「自分は京都で一条家に居た子供の頃の記憶です。
父が邸(やしき)の隅に物見をこしらえるようにと
御用人(ごようにん)に言いつけられました。
用人は、
『そのような物見などというものは、
卑(いや)しい者が
することでございます』と言う。
父は、
『いや決してそうではない。
自分の子供たちの教育のためにするのです。
我々はいま、このような幸せをもって
大きな邸宅の奥深くに住まっているが、
国民がいかなる生業(なりわい)をし、
いかなる生活(くらし)をしているか
ということを直接見せておかないと、
子供たちの将来のために悪い』
このようにおっしゃられたので、
用人はかしこまって、
さっそく物見をこしらえました。
ところがちょうど向かいに染物業をする者がいて、
染め物を高い物干しに干します。
それが物見からよく見えました。
そこでは親も子も、
老いたる者も若きも一家皆で働いています。
父はそれを指して、
『かくのごとき生業を持っている者は、
孜々(しし・熱心に努め励むさま)として
勤(つと)めている。
汝等(おまえたち)も
安逸(あんいつ・何もせずにぶらぶら暮らすこと)を
貪(むさぼ)ってはならぬ。
しっかり勉強し、
しっかり働かねばならぬ』
ということを言い聞かされました。
いま吉野の山から広々と展望して、
幼き頃、あの物見から見たときの
父の教訓が思い出されました」
と仰せになられたということです。
▼御幼少時の御聡明と御講学
昭憲皇太后がまだ一条家に坐(ま)しました頃、最初は富貴姫(ふうきひめ)といい、後に壽栄姫(ひさえひめ)と名を改められました。
一男三女の御兄妹中、一番の御末にあらせられましたが、幼い頃から御発明で、なんとなく御同胞の方々よりも、一段優れていらっしゃるようであったといいます。
御父君の忠香公も同様に思召(おぼしめ)られたようで、壽栄姫の教養にはことに力を注がれたと、貫名右近(ぬきなうこん)の家の言い伝えとして残っています。
貫名右近が一条家に仕えたのは、壽栄姫が御7歳のときでした。
当時、忠香公の御弟の建通卿が久我家を嗣(つ)いだのですが、その家の士に、有名な儒者の春日潜庵(かすがせんあん)がいました。
忠香公は、日頃からこれを羨(うらや)んでおいでになられていたのですが、たまたま阿波出身の儒者の貫名海屋が下賀茂に家塾を開いているのを聞かれ、これを招いて家士にしようとされたのですが、海屋は老齢であるからという理由でこれを辞し、その養子の右近を薦(すす)めました。
忠香公は承諾して、海屋を家士とし、姫君たちの師とし、みずからも折にふれて経世済民の書などの講義を聴かれたそうです。
右近が初めて一条家に仕えたとき、忠香公は姫君らを集めて、今日からこの人を師とすると告げられ、まず右近に盃を賜ったところ、いちばん幼少の壽栄姫が立って酌(しゃく)をされたので、右近はこの態度を見て、後年御夙慧(しゅくけい・幼いころよから賢いこと)の一証として、このときのことを家人に物語ったといいます。
右近は、主として論語、女四書などを講じて姫君たちの御教育に任じました。
皇太后の漢学の御素養の因(よ)るところは、ここにあったといいます。
※女四書=女性のための教訓書として4種を集めたもの。江戸前期の辻原元甫(つじはらげんぽ)が、『女誡(じよかい)・後漢の曹大家著、『女孝経』唐の陳邈(ちんばく)の妻、鄭(てい)氏著)、『女論語』唐の宋若莘(そうじやくしん)著、『内訓』明の永楽帝の仁孝文皇后著の四書を和訳した。
貫名右近は、壽栄姫を御教導するにあたって、女子の徳育の要所として、まず女四書を選び、かたわらに他の書に及びました。
その頃の女四書は、得難き珍書となっていましたが、加賀の金沢の前田家がこれを翻刻(ほんこく)していました。
それを海屋の助言で、金沢から取り寄せて御用(おもち)いになったのだそうです。
これについても、ひとつの御逸話があります。
