天皇という呼称が正確にいつ始まったのかは、定かではありません。
文書に登場するのは、608年の隋への国書で、そこには「東天皇敬白西皇帝」という記述があります。
これについては、その記述が「720年に成立した日本書紀にしかない」という反論がありますが、銘文として、607年の「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」に「池辺大宮治天下天皇」の記述があります。
また「野中寺弥勒思惟像台座銘」にも、
「丙寅年四月大旧八日癸卯
開記橘寺智識之等詣
中宮天皇大御身労坐之時
誓願之奉彌勒御像也友等
人数一百十八
是依六道四生人等
此教可相之也」
という記述があります。
意味は「666年4月に斉明天皇のご健康のためにこの弥勒菩薩像の開眼供養を118名で行った」というもので、ここにも「天皇」という記述を見て取ることができます。
つまり天皇という呼称は、607年〜666年の間には確実に用いられていたわけですから、7世紀のはじめころには、すでに「天皇」という用語が用いられていたことがわかります。
ちなみに「日本」という国号は、冒頭に記しましたように初出が689年です。
ということは、「天皇」は「日本」より古い。
このことが示す意味は重大です。
なぜなら日本は「天皇あっての日本」だからです。
では、なぜ大倭や中つ国という表記を、わざわざ「日本」という表記に改めたのでしょうか。
これには663年の白村江事件における敗戦が影響しています。
このときに日本は朝鮮半島における権益を放棄し、朝鮮海峡に国境線を敷きました。
つまり海峡に国境線を明確に引くことで、国の境を明確にしたわけです。
実はこのこともまた、世界においてはめずらしいことです。
18世紀に、いわゆる「国民国家」が成立するまでの世界には、明確な国境ラインというものはありません。
王のいるところと、その周辺、および、王に従う貴族の支配する領地が王国のエリアであって、隣の王国との境のあたりにいる人々にとっては、自分たちがどっちの王国の人なのかなど、ほとんど意識されることもない。
要するに、たとえは悪いですが、いまふうにいえば、ヤクザさんの「シマ」とか「ナワバリ」みたいなもので、「ワシは渋谷の王だ」
「オイラは新宿の王だ」
と言う人はいても、では渋谷組と新宿組の境界線がどこなのかは、判然としない。
それが近世までの世界の趨勢だったわけです。
ところが日本は、7世紀に国境線を敷くということを行いました。
なぜそのようなことをしたのかというと、ものすごく簡単に突き詰めて言うと、もうコリゴリだったからです。
チャイナに唐が成立したけれど、唐は高句麗が怖い。
そこでお得意の「遠交近攻」で、高句麗を挟み撃ちするために、高句麗の向こう側にある新羅に兵を送り、百済を攻め滅ぼして、半島南部を(表向きは)新羅の征圧地、実態は唐の領土にしたのです。
ところが倭国が、百済救援軍を起こして、これに抵抗しました。
これは表向きは、あくまでも百済と新羅の戦いです。
ところが気がつけば、実態は日本軍と唐軍の戦いになっていました。
百済の王子も、結局、高句麗に逃げてしまうし、これでは戦う意味がない。
そこで日本は、唐と結んで白村江から全軍を引き上げることにしたところ、その引き上げの当日に新羅がだまし討ちで日本の船に火を放って日本の将兵1万人が亡くなったというのが、白村江事件です。
悪いけれど、そんな嘘つきたちと、二度と付き合う必要はない。
ということで、朝鮮海峡に国境線を敷いたのが、663年のことであった、というわけです。
加えて事件後には、「唐が日本本土に攻め込んでくる計画をしている」という情報などももたらされました。
結果的にこの計画は、唐がチベットとの戦いで大敗し、チベット対策のために東方の戦闘がおろそかになったために実現こそしませんでしたが、この時代にわが国が自立自存のために、最大限の努力を払うことは、どうしても必要なことであったということができます。
そしてそのことは、聖徳太子の「いつくしきのり(憲法)」の実現のためにも、必要なこととなっていました。
日本は、国内を豪族たちのゆるやかな集合体から、統一国家へと国の体制を改めなければならなかったのです。
ところが日本には、他の諸国にはない、特別な事情がありました。
世界中、どの国においても、特定の王朝が国内を支配しようとするときは、すべて力による征圧が用いられました。
簡単に言えば、「さからう者には死を」ということです。
ヨーロッパの場合であれば、王や貴族の多くは、もともと北方のバイキングの海賊が、岡に登ってそのあたり一帯を征服した征服者です。
周囲にもとから住む住民とは、民族も言語も違います。
この時代、民族と言語が違えば、相手はただの動物にすぎません。
ですから、言うことを聞かなければ、殴り、蹴り、殺すだけです。
世界の支配はそうやって行われました。
このことはチャイナも同じで、中原で漢族同士が長年紛争を続けていることで迷惑した北方遊牧民が打ち立てたのが隋であり、唐の大国です。
前にも書きましたが「隋」という字は、食肉にナイフを突き立てていることを意味する漢字、「唐」も、肉に手でナイフを突き立てている象形です。
要するに隋の王朝を築いた人たちは、肉食の人たちであって、稲作をする農民社会によって打ち立てられた王朝ではないことが、その国号から知ることができるわけです。
ということはつまり、外来王朝だ、ということです。
ところが日本の場合、日本列島に住む万民が、すべて祖先をさかのぼると、みんな血縁がある。
このことは、それぞれの豪族が持つ神話を紐解くと、それぞれニニギノミコトに従って降臨した神の子孫だとか、大国主神の系列の子孫だとか、要するに神代の昔までさかのぼると、どの豪族たちもみな、なんらかの血の繋がり
があるわけです。
日本では、豪族たちはみんな親戚です。
さすがに親戚を「征圧」するわけにはいかない。
だいたい親族間の恨みというものは、幾世代にもわたって、ずっと尾を引くものです。
そこで考案されたのが、わが国独自の方法でした。
これについては、今度の新刊の万葉集で明らかにします。
乞うご期待です。
予約開始は12月になりそうです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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日ユ同祖論を信じていませんでしたが、多くのユダヤ人らしき異人が来日していたようです。ただ問題なのは帰った形跡がないことです。
新刊が楽しみなのですが、日本書紀1300年との事なので忙しくドキドキの年末年初になりそうです。