桶狭間の戦い後
「今川義元の首を討ち取った!」
信長は血に染まった右手を天に挙げると、高らかに宣言した!
「勝利じゃ!! 者ども、勝利じゃ。勝どきをあげよ。われら勝利よ!!」
今川義元は家督を譲ってはいたが、しかし、実質的には今川全体を仕切る当主でありカリスマ大将であった。その義元の首を槍に掲げた織田軍。
今川軍の戦意は、風船がはじけるように急速にしぼんだ。
完全な勝ち戦と浮かれていた今川軍の落胆は底なし沼だ。
悪夢か、悪夢なのか・・・、それまで信じていた土台がボロボロと足元から崩れていく悪夢。
もともと兵士ではなく、戦のたびに徴兵される一般の雑兵にいたっては逃げることしか考えない。
大将首を取られたと聞けば、あっという間に敗走していく。
武将が「逃げるな!」と声を枯らしても無益なことであって、その武将自身も義元の死に涙を浮かべていた。
勢いづいた織田勢は敗走する今川軍を追撃した。
勢いをかって、その日のうちに大高城へと攻め込む。
この地は、もともと織田家の管轄であった。
庶民らは大喜びで彼らを迎え今川の兵士にツバを吐いた。
「殿がもどってきた!」
庶民は湧いていた。
信長はつねに人気があった。高い身分にも関わらず人々と接する距離が近く、その上にイケメンだったのだ。
いわば戦国時代のジャニーズトップスター。
一方、今川側は混乱した。
義元が撃たれたと大高城に届いた一報は、その日の夕刻。
家臣とともに城で休息していた松平元康のちの徳川家康。
青ざめると同時に死を覚悟した。
「ここは潔く切腹するか」
「殿。切腹前に、とりあえず、逃げましょう」
家康の鷹匠から出世した本多正信、この戦いで痛めた膝を引きずりながら進言した。
「そうか、逃げるか」
「逃げるしかありませんな」
「わかった、とりあえず、逃げよう。切腹はあとじゃ」
「ですな」
徳川軍は大高城を落とし、その後、織田側の砦を破るなど、桶狭間の戦いで危険な先鋒を任されていた。
いわば、一番死ぬ確率の高い、もっとも嫌な役目である。それを嬉々として受け忠義を尽くした家康。
今川義元が首級を取られたと聞くや、その後はあっさりと岡崎市にある、勝手知ったる大樹寺まで敗走した。
家康という男、逃げ足の速さは秀逸であって、天下統一までに敗走したという記述は多く残っている。
そして、ここからが彼の真骨頂。
日本人の多くが家康を英雄視しない理由であり、海外からは卓越した政治家と思われる片鱗を、遺憾無くはっきしてくれる。
もともと徳川家のものであった岡崎城は今川家が支配していた。
見ているついでに、切腹しようとして住職に諭されるというパフォーマンスも記録に残しておいての・・・、風見鶏(かざみどり)。
家康の敗走と切腹は、けっこうな頻度で歴史上の史実として残している所をみると、どうもセットとして考えているようだ。
そして、必ず、それを止める人間を配置している。
岡崎城にいた今川側の城番が、織田の追撃を恐れて逃げたと知るや、ちゃっかり岡崎城へ入ってしまった。
「殿、岡崎城についに戻りましたな」
「ああ、戻った」
「今川は怒りましょうな」
「怒るな」
「どうなさるおつもりで」
「知れたことよ、ついでに今川を攻めよう」
以心伝心の主従である。
なんと、岡崎城を取り返したのち、あろうことか、これまで味方であった今川を攻め裏切った。
せ、切腹はどうしたと聞きたいが・・・
「さて、今度はどうしたものか」
「どうしたものかとは、殿」
「信長という男をみたか」
「みました」
「評判通りのウツケか」
「それが、殿。なかなかの武将で軍の先頭で戦っておりましたわ。見た目も凛々しく、女どもにモテる男かと」
「なるほど」
「なるほど?」
「そう、なるほどじゃ」
「して」
「そうじゃな」
ふたりはニヤリとほほえんだ。
この後、家康は敵であった織田信長と同盟を結んだのだ。
これが世にいう清洲同盟である。
今川家の現当主である氏真は城下にいた家康の人質を串刺しで殺したという。憤怒のほどが知れる。
しかし、それにしても家康さん、あなたはズルい。
ほんとズルくて臨機応変のタヌキだ。
が、しかし、庶民としては、国のトップにあなたのような政治家がいてくれると安心できると思われる。常に冷静に世情を分析し、感情を交えず我慢強く事をなしていく熟練の政治家、それが家康という男だ。
ちなみに、家康の名言は、
『人生に大切なことは、
五文字で言えば
「上を見るな」。
七文字で言えば
「身のほどを知れ」』
笑えます・・・
信長の妻と愛人
今川に勝った信長は、がぜん周囲の国から注目を浴びることになる。
勝利に酔った重臣たち。
これまでウツケと影で悪口をいい、信頼を寄せてこなかった家臣たちは、この日を境に、手のひらを返すように信長を尊敬し強固な軍団として育っていく。
