Nikov’s blog

思考の整理 @NyoVh7fiap

東須磨小の教員間暴力の件から考える。-自戒の記録として-

悶々としている。

 

自己反省の日々である。

 

東須磨小の一連の報道をみて、自分に湧いた感情は、憤りと排除の思想である。

 

立場は違えど、同じ子どもに関わる専門職として、あってはならないことが起きた事実への憤りと、加害教員への「排除の思想」である。

 

普段、自分はいわゆる非行少年たちの支援をしている。

 

万引き、暴行、傷害、窃盗、強制わいせつ…様々な「非行」をする児童の支援をしてきた。

そこには、いわゆる世間が想像するような「非行少年」の様相とは違うものが見える。

 

少年少女たちの、加害性、衝動性、非行性などの単一的な要因だけでは説明はつかず、そこには、少年少女たちのかつての被害体験、機能不全家族、虐待的環境、学校での不全感…様々な要因が横たわっている。

(念のため、被害体験があるからといって加害行為が正当化されるわけでも、社会的責任を問われないということではない)

 

加害行為は、加害者の要因だけではなく、環境など構造の中で起きる。非行少年の支援をしてきた中で、当然、頭の中にはその考えがあった。

 

しかし、今回の教員間暴力の報道を繰り返しみて自分に湧き出た感情は「排除の思想」だった。

「自分はそのような支援者にはならない」、「加害教員は、自分とは違う」という発想。

 

自戒を込めて、実はこのような支援者間の「排除の思想」にこそ、加害被害関係の根深い問題がある。

 

自分が、児童養護施設で勤務していたとき、中高生のパワーのある年長児が、小学生の年少児に威圧的、ときには暴力的なかかわりがあった。

 

では、その暴力的な年長児が退所すれば、児童集団の中から暴力がなくなるかといえば、けしてそうではない。

パワーのある児童がいなくなれば、今度は、残った中の1番立場の強い児童が、年少児に対して同じように暴力的なかかわりを始めるのである。

かつての暴力行為を傍観していた児童の場合もあれば、被害を受けていた児童が、加害にまわり、暴力的なかかわりを再現する場合もある。

 

つまり、集団の中に支配被支配の関係がある場合、加害者のみを排除しても、支配被支配の構造そのものは何も変わらないということである。支配被支配の構造を維持しているのは、児童集団だけではなく、そこにかかわっている大人や環境、組織も含まれる。

支配被支配の起きている構造(システム)に対して介入していかなければ、改善は望めない。

 

そのような経験がありながらも、加害教員に対して自分の中に湧き出た感情が排除の思想だったことは、自分自身の弱さと向き合わないといけない。

(各々が加害教員に対してネガティブな感情を抱くことを否定しているわけではない)

 

今回の事件が起きた背景には何があるのか、あれほどの加害が起きたとき、集団の構造はどうだったのか、そこに目を向けなければ、加害教員を断罪するだけでは解決しないどころか、同じようなことは起こりうる。

 

自分の職務には、教員や関係者への支援者支援も含まれている。

 

自分の中にむくむくと湧き上がった感情と向き合い、またこれからの支援に活かすことが求められているように思う。

 

自戒を込めた記録として。