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ある朝鮮人労働者が生きた歴史~砂上昌一 元石川県同和教育研究協議会会長
【「チョーセンジンは帰れ」】
今から30年前のことになります。私は中学校の教師をしていました。ある日、朝鮮人の女子生徒が同じ学校の生徒から「朝鮮人は朝鮮へ帰れ」という言葉を浴びせられるという事件が起こりました。
私はそこで初めて朝鮮人の存在を具体的に意識することになりました。それまで学校では朝鮮人生徒の存在など話題に上ることすらありませんでしたから、そのような差別発言に唖然としました。そして周りの教師にもそのことの差別性を話しましたが無視されました。ただ憤慨するだけで波風を立てないようにする大勢の教師に、私も抗することはできませんでした。そこから私は人権・同和教育を学ぶことになったのです。
最近、知り合いの権寧守(72)さんは公衆浴場で肩をふれあった男性から「チョーセンジンは帰れ」と怒鳴られたといいます。弱視である権さんにそう言い放った男の姿形がよくわからなかったので言い返すことができなかったと怒っていました。
「なぜ、わしらがここに住んでいるのか。徴用のことは日本ではほとんど教えられていない」と権さんは言います。権さんは在日二世で、父親は徴用によって日本にやってきたのです。
かつて、女子中学生も権さんと同じ言葉で差別されています。朝鮮人に対する差別が依然としていまだ氷解していないことの証しでもあります。
ヘイトスピーチや徴用工問題などに怒りをぶつけようにも怒りのやり場がないといいます。日本人社会の朝鮮人に対する思考感覚は、かつてのそれから抜けていないとつくづく思います。
徴用工問題から日韓関係が「戦後最悪」と言われるようになる中、改めて権さんの父親の話を聞きにいきました。かつて朝鮮で農家として生活していた権さんの父親、木玉さんの渡日の歴史は現代につながってきます。権さんは父親の話をたくさん聞いていません。しかし、その隙間を埋めていくのが私たち日本人の仕事ではないでしょうか。想像力を働かせて戦前・戦後を生きた朝鮮人の生き方に学ぶ。お互いが知ることからわかり合えると思うのですが。
【多くを語らずに亡くなった権さんの父】
私(権寧守)の父、権木玉は慶州の出身で当地で農業を営んでいました。1908(明治42)年4月生まれです。日韓併合の前年(1909年)です。母は1922(大正11)年生まれです。弟が二人いました。父が生まれた前年の1909年からすでに、非合法で九州の三井や三池炭坑の大手炭坑には石炭運搬や荷役労働者として朝鮮人が働いていました。
1935(昭和10)年頃、父が25,6歳だったといいます。故郷の村の畑で農作業をしていると、そこに兵隊が来て本土に行かないかとの口車に乗せられて日本へ来たと聞きました。そして無理やりに車に乗せられたと言っていました。
最初は故郷の慶州から九州の炭鉱に連れてこられたといっていました。九州のどこの炭坑か今は名前がわからないそうです。ここにいたのは1年くらいで、それから北海道の炭鉱に移ります。この炭坑の名前も聞いていないそうです。大きな炭坑だったそうです。
仕事が厳しくつらく、そこから逃げ出して青森のリンゴ園に辿りついたといいます。そこの日本人夫婦にはよくしてもらったそうですが、なにぶん日本語がまだわからなかったので、そこの娘さんとの縁談がもちあがったのですが、1年も経たないうちにそこを出たそうです。そこから舞鶴の軍事工場に移りました。そこで終戦を迎えたのです。
このように徴用で労務動員を強いられながらも生きてきた父はあまり詳しいことを語ることなく亡くなりました。
(令和元年9月20日 朝日新聞「論座」)
https://webronza.asahi.com/national/articles/2019091800002.html?page=1
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朝日新聞がまた嘘を書いた。
「権さんは在日二世で、父親は徴用によって日本にやってきたのです」
「このように徴用で労務動員を強いられながらも生きてきた父」
と書いているが、日本に来たのは「1935(昭和10)年頃、父が25,6歳」とある。
1938(昭和13)年の国家総動員法に基づいて「徴用令」が出来たのは1939(昭和14)年である。
しかも当初、朝鮮人には「徴用令」が適用されず、朝鮮人に「徴用令」が適用されたのは1944(昭和19)年からで、翌1945(昭和20)年3月で終了している。
つまり、権寧守の父親が日本に来たのは1935(昭和10)年なので、その時は「徴用令」自体が制定されておらず、徴用ではないのだ。
徴用がない時に日本に来て「徴用された」と嘘を言う。
これは慰安婦の証言と同じ構図で、慰安婦が「軍に強制連行されて大阪・熊本・台湾で働かされた」と述べているが、そこは戦地ではないので軍の慰安施設はなく、あるのは民間の売春宿であったのと同じような嘘である。
日本人が歴史を知らないと思って、朝日新聞はまだ、こんな嘘を書き続けている。
その意図は「差別されてかわいそうな朝鮮人」を「その隙間を埋めていくのが私たち日本人の仕事」と書いている通り、金銭面も含めて日本人は朝鮮人の面倒を見ていくべきだ、ということである。
ふざけるな、朝日新聞!
朝日新聞は「戦前・戦後を生きた朝鮮人の生き方に学ぶ」と書いているが、戦後、朝鮮人が日本人に何をしてきたかを知って言っているのか?
戦後、朝鮮人は「自分達は日本人でなくなったので、敗戦国日本の法令に従う義務はなく、我々は戦勝国に準ずる国民だ」と不法行為をして治安を乱した。
朝鮮人は武装解除された日本軍の歩兵銃や拳銃を盗み、約3万人の朝鮮人が「朝鮮進駐軍」を名乗って無差別に日本人を殺害した。GHQの記録には4,000人以上の日本人が殺されたとあるといわれている。
『ある戦後史の序章』には、避難民救済活動を行っていた石田一郎氏の以下のような手記が掲載されている。
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「北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、辛苦の末やっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々辱められた上、虐殺されている光景であった。
最愛の二人の娘達もまもなく同じ運命をたどるであろうことを不憫に思い、松の木に縊(くび)って自決させた。
これはその遺髪です、と言って私に見せてくれた。もう涙も涸れたのか淡々と他人事のように語る表情の中に私は深い悲しみを見た」
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日本人が朝鮮人を嫌いなのは、朝鮮人が日本人に残虐なことをしてきたからであり、平気で嘘をついて人を騙すからだ。
朝日新聞は、そういった事実を無視して、歴史を捏造して、「朝鮮人を差別するな」と書いているが、その魂胆はすぐに見抜かれるバカ新聞である。
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