現在公開中の映画『ジョーカー』(ホアキン・フェニックス主演)が、公開直後から世界的なヒットとなっている一方で、アメリカではその衝撃的な内容が社会の脅威となりかねないと不安視する声も出るなど、大きな社会現象となりつつある。『ジョーカー』がなぜ反響を呼ぶのか。その背景になにが描かれているのか。著書『上級国民/下級国民』(小学館新書)で世界的な分断の構図を解き明かした作家の橘玲氏が、『ジョーカー』の世界観とその背景を読み解く。

【図解】分断されたアメリカ社会の構図

【*以下の記述は映画『ジョーカー』の重大な「ネタバレ」を含みます】

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 映画『ジョーカー』が世界的に大ヒットし、同時に論争を巻き起こしている。アメリカンコミック『バットマン』のあまりにも有名な悪役を主人公にしたこの映画にはさまざまな見方があるだろうが、ここでは拙著『上級国民/下級国民』から読み解いてみたい。なぜなら映画『ジョーカー』が描いたのは、まさに「下級国民の反乱」だからだ。

「下級国民」とは、本来は社会の主流派(マジョリティ)であるはずなのに、「いつのまにか社会の最底辺に押しやられてしまった」と感じているひとびとだ。アメリカ社会の主流派は白人だから、「下級国民」は「中流から脱落した白人」ということになる。その典型はトランプの熱烈な支持者たちで、「白人至上主義者」と呼ばれる彼らは荒廃したラストベルト(錆びついた地域)に吹きだまり、ドラッグ・アルコール・自殺で「絶望死」している。

◆黒人の登場に一貫した規則か

『ジョーカー』の主人公アーサー・フレックは30代と思しき白人男性で、スタンダップコメディアンを目指しながらも、閉店セールの宣伝で道化役をするくらいしか仕事がない(その仕事も不良たちに看板を奪われて失ってしまう)。老朽化したアパートに母親と二人で暮らしているが、母親は認知症で、自身も突発的に笑いが止まらなくなる病気を患っている。

 アーサーには向精神薬が必要で、処方箋を書いてもらうため定期的に福祉施設のセラピストと面談している。黒人女性のセラピストに対して、アーサーは「自分はまるで存在していないかのようだ」と繰り返し訴える。

 それ以外にも『ジョーカー』には、アーサーが黒人と会話する場面が何度か出てくる。

 バスのなかで黒人の子どもに「いないいないばあ」をしたことで、母親から「うちの子にかまわないで」ととがめられる。アパートのエレベーターで偶然、若いシングルマザーの黒人女性と短い会話を交わし、その女性が同じ階に住んでいることを知る。精神科病院に母親のカルテを見に行ったときは資料係の黒人男性が対応し、映画の最後、精神科病院に収容されたアーサーは黒人女性の精神科医の診察を受ける。
 最近のハリウッドは「人種多様性」が重視されるので『ジョーカー』に黒人が出てくるのは不思議ではないが、その登場には一貫した規則(ルール)がある。黒人はアメリカ社会では少数派(マイノリティ)だが、アーサーが出会う黒人は、全員がほんのすこしだけ恵まれているのだ。

 バスで出会った黒人の母親は、貧しい暮らしをしているかもしれないが家族がいる。セラピストと精神科医は専門職の仕事で、精神科病院で働く黒人男性は(少ないとしても)安定した給料を受け取っている。同じ階の黒人女性も、貧しいながらも働いて子どもを育てている。すなわち誰もが社会のなかで、仕事を通して、あるいは家族と共にいることで、自分の居場所を持っている。

 それに対してアーサーは仕事を失い、認知症の母親は一方的に甘えるだけで相談相手になってはくれず、自分がこの世界に「存在」しているかどうかすらあやふやになっている。これが意図的な演出かどうかはわからないが、マジョリティである白人男性のアーサーは、マイノリティである黒人のさらに「下」にいるのだ。

