イラスト:澁谷玲子
たるんだお腹の「ダッド・ボッド」
その単語をはじめて見たとき、僕は思わずつぶやいたのだった。
「時代が俺に追いついた……」
その単語とはダッド・ボッド(dad bod)。「父ちゃん体型」のことである。
ことの始まりはこうだ。海外のニュース・サイトか何かを見ているときに、「dad bod」という言葉が目に入って、ダッドという言葉に脊髄反射してしまう僕は記事をむさぼり読んだのだった。
たぶんその辺のゴシップ・サイトだったからどの記事かはもう特定できないのだけど、僕なりに要約すれば、「いまセクシーなのはジムで鍛えるのに熱中するたくましい男のシックス・パックよりも、ビールを飲んでソファでダラダラしてそうなおっさんの少したるんだ腹。イエス、それが父ちゃん体型」というものだった。おっさん好きゲイに向けての記事ではなく、あくまで女性読者をメイン・ターゲットとしたものだ。
すっかりdad bodというキャッチーな語感に夢中になった僕はすぐさま検索していろいろと読んでみたのだけど、たとえば現在のレオナルド・ディカプリオやクリス・プラットといった有名なハリウッド・スターもバキバキに鍛えているのではなく、ちょっと脂肪が巻いているぐらいだからこそちょうどいいし、これこそがいまのセクシーということだった。また、一般的な感覚からすればけっこうぽっちゃりめのセス・ローゲンやジョナ・ヒル(当時)といったスターの身体も、ダッド・ボッドの典型として肯定的にピックアップされていた。
「dad bod」の画像検索結果
とくに2010年代ボディ・ポジティヴの概念(スレンダーなモデル体型だけでなく、様々な体型を肯定的に受け入れようとする考え方)が広まったのと連動するところもあったのだろう。この、僕の胸をどうしようもなく高鳴らせる言葉がネットを中心に流行ったのは2015年のことで、それ以来アメリカではわりと定着しているようだ。
僕が何より気になったのは、これをわざわざ「ダッド」と呼んだことだ。ぽっちゃり体型とか、あるいは日本で言うところのわがままボディ男版とか、他にもいろいろ可能性があるにはあっただろうところを、よりによって「父」と重ねたことである。
ダッド・ボッドを支持する女子の意見としては、「脂肪のないシェイプされた男性と並ぶと自分も理想的な体型にならなければならないというプレッシャーを感じるが、ダッド・ボッドの彼には引け目を感じなくてもいい」、「安心感がある」、「ちょっと隙があるほうが愛おしく思える」、「いっしょに高カロリーの食事を気兼ねなく楽しめる」といったものがあるようだ。
また、「一夜限りのアバンチュールであれば鍛えたセクシーな男が刺激的だけど、長期的なパートナーにするなら断然ダッド・ボッドの男」という意見もあり、これはかなり本質を捉えたものだと感じた。つまり、真面目な付き合いにはプレイボーイ性を覗かせるチャラついた男よりも穏やかな父性を感じさせる男性のほうがいいという指南であり、それを象徴するダッド・ボッドに色気を感じるように訓練せよという提言である。
いや、べつに本当に訓練しなくてもいいのだけれど、多少たるんだ身体も愛おしく思えるのは悪いことではないだろう。画一化された理想的な体型のイメージに疑問が投げられている現代のことだ、セクシーもダイヴァーシティ(多様性)の時代なのである。また、女性が自然体でいられるパートナーが一番だというムードもそこにはあるだろう。
で、僕はうんうんダッド・ボッドいいよねえ、日本の女性ももっとダッド・ボッドを称揚するといいよ(僕も恩恵に預かれるので)と思っているのだけれど、ここはイケてるダッド・ボッドのアイコンを示さなくてはならない……! という謎の使命感がふつふつと沸き上がってきた。
そしていろいろと候補を絞った結果、もっともポピュラーかつ最強のセクシー・ダッド・ボッドのシンボルは『ストレンジャー・シングス』のキャラクター、ジム・ホッパーだということが(僕のなかで)決定した。
アメリカが夢中になったおっさん
ご存じの方も多いだろうが、『ストレンジャー・シングス』はいまアメリカだけでなく世界中で絶大な人気を誇るネットフリックスのドラマ・シリーズ。1980年代のアメリカの田舎町を舞台に、超自然的な現象と対峙しながら少年少女たちが成長する様を描くSFスリラーだ。田舎町で起こる不可解な出来事……といえば往年のスティーヴン・キングのホラーを連想するが、ドラマはキングをはじめとして80年代のアメリカン・ポップ・カルチャーをふんだんに引用しており、そういったところも40代以上には懐かしい要素として、若い視聴者には新鮮なものとして好意的に受け入れられた。
ある種の群像劇となっているこのドラマのメイン・キャラクターのひとりであるホッパーは、インディアナ州にある架空の町ホーキンスで署長を務める中年男。それこそスティーヴン・キングの小説によく登場する保安官や署長ポジションのおじさんを連想してもらえばいい。町を守る「父」である。
