5年付き合った恋人に振られた。
今、大量の荷物を抱えて乗り込んだ高速バスの中で、この文章を書いている。
今世紀何度目かの人生バイバイチャンスをまたも逃してしまった。だから文章を書くことにした。
不幸な人間の文章はうまい。その不幸が深く醜く切実であればあるほど、文章が美味しくなる。私の文章もきっと今が食べごろだろう。どうせ匿名なんだし、思ったこと感じたことをそのまま書いてみるつもりだ。
相手の仕事に合わせて引っ越すため内定を蹴った私は、そのまま何となく無職になった。働きたくなかったのだ。
引っ越した先は1時間に一本しか電車が来ない、その駅に行くにも長い坂を三十分近く歩かなくてはいけないど田舎もいいところだった。当然周りに知り合いもおらず、出歩くのも面倒になり、自然と家に引きこもるようになっていった。
で、ここまでは問題無い。
恋人は働かないことに同意していたし私も無職引きこもりであることに不満は一切なかった。
私という人間はなにかを続けるということが絶望的に苦手だ。掃除も洗濯も料理も、一回ならできる、でも続けることができない。頑張らないとと思っても身体が動かない。一日中家にいて何時間もゲームしているくせに、15分の皿洗いができない。
完膚なきまでの屑。
見かねた恋人は食洗機を買ったりルンバを買ったりホットクックを買ったりして家事をサポートしてくれた。それでも家事が滞る時があった。
私は何度も恋人に
「もっと頑張らないといけないよね」
と尋ねた。
「頑張らなくていいよ」
と答えてくれていた。
別に家事しなくていいんだ。頑張らなくていいんだ。だってそう言われたから。
互いに合意しているなら、普通に考えればおかしいことでも許容してもらえるんだ。
そして破局した。
電話口でそう言われた。その時になってやっと、恋人がずっと私に不満を持っていたことに気づいた。
本当に馬鹿だ。
実際のところ、私だって薄々はわかっていた。このままじゃいけないんじゃないか、なんとかしなくちゃいけないんじゃないか。でも誰も私を咎めなかった。だからずるずる先延ばしにして問題から目を背けた。
この問題に対する解決策はちゃんとある。しかもすごく単純なことだ。
他人と接すること。それだけでいい。
問題の当事者ではない、第三者に話を聞いてもらって、客観的な意見をもらうこと。
事実、地元に戻って友達や家族と接した直後は、家事が捗っていた。
私は人間の屑で、だから振られたのだが、それでもなんとかやっていくことはできたはずだ。もし私に身近な友達がいて、定期的に外出できていたら、今もまだ付き合っていたと思う。
でも、そんなことは全部言い訳にすぎない。
環境が良くなくても、頑張れないときでも、やっていかなくちゃいけない時は必ずある。そういうときに頑張れない人間は、その場その場で取り繕ってもいずれ破滅していく。
私は頑張らなくちゃいけないときに頑張らなかった。大切な人のためにできたはずのほんの少しの努力さえ、言い訳を重ねてやらなかった。
私たちはいつかどこかで破局していた。それがたまたまこのタイミングだった。
5年、少しばかり延命させすぎた気もする。
恋人は優しく、忍耐強く、聡明だった。そして、不満を面と向かって切り出せない弱さも持っていた。
5年の間にたくさんのものをもらった。
私も同じように多くのものをあげたつもりだけど、まだ全然返しきれていない。
本当に申し訳なく思う。
メサイアコンプレックスという用語がある。
ここでは、メサイアコンプレックスを持つ人を、「人を救うことで自分を肯定しようとする人」くらいの意味で使用する。
具体的には、わざわざ病んでいる人や人格に問題がある人に近づいて「みんなはあなたのこと悪く言うけど、私はそうは思わないよ!」みたいなことをいって理解者面してすり寄るような人のことを指す。
なぜこのような、見えてる地雷に突っ込んで爆死するような行為をしてしまうのか。
自己分析するに、自分にはそれ以外の価値がないと思うことが原因な気がする。
自分にはいいところが一つもなく他人に愛される価値もない(と思っている)人が、唯一出来ること。それは完全に受動的であることだ。
自分から何かしてあげられなくても、受け入れることだけは出来る。自分を殺すのはこの類の人にとってはなんでもない、なぜなら自分は何の価値もない役に立たないだけのゴミと同じだから。
ゴミが踏みにじられようが乱雑に投げ捨てられようが、誰も気に留めない。それが自分自身であっても同じことだ。
付き合い始めた当初、恋人はとんでもなく病んでいて、いまにも破裂しそうになっていた。
だからこそ付き合えた。
傷つけば傷つくほど自分の価値を実感できた。自分にしかできないことをしてあげているという自己実現にも似た達成感が気持ちよかった。他人事なら馬鹿げた話で済むが自分の話だから笑えない。
結果的に恋人の精神は徐々に安定していき、私に感謝してくれたようだった。
恋人は、受動的(サンドバッグ)であること以外なにひとつ上手くできない私を支えてくれた。
そういう関係だった。それが5年も続いた。5年間も。
いま、恋人は完全に自信を取り戻したようだ。
社会的地位のある職業につき、順調に仕事を評価されている。後輩に慕われ、上司の覚えも良いらしい。
それに比べ、私はずっと屑のまま、なにひとつ成長していない。
私はもはや必要なくなったのだと、会話の中で感じた。
それはたぶんいいことだ。
恋人はそれなりに人格に問題があるが、立派な肩書と年収があるから相手には困らないだろう。お金目当ての強かな人でも自分よりはマシだろうし、それこそ優しく、気遣いができて家事もしてくれる素敵な人に出会って幸せに暮らしていけるなら、願ってもないことだ。
私といえば、ずっとこのまま変わることもなくやっていくのだろう。今は落ち込んでいるがどうせすぐに次の地雷を見つける。自分を犠牲にして救世主を気取り自己陶酔で人生を潰していく。
当時学生だった私も今やたんなるフリーターになってしまった。順風満帆に人生が終わっていく。
私の人生の本業はこうして終わった。あとは残業の時間だ。しかもサビ残。
どうかお幸せに。
もう会うことのない人へ、どうか、この文が届きませんよう。
桜木町?
こんなとこに居るはずもないのに