 アメリカにおける『ジョーカー』への批判に、「暗黙に白人社会を肯定しているのではないか」というものがある。アーサーが黒人ならたんなるホームレスで、悪役(ジョーカー)になることさえできないというのだ。これはさすがにきびしすぎると思うが、たしかに映画のなかでアーサーより「下」の黒人は出てこない。

 トランプの岩盤支持層である「白人至上主義者」は、白人の人種的優越を主張しているわけではない。それとは逆に、自分たちこそがアメリカ社会でもっとも差別され、虐げられているのだと信じている。彼らは「白人マイノリティ」を自称し、「白人差別」の人種主義(レイシズム)とたたかっているのだ。

 中流から脱落した白人たちは、黒人がマイノリティであることを盾にとり、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)で「不正に」恵まれていると怒っている。マイノリティ(黒人)がマジョリティ(白人)を抑圧し、「差別」しているというのだ。

 このように考えれば、映画『ジョーカー』がアメリカのリベラルから警戒される理由がわかるだろう。白人のアーサーを「最底辺」にしたことで、その設定は白人至上主義者の世界観(黒人は自分たちより優遇されている)ととてもよく似たものになったのだ。

◆性愛から排除された「Involuntary celibate(非自発的禁欲)」

「下級国民」であるアーサーは、仕事を失ったことで社会から排除されたと同時に、性愛からも排除されている。アーサーが話をする女性は、黒人のセラピストと母親しかいない。

 性愛から排除された男性は日本では「非モテ」だが、アメリカでは「インセル(Incel)」と呼ばれる。これは「Involuntary celibate(非自発的禁欲)」のことで、宗教的な禁欲ではなく、「自分ではどうしようもない理由で(非自発的に)禁欲状態になっている」ことの自虐的な俗語としてネット世界に急速に広まった。

 2014年以降、北米では「インセル」を名乗る若い白人の無差別銃撃事件が立て続けに起きた。その動機は自分たちを性愛から排除した社会への復讐で、まさに「非モテのテロリズム」だ。

 エレベーターのなかで偶然、若い黒人のシングルマザーと短い会話をしたアーサーは、彼女の職場を知るためにあとをつける。このストーカー行為によって、アーサーは妄想のなかで彼女と交際するようになる。

 子ども時代の虐待を思い出し母親を殺したアーサーは、錯乱して彼女の部屋に押し入ってしまう。映画ではそこでなにが起きたのかいっさい描かれていないが、このあと、アーサーはジョーカーへと変貌していく。

 アメリカの映画評では、アーサーは黒人の母親と(おそらく)子どもを殺したのだろうとしていた。これが正しいとすれば、黒人女性の部屋での出来事が映画からかんぜんにカットされた理由がわかる。そんなシーンを描くことはもちろん、示唆するだけでも現在のハリウッドのコードではとうてい許されないだろう。

 アーサーを性愛から排除された「インセル」と見なすことで、「『ジョーカー』はミソジニー(女性嫌悪)とレイシズム(黒人差別)の暴力を正当化している」と批判されている。監督はこうした反応を予期したうえで脚本を書いたと思うが、それはアーサーが性愛から全面的に排除されていなければならないからだろう。

 エレベーターで出会ったのが(マジョリティの)白人女性であれば、観客は「(マイノリティの)黒人女性ならつき合ってもらえるかも」と考える余地がある。アーサーの絶対的な孤独を描くためには、リスクを負ってでも、妄想上の恋人は「黒人のシングルマザー」でなければならなかったのだ。

◆アメリカにおける「上級国民」とは誰なのか

「下級国民」の対極には「上級国民」がいるが、これは貧困層と富裕層のことではない。『ジョーカー』の演出は、この単純な構図に矮小化されることを慎重に避けているようだ。

