香港の伝説的なスラム街「九龍城」をテーマにしたアミューズメント施設「ウェアハウス川崎店」 Photo: Jun Tanaka
Text by Jun Tanaka
薄暗く怪しげな雰囲気、じめじめした湿度……。香港人も舌を巻くディテールで、知る人ぞ知る“聖地”として親しまれた同店。その幕はいかにして上がり、そしてなぜ今、下ろされようとしているのか?
香港人も感涙の再現度
神奈川県川崎市川崎区。JR川崎駅から徒歩5分程度の交差点に面したそのビルは見るからに異様だ。赤錆びた鉄板風の外観は、大友克洋や宮崎駿のアニメーションに登場するレトロな要塞を思わせ、周囲の無機質なマンションとは全く調和せず孤立している。
そこは、ゲオホールディングス(愛知県名古屋市)が運営し、ゲームセンターやビリヤード場、インターネットカフェを備えるアミューズメント施設「ウェアハウス川崎店」。11店を展開するウェアハウスは店舗ごとに異なったテーマのデザインを特徴とし、2005年12月に川崎店を設ける際、リアリティある造形物を得意とするアートディレクターの星野大志郎氏に監修を依頼した。コンセプトを話し合う過程で、猥雑なゲーム空間と伝説の香港スラム街「九龍城」のイメージが重なり、星野氏は「九龍城」をテーマに設計したという。
「電脳九龍城砦」の文字が怪しく光る Photo: Jun Tanaka
「電脳九龍城」の通称で親しまれている店内に一歩踏み入れれば、「中絶」「豊胸」「性病治療」などと書かれたヤミ診療所のチラシがそこかしこに貼られている。薄暗い空間とケバケバしいネオンサインが醸す怪しさは、香港の下町そのもの。2〜3階の吹き抜けには今にも崩れそうな老朽化したアパートの一角が緻密に再現され、洗濯物から鶏の丸焼きを吊り下げた商店まで、におうような香港の生活感をそのまま感じることができる。特殊な技術や薬剤で汚れ具合を再現したトイレが醸す不潔さには、誰もが舌を巻くことだろう。
歴史すら感じさせるトイレ。掃除は非常に行き届いている Photo: Jun Tanaka
ゴミさえも“現地調達”
監修した星野大志郎氏は実際の九龍城を訪れた経験こそ無いが、香港日刊紙「サウス・チャイナ・モーニング・ポスト」などの取材で、香港と「ウェアハウス川崎店」への熱い思いを語っている。
「1993~94年に九龍城が解体される前後、住民だった留学生を含む多くの日本人が現地で調査や撮影をし、書籍や雑誌、映像に記録として残していた。私もウェアハウス川崎店を設計する過程で、それらの資料を片端から読み漁って研究した」
「九龍城のような密度の高い香港の裏町は、秩序が無秩序の中で保たれていて、アート作品のような世界だ。看板にしてもゴミひとつをとっても、デザインされていないものが持つ力強さを感じさせる。そこが魅力。汚れ具合や電球のほの暗い光、ぐちゃぐちゃに絡まった配線、ブリキやらコンクリートやら木材やらが渾然一体となった建材など、ディテールの全てが味わい深い」
「壁を埋めるようにビッシリと貼られたチラシは、香港の書体を使って一から設計。印刷したあとわざと汚し、クシャクシャにして何日間か放置。その後、先に貼ったチラシを剥がしては貼る、といった単純作業を何度も繰り返した」(星野氏)
細やかな手作業によって再現された壁面 Photo: Jun Tanaka
星野氏は自身のワークチーム「星野組」のホームページでも「ウェアハウス川崎店」の製作秘話を紹介している。鳥籠や椅子、壊れかけたテレビや扇風機、湯飲み茶碗やブルース・リーのポスターといった生活感を醸すための小道具は、香港の下町へ何度も足を運んで収集。外壁から突き出た鳥籠のようなベランダのケージは、日本に存在しないため鉄工所にオーダーした。
肉店の陽除けテントの上やトタン屋根などに落ちているゴミは、星野氏が香港在住の友人・知人に頼み込み、その家庭のゴミをわざわざ国際宅配便で送ってもらったという。ブリキ製の郵便受けとアクリル製の内照式看板は、香港の街なかで実際に使われているものを交渉して入手。看板の繁体字は、全て手描きにこだわった。
手描きの看板が所狭しと掲げられている Photo: Jun Tanaka
「九龍城」が生まれるまで
九龍城の正式名称は「九龍寨城(ガウロン・ザイスィン)」。地元っ子には「九龍城砦(ガウロン・スィンザイ)」と呼ばれ、九龍半島に1950年代から1994年にかけて実在したスラムで、治外法権化した無法地帯として悪名を馳せた。