父信秀が亡くなり家督を譲られて10年。桶狭間の戦いは、信長が織田家の名実ともにリーダーと認められた瞬間であった。
5年前の弟との政権争いで勝利して、ある程度は認められたが、しかし、それでもウツケであることに代わりなく、この場合のウツケとは信長自身の素行である。
では、このウツケ時期に誰が信長をささえたのか。
いや、帰蝶というより帰蝶が持ってきた財産と兵力。それが信長を支える主な柱であったと思われる。
彼女は結婚すると父道三から与えられた1000騎の兵と金銀の豊富な蓄えを持参してきた。
必ずしも自分の長男と上手くいってなかった道三は、
「美濃は信長に譲る」と言い、このことから、信長は『美濃の後継者』として名乗りをあげている。桶狭間で勝利を収めたのち、美濃に攻め入る口実にもした。
これが信長を支える正妻"帰蝶"の力である。
帰蝶は信長の多くの女たちのなかで、子どもない妻であった。
そのために側室のひとりが生んだ子を、織田家存続のため彼女の養子に迎えている。
さて、義元の首を取った一報が清洲城に届いたのは当日の夕刻頃であろうか。
美濃から連れてきた帰蝶の手のものが早馬を走らせてきた。
「帰蝶さま」
「申せ」
「お屋形様、見事、義元めの首をあげました」
帰蝶の美しい顔は無表情のまま、ただ、一つ息を吐くと、
「お怪我は」とたずねた。
「自ら先頭に立って敵陣に突っ込みましたゆえ多少の傷は、しかし、大事なく」
「そうか。ご苦労でございましたな」
「は!」
帰蝶は腹心の女中と目を合わすと、
「女たちに知らせよ」とだけ言った。
「祝着にございます」
ふっと、帰蝶の左ほほがゆるんだ。それから部屋に戻ろうとして、足元が揺れた。
「姫」
「なんでもない。少しふらついただけじゃ」
「今朝から、なにもお召しになってございません、すぐにご用意いたします」
「信長殿の好きなものを用意しておくように」
「承りました」
「しばらく、ひとりに」
腹心の女中は、その言葉を受けて周囲の女たちに指示した。
「聞こえたであろう。早々に準備じゃ」
するすると絹づれの音をさせ、帰蝶が部屋に入ると障子が閉じた。
城の誰も今回の奇跡を理解していなかったろう。帰蝶は知っていた。この賭けにかける信長の思いを、気丈で芯が強い女がはじめて唇を震わせた。
(やりとげましたな、信長殿)
意外なことにマムシとよばれた斎藤道三は、かなりの美男子であって、その娘の帰蝶も美しく賢い女性であったようだ。
正妻である帰蝶に子どもはできなかったが、実は子沢山だった信長。
男子11人か12人、女子12人と20人以上の子どもがいたらしく、ということは側女も多かった。
奥に住む女たちの嫉妬が争いにならなかったのは、帰蝶がうまくまとめていたからであって、一説には信長のよき相談役だったとも言われている。
帰蝶は賢く嫉妬を浮かべることもなく、また、そのような下賤な感情を持つことさえプライドが許さないような誇り高い姫であった。
もし彼女が心のなかで嫉妬した女性が存在するとすれば、それはひとりだけ、思い浮かぶ。
信長の最愛の女性、生駒吉乃(いこまきつの)本名、生駒類。
信長の幼名吉法師の女という意味で吉乃と呼ばれていた。
1528年生まれ、信長より6歳年上で、前夫が戦死したために実家の生駒家に帰っていたところ、信長が一目惚れした美しい女性である。
生家は豪商であったとされるが、確実なことはわかっていない。
少なくとも、織田家の正室や側室になれる身分でなかったことは確かだが、信長は彼女を深く愛していたようだ。
織田の長子である信忠、信雄、徳姫を産んだ。しかし、産後の肥立ちが悪く体を弱らせたという。
病気と聞いた信長、自ら出向き、彼女の身分では乗れない輿(こし)で運んで城に連れ帰っている。家臣に跡取りの信忠とともに側女として紹介したという。
激務の信長を癒す、たおやかな女性であったろうと想像される。
頼り甲斐があり横に並んで走る同士としての帰蝶。
気持ちが癒され、常に一歩下でかしづく吉乃。
信長は多くの女たちに愛されたようだが、彼が気を使った女性は、この二人であったようだ。
『源氏物語』で光源氏の妻で最愛の紫の上と子を産んだが身分の低い明石の上。この関係と似ている気がするのは私だけだろうか・・・
―――――つづく
*内容には事実を元にしたフィクションが含まれています。
*登場人物の年齢については不詳なことが多く、一般的に流通している年齢を書いています。
*歴史的内容については、一応、持っている資料などで確認していますが、間違っていましたらごめんなさい。
参考資料:#『信長公記』太田牛一著#『日本史』ルイス・フロイス著#『惟任退治記』大村由己著#『軍事の日本史』本郷和人著#『黄金の日本史』加藤廣著#『日本史のツボ』本郷和人著#『歴史の見かた』和歌森太郎著#『村上海賊の娘』和田竜著#『信長』坂口安吾著#『日本の歴史』杉山博著ほか多数。