スウェーデン王立アカデミーは14日、2019年のノーベル経済学賞を米マサチューセッツ工科大学(MIT)のアビジッド・バナジー教授(インド出身)、共同研究者であり妻である同エスター・デュフロ教授(フランス・パリ出身)、そしてマイケル・クレーマー米ハーバード大学教授(米国出身)の3氏に授与すると発表した。貧困削減に貢献する経済学とは、どのようなものだろうか。2013年6月17日に日経ビジネスオンラインに掲載した、元東京大学教授の澤田康幸アジア開発銀行チーフエコノミストによる貧困研究の歴史とその展開に関する解説を再掲載する。関連して、本稿に登場するダロン・アセモグル米マサチューセッツ工科大学(MIT)教授へのインタビューも同時に再掲載する。
「貧乏」というと、自分には縁遠い話と感じる読者がいるかもしれない。たとえば、1984年のバブル初期に発売され、ベストセラーとなった渡辺和博の「金魂巻」を覚えている読者も多いであろう。「マルキン」・「マルビ」というラベルで医者のような職業でもビンボーがいる「驚き」を描き、一世を風靡した。
だが、日本における「格差社会」「生活保護受給者の増大」は、まさに貧困問題の現れである。特に貧困高齢者の健康状態は劣悪だ。他方、日本の子供の貧困率も経済協力開発機構(OECD)諸国の中ではより深刻なグループに属している。そして、貧困が世代を超えて再生産されている可能性も大いにある。こうした日本の「貧乏」の問題が、失われた20年に特有の問題かといえば、そうでもなさそうだ。貧困の問題は、長らく日本の経済学の中心的な課題だった。
大正時代に日本で紹介された経済学の貧困研究
例えば代表的なマルクス経済学者だった京都帝国大学(現・京都大学)の河上肇教授は1916年(大正5年)の9月から約3か月間、大阪朝日新聞の一般読者向けに「貧乏物語」を連載している。これは恐らく、日本で初めて本格的に経済学的な貧困研究を紹介した作品だろう。
この「貧乏物語」の、特に上編と中編を読んで感心することが4つある。第1に、全体として実証主義を貫いている点だ。主に当時のイギリスにおける貧困研究が、データと共に手際よく紹介されている。貧困問題の実証研究がイギリスから始まっていることが分かると同時に、こうしたエビデンスに基づく議論は、「マル経」を感じさせない。
第2に、貧乏線(現代では「貧困線」と呼ぶのが普通である)やローレンツ曲線(原文では「ロレンズ氏の曲線」と呼んでいる)といった、現代社会で貧困・所得不平等を計測するうえでの基本概念が、諸外国のデータと共に解説されていることである。とはいえ、「日本のことはよるべき正確な調査が無いからしばらくおくも」とも書いており、当時は貧困に関する議論を展開できる十分な世帯調査・マイクロデータが、日本になかったことも分かる。
第3に、イギリス・ブラッドフォード市で実施された、貧しい児童を対象とした学校給食支給実験による、児童の体重の変化を研究した結果が紹介されていることだ。小規模の実験結果を受けて大規模な政策介入をするという、貧困対策の政策プログラム評価手続きともいうべき議論を、大正時代に既に紹介しているのである。
最後に特筆すべき点は、ある時点における貧乏線以下の人口比率という「静学的」な議論だけでなく、時間軸を考慮した貧困研究も紹介していることだ。特に、「おもたるかせぎ人は毎日規則正しく働いていながらただその賃銭が少ないため」という形で、貧乏人比率が半分以上にのぼっていたイギリス・ヨーク市の研究結果を紹介し、「はたらけどなおわが生活楽にならざり」というのが貧困の特徴であることを議論している。これは、現代風にいえば貧困動態(poverty dynamics)研究における「慢性的貧困(chronic poverty)」の問題である。
まだコメントはありません
コメント機能はリゾーム登録いただいた日経ビジネス電子版会員の方のみお使いいただけます詳細
日経ビジネス電子版の会員登録