1991年当時の九龍城砦 Photo: Post Staff Photographer / South China Morning Post via Getty Images
『大図解九龍城』(九龍城探検隊 著、岩波書店)によると、13世紀、南宋の時代に造られた砦が起源。アヘン戦争後の1847年、清によって城壁や大砲を備えた要塞が築かれた。1860年、香港が清から英国に割譲されたあとも九龍城は租借の対象から外れ、清の飛び地に。だが1912年に清が滅んで中華民国が建国したあとは、英国、中華民国のいずれにも属さないまま無政府地帯と化していく。
第二次大戦後は国共内戦の戦乱や文化大革命などから逃れてきた中国人たちが大量に移住。わずか0.03平方キロメートルの狭い敷地(東京渋谷・宮下公園の半分の広さ!)に12~14階建てビルをギッシリ隙間なく造り上げ、最盛期に5万人がひしめき合って暮らす「町」が形成された。
一棟一棟のビルは鉛筆のようにタテに細長く、隣にビルが立つと壁を共有したり、適当にぶち抜いて通路を作ったりして増殖。消防法や建築法の適用外という気楽さから、ビルとビルとの間に床を渡したり、隣のビルの通路を使ったりと、自由気ままに増築された。
啓徳機場(香港カイタック空港、1998年閉港)から目と鼻の先に位置し、飛行機の離着陸を妨げないよう、14階の高さ制限が設けられたことが唯一のルールだったという。
取り壊し作業の進む、九龍城砦(1993年)。跡地はその後、緑豊かな「九龍寨城公園」に生まれ変わった Photo: Paul Lakatos / South China Morning Post via Getty Images
九龍城は香港警察がアンタッチャブルだったため、売春や麻薬売買、海賊版製作などあらゆる犯罪の温床になっていく。衛生状態も劣悪だったが、1992年に最後の住民が立ち退くまで、自治組織(城砦福利会)による自主管理体系が保たれていた。エリア内には食堂から理髪店、商店、学校、幼稚園、果ては非合法の賭博場やストリップ劇場まであらゆる生活基盤を網羅。製造業の工場は500カ所、病院や診療所は150カ所が営業していたというから驚く。医師はモグリか中国の医師免許保持者だったため九龍城の敷地外(香港)では医療活動ができず、その代わりどこよりも手軽な価格を売りにしていたらしい。
気になる閉鎖理由は…
そんな、全盛期の九龍城の魅力を再構築したのが「ウェアハウス川崎店」だ。
筆者が以前、帯同した東京在住の40代香港人グループも、「香港に残されている昔ながらの裏町よりも九龍城らしい!」「特に郵便ポストと薄汚れたアパートの玄関先が、実家を見ているようで郷愁を誘われる!」と大絶讃。18歳未満の入場禁止を売りにしており、大人だけでゆっくり魔窟ムードに浸れるのも魅力だった。
初めて「ウェアハウス川崎店」を訪れた埼玉県在住の香港人・陳家麒氏(45)は、「実家のアパートがある観塘(クントン)の古びた商店街に、やさぐれた感じがよく似通っている。香港にそっくり移設すれば新たな観光スポットとして賑わうはず」と話した。陳氏は電気整備士のアルバイトをしていた10代のころ、自転車を飛ばしてリアル九龍城を訪ねては、エビの卵を乾燥させて麵に練り込んだ屋台めし「蝦子麵(ハージーミン)」に舌鼓を打ったという。
九龍城砦をよく知る香港人も唸るほど「ウェアハウス川崎店」の再現度は高いという Photo: Jun Tanaka
「あんなに美味い蝦子麵を出す店にはもう、出会えないだろうね。九龍城は狭く入り組みすぎていて必ず道に迷うから、同じ店を探すのは至難のワザだった。屋上にはテレビアンテナや物干し竿、謎の棒みたいなものが乱立していて、夜に忍び込んでは、スレスレに頭上をかすめる飛行機の機体を眺めるのも楽しくて」
この風景も、残念ながら11月17日で見納めになってしまう Photo: Jun Tanaka
「ウェアハウス川崎店」が閉鎖される背景には、物件オーナーがゲオホールディングスとの契約更新に応じなかったためと言われている。ゲオホールディングスの広報部に確認を求めると、「収益上の問題はないが、業務上の理由で閉鎖、としか申し上げられない」との回答。現時点では、川崎店の九龍城を他店に移設する計画はないという。
PROFILE
田中 淳 編集者・記者。編集プロダクション、出版社勤務を経て中国北京大学に留学。シンクタンクの中国マーケティングリサーチャーや経済系通信社の台湾副編集長を務め、現在、香港系金融情報会社のアナリスト。近著に『100歳の台湾人革命家・史明 自伝 理想はいつだって煌めいて、敗北はどこか懐かしい』(講談社)。