その女四書には訓点(返り点など)があったのですが、壽栄姫君は、かえって目障りで了解をさまたげるから、返り点ない本を得たいと仰せられたといいます。
漢文の御素養を窺(うかが)うべき御逸話です。
後年、細川潤次郎が元老院議官に奉職していたとき、同僚の副羽美静から聞いた話だと言って、女子高等師範学校で行われた終身講話のなかにも、次の一節があります。
「皇太后は常に女四書という書を御覧あそばされるものと見えて、御側(おそば)に伺候(しこう)する人々に向かって女四書に斯々然々(かくかくしかじか)のことがあるなどと仰せられることが折々ありました。
そこで自分はところどころを詮索(せんさく)したけれど、東京の書肆(しょし・出版社や書店のこと)にこれを持っている人がいません。
加賀の金沢に版本があるとの話を聞いて、ただちに注文して、ようやく手に入れることができました。
自分もこの書を見たことがなかったので、金沢出身の友人に依頼してその一部を得ました。
こうしてその本を一読したところ、その女誡(じょかい)は単行本があるので、記憶していたのですが、その他は初めて見るものばかりでした。」
この書は、すべて婦人の金科玉条(きんかぎょくじょう)なのですが、とりわけ内訓は仁孝帝の后(きさき)の文皇后のお作りになったもので、皇太后の御熟読あらせられた御用意の程も拝察し奉ることができる。
そもそも皇太后の御盛徳は、もとより御天禀(てんびん・天から授かった生まれつきの資質)のしからしめるところであることは言うまでもないことですが、平素に御心を御修養の上に注がせ給うた御ためであるのでしょう。
女四書も、その御修徳の御助けになったものであろうと思われます。
▼主上に対する御礼儀
昭憲皇太后が明治天皇に御仕えあそばされた御態度は、実に御貞淑で、万代にあって日本婦人の亀鑑とあおぎ奉るべきものです。
ことに御謙徳の極めて厚くましましたことは、御歌のなかにもよく伺われ、とくに注意すべきことは、明治天皇に御仕えあそばされては、明らかに君臣の礼を執っておられたということです。
主上の御前に御出ましになるときは、御褥(しとね)をお敷きになられず、絨毯(じゅうたん)のようなものの敷いてあるところに御座りあそばし、明治天皇が「褥を」を仰せになられてはじめて御敷きあそばすというふうであったと承(うけたまわ)ります。
皇太后には、晩年、御弱くて、沼津や葉山等に御避暑御避寒にいらっしゃられましたが、そこに勅使が参ると、いつでも座布団を除けて、両手をついて御話をお聴きになり、また御話あそばられました。
そうして御用向きが終わって、普通の御話になって、はじめて元の座布団に御坐りになられました。
しかしその後でも、話が一度(ひとたび)主上のことに及べば、またいつでも座布団を除けて両手をついて御話になられたということが、伊藤公の直話にも見えています。
御寝に就かせられるときにも、宮中から、聖上、ただいま御機嫌よく御寝(ぎょしん)との電話があるまでは、幾時になるまでも、御正座あらせられたということです。
▼御食事は必ず主上と共にし給う
両陛下の御食事は、いく晩とも常の御座所の二の間で、椅子とテーブルに御差向いで召し上がられました。
もっとも差し向かいとはいっても、皇太后は真正面ではなく、御遠慮あそばされて、少し左り手にお寄りになったといいます。
午餐(ごさん)は正午というお定めでしたが、国事御多端のときなど、主上の表御在所からの入御(じゅぎょ)が午後の1時となり、ときとしては2時に及ぶこともあったのだけれど、皇太后は必ず主上をお待ちになりました。
はなはだしきは3時に及んだこともあり、あまりの畏(かしこ)さに近侍の者が、何かちょっとした品でも差し上げようとしても御聴(き)き入れにならず、必ず主上の入御まで御待ちあそばされたとのことです。
(明日の後編に続く)
お読みいただき、ありがとうございました。

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