 ゴッサムシティの「上級国民」は、のちにバットマンとなるブルース・ウェインの父で大富豪のトーマス・ウェインに象徴されている。だがアーサーは、母親がかつてウェインの屋敷で働いており、折に触れてその話をすることから、漠然とした憧れをもってテレビに映る姿を観るだけだ。

 アーサーがトーマス・ウェインに執着するようになるのは、母親の手紙を盗み見たことで、自分がトーマスの隠し子ではないかと思いはじめたからだ。これが母親の妄想なのか、事実なのかはあいまいにされたままだが、アーサーとウェイン家の因縁は個人的なものであり、格差や不平等など社会の歪みに対する憤りから生まれたわけではない。

 アーサーがウォール街で働く男たちを銃殺する場面でも、きっかけは笑いの発作を誤解されて暴行されたことで、彼らが富裕層であることは新聞の見出しを見るまで知らなかった。

 トランプ支持の「白人至上主義者」たちは、資本主義社会における富の偏在を否定してはいない。このことは、トランプが大富豪であることで明らかだろう。同様にアーサーは、自分が貧困層でトーマス・ウェインが大富豪であることを理不尽だと思っているわけではなく、ある種の運命のように受け入れている。トーマス・ウェインはアーサーではなくピエロの面を被った第三者によって唐突に殺されるが、これも「貧者による富者への復讐」と解釈されることを嫌ったからではないだろうか。

 だとしたら、「上級国民」とは誰か。これはアメリカでははっきりしている。

 東部(ニューヨーク、ボストン)や西海岸(ロサンゼルス、サンフランシスコ)で金融、教育、メディア、IT産業などに従事する「裕福なリベラル」は、中流から脱落した白人たちを「プアホワイト」「ホワイトトラッシュ(白いゴミ)」と侮蔑し、「レイシスト(人種差別主義者)」として批判している(すくなくとも「白人至上主義者」はそう思っている)。アメリカの「下級国民」たちがこころの底から憎んでいるのは、富裕層や不法移民ではなく「知識社会のリベラル」なのだ。

『ジョーカー』は、アーサーが社会からも性愛からも排除されていることを執拗に描くことで、典型的な「下級国民」の人物像を造形していく。それはアメリカのリベラル(「上級国民」)にはきわめて危険で、受け入れがたいものに感じられるのではないだろうか。

 映画のクライマックスは、アーサーに影響された市民たちが暴徒と化して街にあふれる場面だ。暴徒はピエロの仮面をかぶっているが、それが白人の集団であることは明らかだ。この場面でアメリカの観客は、「白人至上主義者」のデモや、白人で埋まったトランプの選挙キャンペーンの会場を想起するだろう。

 ロバート・デニーロ演じるトーク番組の司会者を射殺したアーサーは、パトカーで警察署に連行されるが、その途中でピエロの仮面を被った男たちが救急車をパトカーに激突させる。意識を失ったアーサーは暴徒によってパトカーのボンネットに横たえられ、やがて眼を覚まし、立ち上がって優雅に踊りはじめる。

 これは映画史に残る美しい場面だと思うが、その意味するところは明らかだろう。「下級国民」のアーサーは交通事故で死に、「下級国民の王」ジョーカーとして復活するのだ。

 ポピュリズムというのは、「下級国民による知識社会(エリート)への反乱」のことだ。どこにも救いがない映画であるにもかかわらず、『ジョーカー』が日本でも世界でも大きな反響を呼んでいるのは、あらゆるところで「社会からも性愛からも全面的に排除されたマジョリティ」が増殖していることにひとびとが気づいているからではないだろうか。

参考:Lawrence Ware “The Real Threat of ‘Joker’ Is Hiding in Plain Sight” The New York Times

◆橘玲(たちばな・あきら):1959年生まれ。作家。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎文庫)、『言ってはいけない 残酷すぎる真実』(新潮新書)などベストセラー多数。新刊『上級国民/下級国民』(小学館新書)は12万部を突破。