこの記事を書きました。さいごまで読んでいただき、ありがとうございました。
参考文献(フリー画像)
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