ホッパーを演じるデヴィッド・ハーバーはなかなか長いキャリアを持つ俳優で、ドラマや映画でどちらかと言えば渋い脇役をこなしてきた男だ。ホッパーは彼にとって超がつく当たり役で、一気に知名度を上げることになった。そして……明らかに彼はダッド・ボッドの持ち主。『ストレンジャー・シングス』では第1話から裸を見せてくれるが、まあ見事なまでに腹が出ている。僕のおっさん好きのゲイ友はみんな彼に陥落してしまったほどだ。もちろん、僕も。
しかし、とくにアメリカでは彼をちゃんと「セクシー」といって好きになる女性もおり、ダッド・ボッド現象の定着を感じずにはいられなかった。その証拠に、シーズン3では明らかに過剰に彼のヌードが登場し、どんな女性キャラクターよりも(ダッド・ボッド好きにとっての)サービス・シーンが用意されている。僕のゲイの知人はツイッターで「由美かおるポジション……!」と錯乱していた。また、彼がダンスするシーンはダッド・ボッドを定義するものとしてGIF画像化され、ちょっとしたインターネット・ミーム(流行りのネタ)にもなった。
実際、インタヴューでハーバーは自分のダッド・ボッドがたとえ少しだけだとしても現代のセックス・シンボルになっているのは光栄なことだと語っている。
みんなには自分の身体を好きになってほしいし、ハリウッド的スタンダードではないビッグ・ガイやビッグ・ガールがメイン・キャラクターになってほしいとも。それはまさにボディ・ポジティヴ的な文脈で、そういう意味でも彼は現代的なアイコンだ。
だが、ホッパーがダッド・ボッドであることの理由はそれだけに留まらないと僕は思う。それは『ストレンジャー・シングス』が、新たな父性を巡る物語でもあるからである。
時代に立ち向かう若い女性へのエール
(※ここから『ストレンジャー・シングス』の物語の詳細についても触れるので、未見の方はご注意ください)
ホッパーは署長という意味では町の「父」ではあるが、実際には「父」であることを一度喪っている。娘をガンで幼くして亡くしており、以来アルコールに溺れてひとりで孤独な日々を送っているという設定なのだ。が、ドラマのストーリー部分ではある少年の失踪事件を追ううちに自然と少年たちの親のような役割を果たし、そのことで「父」であることを快復していく様が描かれる。
そして、『ストレンジャー・シングス』のもっとも重要なキャラクターでありメイン・ヒロインと言っていいだろう、超能力を持つ天涯孤独の少女イレブン(愛称エル)とシーズン2からホッパーはともに暮らすことになり、本当に彼女の父親になる。帰る場所をなくした孤児の父親に。特殊な力を持つ「娘」をどのように育てるか悩みながら、「父」をどうにかやり直していく。それは必ずしも血縁によらない父娘の絆を描いているという意味でも、それぞれの傷や痛みを分かち合っているという意味でも胸を打つし、直感的に現代的だと感じさせるものだ。
大ヒット・シリーズなのでファンは配信開始から様々なディテールで盛り上がるのだが、そのなかにこんなものがあった。亡くした娘が生前つけていた青いヘアバンドを、娘が病気で髪を失ってからはホッパーが腕につけている。彼女がこの世を去ってからもホッパーはそのヘアバンドを身につけ続け、そして、シーズンの最後でエルがパーティに行くシーンでは、今度は彼女が腕に飾っている——ことを発見したファンがそのことをツイートしたのだ。
ツイート主である@ThatEricAlperいわく、「『ストレンジャー・シングス2』ではホッパー署長と娘サラとそのヘアバンドがすべて」。ドラマではこのヘアバンドについてとくに言及がないので注意深く見ていないと発見できないものだから、多くのファンがこのさりげない、しかしエモーショナルな小道具に打ち震えた。僕もこのツイートでその事実を知って軽い呼吸困難に陥ったのだった。なんて男なんだホッパー……!
ホッパーはドラマを代表する人気キャラクターだが、明らかにファンは彼の良き父性を愛している。時代が1980年代設定というのもあって、彼はガサツな、どちらかと言えば古いタイプの男だが、それでも精いっぱい未来ある娘のために良い大人であろうと、良い人間であろうと努力している。彼自身、新たに「父」になることで自分の人生を取り戻していく。
シーズン3では、イレブンはメイン・キャラクターの少年のひとりであるマイクと恋仲になり、それをやきもきしながら見守るホッパー……という、ある種図式的な「心配性の父」がコミカルに描かれる。それはわりとお決まりのパターンだが、やがて、彼の心配は特殊な力を持つ娘に対するものであることがわかってくる。才能を持つ若い女性が、それを発揮することで社会から抑圧を受けることに対する心配も含んでいるのである(これはフェミニズムにける重要なイシューのひとつであり、たとえば『アナと雪の女王』でもテーマになっていた)。そして、シーズンのラストではそれを踏まえた「父」からの懸命なメッセージが「娘」に届けられる。
ここには、時代遅れになりつつある若くない男からの、新しい時代に立ち向かっていく若い女性に対する真摯な想いがある。「痛みを忘れるな」……かつて深く傷ついた男が、それでも傷つくことを恐れるなと愛する者に告げる。もし父性の役割がいまもあるのだとすれば、僕はここに何かヒントがあるのではないかと思っている。ダッド・ボッドの愛すべきおっさんは、未来を築いていく少女の強さを信じたのだ。