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私はエル・デスペラードの眼が好きだ。
マスクマンという覆面の密閉を選んだ人間。彼のマスクのわずかな隙間はその両眼の部分だけ。人間の表情を読み取る上で眼のパーツがどれだけの貢献を為しているかはなかなか図り切れない、であるはずがエル・デスペラードはその両眼のみで表情の全てを物語る事ができる。
黒目の面積が狭く施されたそのデスペラードの眼。
感情の起伏など一切見せる事を拒むか如く異形の眼。
顔の表情の全てをその黒目にのみ集約しうる濃密な黒。彼の黒目は決して私を飽きさせない。
私はエル・デスペラードの入場曲が好きだ。
あのギターの音色。ラテンの風を感じさせてくれる旋律は陽気な酒場の賑わいをイメージさせるのでは無く、陽気とは正反対な哀愁の蜃気楼を浮かび上がらせ、砂埃が足元を静かに舞うイメージ。
ラテンの国で覆面の男が冷たく登場する音楽、悪者は冷たく静かに軽快に。そしてギターの音色と供に足音を鳴らす。
私はエル・デスペラードの紳士のお辞儀が好きだ。
ならず者のネーミングを名乗りながらも、礼節たる心の飾りは忘れていない。一体誰に、何に対しての礼儀なのか。真っ当な生き方はとうの昔に捨て、自分を応援する観衆への心意気とは到底思えないそのお辞儀。
頭を垂れ、手を胸の下に持ってくる。どうぞ、と。
そう、エル・デスペラードというならず者が自分の気が向くままに、自分の気の済むままに。
悪者が悪者としての自分への自然体。他者にじゃない、自分のお気に召すままに。彼にとっての礼儀作法とはそういう意味なのかもしれない。
私はエル・デスペラードのコスチュームのフリンジが好きだ。
彼が動く時、フリンジも揺れる。まさに舞台に立つ者として、スポットライトを浴びる者としての覚悟とも言うべきデザインのチョイス。飾り気の無い悪者などナンセンスと鼻で笑うかのように。
私はエル・デスペラードのバックステージコメントが好きだ。
いつも軽やかな言葉の運び、上品とは言えないワードで罵る時にでも抑揚の付け方と喋るスピードの加減はなんとも丁寧に。
小刻みかつスマート、彼の両眼の異様さと声色の心地よが重なればそれはまさにセレナーデ。
私はエル・デスペラードの手首のテーピングの長さが好きだ。
皮膚が薄い手首回り、静脈と動脈に万が一にも傷が到達しては大惨事。しかし、彼のテーピングは手首回りに留まらず腕の中部にまで巻きつけられている。理由は本人に聞くしかない。
でも私はただ好きなのだ、テーピングさえもキャラクターのコスチュームとして利用している感じが。
私はエル・デスペラードのリングイン時の開脚前屈が好きだ。
軟体のアピールなのか、それとも何かの儀式を意図しているのか。
どちらにしろ、彼の世界観をこの前屈開脚がより一層謎に包もうとしているから好きなのだ。
私はエル・デスペラードがホールを返された時にレフリーの方を見ず、そして相手の選手を見るでもなく、会場の周囲にその眼を向ける姿がとても好きだ。
私はエル・デスペラードのたまにでてしまう鈴木軍の手下感が・・・・
私はエル・デスペラードのギターケース持参が・・・・
私はエル・デスペラードの高橋ヒロムとの絡みが・・・・
さて、これくらいにしときましょう。
お分かり頂けたでしょうか?
もう充分すぎる位だからやめてくれとのブーイングが私には聞こえてきます。
覆面レスラーの難しさは、マスクマンとしての世界観を維持し続ける所にあるのかもしれません。このエル・デスペラードというキャラクターはそこがブレない。全く持ってブレていません。
そして何よりもためらいが全くもって無いのです。
ためらいは本当に本当に大事な注意事項と言えるでしょう。
たった数ミクロンでも世界観のためらいが見え隠れしてしまったらもう大変。本人がもしもキャラクターに対する躊躇を漏らしてしまったなら、それは観る側の中にまるで伝染するかの様に流れ込んでしまいます。流れ込む?何が?
照れです。
照れてしまうんですよ、キャラクターのためらいは世界観の観測者側が照れてしまい、何か言葉に出来ない恥ずかしさが込み上げてしまう。本人よりも観測者側が。
これは絶対にいけません、これだけは絶対に犯してはいけない厳禁要項です。その点エル・デスペラードは安心して見て居られる。彼の世界観に私達は身を委ねる事ができるのです。
ここで再度エル・デスペラードの私の好きな部分を執拗に羅列していきたい所ですが、差し控えましょう。ブーイングが増えてしまっては今後の記事更新に悪影響を及ぼしかねない懸念を優先させなければなりません。
さて最後にマスクマンについて少し触れて記事を締めてみます。
人はお面を被るという行為に甘美な幻想を期待する所があり、人の性質上において己の本質を隠す役割と本性を炙り出す為の役割を同時に抱いてしまうもの。相反するこの効果をなぜお面を被るという習性の中に共存させているのか。
とてもシンプルな言い訳で語るならば、人は精神の神秘性を過剰に意識しているのかもしれないのです。その世界観が元々あったものか、はたまた創られた虚像に過ぎないのか。
これもシンプルに片付けますと、どっちでもいいのです。
人は世の実社会に実像を追いかけたいのではなく、あくまでも世界観への心酔を希望しと喜ぶ、生の活力は実の所は世界観にあるのです。
そうです、観です。
でもマスクを被れば自動的にその観を構築できるのでしょうか?
それは人によるという解答ほどつまらないものはありませんから、ここではそんな逃げ口上は使いません。
エル・デスペラード選手以外のマスクマンをあえてここで挙げます。
それは、獣神サンダーライガーとタイガーマスクの二人。
もうベテラン中のベテランであるこの二人の覆面選手についてなぜ挙げるかはエル・デスペラード選手との違いを知ってほしい理由からなります。
もちろん私の勝手な面白がり方の憶測と考えてもらって構いませんが、この二人とデスペラード選手には大きな違いがある様に思えるのです。
獣神サンダーライガー選手とタイガーマスク選手の二人は、たぶん覆面レスラーじゃなかったとしても雰囲気や立ち振る舞いは今の感じとそこまで変わらないのではないかと思っています。
マスクを被った時と被っていない時の変化は実際はそんなに無い、これはある種の魂の強さとしての評価になると私は考えていますので、要はライガーもタイガーも根っからのあの強気で熱い闘志を表現できる人間なんだと思います。
エル・デスペラード選手はどうでしょうか、これもたぶんとしか言えない憶測ではありますが彼はあのエル・デスペラードと名付けたキャラクターのマスクを被らなければ世界観は産み出せなかったはず。マスクを被った彼こそが彼の本物の観。
覆面の存在をもしも選ばなかった彼は、果たして今の様な雰囲気と立ち振る舞いをためらいなくできたのか。
でも、私はそういうエル・デスペラードが最高に好きだ。
◆最後まで読んで下さり嬉しいです。
次回記事更新にて、また覗きに来て下さいね。
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